第16話:お父さんにそっくりだよ

俺は七月の初旬にとある小さな絵画の個展に来ていた。

絵を描くことに忌避感を覚え、絶対に描かないと固く心に決めていた俺がここにいる理由は単純明快だ。


――綾香が強く勧めたのだ。


あんなにきつい言葉を放ったというのに、それでも綾香は言うことを曲げなかった。

真剣な眼差しで、一生懸命に俺を説得してきた。


『絶対に夜宮くんは絵を描いたほうがいい』

『わたしは夜宮くんの絵が大好きなんだから』と。


幼馴染とはいえ、何年も会っていなかった他人のことなのに、どこか必死に訴えかけてくる彼女に、先日とは異なり、怒りや苛立ちよりもただ困惑の方が大きかった。

傷つけたことを素直に謝ることもできない俺は、情けなくも綾香の提示するいくつかの案を承諾することで、勝手にその事実をなくそうと図ったのだ。

その一つがこの個展を見に行くこと。


「……控えめに行っても最低な人間だよ、俺は」


でも、それ以上に心のどこかでは俺自身絵を描くことに未練があったのかもしれない。

綾香がどこからか聞きつけてきたこの街で開催される小さな個展に、俺は行くことを決めて今に至る。

鮮やかな色彩に囲われたこの空間が、俺の奥深くをチクリと刺した。

一枚一枚を見るうちに、とある絵に目を奪われる。


この絵、どこかで見たことがあるような――。


「――君」

「あの、あなたは……?」


何かを思い出しそうな気配があったのだが、恰幅のいい垂れ目の男の人に話しかけられたことで、すぐに忘れてしまう。

その人は、お世辞にも身綺麗とは言い難く、明らかに寝起きのままのボサボサな髪型やくすみきった服の色に少し警戒感をあらわにする。

その様子は相手にも伝わってしまったようだ。


「あ、ごめんね。僕は神原春之助かんばらはるのすけって言うんだ。一応、この個展の開催主ってことになるんだ」


これもまた年季の入った名刺ケースから一枚を取り出して、俺に手渡してくる。

そこには確かに、神原春之助の文字が刷られていた。

加えて、穏やかな口調で話してくれる神原さんに強めた警戒を緩めた。


「そうだったんですね……。すみません、人付き合いがあまり得意じゃないので」

「いや、いいんだよ。僕の方こそ、急に話しかけてごめんよ。それはそうと、この絵に興味があるのかい?」


俺は神原さんから正面の風景画に視線を移す。

この絵はとても懐かしい気がするのだ。

描かれた風景にこんなに感情を揺さぶられたのは久しぶりのことであった。


「これは……神原さんが描いたものなんですよね。俺、特にこの絵が好きなんです」


思わず食い入るように絵を見つめる。


「ははは、君はこの絵が好きなんだね。それは僕の中でもトップクラスによく描けたと思っている作品だよ。タイトルは『惜別せきべつ』」

「『惜別』……? 本当だ。でも、このキャンバスに描かれているのは一面に咲き誇るネモフィラの花園に満足そうに笑う男の人ですよね……? それに配色も明るくて温かみのある色だ」


俺はさらにまじまじと絵に見入る。

どこからどう見てもそれは『惜別』などではなく、むしろ『出会い』などのポジティブな意味のタイトルが似合うと思ったのだ。


「君の言うことはもっともだ。でもこれは僕が抱いた感情をそのまま絵としてあらわしたものなんだよ。紛れもなくこの絵は『惜別』なんだ。――そうだ、話がそれてしまったね。僕は君――夜宮悠斗君のお父さん――和臣かずおみ君と昔、一緒に絵を描いていたことがあるんだ」


急にフルネームを呼ばれ、その上父さんの名前すらも口走る神原さんに俺は驚きを隠せない。


「え……!? それって父さんの知り合いってことですよね……!? もしかして今の父さんの居場所も……!?」

「居場所、かい? 夜宮君のお父さん――和臣君は今、君と一緒にいないのかい?」


そこで俺はハッと気づく。

この人は父さんが失踪したことを知らないのだ。

今はもう、生きているのかさえ分からない父さんのことを。


「……何やら複雑な事情がありそうだね。僕でよければ話を聞くよ」

「でしたら、その、お願いします」

「うん、じゃあ、少し場所を変えようか」


朝露事件での気持ちの整理もいまだできていないというのに、今度は父さんの件だ。

俺はこの心に沈殿する濁りを吐き出したくて、神原さんを頼ることにした。

少しでも話をして、気が晴れるのならいくらでもそうしたかったのだ。


「よし、この辺りでいいだろう」


移動した先は川べりだった。

そこに腰を掛け、まず口を開いたのは神原さんだ。

なかなか口を開けない俺の心中を察して先に手を差し伸べてくれる。


「僕から話させてもらってもいいかな?」

「……はい」

「なら、まずはちょっとした昔話をしようかな」



♢♢♢



「和臣君、どこに行くんだよお……! それ以上先に行ったら駄目だよお!」


和臣君は僕――神原春之助の大学時代の同級生だ。

同じ美術サークルに所属していたこともあり、しばしば一緒に行動をしていたのだ。

毎日が自分の趣味である絵画――特に風景画について議論できる和臣君を親友として誇らしく思っていた。

でもある日、和臣君は普段ならしないような凶行に走ったのだ。

立ち入り禁止区域に指定されている森林の奥へとずんずんと進んでいくのだ。


「ねえってばあ!! ここは毒蛇がわんさかいるって看板にも書いてあったじゃんかあ!」

「――春、俺はお前に特別を見せてやりたいんだ」

「でもお!」

「きっと、そこなら俺にも描けない最高の絵をお前が描いてくれるって思うんだ」

「……分かったよ」


押しに弱いことは百も承知だったけれど、ここまで真剣に言われれば誰だって言うことを聞いてみたくなるってもんだ。

どれくらい歩いたのかは太陽の位置を見れば容易に予測できた。

朝早くから探索していたというのに、今はもう西に傾き、オレンジ色の光が森を美しく照らし出していた。

うっそうと茂った木々を避け、下草を踏みしめながら歩いていくと、やがて開けた小高い丘の上に出る。


「春、どうだ? すごいだろ!!」


一瞬自分が目にしているのは現実かと疑ったくらいだ。

背の高い緑林に囲まれているのに、その場所にはネモフィラしか咲いていない。

木々の隙間から幻想的な陽光がぱらぱらと差し込み、小動物が視界を横切る。

澄み切った空気が自然の香りをふんだんに運んでいた。


「緑の木。愛らしい小さな花弁のネモフィラ。橙色の夕焼け。極めつけはありのままの動物たち、か……」


身体はこの最高の景色を忘れまいと背負ったリュックサックの中から、イーゼルとキャンバスを取り出す。


「ははは! お前が黙々と描き始めるくらいには綺麗だったようだな! どうだ、今までで一番いい絵が描けそうな気がしないか?」

「和臣君は、本当にすごい人だよ……。普通こんなにいい景色を見つけたら独占したくなるよ……。それなのに僕なんかに教えて、よかったの……?」


この現実離れした幻想風景がそう多くの人に知られていないのは確かだ。

それを独り占めにできる状況だったのに、わざわざ僕を呼んだのだ。


「そんなこと気にしてたのかよ。あいにくと俺はお前と描きたいと思ったんだぜ? 俺一人じゃこれはちともったいねえよ」

「うう、和臣君~!!」

「うおい! 泣くなって! お前は本当に感受性が豊かすぎて刺激が強かったか!?」


その時、ようやく僕は今まで一切のルールを破らなかった和臣君がこんな所業に及んだのかを理解した。

この景色にはそうするだけの価値があり、絵を描くものとしての幸福がそこにあったのだ。



♢♢♢



「僕はね、和臣君に嫉妬していたんだよ。彼の絵の上手さは僕のそれとは比べ物にならない。でも、そう思ってたのは僕だけだったんだ。和臣君は笑顔で言ったさ。『何馬鹿なこと言ってんだ』って。『俺は毎回お前の絵を楽しみにしてるんだ』ってさ」

「父さんは、そんな人だったんですね……」


俺は俺の知らない父さんを知り、とても新鮮な気持ちだった。

それと同時にそんな父さんに独りにされた寂しさと悲しみ、会いたいという欲求に吞まれそうになる。


「よし、この辺りで僕の話は終わりだ。もともとは君の話を聞くって言う話だったもんね」


ごめんよ、と頬を掻きながら謝る神原さんに俺は励まされたような気がした。


「俺の父さんは俺が中学一年の時に姿を消したんです」

「ちょっと待ったあ……! いきなりかなり衝撃的な内容だったんだけど、え、どういうこと?」

「俺にも理由は分からないんです。いい子で待っていてくれるかというのが、最後の言葉でした。あれ以来、一切の連絡がありません。ですから、父さんの知り合いであるあなたならあるいは、と思ったんですが……」


やはり、神原さんは現在の父さんの行方を感知していないようだった。


「僕も何も知らなったってことだね……。君はお父さんの失踪後どうしたんだい?」

「ある程度までなら生きられる金銭は残していってくれたので、死ぬことはありませんでした。高校に入った今はバイトで繋いでます」

「親戚とかは頼れなかったのかい?」


それは綾香にも言われたことだ。

父さんの失踪の直後に、朝露事件に巻き込まれたので、その絶望は相乗効果的に増加していた。


「その、誰も信じられなくなっていましたので……」

「そうかあ……。あの和臣君が……和臣君に限ってそんな薄情なことはしないはずなんだけど……。いや、すまない。僕がどうこう言っていい事じゃないね。――もし君が良ければだけど、僕のところに来るかい? 知り合いに不動産を経営している人がいて、相談できると思うんだ」

「お気遣いありがとうございます。ですが、お断りさせてください」

「お? その顔は好きな女の子とでも暮らしているのかい?」

「……別に、そんなんじゃありませんけど……! でもまあ、仲のいい幼馴染が会いに来てくれるので移動するつもりはないです」


類稀な勘の良さに舌を巻くが、『好きな』というのは間違いだ。

原因の分からない焦燥に駆られて、露骨な否定をしてしまった。

そんな俺の様子を見て神原さんは、親が子供に向けるような表情をする。


「そうかい。それなら安心だ。そうだ、ここで会ったのも一つの縁かもしれないね。少し、待っててくれるかい」


そういうと急ぎ足で、個展を開催している屋内へと戻っていく。

ややもするとA4サイズのキャンバスを手渡してくる。

そこには何も描かれておらず、ただただ純白があるのみだ。


「さっき僕の絵を見た時の目、お父さんそっくりだったよ。多分、絵を描いているんじゃないかな? これをぜひもらってほしいんだ」


絵を描かなくなったということを話そうとしたが、それはこの人が差し出してくれた好意を無下にすることに繋がるかもしれない。

それに本当のことを話すにはだいぶ時間が経ってしまっており、日が暮れるまであまり時間がない。


「ありがとうございます。大切に使わせていただきますね」


俺はその小さいけれど、不自然なほどに重く感じるキャンバスを受け取ったのだった。

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