第7話:少しの間だけ泊めてほしい
十文字時雨は由緒ある名家を象徴する十文字家の跡取りだ。
彼の家の歴史は古く、昔はこの辺り一帯を治めていた大地主なのだそうだ。
過去のそういった経緯もあって、現代においても有する力は強く、国内での発言力も高い。
そんな家名を背負う時雨はおごるでも威張るでもなく、ごくごく静かに学校生活を楽しんでいる。
♢♢♢
時雨は
中学校の入学式は四月一日に予定されており、その約一か月前から父さんと都会に来ていたその頃の思い出話だ。
♢♢♢
「えと、父さんに頼まれた画材は、パステルか」
俺の父さんはポストカードや画用紙、キャンバスに至るまで幅広い画材を使いこなすことができる画家の端くれだった。
パステルは特にそれ用の画用紙に色が載りやすく、柔らかい雰囲気を出すのが得意という特徴を持つ。
最近は淡い色の風景画に熱中している父さんは、その消費が極めて大きいのだ。
それに父さんは一度絵を描き始めると黙々と被写体の前に居座り続けてしまうから、俺が追加の画材を買ってくるしかないという寸法だ。
でも、決していやいやではない。
俺は父さんの描く絵が小さい頃から大好きだし、何より父さんは母さんが亡くなってから一生懸命に俺を育ててくれた。
中学生になる一か月前の俺でもその大変さはすべてではないにしろ、理解していた。
「あれ?」
絵描きの間では良質な画材をそろえているということで有名なお店で必要なものを買い終えた、その帰り道のことだった。
何気なく視線が向いた路地裏の先に複数の男に囲まれた子供がいたのだ。
何かよからぬ予感を抱いた俺は路地裏に存在する遮蔽物に身を隠しながら、様子をうかがう。
「へへ、ようやく見つけたぜ……! そのツンとした瞳、ほっそい身体。そんでもってこんな人気のない路地裏にいる。間違いねえな」
「これで俺たちも潤いますね、アニサン!」
「やったぜ!」
口々に喜びの声を上げる派手な外見をした男たち――いやごろつきたちに俺は恐怖を覚えた。
俺は早くから進んで諸々の家事や雑用をしていたからか、普通の子供よりも大人に近い考えを持っている。
ここで何かをやらかせば、間違いなくひどい目に合うと分かっていた。
「おい、こっち来いって!」
「い、いやだ!」
けれど、同じ年くらいの男の子が目に涙を浮かべながら、乱雑に引っ張られる腕を振りほどこうとしている姿に身体は無意識に駆けだしていた。
「って……!!」
俺は全身で男の子の腕を掴んでいた男の背中に当て身をくらわす。
ひるんだその瞬間に男の子の手を取って言ったのだ。
「走って……!」
あまりの急展開に他のごろつきたちはただ見ていることしかできないようだった。
「はあっ……はあ」
しばらくの間は走り続け、人が比較的多くいる小さな広場まで来ていた。
その中心には噴水があり、それを眺める形でベンチに男の子を座らせた。
「あの、さ。俺は夜宮悠斗っていうんだ。君は大丈夫? 怪我は、ない?」
息を切らせている俺に対して、目の前の男の子は小さくほう、と息を吐いただけだった。
その後で、フードを目深に被った男の子はか細い声で言った。
「うん。ありがとう、助けてくれて」
「いいんだよ。俺はあの時たまたま通りがかっただけだけど、あんな乱暴なことされている子を見捨てらんないし――っ!」
不意に刺すような痛みが走ったので、右腕を見ると服が裂け、血液が染みていた。
「それ……」
「な、なんでもないよ! 大した傷じゃないから」
血は出ているものの、見た目ほど傷は大きくない。
きっと無我夢中で走っているときに、どこかの出っ張りに引っ掛けてしまったのだ。
「わ――おれがあいつらに絡まれたせいで……! ごめん……」
「本当に平気だよ。それにしてもどうしてあんなところに入ったの?」
あんなに薄暗かったら、健全な大人は誰だって入りたくないはず。
まして、俺と同じくらいの子供ならなおさらだ。
フードを被ったままの男の子はいまだ気遣わしげな雰囲気を醸してくるが、質問に答えてくれる。
「おれの名前はじゅう――
「え? もしかして今までずっとあそこにいたの?」
「……色々な場所を転々としてたって感じ。あの、さ。助けてもらっておこがましいことだとは思うんだけど、少しの間だけ家に泊めてほしい」
ぺこりと頭を下げる時雨は俺と同じように大人びているようだった。
「俺さ、画家の父さんと住んでるから聞いてみないことには分かんないんだ。でも、説得はしてみるよ」
「……っ! ありがとうな、夜宮!」
俺の名字を初めて呼んでくれた時雨に嬉しくなった。
フードを取って笑う時雨も屈託のない、純粋な喜びを表していた。
♢♢♢
「父さん、ここにしばらくの間、時雨をおいてくれないかな?」
俺と父さんはいわゆる事故物件の一軒家に越してきた。
理由は三つ。
一つは父さんが絵を描くことを諦められなかったこと。
大好きな絵をやめることは父さんにとって酷だろうし、俺も父さんの絵が好きだったから、格安な一軒家を求めたのだ。
二つ目は父さんが、俺が大きくなった時に一人部屋を欲しがるようになるだろうと、配慮してくれたからだ。
もちろん俺は必死で断ったのだが、父さんは笑顔を向けてくるばかりで、結局は父さんの意見が通った。
三つ目は、母さんが俺の生まれたその頃に交通事故でいなくなって、それまで共働きをして稼いでいた収入が減ってしまったのだ。
母さんという家族が欠け、代わりに養育費という新たな出費が増えた父さんは、火の車であった家計を身を切りながら、維持し続けた。
でも、俺が小学校を卒業する時を待って、田舎の思い出の家は引き払ってしまった。
都会は物価も高いが、アルバイトで稼げる金銭も多い。
事故物件に住めば、差し引いてもプラスになったのだ。
父さんだって母さんと過ごした家を手放したくなかっただろうに、俺のことを想ってそうしたのだと思う。
そんな父さんは俺の言葉に目を丸くし、それからすぐに厳しい顔をする。
「……親御さんの許可は取ったのか?」
「それが路地裏で生活していたみたいなんだ。不良に絡まれてたところを俺が連れ出したんだ」
「ほう? お前が助けたのか?」
「うん。だからさ、居場所を作ってあげたいんだ。父さん、俺がこんなことを言うのはいけないことだとは思うけど、一生のお願い。時雨を住まわせてあげてほしいんだ……」
すっと手が伸びてきて、俺は怒られるのかと思った。
父さんは母さんが死んでから、絵に夢中になることがあっても、最優先で大事にしてくれているのは俺だから。
「頑張ったな、悠斗」
「……へへ!」
手は優しく俺の頭をなで、それから褒めてもらえた。
思わず、頬が緩んだのは仕方のないことだろう。
「そうだな、その後ろにいるのが時雨君かい?」
「はい。おれが十神時雨です」
時雨はフードを取り払い、深くお辞儀をする。
その動作があまりにも堂に入ったものだったため、俺は思わずかっこいいなと思ってしまう。
父さんはというと、どこか訝しげな顔をして控えめに問おうとする。
「……ん? 君はもしかして――」
「あ、あの! おれがこ、こんなことを言うのは厚かましいと分かっています。でも、どうか泊めてほしいです!」
父さんは時雨に何か言おうとしたようだけど、それは重ねられた時雨の言葉によって遮られることになった。
「だが、親御さんの許可がないとな。悠斗と同じ気持ちは持っているが、面識のない未成年を泊めたら、それはそれで立派な悪いことだからな……。親御さんはいるんだろ?」
「……います。だけど、無理なんです」
意固地になった時雨は頑としてここに居座りたいようだった。
ともすると泣き出してしまいそうな雰囲気さえ見せ始めていた。
それほど家に帰りたくない理由があるのだろう。
子供心に、俺は時雨の背中をさすってやる。
一瞬、身体を引くがすぐに触れられることを受け入れた。
そんな俺と時雨の様子を見ていた父さんは、大きなため息と共に仕方ないなと手を上げる。
「はあ……。本当はこれ、違法なんだけどな。他人の子供を無断で預かるなんて。だから条件がある」
「それは?」
「十神くんでいいか。必ず三日以内に親御さんと連絡を取ること。それを守れなければ泊めてあげることはできない」
「……分かりました」
「なら決まりだ。悠斗、色々と世話を焼いてやるといい。お前にとってはこっちに来てからの初めての友達になるかもしれないな」
「うん!」
こうして少しの間だけ時雨と過ごすことになったんだ。
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