第2話:今度もきっとやり直せないけど
「……ん……ふぁ~……」
けたたましいサイレンの音と共に決して爽快とは言いがたい気分で目を覚ます。
身体を起こすと、安物のベッドがキシキシと悲鳴を上げた。
男――それも今日から高校生になるというのに、髪は無造作に伸び、両目にかかるほどのそれが鬱陶しい。
払いのけるのと同時にベッドから降り、備え付けられた窓を全開にする。
「救急車、か……。あれがなかったら気持ちのいい朝だったのにな……。こんな
日は引きこもって読書ができたらどんなにかいいのに」
そう不満を漏らしながら、木造アパートの二階から少し遠くの街並みに目を移す。
時刻は朝の六時を迎える。
すでに公共交通機関は動き出し、道路上にも連続した車の流れができていた。
すぐに気持ちのいい春風が安アパートの室内を満たしていく。
一通り眠気を覚ますと、洗面台で顔を洗い、歯を磨く。
今日はあまり朝食を食べたくない気分なので、胃には何も入れない。
次に、着慣れないブレザーとパリッとノリがのったズボンを身に纏う。
「……ここまで似合わないと逆に感心するな」
部屋の鏡に映っているのは陰キャの代表例とも言うべき冴えない高校生の姿だった。
制服を仕立てて、丁寧にアイロン掛けまでしてくれた店の人に申し訳ないくらいに似合っていない。
「……よし、行こう――今度もきっと、やり直せないけど」
絶望の泥濘を胸に、殺風景な部屋を後にした。
♢♢♢
四月一日。
この日を多くの学生が期待と不安を胸に、過ごしているのではないだろうか。
小学校から中学校へ、中学校から高校へとステップが上がる人もいれば、単に学年が一つ繰り上がるだけの人もいるだろう。
とりわけ、青春の黄金時代と言えば高校生だ。
薔薇色の高校生活を夢に見て最善を尽くそうと、自分を磨いたり、あるいは自己紹介を前もって練習した人もいるかもしれない。
でも、俺に限って言えばそんなことはない。
上限いっぱいの絶望と諦観しか持っていない。
ただただ憂鬱で、体育館のステージ上で愛想よく祝辞を言葉にする校長先生も眼中には入っていなかった。
そんな俺をよそに、絵に描いたように活力に溢れた生徒――これから三年間を同学年の仲間として過ごす新入生は沸き立っていた。
「……友達……」
ぼそっとつぶやいた言葉は隣にいた女子生徒に畏怖を与えるには十分だったようだ。
あからさまに態度には出ないものの、物理的にも精神的にも距離が離れたのを直感した。
この普通なら記念すべき日にあったことといえば、入学式後のクラスでの自己紹介で当たり障りのない平凡な言葉を並べたり、明日からの本格的な高校生活に関してのオリエンテーションがあったことくらいだろう。
♢♢♢
高校生活がスタートしてはや一週間が流れた。
クラスの中ではすでに大まかなグループが点在していて、俺はやはりというべきか、誰からも声をかけられることなく、独りで本を読んでいた。
誰からも、というのは語弊があるな。
ただ一人の例外を除いて、と訂正する。
「おはよ、夜宮」
「ああ。おはよう、時雨」
俺――
時雨はツンとした
トレードマークなのか、どんな時でもキャスケットを目深に被っている。
それでも時折覗く端正な顔立ちが印象深かった。
「あ、時雨くーん! おっは~!」
「おはような、時雨!」
先に登校していた何人かのクラスメイトが時雨と挨拶を交わす。
時雨は軽く片手を上げただけで、それ以上のことは何もしない。
入学式直後の自己紹介のあとから、その整った容姿で女子だけでなく男子からも話しかけられ、すべてを興味なさげに答えていたけれど、スクールカーストでは上位をキープしている
まあ、理由としては彼の容姿だけでなく、家柄も関係していそうだけど。
そんな時雨は、入学式の翌日に俺に話しかけてきた
疑問符が付くのは俺が友達の概念を理解できないからだ。
小学生の時に一時だけ一緒に住んでいたこともあり、下の名前で呼んでほしいと言ってきたので、戸惑いつつも時雨と呼ぶことにしている。
「それにしてもついこの前が入学式だったなんてまったくもって信じらんないよな。人間はこんなに群れないとやっていけないのか? 憂鬱そのものだ」
「そんなこと言うなよ。これからまた新しい三年間が始まるんだ。悲観的になってもしょうがないだろう?」
俺の言葉を聞いた時雨はぴくりと眉を動かし、そう答えた。
時雨の言うことはもっともではあるが、気持ちがついていかないのが現実だ。
「人と関わるのは、大嫌いだ」
「夜宮は本当に物怖じしないよな。オブラートに包まないでズバズバものをいう感じ。それは直したほうがいい。でも、おれが権力者の跡継ぎだって知っても態度を変えなかった夜宮のそういうところが、好きだけど」
薄く口元が綻んでいるのが見えて、時雨は昔から変わらないんだなと少し安心した。
今の俺は昔の俺とは見た目も性格も大きく変わってしまったと思うけど、それでも嫌悪感や忌避感は一切伝わってこない。
「はは……。俺の短所についてはよく考えておくよ。でもまあ、この雰囲気だとすでにお先真っ暗な三年間になりそうだ。どうやら、俺のよくない噂でも広がってるみたいだし」
教室を軽く見渡すとごにょごにょと俺に視線を向けては顔を見合わせている男女数人がいた。
いずれも懐疑的な表情を浮かべながらも、俺と髪の毛越しに視線が合うと目を伏せてしまう。
「ご名答。悪い噂に興味はないけど、夜宮がその、無理に他人の彼女を盗ろうとしたのは、本当なのか? ――いや、不毛な質問だった。誰よりも優しいお前がそんなことをするわけないからな」
「『誰よりも』は過分な評価だけど、時雨だけだよ……。俺を信じてくれるのは」
のちに、一部の学生間のみで話題を搔っ攫った通称――朝露事件は、この界隈を賑わせていた。
噂の内容は、俺こと夜宮悠斗が別の男子生徒と付き合っていた女子を無理に奪おうとしたこと。
だが、もちろん俺はそんなことはしていない。
――ただ俺は、ハメられただけなんだ。
「この高校にも何人かは朝露中学から進学している奴らがいるからな。おおかた、夜宮のことを気に食わない奴が大げさに話を盛ってるんだな。……おれは事件のことは噂でしか知らないんだ。もし、何かあったらいつでも言えよ? おれがお前の後ろ盾になってやるから」
キッと時雨が視線を走らせると一息にすべての視線が外れた。
時雨には天性の迫力が備わっていて、俺でさえ睨まれたら気圧されてしまうほどだ。
実際に睨まれたことなど、ただの一度もないのだが。
「分かってるよ。時雨は相変わらず俺を気にかけてくれるよな」
「それはそうだろ。自分の身を顧みずにおれを助けてくれたお前と友達になったんだぞ? 友達を見捨てたらそれは人間の屑だ」
「いい奴だよな、お前」
「褒めても何もやらないから」
俺の口元に苦笑が浮かんだ。
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