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彼には言いそびれていたけど、わたしには、恋人の関係になりかけているひとりの男性がいた。ふたつ歳上で、会社の先輩だった。なにか、具体的な出来事があったわけではないけれど、お互いになんとなく気付いていた。なにかひとつ切っ掛けがあれば、わたしたちは付き合い始めるかもしれない。
そのひとが、あるときわたしに
「最近どうしたの? 飲み会にも顔出さないし、なんだか雰囲気も少し変わったんじゃない?」
犬を、と
「犬を飼い始めたんです。身体の弱っていた捨て犬を。それで忙しくて」
彼の顔が明るくなった。
「そうなんだ。だからかな、なんか表情が柔らかくなったよ」
わたしは申し訳なく思い、言葉を濁してその場を去った。
夜、家に戻って彼の寝顔を見たとき、思わず吹き出してしまった。あなたは拾われた捨て犬なんですって。知ってた?
洗面所で鏡に映った自分の顔を見つめながら、わたしは思った。いまわたしは幸福なのかもしれない。だから、それが表情にも出たのね。
実際、日々は充実していた。
彼はこのときもまだ体調が安定せずに、理由の分からない熱や
わたしは彼にスープを飲ませ、汗で
そんなときの彼は従順で、口数さえもが少なくなった。
不思議なほど穏やかな夜、わたしたちは、低く
三階の窓から飛び降りたことがある、と彼は言った。飛べそうな気がしたんだ。
音大に行きたかったの、とわたしは言った。チェロの音が好き。でも、
ならば唄えばいい、と彼は言った。オレは好きだよ、由佳の声が。そして彼は子守歌をわたしにねだった。唄ってあげると、彼はそのまま眠ってしまった。
まるで、時がわたしのために少しだけ歩みを止めてくれたような、そんな穏やかな夜だった。
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