4


 彼の具合はなかなかよくならなかった。

 食が細い上に、食べてもすぐに戻すか下してしまう。

 食い物はすべて不浄だからね、と彼は言った。オレは上澄みだけをいただいているんだよ。だから、あとはいらないんだ。

 どれほど打ちのめされても、彼の軽口が止まることはなかった。

 調子がいいときの彼は、ギターを弾きながら歌をうたった。

 哀愁を帯びた不思議に懐かしい曲で、言葉はまったく聞いたことのないものだった。

「ゲール語だよ」と彼は教えてくれた。

「ケルトの古語。なんか、オレの気分にしっくりくるんだな。この言語が」


 彼は優しかった。それもまた不思議なことだった。昔から彼はいつだって優しかった。あれだけの才気とこの優しさが、ひとりの人間の中に同時に在ること。

 彼は紳士で、少しもあつかましく振る舞うことがなかった。

 居候だからね、と彼は言った。彼氏づらするつもりはない。

「あれから恋人は?」と彼はわたしに訊いた。

「うん、何度か付き合ってみたことはあったけど、長くは続かなかったわ」

 ふうん、と彼は言った。

「あなたは?」と訊くと、「オレは由佳ゆかだけだよ」と彼は言った。

「そう、それは光栄だわ」とわたしが言うと、彼は少しかなしそうな顔をした。

 片思いは苦しい、とつぶやくように言う。

「不思議ね、わたしもいつもそう思ってたの」

 そりゃすごい、と彼は言った。

「オレたちはいつも互いに片思いをしていたわけだ。なら、なんで一緒にいないんだろう?」

「それは、あなたがスターマンだからよ」

「スターマン? オレがきみの心を狂わせてしまうとでも?」

「そうよ。たいていの人間は、あなたのようには出来ていないの。ローレンツとカラスの話は知っているでしょう? 種を超えた愛は、報われないものと決まっているの」

 そうなのかな? と彼は言った。本当にそうなのかな?

「いま、うまくいっているのは、あなたがひどく調子を落としているからよ。わかるでしょ?」

さあね、と彼はねたように言った。驚くことに、彼は本当に分かっていないようだった。

「あの頃のあなたは、狂気すれすれだったのよ。いつ、向こう側へ落ちてもおかしくなかった。わたしはただおろおろするばかりで、いつだって不安だった」

「でも、こうやって生き延びたよ。歳を取れば、誰だって自分の扱い方ぐらい分かるようになってくるもんだよ」

「そうかもしれないけど―――」

 まあ、いいさ、と彼は言った。

「オレは楽観主義者なんだ。きっといい未来が待ってるって、そう思うことにするよ。由佳とのこともね」

彼はあくびをすると、そのまま眠ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る