2 月華

僕が霞怜かれんと出会ったのは、春も終わりに近づいた日のことだった。


微かに耳に届いた歌声を僕は辿った。

放課後だったから時間に余裕があり、暇だった。

特にすることもなく、写真を撮るにも空は重い曇天で今にも雨が降りそうだった。

ここ数日ずっと快晴だったにも関わらず今日は生憎の曇りだった。

当然ながら写真部の僕に放課後の部活動が頻繁にあるわけがない。

行きがけに家族と喧嘩してしまったから帰りづらく、街を歩くことにした。

と言っても何もすることがなく、ただ徘徊しているだけのようになっていた。


そんなときに聞こえたのが歌声だった。

それを辿ったら何かが起こるような気がした。

行くあてもなく彷徨っていた僕の耳に届いた歌声に引かれるようにして僕は歩いた。

声の主が途中でいなくなることだって、移動していることだってあり得た。


それでも歩いていた。


それでもいいから直感を信じてみたかった。

川沿いの道を自転車を押して歩きながら必死で耳を澄ましていた。

しばらくして、声が目視できるくらい大きくなったとき僕の視界の中央には同じ学校の制服を着た少女がいた。

黒く長い髪を風になびかせて河川敷のベンチに腰掛けた彼女は、ジャケットを脱いでワイシャツの袖を捲り、顔に絵の具をつけて楽しそうに絵を描いていた。


風景だった。


キャンバスの中に描かれた絵は美しい風景だった。

なぜかはわからないがその色彩に強く惹かれた。

首からかけていたカメラをほぼ無意識のまま構えてシャッターを切った。

この音が少し大きかったからかレンズ越しの彼女が僕の方を見た。

一瞬だけ、彼女も含めて「春の空気感」な気がした。


「ねー!! 今シャッターを切った君! ちょっと来てくれる?」


少し離れたところにいた僕に彼女は、大きくてよく通る声で呼びかけると、筆を置いて手を振り出した。

僕は言われた通りにしようと思い、自転車を押しながら走った。

催促の声は聞こえたままで、僕は数十メートル先の彼女の元へ走った。

近づいてわかったのは、彼女を見たことがあることだった。


「やぁ。クラスメイトくん。今日ぶりだね。」


彼女の一言でようやく思い出した。

だが名前は知らない。

クラスメイトのくせに自分以外のクラスメイトのことがわからない。

彼女には本当に申し訳ないが。


「あ、、、クラスメイトだったんだね」


僕が正直なところを言うと彼女はクスッと笑って伸びをした。

春の空気が相まって彼女自身が花のようだった。


「君が噂の美男子くんだね」


聞き慣れない単語に僕は首をかしげる。

そんなこと誰が言ったのだろう。

それに僕など噂に登るような性格をしていない人間がそんな風に言われるはずがない。


「まあそんなことはどうでもいいんだ。さっき君が撮った写真もらえないかな?」


彼女は僕の方へ向き直って言った。

その毅然とした態度に僕は圧倒された。

この人は本当に同い年なのかと思った。


「この写真に何の需要があるの?」


彼女に対して僕は情けない態度で、吐いた言葉ですら酷いもので自己嫌悪がさっとよぎる。


「私の創作に役立てたいと言ったらくれたりする?」


彼女はいたずらっ子のような悪い笑顔で、気取ったように足を組み、腕を組みつつ僕を指さした。

その様子があまりにキザで、それがまた似合っているのがなんともおかしかった。


「そういうことだったら別に、、、」

「ありがと」


彼女が目を輝かせて言った。

僕にかぶせて言ってきたことはこの際触れないでおこう。

なぜなら、僕が撮った風景を必要としてくれたからだ。

認められるということがこんなにも嬉しいものだったのかと少し感動した心持ちでいた。

何もなかった僕の世界を吹き抜けた一陣の風のようだった。

ここから何かが変わっていく予感が確かにした。

こんな風に感じたのは写真という媒体に出会って以来だった。

マンネリ化した、変わるはずのないテンプレートの生活を、小説の中へと変えていく劇的な出会いだった。

僕にとってそうなように、彼女にとってもそうであることを密かに願ったことは僕の心の内の秘密だ。

春に出会った、具現化された春を僕はもう一度だけ写真の中に焼き付けた。


「データで送るってわけにもいかないし明日でもいい?」


立ち去る間際、僕は思い出して振り返った。

彼女は、そんなこともあったねと笑いながら


「急かすわけにもいけないからね。仕方ないさ。君に合わせる。」


と手をヒラヒラさせて言った。


「じゃあ明日」


「楽しみにしてるよ」


「あんまり楽しみにしないでくれると助かる」


「それは無理な相談だね」


彼女にそう笑われた後、僕は話す気力もなかったので会話を切り上げた。

他人との会話というものはなんでこんなに疲れるのだろう。

それでも彼女となら話してみてもいいかもしれない。

ただそれだけの話なのにすべてが変わってしまう気がした。

明日が来る不安感が生まれた気がした。全てが変わる恐ろしさがあった。

だから何も考えず家路を急いで寝てしまうことにしよう。

明日も人と話すのだから今日は勉強も程々に寝ようと思った。

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