第五話 離れること、離れないこと
格子状の門は完全に引き上げるのに多少時間がいったが、その門の向こうには商隊が五、六組待機しているのが陸王の目に入った。ほかにも旅人らしき者の姿もある。だが、雨模様なので、そこには行商人の姿はなかった。
格子状の門が開くと、出ていく者が優先的に門外へ出され、そのあとから待機していた商隊が門の内側に吸い込まれていった。
陸王と一緒に街を出た商隊は護衛を引き連れているため、ゆっくりと進んでいく。それでも街から随分と離れる頃になれば街道にも別れ道が現れ、一組、二組と道を逸れて行ってしまった。
今は一組の商隊と一緒に街道を歩いている。
荷馬車が立てる鈍い雑音と共に。
そうして歩き通して、雲の切れ間から太陽の光が差し込む頃には、太陽は中天辺りに位置していた。
それを合図にしたように、陸王から見える場所にいる護衛の傭兵達が、己の少ない荷物の中から水袋と干し肉を取りだして歩きながら昼食を摂り始める。
雑談をしながら、干し肉を旨そうに囓っているその様を見ても、特に陸王は食欲が湧くわけでもなかった。喉が軽く渇く程度だ。
と、傭兵のひとりが空を見上げる。そして
思わず陸王も掌を差し出したが、その手に雨粒が落ちてくる感触はない。
やっと雨が上がったかと、びしょ濡れになった頭巾を払い除けようとした時、外套が微かに引っ張られるのを感じた。
なんだ?
そう思い、肩越しに振り返ると、そこには陸王の外套の端を緩く握って息を喘がせる
雷韋の前髪からは雨の雫が滴っている。外套もびしょ濡れだ。
その姿に、陸王の歩む足が止まる。けれども言葉は何も出てこなかった。それどころか、陸王は頭が真っ白になっていた。ただただ、何故、としか思えない。
そして雷韋の方は言葉を発する事さえ難しいようだった。身体を小刻みに震わせ、必死に荒く息を継いでいるばかりだ。陸王が立ち止まったのを見て、雷韋はするりと陸王の外套から手を離すと、膝に手をついて身体全体で呼吸を繰り返す。だが、上目遣いに雷韋は陸王を見上げてきた。琥珀の瞳には、どうして? どうしてだ? と問うような色がある。
その問いに、陸王は上手い答えが出て来なかった。困惑して、雷韋を見詰めるだけが精一杯だ。いや、それこそ陸王の方が問いたい。どうやって追いかけてきたのかと。しかしそれも言葉にはならなかった。ただ呆然と、全身で呼吸を繰り返している雷韋を見詰める事しか出来ない。
二人はそのまま暫く無言だった。
陸王に言葉はなく、雷韋は息を喘がせている。
そうしてある程度、雷韋の呼吸が整うのと同時に、少年は陸王に食って掛かった。
「陸王! なんで俺を追いてっちゃうのさ! 宿の親父は昨日出ていったって言ってた。俺を置いて、今までどこで何してたんだよ!」
憤りを込めて捲し立てるが、雷韋の瞳には不安げな色がありありとあった。陸王が何も言わないでいると、今度はその不安が噴出するように、雷韋は言葉を重ねる。
「昨日、俺を殴ったせいか? だったら、こっから先はもうあんたを
情けなさそうに言って、雷韋は陸王の右手を両手で取る。
その雷韋の両手の温度は体温を失った陸王の手に温かく染み込んだ。熱いくらいに。それが無性に心地いい。
「陸王。俺、もう我が儘言わないから。だから離れないでくれよ」
言う雷韋の顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
そんな顔を見ると、陸王の胸の奥がつきんと痛む。だからだろうか、身体が勝手に動いたのは。
陸王は衝動的に、情けない顔の雷韋の頭をぐっと抱き寄せていた。そうすると、胸の下辺りに雷韋の額がくっつく事になる。
いきなりの事に雷韋は言葉を発せなかったようだが、抵抗はしなかった。それどころか、自分から額を擦り付けてくる。
そんな事をされると、胸の奥がざわめいた。瞬間的に心に波が立ち、けれど、すぐに凪ぐ。だからこそ、言える事があった。
「俺はお前を傷付けたくねぇ。これからも一緒にいるとなりゃ、また傷付ける事もあるかも知れねぇんだ。自制が利く事も利かん事もあるだろう。それでもいいのか? それでも一緒にいたいってぇのか?」
雷韋はその言葉に、こくんと頷いた。
「あんたは違うって言うけど、俺は違うなんて思わない。あんたは俺の対で、こうしてるだけで安心する。何かが俺の中の隙間に嵌まったような感じがするんだ。もう、昨日みたいにあんたが本当に嫌がる事はしないよ。だからここまで追っかけてきたんだ。それにあんたは俺の傷の手当てしてくれたじゃんか。それだけで充分だよ」
陸王にも雷韋の言っている事は分かる。胸元に雷韋の温かさがある事で、心が満たされていく感じがするのだ。これがきっと魂の共鳴なのだろうと思う。本当ならこんなにくっつかなくても、雷韋が傍にいるだけで感じられる感覚だ。それでも、今はこうしたいと思った。だから身体が無意識のうちに動いたのだろう。
陸王は腹の底で、離せない、と思った。離れようと思ったが、何かが足りないと感じていたのだ。雷韋は遊郭に囚われている女郎と違って、自由に行動出来るのだ。行動が制限されているものを手に入れようとするなら、いくらでも離れる事が出来るかも知れない。離れる事によって、結果、一緒になれるという希望があるからだ。
けれど雷韋は自由で、その上、陸王の気配を読んでこうして追いかけてくる。それを無理に引き剥がそうとするのは難しい事だ。『対』も『対の絆』も、相手があってこそだ。出会う以前なら兎も角、既に出会ってしまっている。
その上で独りになるのはとてつもなく難しい。
どちらかがなんらかの問題で行方不明にでもならなければ、離れるなど無理だろう。
そう思う。
降参だ。
陸王は胸の内に抱いていた雷韋の頭を離した。そして言う。
「随分と走ったようだが、どのくらい走ってた」
「小一時間くらいかな」
「通りでずぶ濡れだ」
「あんたほどじゃないよ」
言い合う二人の瞳は笑っていた。それは安堵から出たものだ。
「もう、俺を置いていったりすんなよな。もし置いてかれても、俺はあんたがどこにいるのか分かるけどさ。でも、それって悲しいよ」
「仕方ねぇからお前の我が儘に付き合ってやる。それに、俺ももっと自制する。お前を傷付けたいわけじゃねぇんだ。だが、無理な時は無理と言うからな」
それを聞いて、雷韋が裏も表もない子供の笑みで返した。どこまでも純粋な笑顔で。
その笑顔に薄く苦笑して、陸王は言った。
「街に戻るか。この先、街があるのか村があるのかも分からん。情報を何も仕入れてこなかったからな。俺一人なら、何がなくとも野宿でもすりゃいいと思っていたが、このままの恰好じゃ、お前が風邪を引く」
「じゃあ宿とったら、まずは風呂だな。風呂のあと、あんたの部屋に行ってもいいか? でも、無理にとは言わないから」
「ま、暇潰し程度にならな」
陸王の言葉に、雷韋は「やったぁ!」と嬉しそうなはしゃぎ声を上げる。
けれど、今夜は満月だ。魔族の本能が一番活性化する夜。
だが陸王は、不思議と昨日のような事にはならないと予感していた。
魔族の性よりも、対の感覚の方が強いと感じたからだ。その感覚が陸王を救ってくれるだろうと。
これから先も何度もある月の満ち欠け。その時は密かに雷韋の魂に触れてみようと思った。
魔族の本能より、対の感覚の方が強いと信じて。
そして陸王は、雷韋に手を取られて街へと戻る道を歩き出した。
空はいつの間にか灰色から、一面空色へと変わっていた。
まだ
了
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