第四話 懊悩

 暫く歩いて、娼館や酒場の並ぶ場所に出る。


 辺りには扇情的な姿の娼婦や、酔っぱらいの姿が多く目につく。


 中には、娼婦らしい女に腕を取られて娼館の中に入っていく酔っぱらいの姿もあるし、数人で酒場や娼館に入っていく男達の姿もあった。


 そんな中に入っていけば、陸王りくおうもご多分に漏れず女達から誘いがかかる。けれど陸王はそれをわずらわしげにけて、一軒の酒場に入った。


 足を踏み入れた酒場には酒と葉巻の臭いが充満している。客層は、一般市民から胡散臭そうな風体ふうていの者まで様々だ。そしてそこに、女達が散らばっているといったていだ。


 客達は陸王が入って来たその時だけは彼に目を遣ったが、すぐに元の状態に戻る。が、それまでほかの客についていた女がひとり、一つの卓についた陸王のもとへとやって来た。若いが、化粧の濃い女だ。



「いらっしゃい、お兄さん。ご注文は?」

「エールでいい」



 陸王がぶっきらぼうに告げると、女は鼻にかかった甘ったるい返事を返してカウンターへ向かった。そうしてすぐに戻ってくる。



「ご注文のエールよ。銅貨三枚ね」



 女が杯を置くのとほぼ同時に、陸王は銅貨を三枚卓の上に置いた。そして杯を手に取った時、女が陸王の肩に腕を回してしなだれかかってきた。しかし陸王は不快そうにその腕を外して女の肩を強く押し返して突き放すと、女は「何よ、この役立たず!」と悪態をついて去って行った。


 今は女にかまけるような心の余裕はなかった。それに、雷韋を殴って魔族の本能は昇華されている。明日になればまたどうなるか分からないが、兎に角今は気分ではないのだ。


 そのまま女を近くに寄せぬまま、陸王が朝まで五、六杯、杯を重ねる間、客は入れ替わり立ち替わり現れたが、流石に明け方近くになるとその姿もめっきり減っていった。皆それぞれに女に別れを告げて去って行く。


 そしていつからかは分からないが、外は小雨になっていた。


 陸王はいくら杯を重ねても一向に酔わず、最後の一口を煽った時、一時課いちじか(午前六時)の鐘が遠くから聞こえてきた。


 盛り場のどの店にも店終いの時がきたのだ。


 陸王は卓につく前に腰から外していた刀を手に取ると立ち上がり、手にしたそれを腰に差して店を出た。店を出る間際、酔い潰れた客を起こそうとする女達の声が数カ所で上がっていたが、そんなものには目も遣らなかった。


 外に出ると、まだ小雨が降っている。頭上には厚い雲。既に陽は昇っている筈なのに、外は空の色と同じに、灰色に薄暗いままだ。外套がいとうの頭巾を被りはしたが、頭巾も外套も速やかに雨滴を吸い込んでいく。


 城門へ向かう陸王の全身を、初夏の冷たくも温くもない雨がゆっくりと濡らしていった。


 裏通りから表通りへと出て、広小路沿いに城門へ向かえば、門脇の小屋に門衛がいるほかは誰もいない。三時課さんじか(午前九時)にならなければ城門が開かないのだから、当然の事と言えば当然かも知れなかった。


 陸王は城門前の広場の隅へ行き、城壁に背をもたせて三時課の鐘が鳴るのを待つ事にした。辺りには雨宿りが出来るような建屋も何もなかった。だから、待つ間にずぶ濡れになるのは覚悟の上だった。こればかりは致し方ない。


 酒場では酒を呷りながら、鬱々と雷韋らいのこれからの行く末を考えていたが、今は小さな雨粒に打たれながら、陸王は己のこれからを考え始めていた。このまま雷韋から遠ざかって、その先はどうしようかと。これまでは戦の臭いを嗅ぎ取りながら、雇われ侍として戦場いくさばで生きてきた。おそらくは同じ事をしていくとは思うが、その戦とて、どこで起きているか見当もつかない。その為の情報を雷韋と一緒に旅を始めてこの方一月弱、仕入れてきていないのだ。その為にも、情報は必要だった。


 陸王はぼんやり、どこか大きな街に行った時にでも戦の噂が人の口に乗らないか、あるいは斡旋所で戦の情報が流れていないか確かめようと思った。


 戦闘があれば、人を斬る事で魔族の破壊の本能を発散させる事が出来る。月の満ち欠けも気にしなくていい。


 けれど、心のどこかが虚しかった。

 いや、虚しいと言うよりも、心に空虚な穴が開いているかのようだ。


 たかが雷韋と別れて、以前の生活に戻ろうとしているだけだというのに。


 そう。一月前に戻ると言うだけの話だ。

 それだけなのに、どうして不安定になる必要があろうかと思う。


 そこでふと、不安定? と己の思考を陸王は振り返った。これから先の自分が、不安定になると考えている事に驚いたのだ。


 陸王は知らぬままに大きく息を吐き出した。そして、その反動のように湿った空気を吸い込む。


 雨の匂いが鼻腔を通って肺に吸い込まれ、臓腑を大きく膨らませた。それと同時に、落ち着け、と陸王は瞼を閉ざして自分に言い聞かせる。


 これまで対と別れてきた者ならいくらでも見てきた。どう言うわけか、日ノ本では雇われ侍の対は、花街の女郎と定まっている。女郎のほとんどはあちこちの村から花街に売られてきた女達だが、対の男にしてみれば自分以外の男にとられるのは面白くない。中には足繁く通って女の年季が明けるのを待つ者もいるが、そうした男とは反対に、大陸に渡って身請け金を稼ぐ者もいる。その場合、日ノ本から離れねばならず、対の女と一時いっときとは言え別れる事になるのだ。そうして別れる者達を陸王は日ノ本にいた時から目にしていた。


 陸王の場合とて似たようなものだ。雷韋が本当に自分の対であるなら、一時別れるだけだ。そして、いずれまたどこかで出会うだろう。人間族と違って互いに長命種故、再び再会するのがいつになるか分からないが、十年、二十年と間が開いても狂っていく事はない筈だ。


 それよりも、雷韋を傷付けたくない。その想いの方が強かった。

 だからここで別れる。それが互いにとって一番だと思って。


 人間族に出来て、自分に出来ない事はない筈だ。


 陸王はその思いを強くして、開門の時間を待った。

 雨は小降りなのに、静かに、しかし、確実に陸王を雨滴で濡らしていく。気付けば頭巾からも、前髪からも雫が滴っていた。そして、冷たくも温くもない雨は、陸王から体温を僅かずつ奪っている。


 雨で身体が徐々に強張っていくのを感じながら陸王は城門を眺めていたが、それから更に時が経ち、護衛の傭兵に囲まれた商隊がぽつりぽつりと現れ始める。雨模様のせいか、旅人らしき者の姿は見えない。


 けれども、空を見上げると未だ灰色の空だったが、雲の流れは速かった。太陽の位置も辛うじて分かるくらいには雲も薄くなっている。もしかしたら、昼頃には雨が止むかも知れないと陸王は空を見上げつつ思った。


 そしてそれから幾許いくばくもしないうちに、三時課の鐘が遠くから鳴り響く。

 いよいよ街の外に出られるのだ。


 おそらく雷韋は未だ眠っているだろう。雷韋と共にいて一ヶ月弱、陸王は雷韋の寝汚いぎたなさを知る事になった。毎朝、部屋の扉をいくら叩いても起きてこないのだ。中からは寝惚けて呻くような声が聞こえるのに、なかなか起きてこない。それで一日の予定が狂う事もままあった。


 今朝もそうなるだろう。

 何しろ、起こしに来る者がいないのだから、雷韋が自発的に起きるわけがない。


 その間に自分は遠くへ行ってしまおうと思った。

 雷韋に自分の気配を感じ取れないほど遠くまで。離れれば離れるほど、気配を辿る事は難しくなるだろうから。

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