第三話 悔恨
己が魔族であると言う事を。
だが内心では思っていた。知られたら知られたで、離れればいいと。
もとより陸王は、雷韋を殴った事で──。
と、その時、雷韋の瞼が開いた。まだ左目の充血は完全に引ききっていなかったが、それでも術をかける前よりはずっといい。
雷韋の瞳はぼうっとしていた。目の焦点が合っていないのだ。その目が陸王を捉える。
琥珀の純粋な眼差しが陸王には痛かった。
「……雷韋」
少年の顔を両手で包み込んだまま、陸王はそっと声をかける。
声をかけられて、雷韋は二度、三度と瞬きを繰り返した。そのうちに焦点が合い始める。雷韋の視線は、しっかりと陸王の両目に合っていた。
「陸王?」
少し浮ついたような声音で陸王の名を呼ぶ。それから考え込むように陸王から視線を外して黙り込む。
殴られた時の事を思い返しているのだろうか、と陸王は思った。それは当然の事だ。雷韋の意識はいきなり途切れただろうし、気が付けば陸王の手に顔を包まれているのだから。
そして雷韋の視線が再び陸王を捉えた時、その瞳には不思議そうな色が乗っていた。
瞬きを幾度か繰り返してから、
「ここ、どこだ? 俺、まだあんたの部屋にいるのか?」
そう問いかけられて、陸王は「いや」と緩く首を振った。
「ここはお前の部屋だ。俺が連れてきた」
「俺の部屋に連れてきた? ん~、俺寝てた? ……確かあんたの部屋で、部屋に戻れ、戻らないってのを言い合ってたんだよな?」
「そうだ」
「俺、その時に寝ちまったのか?」
眉根を寄せて、不可思議げに問いかけてくる。全く理解出来ないという風に。それに対して陸王はなんと言ったらいいのか分からず、思わず口を噤んだ。
その様子を
「なんで、術なんか」
その言葉に陸王は、眉間に深い皺を刻んで目を閉じた。そして、思い切ったように口を開く。
「お前を殴って、怪我をさせたからだ」
「え?」
雷韋は陸王の言葉に、虚を突かれたような声を出した。
「殴った?」
「そうだ」
「なんで?」
陸王は雷韋に応えるために、薄く目を開けたが、その視線を合わせようとはしなかった。
「何も覚えていないのか?」
「俺がぶー垂れて、寝台に寝っ転がったのは覚えてるけど、そのあとの事は覚えてない」
「全くか」
「うん」
答えつつ、頷く。
「だったら今は何も聞くな。明日、お前の状態が落ち着いたら話す」
そこでやっと雷韋に視線を合わせて、陸王は言った。
「状態が落ち着いたらって、そんなに酷い怪我なのか? どこも痛くないけど」
「今はもう、ほとんど治っているしな。だが、殴られた時の衝撃でお前は意識を失った。殴られた記憶が飛んじまうくらい、手加減せずに俺はお前を殴ったんだ。様子を見るのは当たり前だろう」
そう言っている間にも、雷韋の左目の鬱血はすっと引いて、青みがかった綺麗な白目に戻っていく。顔の内出血も完全に消えていた。裂けた唇の傷口も既に治っている。口内の傷も跡形もない。
それを感覚で確認して、陸王は両手を雷韋の顔から引いた。
雷韋はその仕草に、
「治ったのか?」
と問いかけた。陸王はそれに頷いて返す。
「眠れるようなら、このまま寝ろ。一晩眠ったら、飛んだ記憶の一部でも思い出すかも知れんしな」
言う反面、陸王は何も思い出さずにいて欲しいと願った。雷韋を殴った時、確かに陸王は魔族の紅い目をしていたからだ。それだけは思い出して欲しくないと思った。
ほかの何を思い出したとしても。
そんな陸王を、雷韋は黙って見詰めていた。真っ直ぐな曇りない瞳で。
陸王と目を合わせたまま、少しの
「なぁ。なんでそんな辛そうな顔してんだ?」
そう言われて初めて陸王は自分の表情が酷いものだと知った。けれど、雷韋の言葉に答える事が出来ない。上手く言葉が浮かんでこないのだ。
雷韋を傷付けた、という事実を口に出せなかった。
それを口に出せば、どうして傷付けたのかに言及せねばならないし、その一方で、その事について酷く落ち込んでいる自分を雷韋に知られたくなかったのだ。
そんな事を知らぬ雷韋は、ちょっと困った風に口を開いた。
「あんたが人を殴るなんてよっぽどなんだよな? あんたは簡単に暴力働く人には見えないもん。だから覚えてないけど俺、きっとあんたの気に障る事したんだな。だったら、なんにも気にする事ないぜ。介抱もしてくれたしさ」
陸王は言う雷韋の前髪をくしゃくしゃと掻き混ぜて、一言口にした。
「……すまん」
「いや、きっと俺が謝る事だと思う。ごめんな、陸王。俺、我が儘だから、それで陸王を怒らせたんだと思うし」
「いいから、寝ろ。寝るまでついててやる」
雷韋はその言葉を聞いて、とても嬉しそうに
「へへ……。寝るまで誰かについてて貰うなんて慣れねぇな。嬉しいけど、なんか、ちょっと恥ずかしい」
「怪我をさせたんだ。それくらいはさせろ」
言いながら、陸王は雷韋に上掛けを掛けてやった。
雷韋も掛けられたそれを両手で
「ほんとに俺が寝るまで傍についててくれるのか?」
「あぁ」
その返答を聞いて、雷韋は嬉しそうに笑みを向けてから、寝顔を見られるのが恥ずかしいのか、手繰り寄せた上掛けを頭からすっぽりとかぶる。
そんな雷韋の頭部分を、陸王はぽんぽんと二、三度軽く叩いてやった。すると、小さくくぐもった笑い声が返ってくる。
陸王はその笑い声に、密かに嘆息を落とした。何故ならそれは、安堵しきっているものだったからだ。一皮剥けば、陸王と雷韋は捕食者と被食者なのに、雷韋はなんの疑いも抱かず陸王に懐いている。
それが例えようもなく、陸王に重くのし掛かってくるのだ。
切なくなるほどに。
そのまま少しの時間が経つ頃には、雷韋は安堵しきっているのか、寝息を立て始めた。
「雷韋」
声をかけるが、雷韋からの反応はなかった。それを機に、陸王はランプの
部屋を出たところで、
陸王は自分の部屋へ戻ると、急いで出立する支度を調え、階下へ降りた。
階下の食堂へ下りると、常連客と覚しき者達が帰り支度を始めている。中には陸王と入れ代わるように二階の部屋へ上がっていく者もいた。
宿は晩堂課が鳴れば閉まるのだ。
だから、その前に陸王は部屋の鍵を返して宿をあとにした。料金は前払いだから、今更宿泊料の心配をする必要もない。
そうして宿をあとにして、広小路沿いから裏通りへと足先を向ける。
酒場へ行こうと思ったのだ。食堂や宿の食堂は晩堂課までだが、酒場は
だが今は、取り敢えず朝まで時間を潰す場所が欲しい。いくらか金がかかろうが、それは問題ではなかった。
それに、雷韋に居場所を悟られたくもない。雷韋は陸王を気配でどの辺りにいるか判別する事が出来る。だから、宿からなるべく離れていたかった。
歩きながら空を見上げると、月の姿はすっかり雲に隠されていた。今夜の原因になった一つでもある月が、明日は満月を迎える。雷韋とこのままいて、明日の夜もまた今夜のように魔族の本能が爆発してしまうのは
雷韋は陸王が魔族であると言う事を知らないが、お互い長命種だ。このまま別れても、対であるならいつかまた出会うだろう。その時は陸王自身ももっと自制出来るようになっているだろうし、雷韋ももっと成長している筈だ。
今の状態のままよりは、ずっと上手くやっていけると陸王は思った。
そんな事を考えながら、裏道を盛り場の方へと向けて歩き続けた。
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