第二話 凶行

 心底、冗談じゃないと思う。雷韋らいの息遣い、一挙手一投足に理性の糸が切られそうなほど今夜は魔族の本能が騒ぐのだ。一緒の部屋になど長く居座られてはたまらない。対であるだけに流石に殺そうとまではしないだろうが、徹底的に痛めつけてしまいそうだ。


 だから、それを事前に阻止するためにも陸王りくおうは椅子から立ち上がり、雷韋の目の前に立った。



「雷韋、いい加減にしろ。部屋へ戻れと言っているだろう」



 それを聞き、雷韋はがばっと起き上がった。そして上背高い陸王を見上げて言う。



「なんかあんた、初めて会った時に比べて変だ。最近は飯の時も俺が話しかけたって何も答えねぇし、今日の晩飯の時だってそうだった。俺がいくら話かけても、まともに目さえ合わせてくれなかっただろう。ちょっと前まではどっか面倒臭そうだったけど、俺の話聞いてくれてた。大体、今夜は最悪だった。飯の途中で食うのやめて部屋に戻っちまったじゃんかよ。村からこの街に着くまでにも、あんた、口利いてくれたか? 一言も口利いてくれなかったよな? 俺、なんかしたか? それとも一緒にいるのが嫌になったか? いや、そんな事ある筈ねぇよ。だって、俺達は対なんだから!」



 一気に捲し立てて、雷韋は荒い息を吐き出した。


 その雷韋を、陸王はこれ以上もないほどの険しい表情でめ付ける。目には殺気が宿っていた。


 途端、雷韋の身体がびくと震え、少年から恐怖の感情が流れ込んできた。それだけではない。一瞬にして雷韋の瞳に宿った恐怖の色が、陸王の中にはだかっていた理性という名の砦を崩していた。


 何か、激しい音が陸王の耳に籠もって届き、はっとする。

 気付けば、雷韋が寝台の上で横倒しになって寝そべっていた。


 いや、違う。寝そべっているのではなく、倒れているのだ。そればかりではなく、陸王自身も気付けば息を荒くしていた。


 陸王の息が荒いだけではなく、横倒しになっている雷韋を見れば、唇が大きく裂け、血を流している。そして、時間差のように鼻からも血が流れ出してきた。それ以上に、雷韋の左頬は真っ赤になっていた。


 少しののあと、陸王は自分が雷韋を殴ったのだと悟った。右手は拳を作り、その拳にじんとした独特の痛みがある。


 陸王の頭はその状況を認識して真っ白になった。数歩、雷韋から後退り、右拳を呆然としたように見詰める。


 だが、陸王は全てを覚えていた。確かに見ていた。その瞬間を。

 雷韋の怯えを感じた瞬間、頭の奥に熱された鉛を入れられたような感覚があり、なんの前触れもなく雷韋を殴りつけたのだ。


 拳が雷韋の華奢な頬骨と頬肉に当たる感触を覚えている。


 その一瞬に雷韋が見せた怯えきった顔。背筋がぞくぞくするほど高揚した。頭の中に突っ込まれた熱された鉛の塊が溶け出して、思考が鉛の津波に襲われた事も覚えている。


 瞳を紅くたぎらせて、喜々として雷韋を殴ったのだ。


 倒れている雷韋を目にしながら、酷い罪悪感と後悔に襲われた。なのに、雷韋から香ってくる甘い血の匂いが鼻先を掠め、胸の内側に微かな高揚感を生み出す。


 罪悪感と後悔と高揚。胸の中も頭の中も滅茶苦茶になる。思考が完全に均衡を崩していた。


 自分が雷韋を殴った一部始終を思い返しながら、小さな身体に振るった暴力には力加減も出来なかった事を今更ながら思い起こした。自然、歯の根が合わなくなりそうな感覚に襲われて、陸王は奥歯を噛み締めた。己の起こした凶行に、握り締めたままの拳が微かに震え始める。その震えをこらえようと、握り締めた拳を更に強く握り締めた。


 てのひらに爪が食い込むほど。


 傷付けたくないと思って邪険にしたのに、それがかえって最悪な事態を引き起こしてしまった事に、陸王は歯噛みする思いだった。


 部屋の中に陸王の荒い息遣いが響くが、倒れた雷韋からはなんの音もしなかった。耳を澄ませても、呼吸の音すらしない気がする。


 陸王はまさかという思いと共に、寝台脇に片膝をつき、雷韋の顔を覗き込む。そして手を雷韋の口元に当てた。鼻は両方から鼻血が流れ出して、呼吸出来ていないようだからだ。


 呼吸は、あった。

 その事に、ほっと息を零す。それと同時に紅く染まった瞳が、自然と黒を取り戻した。


 だが、力加減関係なく殴ったせいだろうか。頬の部分だけが赤いだけだった筈なのに、顔の左半分が全体的に青黒く染まり始めていた。


 酷い内出血のせいだ。それに、腫れ初めてもいた。その様は文字通り、酷く痛々しい。


 陸王は隣の寝台に置いてあった自分の荷物の中から懐紙かいしを取り出し、それをよく揉んだ。よく揉んで、懐紙を柔らかくしてから雷韋の唇や鼻の辺りの血を拭っていく。唇からの血は止まっていたが、鼻血はまだ止まる気配がなかったので、懐紙を千切ってそれを丸めて鼻の中に押し込んでやる。だが、そうされても雷韋は全くの無反応だった。おそらく殴られた時の衝撃で、脳震盪を起こしたのだろう。


 陸王は簡単な処置を終えて雷韋の身体を持ち上げると、隣の部屋へ少年を連れて行った。

 雷韋の借りている部屋だ。


 入った室内は真っ暗で、取り敢えず陸王は雷韋を寝台に寝かせた。それからランプに火を入れて、室内に明かりを灯した。


 そうして、陸王は雷韋の横たわる寝台に腰掛けて、雷韋の顔を両手で包む。


 根源魔法マナティアの回復の術を施すためだ。


 雷韋の腫れている頬に触れると、そこは殴られて腫れた時特有のざらついた感触があった。それを感じると、陸王は悲しく、そしてとてつもなく悔しくなってくる。雷韋の怯えに引き摺られてしまった己が許せない。


 それなのに、胸の奥深くでは胸がすいている感覚もあった。


 雷韋を殴った事によって、出口をなくして渦巻いていた魔族の性がはからずも昇華されたのだ。その事実が虚しかった。こんな形で昇華してしまうのは酷く情けなく、虚しい。一番望まない事だ。


 何より、雷韋に対して申し訳ないと思う気持ちが濃く心に滲んだ。

 そんな思いを込めながら、陸王は魔術を発動した。


 魔導の力が陸王の掌から雷韋の中に流れ込んでいくのが感じられる。それと同時に、怪我の程度も知れた。やはり見た目通り、顔の内出血が酷かった。それに口の中もざっくり切れているようで、左目まで充血しているようだ。


 それを感じるだけで、どれだけ強い力で殴りつけたかが今更ながらに分かる。

 思わず、自分に対して溜息が出た。


 雷韋にこんな事をするつもりではなかったのに、と。心の中が苦すぎて、どうしようもなくなる。


 苦渋を面に表して、それでも陸王は雷韋を懸命に治療した。時間が経つ毎に内部の出血は治まり、細胞の奥に血液が吸い取られていく。それに伴なって、青黒かった顔の色も少しずつ正常な肌の色に戻っていった。同時に眼球の充血も治まっていき、口の中の大きな切り口も塞がっていく。


 術をかけている陸王には、それらが手に取るように分かった。怪我が少しずつ治っていく様に、内心ほっとする。


 回復術をかけているのに全く様子が変わらなかったらと思うと、ぞっとする思いだ。

 けれどそんな事はなかった。怪我の状態は少しずつよくなっていっている。


 切れた唇が完全に塞がり、顔の内出血も眼球の充血も引いていくと、雷韋の瞼がわずかに痙攣した。


 それは目を醒ます前兆だった。


 それを目にして、陸王ははっとする。

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