小咄編 その一『対の本能と魔族の本能』

第一話 ことの始まり

 月が満ちようとしている。今夜の月はやや欠けていた。だが、明日は満月だろう。

 窓際に椅子を持ってきて月を眺める陸王りくおうの中で、凶暴な魔族の性が騒いでいた。


 魔族は月の満ち欠けに影響を受ける。月が満ち始めれば魔族の性は騒ぎだし、月が欠け始めれば鎮まっていく。低級な魔族ほど月の満ち欠けに強く影響を受けるのだ。


 けれど、陸王は高位の魔族。魔族の性を飼い慣らし、月の満ち欠けにもさほど影響は受けない。だが、それでも多少なりとも影響は受けるのだ。


 月を見ていようと見ていまいと。


 陸王の中で不吉なざわめきがあった。このところ、月の満ち欠けで魔族の性が暴れだそうとしたり、鎮まっていったりと忙しない。


 ただ、その解消法はある。

 欲を解放すればいいのだ。


 つまり女と寝れば、陸王の中でどれほど魔族の性が騒ごうとも、それだけで落ち着きを取り戻せる。


 なのに、それをしていない。そんな気分にはなれないのだ。

 傍に対である雷韋らいがいるからだ。


 雷韋がいる事によって、欲を感じない。欲よりも、対の感覚の方が強いのだ。欲を抑え込んでしまうほど、対の感覚は強かった。


 けれど、魔族の性がそれで雲散霧消してしまうわけではない。一時的に抑え込まれるだけの話だ。


 このところ女と寝ていないと言うだけで、魔族の性は胸中で騒がしい。しかし、買う気にならないのだ。だから魔族の性が発散されずに燻って、やたらと胸の中で理性と本能がせめぎ合っている。


 だからだろう。胸の中は混乱の極みにあった。


 陸王は腕を組みながら、窓から見える月を見上げて、鬱陶しい気分を吐息に紛れて吐き出した。


 と、その時、扉がとんとんと叩かれた。続いて元気な声が聞こえてくる。



「なぁ、陸王。暇だからお喋りしようぜ」



 雷韋が扉を開けつつ声をかけてきた。まだ陸王が入っていいともなんとも返事をする前に、無遠慮に扉を開けて。


 けれども陸王は、狭い部屋に入ってきた雷韋を見ようともしなかった。あと一夜で満ちる月を見上げているばかりだ。声を返そうともしない。


 そんな陸王を見遣って、雷韋が近付いてくる。



「何見てんだ? 月か?」



 言いながら、雷韋が窓から空を見上げる。

 そこには雲の流れが速い空があった。



「あ~、雲がどんどん流れてきてるなぁ。明日雨かなぁ? あんまり降らなきゃいいけどな」



 霧雨程度なら街を発てるが、本降りになったらこの宿で足止めだ。雷韋はそれを危惧きぐして言ったのだが、陸王からは相変わらずなんの返答もない。ただただ、月に目を向けているだけだった。


 それを不審に思った雷韋が、陸王の顔を見る。



「陸王、どうしたよ。黙っちゃってさ」



 雷韋が目にした陸王の顔は、怠そうな色を載せていた。腕を組んで、怠そうに月を見上げているのだ。その陸王の黒い瞳は、雷韋の方をちらとも見ない。そんな陸王の様子を怪訝けげんに思い、雷韋が小首を傾げて手を振りながら「りくおー?」と声をかける。


 その様に、陸王の視線だけがやっと反応した。黒い瞳が雷韋を捉える。


 だが、陸王の胸中は複雑だった。本能と理性が鬩ぎ合って、ぐちゃぐちゃになっているのだ。


 対である雷韋が傍に来れば、魂は安定する。なのに、雷韋は鬼族。魔族の餌であり、被食者だ。雷韋はまだその事を知らずにいるが、陸王の中の魔族の性は雷韋を嬲れと命じ、理性がそれを抑え込んでいる状態なのだ。


 それなのに、魂は雷韋を傍に置けという。

 そして、本能は思うがままに蹂躙しろと命じる。

 更に理性は、雷韋を遠くに追いやれと魂の声と本能を抑え込む。


 陸王の中には今、三つの意思が存在しているのだ。

 胸の内はその三つの意思で、ぐずぐずに煮えたぎっていた。


 それでも分かっている事は、今、一番に従うべきなのは理性の声だ。雷韋を傍に近寄せるべきではない。

 だから下腹に力を込めて言った。



「雷韋、特に用がないなら部屋に戻れ」



 けれど、当然のように雷韋は反発する。



「なんでだよ。ふたり部屋に一人でいたって暇なだけだろ。折角陸王が一緒なのにさ、それぞれ別の部屋だなんて、金ももったいねぇよ」

「しょうがねぇだろう。一人部屋は埋まってるってんだ。それに俺は、生憎一人じゃないと落ち着けねぇんでな」



 放り出すように陸王は言い遣った。

 すると雷韋がむすっとして唇を尖らせる。



「今は一緒に旅してんじゃんか。一緒にいたってなんにもおかしな事ないぜ?」

「俺は好きでお前と一緒にいるわけじゃねぇ。お前が勝手についてきただけだろうが」

「何言ってるんだ。俺達は対だろ。あんたが陽、俺が陰。対ってのは普通、いつだって一緒にいるもんだろ? どっちかがつがいの相手を見つけて結婚してるってんなら話は別だけどさぁ」



 それを聞いて、陸王は大仰に溜息をついて見せた。



「いつ俺がお前を対だと認めた」

「だって、傍にいると安心するだろ? 例えばさ……」



 言いながら、雷韋は陸王の胸元に掌を押し当てる。すると、陸王の胸の奥に、じわりとした温かさが灯った。


 だが、陸王はその手を無言で払い除ける。そして雷韋を睨み付けた。



「何してやがる」



 吐き捨てる口振りで言う。その言葉に雷韋はわずかに眉根を寄せたが、きっぱりと言った。



「今みたいにすっと、なんかあったかくならないか? なんてぇのか、胸の中が」

「どうだかな」



 陸王はさも面白くないという口振りで答えたが、その言葉は本心とは真逆の言葉だった。こうして雷韋が目の前にいるだけでも、陸王は安堵を覚えるのだ。雷韋の琥珀の瞳を見るだけでも心が凪ぐようだ。


 けれど今まで陸王は、雷韋に対して「お前は俺の対だ」と口にした事はない。いつだって陸王は対の話になるとはぐらかしてきた。そして、本心とは裏腹な事を言って雷韋の言葉を遮った。


 雷韋が傍にいると安心するくせに、その裏側では凶暴な嗜虐心しぎゃくしんが蠢くからだ。

 それは魔族としての本能が膨らむ証拠だ。


 雷韋を傷付けたくないのに、傷付けたいと心がねじ曲がる。その感覚が、自分でも吐き気を催すほどに嫌いだった。

 だがそれは、陸王が魔族である証左しょうさだ。どうしようもなく、本能が鎌首をもたげる。


 いや、それでもこれまでならそんな感情は殺せた。理性でねじ伏せられた。

 けれど今は駄目だ。

 衝動を発散出来ていない分、本能が理性を上回りそうになる。だから言った。



「兎に角、今はお前と顔を付き合わせるだけでも苛つく。俺の事は暫く放っておけ」



 言うだけ言って、陸王は再び窓の外に目を遣った。


 だが雷韋は何を思ったのか、「嫌だ」と拒絶を示して、二つある寝台の片方へ足を向けるとそこに腰を下ろす。



「俺は出ていかねぇかんな。一人だとつまんねぇもん。なんでもいいから陸王と一緒にいてぇもん」



 それを聞いて、陸王は思わず渋面じゅうめんを作っていた。



「しつけぇな。お前だって俺と出会う以前は一人であちこち旅をしていたんだろうが。一人の時は一人でいた。そうじゃねぇのか」



 重たい溜息と共に言う。



「そ、そりゃそうだけど、今はあんたって言う連れがいるんだもんさ。少しくらい一緒にいたっていいじゃんか」

「駄目だ」



 雷韋の意見をばっさりと切り捨てた。そして続ける。



「俺は一人でいたいんだ。部屋へ戻れ」

「だから嫌だって言ったろ。二人で旅してんだもん、一人の時の事引っ張りだしたって意味ないじゃんか。俺、今夜はここで寝たっていいんだかんな」



 言うと、とさっと寝台の上に座った姿勢のまま倒れ込む。

 その微かな音と気配に、陸王は目を剥いた。そして、横になっている雷韋を睨み付ける。



巫山戯ふざけるな」



 怒鳴り声に近い大声を上げた。組んだままの自分の腕を、爪を立てるようにして陸王は強く握り締める。

 腕を掴む指は、力が入りすぎて白くなっていた。

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