003

この世界には、船というものが浸透していない。精々河を往く為の小舟程度で、大海を渡り大量の人や物資を運べるようなものはほぼ存在しない。いずれ南の大国となるとある領域では開発が進んでいるが、今はまだ、この北の地には関係のない話である。そもそも人が海を往けたとして、一見穏やかに見えるこの北西大海には数多の玄獣が潜んでいる。とても無事には渡れまい。

そんな訳で、沿岸での交戦であれど海側を気にかけるものはいない。目に見える範囲に島も無い以上、魚の襲撃すらあり得ない。ましてや今は陽も落ちている。基本的に夜の間は戦わないのが『お約束』だ。

ザフキは空から夜の海を見て青褪めた。月明かりでも確かに解った。大急ぎで本陣に向かい、舞い降りると同時に全力の大声で叫んだ。

「急いで海から離れろ!!出来るだけ高台へ向かえ!!今すぐにだ!!!」

海から怒りのこえがする。怪我人があれば間に合うまい。こればかりは玄冥たる魚にもどうにも出来ない。立ち向かえば死ぬだけだ。


大海嘯。

その日、海岸線の地図は書き換えが必要になった。


相手が何処の勢力だったかも判らないまま、沿岸部の防衛戦は有耶無耶に終了した。昨日まであった村も、敷かれていた陣営も、全て剥ぎ取られた。地形が変わるほどの局所的な大津波。空を往ける者以外、逃げ切れた者は殆ど居なかった。

以来、海上には巨大な海獣が浮いている。ニタと開いた口は嗤っているようにも見えた。


生死問わず、敵味方も問わず。一日経った今も魚たちによる海上捜索と救助が行われている。

問わずというのは、問えないからだ。生死も所属も、見ただけでは判らない。取り敢えず拾い上げる。後の事は回収してから考えれば良い。しかしあまり沖合へは出られない。嗤う海獣は得体が知れなさすぎる。


更に一日経っても、敵味方入り交じる筈の被災者集団に諍いが起こることはなかった。最低限の道徳心は持ち合わせているようだ。

ザフキが炊き出しに協力していると、声を掛けてくる者がいた。眩しいほどの金の髪に青の瞳。細身で背の高い青年だ。ここらでは珍しいが、少し南へ行けばありふれた特徴だ。

「失礼、お嬢さん。さっき『玄冥』って呼ばれてなかった?」

「私を知らないか?では君の領域に帰ると良い。見たところ元気そうだ」

その返しに青年は目を見開く。てっきり、見逃してやるというセリフに驚いたのかと思いきや。

「まさか『玄冥』が貴女のような女性ひとだとは」

「……なんだおまえ。さっきから、何か妙なニュアンスだな」

ザフキは眉を顰めた。北方で生きてきたザフキにとって、これが、男女を区別する文化圏の人間との初めての交流だった。



その男はラファと名乗った。中央域からの旅人だという。信じたわけではないが、目立って悪さをする様子もない。ザフキが困っているのはやたらと気にかけられる事だ。領域の支配者として気を使われることは間々あれど、どうにも何かが違う。

「私は病傷人じゃないぞ!?」

「え、うん?」

ラファはぱちくりと目を瞬かせるだけだ。

「それより玄冥、あの海に浮かんでるやつ何だと思う?」

そして馴れ馴れしい。

「サッパリ解らん。恐らく大津波を起こしたのはヤツなんだろうが、何を思って浮いているのか」

「そうか。君の戦力じゃないわけだ」

「こっちも甚大な被害を被っているだろうが」

そうだね、と笑うが目は海獣に向いたままだ。

「風の便りにも聞いたことがない。何なんだろうな…」

それは独り言のようだったのでザフキは返事をしなかった。

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