一、東京から来た一家

 村上愛子むらかみあいこは、通っている中学校が嫌いだ。

 ついでに言えば自宅も嫌いだし、町内のあれこれも嫌いだ。

 つまり、およそ『中学生を取り巻く世界』のほぼ全てが嫌いだ。

 だが、一年前に父親の村上智昭ともあきが行方不明になるまでは、真逆のことを思っていた。






 村上一家は、愛子が小学校へ上がる年に、東京から六〇〇キロメートルほど離れた鞆浦ともうら町へ越してきた。

 絵に書いたような田舎の漁師町であるこの町で、東京から来た学者先生とその一家、という村上一家はそれなりの尊敬の念を勝ち得ていた。


 しかし、初めからそうだったわけではない。

 越してすぐの頃は、新参者への通過儀礼としての他所者扱いもあったのだが(愛子はこの田舎独特の排他性も、今は好きではない)、智昭は何にでも興味を持つ男だった。

 一家の家長であり、海洋生物の研究においてもそれなりの知名度を誇るこの男は、控えめに言っても浮世離れしており、ざっくり表現するなら変人であった。


 他所者は近寄るな、と険しい目を向ける漁師達の群れを前に、スーツの上着を妻の依子よりこに預けたかと思えば、ノートとペンを片手に突撃していき、質問攻めにする。

 今、何をしているのか。ここいらではどんな海産物が取れるのか。このあたりの海はどんなつくりをしているのか。金は払うから、獲れた物をちょっと食べさせてもらえないか。何なら、漁に付いて行ってもいいだろうか。


 呆気にとられながらも、素人がふざけるな、と漁師が語気を荒げる。

 すると智昭は、自分は漁師の倅で、家を出るまではずっと手伝いをしていたから、邪魔にはならない、と言い返す。

 それなら、と今度は漁師達に仄暗い笑みが浮かぶ。言うほどのことがあるのか、確かめてやろうじゃないか。揺れで吐くような軟弱者なら、町にいるあいだずっと、笑い物にしてやろう。そんなつもりで。


 しかし、後の町民の村上一家への接し方を鑑みるに言うまでもないのだが、漁師達の目論見は見事に失敗した。


 智昭は船上にあっても船酔いする気配すら見えず、あれこれとうるさく漁師達に質問の嵐を投げかけ、辟易させた。

 そしてレーダーが魚群を探知し、そろそろ仕事の時間だから黙れ、と漁師が声をかけようとすると、そこには既に、ノートを腰に挿し、ペンを胸ポケットにしまい、ベルトをきつく締め直し、腕捲りまでした臨戦態勢の智昭がいた。

 漁の仕方は、地域や、どうかすれば家毎に異なる。

 智昭はそんな漁のあいだ、けして出しゃばらず、しかし漁師達の動きをよく観察し、必要なときに必要なだけ手伝いをした。


 結果として智昭は漁を行うあいだ、初めて乗った船だというのに、それなりの戦力としての働きを見せた。

 その日の漁が終わり、智昭は物笑いの種になるどころか、けったいな学者先生が来たもんだ、と感心と困惑の入り混じった噂の種になった。同時に、流石に一度やらせればもう来ないだろう、とも思われていた。




 しかし、智昭は翌日も来た。翌々日も、そのあともしばらく来た。

 ただ突撃を繰り返すだけなら流石に出入り禁止を喰らいそうなものだが、智昭は来る度に酒だのなんだのと手土産を持ってくる。人好きのする笑顔を浮かべて、だ。

 そのせいで漁師達も断りづらく、まぁ邪魔にもならないし、いいか、と船に乗せてしまう。


 中には他所者を乗船させることに反感を持つ者もいたが、智昭はそういった者にこそ纏わり付いて、相手が音を上げるまで質問攻めにするのだ。

 鬱陶しくなって「ええ加減にしろ!」とでも言えば、既にほだされた(酒で買収されたとも言う)別の漁師が「ちっとくらい乗せてやってもええじゃろ」と援護射撃を見舞うのだ。たまったものではない。

 そうして智昭はなし崩し的に漁を手伝いながら、ここいら海水の成分がどうだとか、プランクトンはどうだとか、勝手に調査し、勝手に満足して帰って行く。


 そのような奇行を働く智昭であるから、当然のように船上で賄いを、いわゆる『漁師飯』というヤツを食べている。

 漁師達とて、不味い飯を食いたいわけがない。漁師飯は船の上でもそれなりに美味しい食事を、と考案されたものが多い。

 だが、中には少々癖のある物が紛れているのも事実。それを、あるとき試しとばかりに智昭へ出してみたのだ。


 さて、この東京モンがモヤシでないことはわかったが、これはどうだろうか。

 これまた、村上一家の扱いからすれば予想できることだが、智昭はその癖の強い漁師飯をガツガツと頬張り「うまい! うまい!」と何度も繰り返し、何度もお代わりをした。


 智昭は中肉中背である。袖を捲った腕も、特別鍛えられているようには見えない。

 モヤシではないにせよ、どこにそれだけの食事が収まるのかと、漁師達は目を丸くした。

 次いで正気に戻ると、「いやいや先生、儂等の食う分が無くなるわ」と智昭を諌める始末だ。


 智昭は研究者としての本業に精を出しながらも、時折漁船に乗っては漁の手伝いをした。

 漁師の一人が、「先生、お仕事はええんですかい?」と問えば、智昭は「洋上に出ることにより脳の特定部位が活性化し研究に対する別角度のアプローチや全く違う発想が……」とうんちくを述べだす。

 すると別の一人が、「どうせ先生は賄いが食いたいだけだあな」とからかう。

 智昭が頬を掻きながら「バレたか」と言い、皆が笑うまでがお決まりの流れになっていた。ソウルフードが受け入れられると、案外コロッと好意を抱いてしまうことはあるのだ。


 漁師達は結局、智昭のバイタリティと人懐っこさに負け、他所者扱いを続けることが難しくなっていた。

 いつしか智昭は「先生」だの「トモさん」だのと呼ばれ、親しまれるようになる。


 漁師町で漁師を味方に付けたのなら、怖いものはそうそうない。何せ町民のほとんどが漁業関係者だ。何に怯える必要があるというのか。

 そうして智昭がある程度の居場所を確保してしまえば、残りの村上一家についても、先生んとこの奥さん、お嬢さん、として邪険にはできない。


 とはいえこの結果も、あるいは智昭なりの、家族に居心地の悪い思いをさせないための計算であったのか、単に自分の好奇心を満たしたかっただけなのか。

 妻の依子と娘の愛子は、両方だろうと睨んでいた。

 ただ、智昭の家の女の二人共が、やたらふらふらとした大黒柱のそういった気質を、とても好ましく思っていることは確かだった。






 漁師達の心を掴んだ智昭ではあるが、裏表の無い全くの善人、というわけでもない。少なくとも智昭はそう自己分析している。

 智昭は、もう一歩漁師達に対し踏み込むことにした。曰く、自分の研究を手伝ってくれないか、と。


 言ってみれば、世渡り下手なせいで島流しにあったのが智昭という研究者だ。

 当然、研究予算も何かと絞られるし、所属する研究所に新任が配属されようが、智昭の下に増員が来ることは無い。

 智昭自身は研究が捗る、と喜んで移住してきた。しかし学閥の年老いた上層部の考えとしては、智昭を孤軍奮闘させ、たっぷりと徒労感を味わわせた挙句、乏しい成果を理由に研究所からも追い出してしまおう、というものだった。


 とはいえ、いくら智昭が変人でもその程度のことは理解できる。

 勿論、単独で研究成果を上げられれば好ましいが、実験場を整備し、まめに記録を取り、内容の変更の度に海に入りまた実験場を整備し……。

 などとやっていては、どうしたって人手も時間も足りない。

 そこで、漁師達の手を借りられないかと考えたのだ。




 まず、作戦の第一段階として、一人で実験場を整える様子を漁師達に見せる。

 素人の行うDIYの出来は、それはそれは無惨なものだった。しかし、だからこそ意味があると思った。


 漁師に認められる程度には船で動ける男が、浅瀬で悪戦苦闘し、汗を流している。何をしているのかは遠目にはわからないが、うまく行っていないことは察せられる。

 だというのに、智昭は漁師に気がつくと、いつもの笑顔で声をかけながら手を降ってる。

 漁師達は「がんばれよ」と声をかけていくことが日課になっていったが、どうにも居心地の悪さも感じつつあった。




 次に第二段階として、大漁であった日や祭りの日などの酒の席には必ず顔を出し、潰れるまで飲んだ。

 そしてそれまでに話をし、少しずつ誘導していくのだ。


 いやぁ今日は大漁だった。素晴らしい。海神樣にも……あ、このあたりでは蛇神水神、というか龍神樣と同一視されてるんでしたっけね? まぁとにかく、神様にも感謝しなきゃいけませんね。祭りも派手に行きましょう。

 いつもこれくらい獲れるといいんですけどね。獲りすぎると魚が居なくなってしまうって、そりゃまぁ道理ですけども。私は業の深い人間ですから、いつもいつも大漁で、皆さんが機嫌よく笑ってるほうが嬉しいんです。お魚さんには悪いんですが。

 なんというかこう、世界中の水産資源が満ち満ちてくれればいいんですけどね。そうすりゃ毎日大漁だ。いや、世界とは言わずとも、せめて日本近海だけでも。……若手が育たなくなるって? そりゃ嬉しい悲鳴……ともちょっと違うか。あはは。

 私の研究もねぇ、実を言うと漁獲量向上のためにやってるんですよ。私、お魚好きですから。毎日好きなお魚をお腹いっぱい食べたいんです。でも今はいろんなところから、獲りすぎだのなんだの言われてるでしょ。悔しいじゃないですか。私の親父もそうですけど、生きていくために漁をしてるってのに、外野が横から文句垂れちゃってさ。だから研究、始めたんです。うまくいけば、赤潮や青潮みたいなプランクトンが原因の漁業被害は減ると思いますし。ある程度は仕方ないにせよ、漁獲量は安定して、全体的には増加するはずなんです。そのはず。ええ。

 でもねぇ、今のお偉方は私みたいな現場組はあんまり好きじゃないんですよ。こう、理論を突き詰めていって、どっかの大学との共同研究でパーッと成果を上げたいんですよ。まぁ、現場の地道な努力無しにそんなことは不可能なんですけども。笑っちゃいますね。

 とはいえね、負けませんよ、私は。目指せ! お魚天国! ってなもんで。ええ。えへへ。あぁ飲みすぎた。ちょっと横になります。


 こんな決意表明とも愚痴とも取れる酔っ払いの戯言を、酒の席がある度、少しずつ、少しずつ掘り下げて、時と共に深い事情まで話した。するとそのうち、鞆浦の漁師なら誰しも一度は耳にしたことがある、という段まで聞かせて回ることに成功した。




 漁師達からしても、こんな田舎に流されてくるのだから、この特異なキャラクターが偉い学者先生達の肌には合わなかったのだろう、と理解できる(ちなみにではあるが、海洋に関わる研究において現場、ないしは専用施設での実験を軽視する学者など、智昭は実際には知らない)。

 ただ、その研究内容や動機については、少々意外だった。


 ふらふらと好きに生きている自由人かと思えば、なんだ存外熱い男じゃないか。

 『学』の分野で上に睨まれたって、漁師という一次産業者の役に立ちたくって、身を粉にして働いている。

 この先生と俺達で、何が違う? 違わねえ。先生は俺達の仲間だ。仲間が気張ってんなら、助けてやるのが海の男だ。

  

 人間、誰かに言われて動くよりは、自発的に行動したほうが、モチベーションを高く維持できるものだ。

 だから智昭は、先生に協力してやってもいい、という空気感を作りたかった。だがそこであえて頃合いを見て、自分から協力を頼み込んだ。公私に渡って付き合っていく人間達と、協力者と被協力者という、貸し借りの関係を作りたくなかったのだ。

 智昭は、出来るだけ組合に人が居る時間を見計らって訪れ、皆の前で、手隙のときだけでいいから協力してほしい、と正式な依頼状と共に自分から頭を下げた。深々と。


 漁師の一人が、これもあえて厳しいことを言った。


「先生に協力してやりてえのはやまやまだけどよ、俺達だって暇じゃねえことはわかってるよな? そんな俺達に手伝わせて、それに見合う成果があんのかい? 先生の言うとおり、毎日大漁になるのかい?」


 追及した漁師にしても、智昭はもう鞆浦の仲間だと思ってはいる。しかし、如何せん付き合いが短い。だからこそ、己の根幹に関わる話であれば、人間としてのが見えるのではないかと思い口にしたのだ。

 ついでに言えば、一研究者の成果によって全ての漁師が救われる、と本気で信じているほどお花畑でもない。それ故、理想を説く研究者である智昭が何と答えるのか、聞きたかった。


「多分、なりますが、なりません。すみません、頓智とんちじゃないんです。

 最終的には毎日大漁の未来が来ると思って研究を続けてます。でも、それがいつになるかは断言も保証も一切できません。もしかしたら、子か、孫か、酷ければもっと先の話かも。

 そのあいだに地球環境はどんどん変化するでしょうし、もしかしたら私の研究より画期的な成果がどこかの誰かから齎されるかもしれない。皆さんに手伝っていただいても、全くの無意味に終わるかもしれない。

 そのうえ、ご存知のとおり私は無い無い尽くしで研究をしていますから、成果を上げること自体が難しいです。なんなら、途中でどこか別の場所に飛ばされることもありえます。

 協力をお願いしておいて情けない話ですが、それが偽らざる真実です。私は、皆さんに『骨折り損のくたびれ儲けを織り込み済みのうえで手伝ってほしい』とそう申し上げています」


 熱が入りすぎて、若干、智昭による独演会の様相を呈した回答であったが、聞いた漁師は噴き出してしまった。そして笑った勢いのまま、照れ隠しにからかう。


「先生、そんな馬鹿正直じゃ、立派な詐欺師にゃなれんぞ」


「それは困りました。『学者とは、基本的に詐欺師と紙一重だ』と恩師に教わりましたので。話術も磨かなければならないようですね」


 今度こそ、居合わせた漁師達は皆、絶えられなかった。

 変人で、意外に熱い男で、馬鹿正直で、なんだ冗談もイケる口か。


「先生、あんたいい男だな。いいよ。いつもいつもとは約束できんけど、俺等の手も貸しちゃるで、みんなで『お魚天国』目指そうや」


 軽口を叩きながら協力を承諾した漁師意外にも、皆がやんややんやと囃し立てる。

 智昭は、罪悪感と充足感という相反する感情で、胸がいっぱいになった。

 望む形にはなった。しかし、そのためにいくらかの小細工を弄したのも事実だ。自分は、こんなにも気持ちのいい彼等に対して、あまりに不誠実ではないだろうか。


 智昭の内心が二律背反で乱れに乱れ、それが顔にまで出たとき、漁師の一人が言う。


「せえと先生。アンタ、もちっと演技の勉強もしたほうがええぞ。言いたいことやりたいことは理解できたけども、あんな大根で騙されるヤツはおらんで。

 それに真面目すぎじゃ。肩の力抜いてかんと、身が持たんわ。研究、孫の代でも足りるかわからんのじゃろ?」


 智昭の葛藤は全て杞憂であった。漁師達は全て理解したうえで、智昭の話に乗ったのだ。何故か本人には自信があったようで、微妙な顔をしているが。

 漁師達は呆れるやら苦笑するやら。突発的ではあっても、ある種、決起会の側面も持っていたはずの場に漂う空気は、なんとも言えないものであった。


 

 



 村上家の父親である智昭が名実ともに漁師達の仲間になったことは、少なからずその家族を取り巻く環境にも影響を及ぼしていた。親の態度は子供にも影響する。

 田舎の小学校では、入学前からそれなりに人間関係が構築されているものだが、各々親から言い含められていたのか、愛子が不快な思いをすることはなかった。

 越してきてほどなく漁師達と打ち解けた智昭の子である愛子は、学校でも「お前の父ちゃん偉い学者先生なんだってな!」と注目の的だったのだ。


 愛子自信も、元々絵本やテレビで見る海が好きだったことや、父の智昭を自慢に思っていたこともあり、その父を褒めてくれる級友をすぐに好きになった。

 好意的に接してくる者に対し、悪意を持つことは難しい。

 子供なりの打算であろうが本心からの好意であろうが、それらは互いに良い関係を築く要因となり、気づけば愛子はすっかり子供達の輪に馴染んでいた。


 また、愛子が東京生まれだということで、その手の質問は付きものである。

 しかし、物心ついてすぐに東京を離れた愛子にとって、東京の住宅街が故郷である、という意識は薄い。

 だから、東京の話をせがまれても、何を話せばいいのかわからない。せいぜい、人と車と信号がやたら多くて歩きにくい、ということくらいだ。

 そのようなとき愛子は、依子の教えを思い出す。「急に話題を変えちゃっても構わないから、こっちで素敵だと思ったことを答えなさい」というものだ。

 そのため、『東京話』に口が重くなったとしても「でも、はじめて見たうみはとってもキレイだったよ」と答えられた。


 興味半分、冷やかし半分で東京話をせがんだ生徒も、「なんだよ」と拍子抜けした様子で話題を打ち切る。

 若干話が通じていないとなればその話題で話し続けるのは面倒であるし、子供ながらに、故郷を褒められて悪い気はしなかったのだ。

 依子のファインプレーであった。


 


 その依子は依子で、夫や娘が苦労しないようにと、陰ながらの努力をしていた。

 自分一人であればどう思われようとも陰口を叩かれようとも柳の枝のように流せてしまう依子であったが、自分のせいで家族が悪く言われるのは我慢がならなかった。

 

 そこで依子は、漁師の妻達の集りに手土産を持って出かけては、魚の捌き方を習うことにした。

 自分は魚を使った料理が得意ではない。しかし折角新鮮な魚が手に入る土地に来たのだから、家族に美味しい魚料理を食べさせてやりたい。ついては、指導をお願いできないだろうか、と。

 

 男には男の世界があるように、女には女の世界がある。

 智昭は漁師達の心を解したかもしれないが、その妻達にも認められなければ、何かあったときに「これだから東京モンは」と言われかねない。依子は、その手の面倒事を避けたかった。

 

 実のところ、依子の料理の腕は相当なもので、別段、魚料理だって苦手とはしていない。要するに方便である。

 だが、効果はあった。

 東京から来た、というそれだけで一つのステータスを持つ女が、自分達に対し腰を低くして教えを請うている。

 その事実は、女達の自尊心を上手にくすぐった。


 それに、元から苦手でもなんでもない作業であるのだから、教えられれば、数回で言われたとおりにやってみせられる。それは女達の目には『筋がいい』と映った。

 一度で成功させないのは、単に依子がだというだけの話だ。

 そうして、依子もまた「奥さん」だの「ヨリちゃん」だのと呼ばれるようになり、夫同様、輪の中に解け込むことができた。

 

 依子の側に苦労ばかりで得が無かったかと言えば、そうでもない。

 魚料理を苦手としてはおらずとも、そのレパートリーは一般的な主婦の域を出ない。

 そこに行くと漁師町の女達は、魚料理をよく知っていた。依子はそれらを学び、家庭で振る舞い、夫や娘の舌を喜ばせた。愛子に至っては魚料理を通じて、魚やその他海の生物、女達を始めとした町の者との付き合い方など、諸々の教育にも役立たせられた。

 無論ここに、智昭の趣味と研究で培った海に纏わる話が大量に挟まれていたことは、言うまでもないのが。

  

 村上一家は、いつも明るく、愛子は平穏な日常を謳歌していた。

 



 


 愛子が中学一年の夏、智昭が行方不明になるまでは。

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