二、全てが変わった日
愛子が中学一年の七月三十一日。大型台風によりガタガタと耳障りに鳴る雨戸に辟易しながら、愛子が居間のテーブルで夏休みの宿題をこなしているときのことだった。
突然、智昭が雨具を着込み、いくらかの道具を手にして、実験場を見に行くと言い出した。
まさか自分の父親が小ネタにまでなっている『ちょっと田んぼ見てくる』を地で行くとは思いもしなかった愛子は、その行動を初め、冗談か何かの類だと思った。
しかし智昭は現実として、何かに取り憑かれたように、愛子同様混乱した依子の静止を振り切り、家を出た。
愛子は、車庫のバンのエンジンが唸りを上げたあたりになってやっと、肉親がそんな馬鹿な真似を本当にしたのだと、やっと理解した。
はっきり言って、信じられなかった。たしかに智昭は、多少抜けた、というか変わったところがある。だが、一般常識はきちんと備えていたはずだ。
愛子はお転婆と言うかやんちゃな子供であったため、智昭から何度か説教を受けたことがある。その際、感情的にならずに理屈で諭す話し方は、その内容も相まって、叱られている愛子からしても道理に適ったものだと思っていた。
普段だって、多少だらしのなさを見せはしても、時折わざと空気を読まないことはあっても、町民に慕われる、自慢の父だったのだ。
テレビで見る軽犯罪者特集に出てくるような『理屈の通じない人種』では、けして、断じて、なかったはずだと。
それがどうだろうか。町内放送で外出を控えるようにと放送が流れるこの暴風雨の中を飛び出していく父。当然失望もしたが、それより純粋な驚きが勝って、愛子はテーブルから動くことができなくなっていた。
一方、夫を止められなかった依子は、智昭の持つ携帯電話に何度も何度も電話をかけた。
最近は物騒なニュースを聞くから、と家族全員が携帯を持ち歩くようにしたのだ。愛子のは年齢を考慮してプリペイド式、智昭と依子のは新型だという二つ折りの物だ。アンテナは、開いた状態での中程から伸ばすように作られている。
しかし、出ない。何度かけても出ない。
家を出るときの様子からして尋常ではなかった、と嫌な予感がした依子は、普段から世話になっている漁業組合へ慌てて連絡した。そして、智昭の設置した実験場の近くに住む誰かに、智昭を助けてほしいと依頼した。
自分の夫のために他人を危険に曝す愚を犯している自覚はあったが、依子も愛子同様、夫の非常識な行動に驚愕しており、冷静ではなかった。
幸い、電話を受けた組合の女性事務員は、「先生のためなら」と快諾してくれた。依子の、普段の付き合いと気遣いの賜物だろう。
そして依子が礼を繰り返しているあいだにも、別回線で電話連絡を終えたのか、榊という体格の良い漁師が智昭の身の安全を確かめ、そのまま榊の自宅へ避難させる、と約束してくれた。
些か以上に取り乱していた依子を、事務員は笑い飛ばして宥める。
きっと何事も無い。先生も海の素人ではないし、何かあっても榊が引きずってでも止めるだろう。心配はいらない。それより、こんな日に組合に詰めていなきゃならない貧乏籤なのだから、少し自分の話し相手になってくれないか。
依子も愛子も、組合の素早い対応や心遣いに冷静さを取り戻し、次いで安堵して、しばらく置いてからは怒りの感情が沸々と込み上げてくるのを自覚した。
一体、夫は、父は、何を考えているのか。何事も無ければ良いが。榊さんと組合には、一家揃ってお詫びにいかなければ。いや、噂はすぐに広がるはずだ。組合員全員に対しまとめて、とは難しいだろうから、集りに何度か顔をだして、頭を下げなければ。田舎では義理を欠く者への風当たりは都会の比ではない。
それがすんだら、あの唐変木をとっちめなければ。何を考えて馬鹿な真似をしたのか。自分達がどれだけ心配したと思っているのか。組合の方々に迷惑までかけて。
言いたいことは山程ある。一晩みっちり絞ることは既に決定事項であるが、それで許してやるつもりはない。向こうひと月は自分達のご機嫌取りに終始させよう。
依子と愛子は、怒りながらもそんな計画を立てていた。
それがどれだけ幸せな未来の想像であったかは、翌朝、警察からの連絡が届くまでわかりもしなかった。
「お宅のご主人の物と思われる私物が遺棄されており、付近にそれらしい方はおられないようなのです。お手数ですが、確認のためにご足労願えませんでしょうか」
愛子は、依子が応対し、受話器から漏れ聞こえただけのこの電話のことを、一年経った今でも、鮮明に覚えている。内容も声色も。全て。
一晩中やきもきさせられて、智昭以外にも、榊や組合にまで八つ当たり気味の怒りを覚えていたときだ。
何故連絡してこないのか。どうせ榊とやらの家で酒盛りでもしていて、そのまま眠ってしまったのだろう。こっちはずっと心配していると言うのに。
組合も組合だ。台風が去ったあと、比較的早い時間に海や船の様子を見に来た組合員はいるはずなのだ。そこから連絡があってもいいし、
そんなことを考えていた。愛子はまだしも、依子まで似た思いでいたのは、やはり突発的な非日常に対し、どこか現実味が無かったせいだろう。
いずれにせよ根底にあるのは、「自分の家族が、重大事に見舞われることはないだろう」という思いだ。そんな話はテレビか小説の中にだけ存在すると思っていた。
愛子の通う中学校には親がシングルの生徒も居るが、それは離婚が理由であり、『家族が突如行方不明になった』なんてドラマチックな理由ではない。
だからだろうか。警察からの連絡を耳にして、一時、一切の思考が停止してしまったのは。
その思考停止のせいで、忌々しい電話が呪言の如く忘れられなくなったというのなら、当時の呑気な自分を張り倒してやりたい、と愛子は本気で思っている。
忘れたい電話のことは良く覚えている癖に、愛子に残るそこから数日の記憶は曖昧だ。
依子がパトカーで連れられ、何度か警察の調査に協力させられたこと。婦警さんに付き添われて、自分も簡単な調書を取られたこと。
火事場泥棒ではないが、何かあってはいけないと、村上家に漁師が交代で詰め、何かにと世話を焼いてくれたこと。
始めは海難事故として処理されそうだったところを、依子や組合の働きで、失踪事件扱いになったこと。そのため、気の早い葬儀屋を、漁師達があわや殺してしまうのではないか、という剣幕で追い払ったこと。
これらは霞がかった記憶と、あとから依子他数人に聞いて『そうだったらしい』、とどこか他人事のように補完したものだ。
愛子にとって重要なことは一つ。お父さんはきっと生きている、というそれだけだ。
お父さんがどこかにいるなら、あたしが探してあげなきゃいけない。
ぽっかりと空いた穴を埋めるように、愛子の胸の中心に、巨大な使命感の塊が深くはまった。
実際、警察の処理が海難事故から失踪事件とされたことだって、何も素人の外野がうるさく嘴を挟んだだけが原因ではない。
智昭と榊の私物は、雨具から下着まで、本人の肉体以外の何もかも全てが現場に残されており、ただの海難事故にしても奇妙であること。
また、波止場近くの智昭の実験場には、作業を行った痕跡が無く(台風一過であり、海岸や海中に痕跡が残っていることのほうが珍しいが)、事件当時の二人の行動が不自然であること。
それら諸々の事情により、何らかの事件に巻き込まれた可能性は否定できない、として、現状では失踪事件扱い、とするしかなかったのである。
ただ、それら現実的な話をあえて脇に置いたうえで言うのなら、愛子の抱いたそれは、悲しいほどに現実逃避以外の何物でもなかった。
そして、依子を始めとした周囲の人間からすれば痛々しいことに、その真実に触れることは、愛子の心を守るため、絶対に憚られる事項となってしまった。
大切な人が、突如として居なくなった。日常だと思っていたものが、突然崩れ去った。
大人でさえ気持ちの整理を付けるのは難しい。人によっては、悔恨や悲哀を抱えたまま、寿命を迎えることもあるだろう。
そのような酷な話を、中学に上がって半年も経っていない少女に、誰が言えると言うのか。
いや、芯から本人のことを考えるのなら、誰かが言うべきであったかもしれない。
だが、公式見解として行方不明とされた以上、「お前の父親は死んだ。もう帰って来ない」などと口にできる者は、一人たりとて居はしなかった。例え状況がどれだけ絶望的であろうとも、だ。
そうして、村上愛子は父親を探し続けることになった。
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