夏と龍
佐伯 裕一
序
酷い天気だ。天気予報は嘘をつかなかったらしい。横殴りの暴風雨を雨具越しに受けながら、村上は思う。傍らにいる榊も、しきりに帰宅を促している。
町内には役場からの放送で、台風が過ぎ去るまで外出を控えるよう、呼びかけがとうにされている。
しかし、地上ですらここまで酷いのだ。村上の研究しているのは、浅瀬に住まう海洋生物だ。強い海流や巻き上がった土砂によって死に絶えはしないかと、思わず心配で波止場までに見に来てしまった。
村上は、東京にある研究所から出向の辞令を受け、一時地方大学に間借りする形で、研究を行っている。
中央から地方へ異動になったのは、学閥での立ち回りの不器用さと、本人の持つ極めて強い探究心故である。
特定の生物や、それらが引き起こす事象について研究したいとき、いちいち東京と現地を往復していては手間がかかりすぎる。
村上の研究対象が、出向先にしかほとんど生息していない希少種ともなれば、余計にだ。
また、自分が居ないあいだに決定的瞬間を見逃してしまうかもしれない。そんなことは、「研究馬鹿」とも揶揄される村上には我慢ならない。
村上は派閥の領袖とも言える老人から異動を打診されたとき、一も二も無く話に飛びついた。
……そういった態度が「可愛気が無い」と諸先輩方を苛立たせているのだが。村上はそのあたりをあえて気にしていない。
しかし現在、村上が正しく己の実験意欲に従い、暴風雨の中、危険を冒して来たのかと言えば、確実にそうだとは言えなかった。
村上本人はそのつもりでいる。実験が成功すれば、海洋汚染への有効な対抗策になり得る。その第一歩であるこの実験場は、極力小さな被害で台風をやり過ごして欲しい、との願いは本心だ。
だが、気のせいでなければ、自らの胸中に雑音を感じるのだ。
まるで、実験場を思う気持ちの他にも、何か理由があるような……。もっと言えば、その何かは誰かに植え付けられたような……。
何を馬鹿なと、村上は自らの頬を両手で叩く。
きっと、大型台風という自然現象への恐怖と、これまでの実験が徒労に終わるのではないかという不安から、一時的に心理状態が正常ではないだけだ。
そもそもまともな人間は、役場から放送が行われている最中に、外出などしない。であれば、自分の思考が現在まともな状態にないことなど、言うまでもない。
意味不明な違和感も、それが原因だろう、と村上は自問自答を切り上げた。
今は少しでも実験場の被害が小さくなるよう、手を打たなければ。
どこまで意味があるかはわからないが、やってみるしかない。
荒れる海を前に、人の力などちっぽけなものだ。仮に対応策があったとしても一部区画のみ。それも、効果があるかはかなり怪しい。
己の行いがほぼ無意味であると理解しているはずなのに、村上の脳裏には『安全を優先しすぐに帰宅する』という思考が何故か存在しなかった。
「トモさん! あれ!」
村上を心配して付いてきた榊が、指を指しながら叫ぶ。風がうるさく、声を張らなければ届かないのだ。
村上の研究への協力者であり、地元漁師でもある彼は、大時化の中でも目的のブツを見つけられるだけの目を持つ。
村上が榊の指し示すほうへ駆け寄ると、奇妙な“モノ”が狭くなった砂浜に打ち上がっている。
おそらく生物だと思われるが、人工物のようにも見えなくはない。……動いた。多分、生き物だ。だが何の?
ウミウシの仲間だろうか? ナマコなどの棘皮動物の可能性もある。それともクラゲの変種であろうか?
この手の生物を研究している村上をして、一見しただけではそれがなんなのか判別できなかった。
「トモさん、妙チキなん見つけて嬉しいんはわかるけど、今日はアカンよ。帰ろう。
そいつを見つけられただけでも御の字じゃ。儂等までわやになるわ」
榊は村上の身を案じてこの場にいるだけなのだ。実験場という村上の“縄張り”が荒れてしまうのは心苦しいが、とにかく今は、この危険な屋外から退避させたかった。
そのため、村上が興味を引きそうな物でこの場は“手打ち”にし、引き上げる口実にしようと考えたのだ。
恩もあり、ふわふわと地に足の付かないこの研究者が避難する気になってくれれば、とそれだけを考えていた。
しかし、村上はその一匹だけでは満足できないのか、それともいつもの思考癖が出たのか、立ち止まってぶつぶつと独り言を口にしながら自分の世界に没頭している。
どことなく瞳孔が開いているようにも見え、村上を不気味に思ったが、今は非常時である。
いい加減にしろ、と榊が村上の尻でも引っ叩こうとしたとき、海上の空が、目に痛いほどの光を放つ。
---- 天使の梯子。
そう呼ばれる気象現象がある。分厚い雲の切れ間から日光が差すことで、天上の主が地上の人間に手を差し伸べたかのような、光の筋が幾つも立つ薄明光線である。
榊も村上も、天使の梯子を見たことはある。何度もだ。
だが、どうにもおかしい。天使の梯子にしては光が強すぎる。眩しさのあまりに目を焼くのではないかと思うほどだ。
これではまるで昼間の太陽を直視したような……。そう、それに、今はとうに日没後で……。
二人は光を目にしたときから、頭に霞がかかったように、思考がまとまらなくなっていた。
ただ、どうしてだか、あの光から目を背けてはいけない、この場から動いてはいけない気がするのだ。
それを行うのは、どうにも不敬であるかのようで……。
不敬? 誰に?
そこまで考えたとき、光が太く、いや広くなる。一帯を飲み込まんばかりに広く、広く。
二人は光に飲まれた。あとに残されたのは、雨具や携帯電話を始めとした所持品の全て。それのみ。
神隠しにでも遭ったかのように、研究者の村上と漁師の榊、二人の男の姿は、どこにも無くなっていた。
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