第4話

 それからは何も起こらず、私は興ざめしていた。私の処分は保留するという決定が下ったのだろう。私の行動は政府に公には報告されていない確信があった。私の越境行為を報告してしまえば何が起こるかわからない。しかし、放置してもこの劇場のだれもに知れ渡っている以上、余計に事態を悪化させるだけだろう。ヘリクもかわいそうな人だ。じきに私は普段の業務に戻された。といってもすることは何もない。私が通りがかると作業服たちはうやうやしく目を伏せて話すのをやめた。どのような噂になってるのかわからないが、カーラ家での記憶を思い出させた。劇場の雰囲気は思いのほか落ち着いていた。それどころか、以前よりも確実に鈍い空気が流れていた。私がなんの処分を受けなかったせいだろうか、どこか責任を逃れ、問題を先送りするような意識が目立っていた。エチュードは行っていない。劇場は演劇が、何かが起こってしまうことを恐れているのだろうか。

 またしばらくして私はヘリクに呼び出された。ヘリクの横に知らない女が座っている。

「私が何者かおわかりですよね」

女は落ち着いた口調で言った。ヘリクは微動だにしない。

「ご心配なさらず。今はあなたがたの捕虜ですから」

ヘリクは何かの書面に目を通していた。

「さて、私たちの状況はおわかりですよね。よくある話です。年を取りすぎてお互いにどうしたらいいのか、もはやわからなくなっている」

「話す相手を間違えているのではありませんか」

ヘリクが口を開く。

「いいえ。私たちはあなたたちに会いに来たのです」

女は微笑み、上品な流し目で私を見やる。

「単刀直入に言いましょう。アルナセとキプナは戦争状態にある」

戦争、という言葉が強い響きをもって私の耳に張り付いた。

「申し訳ありませんが、私は一劇場の支配人にすぎません。政府の見解や政策をお答えする立場にないかと存じます」

ヘリクが髭を撫でた。女は笑みを絶やさない。

「戦争状態と戦闘行為の間に隔たりがあるのはわかっています。私たちはその隔たりを見ないようにしてきた。違いますか」

ヘリクは読み終えた文書を再び折りたたんで机に置いた。

「先日、一隻の船がアルナセ沿岸を遊弋しているのを軍が発見しました。そしてその船はキプナの軍属だった。ここの船ですよね」

「劇場は軍ではありません」

私は声を振り絞った。

「なるほど、まずは越境行為はお認め下さると。結構」

と女は体の前で指を合わせた。ヘリクはゆっくりと瞬きをした。

「そしてこの戦争状況下にあっては、それが挑発行為という性格を帯びてしまうことはご理解頂けますよね。それにあなた方の基地は盛んに建築やら装備やら準備をされているようです」

「しかし」

ヘリクが口を開ける。

「無論、私たちも、いかに重大な行為といっても、あくまで軽はずみな事故に過ぎないという可能性を配慮する余地を設けることは吝かではありません」

女がゆっくりと目を閉じた。

「アルナセの政府は事実上の平和が互いに尊重されてきた以上、暗黙の停戦が結ばれたも同然だと考えています。しかしキプナが行動を起こした以上、私たちも法的にそうであったように現実的にも絶対に手出ししないという態度をとり続けることは保証できないと言わざるを得ません」

「そんなつもりは」

自分でも驚くほど小さな声が出た。

「どんなつもりですか」

女が私を見つめる。

「つまり、あの侵犯がなんの意図も持たなかったことを示せということでしょうか。挑発や敵対的な意図は一切なかったと」

とヘリクは言った。

「私たちとしましても、先人が築き上げた三百年の平和がこのような形で無に帰してしまうことは当然、望むところではありません。同時に、キプナに対しても償いやけじめを要求するものではありません」

女が髪をかき上げる。

「これには賛同して下さいますよね」

ヘリクは短くええ、とつぶやいた。

「返答猶予はその文書に書かれている通りです。それから、私の権限も書かれている通りです。ほかに何かおっしゃりたいことは」

女が私たちを交互に見る。女がするりと立ち上がる。

「では双方の未来にとってより良い回答を期待していますよ」

「待ってください。回答は、返事はどこにすればいいんですか」

私が叫ぶ。

「あなたはまだご自身の立場をご理解されていないようですね。如何に特殊な、三百年間類を見なかった事態とはいえ、すでに始まっているのですよ」

女は立ち去り、私たちは取り残された。ヘリクは何も言わず窓の外を見ている。私もそのまま動けないでいた。

「ハズキュリ・ガイノン卿から事情を聞きたいとの連絡が入った。お前には首都に行ってもらう」

ヘリクはこちらを見ずに伝えた。

「元老院がですか。報告されていたのですか」

「公的な連絡はあくまでポーズにすぎんよ。惰性と形式で雁字搦めの、仕事をしたと示すことだけが目的の、単なる現実の虚像だ。何も伝えてなどいない」

「ではなぜ」

「この劇場はすでに動き出したということだ。本来の姿で」

私はすぐに準備しますと言って部屋を出た。それ以外にできることはなかった。

 少しして、私は列車で首都に向かった。公的な監視はないらしかったが、時々視線を感じることがあった。首都に向かうにつれて乗客が増え、久しぶりに人ごみというものを体験した。窓の外が荒野から石畳に変わり、今まででひと際大きい駅で私は列車を乗り換えた。また列車に揺られ、四つ先の駅で降りた。首都の中央から少し外れたそこは、人通りは少なく民家ばかりで商店はほとんどなかった。人の話し声もない。黒い家の上に白い鳥がとまっている。あの町で同じ鳥を見たことがある気がした。私は指定された場所にたどり着いた。しかし、はじめ私はそこだと気が付かなかった。よく整備された芝を囲むように何本かの気が立っている。初め私は公園だと思い、道を間違えたのかと思った。芝の上に白い机とベンチが置いてある。そしてその公園と直結して白い建物が建っている。私は町の集会所よりも大きなそれを民家だと認識できていなかった。公園の入り口の蔦で覆われた門の前に立っていた黒い服の男が話しかけてきて、ようやくそこが元老院のハズキュリ・ガイノンの家だと知った。

 男に案内され、家の中に入る。長い廊下は迷路に迷い込んだ錯覚を起こさせた。広い家だが掃除が行き届いており、曲がり角には色とりどりの花が飾られていた。乾燥してしなびていたが、色彩までは失われておらず、恐らくわざと乾燥させて楽しむものなのだろう。黒い服の男が大きな扉の前で立ち止まる。扉を叩こうとすると、その前に中から声が聞こえ、男が扉を開けた。

 一人の老婆が窓際の安楽椅子に座っている。窓から日光が差し込み、白い部屋の中を照らしていた。

「どうぞお入りになってください」

老婆の声はゆったりとした甘みを含んだものだったが、有無を言わさない雰囲気があった。老婆に導かれて中に入ると音もなく扉が閉められた。

「お茶を淹れますね。お座りになってください」

老婆が立ち上がる。お構いなくと言おうとしたが声が出ない。私はテーブルの横の三つの椅子のうち一つを選んで座った。部屋はそれだけで一つの民家ほどの大きさがあり、実際台所やベッドや、恐らくあの扉は風呂かトイレだろう、も備え付けられていた。一方で最低限ここで過ごす以外のものはほとんどおかれておらず、テーブルの上に花瓶があるくらいだった。老婆が台所でカチャカチと食器を動かす音が聞こえる。顔を上げられない。しばらくして老婆がティーポットと焼き菓子の乗った皿を持ってきた。老婆がテーブルを挟んで私の斜め前に座る。

「お食べになってください」

物腰こそ穏やかで笑みも絶やさなかったが、私には逆らうことができなかった。焼き菓子をかじって、お茶を流し込む。

「お口に合うかしら」

私はどこかで聞いた美辞麗句を並べ立てた。味などわからなかった。老婆はそれならよかったと言ってお茶をすすった。窓から風が入り込んでカーテンが揺れた。私は潮風など気にも留めなくなっていたのに、今の風から潮が臭いがしないことに一瞬はっとした。

「さて、自己紹介がまだでしたね。私はハズキュリ・ガイノンと申します」

「私はルージと申します。閣下」

「ええ、存じておりますよ。よく働いてくれたようですね」

背中に汗が流れるのを感じる。

「そう固くならないでください。尋問ではありません。あくまで元老院ではなく、ハズキュリ・ガイノン個人としてのお話です。私がお呼び申し上げたのは、あの劇場で何があったのか直接お聞きしたいと思ったからです」

「私にもよく、わかりません。国境を越えたというのは、恐らく事実だったと思います。あの時は、いえ今でも何もするつもりはありませんでした」

「そうですか。国境を越えたのですか。それであなたがここに来たと」

「失礼ながら閣下はいつ私の越境をお知りになったのですか」

「今あなたの口から聞きました」

「それはそうですが」

「私は元老院という立場ではありますが、何も知らない、何もできない一人の老婆にすぎません。本当に、あなたがここへ来た理由を知ったのは今初めてです」

「しかし閣下」

老婆が瞬きをすると私は声を出すのをやめた。

「どうかガイノンとお呼びください」

老婆が首を傾ける。

「ではガイノン閣下、政府は私に何をさせたがっているのですか」

「劇場というのはあくまで執行機関です。考えることは仕事ではありません。そして私は何もできないただの老人」

老婆は手の甲で口元を隠し笑った。

「面白い組み合わせだと思いませんか。老人と若者がひざを突き合わせている。お互いに何も知らないのも何もできないのも知っているのに、こうやって腹を探りあっている。元老院にも私にも、政治に口出しできる権限などないのですよ」

「閣下が、ガイノン閣下が私を文部省に口添えして下さったのではないのですか。そうでなければ私がここにいるはずがない」

「私たちには一切の権限はありません。しかし、私の意思を慮って下さる方は少なからずいらっしゃいます。恐らくその方が、自分の決断を後押しするのに、私の名前をお守りにしたのでしょう」

「ノギという男をご存じですか」

「どなたかしら」

「ノーナ社の男です。閣下とご連絡されていたのでは」

「私は何もしません。しかし、多くの方が様々なことを教えて下さいます。きっとその中の一人でしょう。しかし私はノーナ社は存じていますよ。頑張っているようですね。その理想主義こそ未来にふさわしいとさえ思えます」

「ニュグオール・ザン様のような方ではなく、ですか」

「どうしてザンの名前がでてくるのかしら」

老婆が目を丸くする。

「も、申し訳ございません。議会で再軍備派が勢力を伸ばしていると耳にしたものですから、てっきり元老院のお心もあるのかと」

「ザンは数年前に亡くなりましたよ。かわいそうに」

「亡くなっていたですって」

「でもあの男を特別視する気持ちはわかりますよ。ザンはキプナの使者のようでしたから」

「使者ですか」

「この国はね。とっくの昔に終わっているの。気が付いているでしょう」

私は何も答えない。

「統一戦争。あの時私たちは解放されたのですよ。偽りの平和からも格差からも搾取からも。同時に私たちは気が付いてしまったのです。解放の先には何もない。終わりなく摩耗し続けて、システムだけが生き永らえて、思考は鈍麻していく。それが合同演劇。でも終わりを終わらせるにはどうしたらいいのかしら。何もできないし、何もないのがわかっているから私たちは三百年間何もできなかった。私がここに座っているのもあなたがここに座っているのも、とうに破綻したはずのシステムの亡霊の導きです。いや、カルジャ神の思し召しと申し上げましょうか」

「ニュグオール様も終わりを実感なさっていたと」

「いいえ、逆です。あの男は何も見えていなかった。ノーナ社の方々と同じですね。だからこそ、私は期待していましたの。どちらも権力というものをまるで理解してらっしゃらない」

「ガイノン閣下はどのようにご理解なさっているのでしょうか」

「私が何もできないことを知るということです。ニュグオールは自分の言葉一つで人々が動くことを喜びに感じていました。同時に誰かの言葉をかなえて見せるのが喜びのような方々も多いのですよ。それが本当に当人の意思かなんて関係なく。見出された意思はキプナの法と歴史によって解釈される。そして、その方々の部下は考えることができない。決めることができない。動くことができない。支離滅裂に見えてもそれは思い付きやいやがらせでもありません。キプナが見せる幻なのです。解放を理解できないものだけが解放を、幻に気が付かないものだけが幻を打ち破ることができるのです」

「それではニュグオールはキプナの使者ではなくキプナの反逆者ではないですか」

「同じことです。キプナは介錯人を求めているのですよ。世界は統一戦争で覚醒してしまった。永遠に続く現実は夢と同じです。現実と夢の区別がつかないからガラティオスも生まれる」

「閣下もガラティオスを欺瞞に過ぎないとお考えですか」

「欺瞞の外側には何もないということですよ。この国のシステムに則る限り、ガラティオスを操演し続けるしかない。それは退廃ですがそれでもやるしかない。操演者であるあなたならお分かりですよね」

「ニュグオール様が亡くなられたなら、議会にいる人たちはなにものなんですか。誰が再軍備派を煽っているのですか」

私の声が次第に大きくなる。

「ですから、カルジャ神の現れです。この国の意思が顕現したもの。そのシステムから生まれた意思がシステム自体を破壊させる意思を生むなら、それもシステムの一部なのでしょう」

「閣下はこの国が自ら滅ぼうとしているとお考えなのですか」

「滅びはあり得ません。解放はなされているのですから」

「では何が起こると」

「何も起きません。何かが起きたと思う人が少し増えるだけです。その何かも少し経てばキプナの中に回収されるでしょう。仮にここの土地の名前がアルナセになったところで、キプナからはどこにも逃げられない」

「ご無礼を承知で申し上げますが、しかし」

「あなたも、しかしとおっしゃってくれるのですね。うれしいですよ。そう。私のような老婆の妄言は否定されてしかるべきですよ」

「ノーナ社や再軍備派に参加しろという意味でしょうか」

「あなたが信じるようになさればいい。もっとも選択肢はキプナの外にはありませんが。亡命したとしても、あなたに生じたキプナの意思に呼応したものにすぎない」

「私は何かを変えようなんて思っていなかった。私は何もするつもりはなかった」

私は席を立ってしまった。老婆は何も言わず私を見上げて微笑むと、私は見透かされた気分になり椅子に座り直した。

「システムの外側には何もありません。システムを破壊しようとするのもシステムの一部にすぎません。ならば私たちは、無力なものとしてシステムに殉ずるしかないのです。徹底的に意味が擦り切れるまでやるしかないのです。私は元老院をやってみせたつもりです。その結果、再軍備派やノーナ社やあなたが生まれたのであれば、希望なのですよ。解放から生まれた何かが、解放以外の何かを生み出すことの」

「再軍備派もノーナ社も、復古趣味に過ぎない気がします。統一戦争以前に遡って、解放をやり直せば、今の閉塞が破壊できるのではないかと信じる夢想主義じゃないかって」

「あなたはどうなの」

「私は操演者です。できることはガラティオスを操演することだけです。それが思考停止の言い訳だと、無力を一時的に忘れるための方便だとわかっています。でも私は私が操演者であることに意味があったと信じたい。その先に何もないのがわかっていても」

 その後、私たちは少し話をした。誰がここで私たちを引き合わせたのかはわからない。ヘリクかノギか今は亡きニュグオールか。それらを含めてすべて一つの根源的な意思だとでも言うのだろうか。

首都では何泊かして、その間非公式に、政治家たちに詰問されていた。しかし政治家たちの中には私が劇場の操演者で侵犯行為をしたことさえわかっていない者もいるようだった。ノーナ社が政治腐敗を粛清したく思う気持ちを初めて私のものとして実感した。案外、再軍備派でも私と同じように銃の形すら知らない者が多いのかもしれない。ある政治家が用意された質問状を読み上げる間に、てんで的外れな質問が挟まれた。ある程度事態を把握している政治家は不毛な言い争いに巻き込まれるのを嫌がって静観をきめこんだ。結局政治家は何も理解していないようだったが、これからも頑張りなさいと言って劇場に送り返した。政府としてはなんの見解も示さなかった。私一人の意思ということで決着付けたいのだろうかと考えて、この国のシステムに則って政治家を慮る私を発見して苦笑した。列車で帰る最中、私は常に考えていた。私が今も何も考えることができていないということを。

 列車は行きの時と違い、町に近づいてもあまり人が減らなかった。思い出してみると、今日は祭りの日だった。大勢の観光客が来るというのは本当らしい。町の駅に到着して、列車が止まった。町から首都と同じほどの喧騒が聞こえた。ほとんどの人は降車していき、私も後に続いた。町の祭りを見物しようと思ったが、町も劇場も刺激するのは避けたかった。至るところに鳥をモチーフにした飾りが取り付けられ、いつもの商店以外にも露店や小屋が立ち並んでいた。演劇はどうなったのだろうか。見られないのは残念だが、今度マイアに聞こう。人ごみを掻き分け、劇場への街道にたどり着く。さすがにこの道は人が少ない。歩きながら私はこれから何をするべきか考えていた。戦争、と仰々しい言葉を、あの女は使ったが、恐らくそれは起こりえないことを知っていた。私は操演者としての地位を剥奪されるかもしれないが、それでいいのかもしれない。

しばらく歩くと、街道のあちこちに赤いプラスチック片が落ちていることに気が付いた。町の飾りのごみだろうか。しかしなぜこんな離れたところに。見ると顔の大きさほどのプラスチック片も落ちている。何かおかしい。街道の先を見ると、不自然に横の林の木がなぎ倒されている。私は走った。林の奥に赤いシルエットが浮かんでくる。息を切らしてたどり着くと、赤い巨人が、腕をもがれ、足に棒が突き刺さり、体中からストリングをむき出しにして倒れている。砕けた赤いプラスチック片が木々に降り注いでいた。

「トーモエ」

私は叫んで操演席をこじ開ける。中にはやはりトーモエが頭から血を流してストリングの中に絡みついたままになっていた。顔を近づける。どうやら呼吸はしているようだ。ゆっくりとガラティオスから引きはがし、寝かせて肩を叩き呼びかける。すると瞼が小さく動き、口が開いた。

「白い奴は」

トーモエが弱々しくうわ言のようにつぶやいた。

「大丈夫か。痛いところは」

「ルージか」

トーモエの意識がはっきりしてきたらしい。

「俺はいい。早く劇場に」

と言ってあばらを押さえた。もしかしたら折れているのかもしれない。

「何があったんだ」

「俺にもわからない。いいから早く劇場に向かって、守ってくれ。取返しがつかなくなる」

けが人を置いていくのは気が引けたが、トーモエは歩けそうになく、町の医者までの距離を一人で担ぐ自信はなかった。それにどうも差し迫った状況のようだ。私は謝罪し、すぐに助けを呼ぶと伝えると、街道沿いまではトーモエを運んだ。もしかしたら誰かが見つけてくれるかもしれない。私は走る。

 劇場に近づくにつれて、サイレンが、あの日と同じサイレンが遠くから聞こえた。次第に音が大きくなってくる。それに何かが焼ける臭い。少しずつ視界が開けて劇場が見えてくる、はずだった。いつもなら見えるところに劇場がない。コンクリートの崩れる音が聞こえた。ようやく劇場が目の前に見える。劇場の一部が崩落している。あるところでは炎が上がっており、瓦礫の前に青いガラティオス、エリファの人形と白い何かが立っていた。立っている。というのは正確ではない。その白い何かはガラティオスと似たような雰囲気を持っていた。しかし足があるはずの場所には巨大な三つの車輪が付き、頭があるはずの場所には何もなく、代わりに首にあたるところから触手のようなものがぶら下がっていた。青い巨人が刀を持って白い何かにじりじりとにじり寄る。白い何かは左腕、と言っても肘以外におびただしい数の関節がついている、を持ち上げる。青い巨体がステップを踏み、ジグザグに幻惑してみせる。巨人の横を太い棒のようなものが高速で過ぎ去った。見ると白い何かの手の甲にあたる部分が翼のように開いている。違う。あれは弓だ。両腕を使わずとも、矢を発射する機構を備えているらしい。エリファは紙一重の瞬発力を発揮し、すべて避ける。が、一発右肩にぶつかり、青い欠片がしぶきのように飛び散った。しかし、巨人は動きを止めず左側面に回りこんで見せる。さすがエリファだ。あの車輪の構造では急激な旋回は難しそうだ。それに矢の狙いを定めるよりもこの距離ならば刀を振り下ろす方が素早い。巨人が刀を掲げ、反射した光が私にちらついた。

 そしてその刹那、青い塊が飛び去った。右の二の腕から先が完全になくなり、刀は手から吹き飛ばされ、小道具室、があるべきだった場所に深々と突き刺さる。何が起きたのだろうか。白い何かの左腕はエリファの動きについていけていなかった。右腕はだらしなく垂れ下がったままであり、攻撃したようには見えなかった。青い巨人は即座に蹴りを入れようとする。しかし、青い足が不自然に空中で止まった。止まったのではない。止められたのだ。白い何かのあばらにあたる部分から白い線が伸びて、エリファの人形を捕えている。その線は白い腕だった。しかし、本来の位置についている腕と同様、無数の関節で構成されており、サイズは小さいが同じ矢の射出機構を備えているようだ。あばらの腕が足を掴んだまま左腕が青い頭を鷲掴みにし、側面から正面へ投げ飛ばす。エリファのガラティオスがパワー負けしているのか。空中で、直前まで頭を掴んでいた左腕はそのまま矢を放ち、矢は突き刺さるどころか貫通し、頭の上半分を完全に砕いた。頭からむき出しのストリングがはみ出し、地面に叩きつけられた。と同時に瓦礫の山が盛り上がり、白い何かの動きが止まった。

 瓦礫の中から黒いものが立ち上がる。あれは、と思った瞬間、瓦礫が飛び散り、黒い何かが消える。いくつか向かってきた瓦礫を右腕で薙ぎ払うと、一拍置いて、頭があったならば顎を上げていただろう、首の触手が上方に蠢いた。黒いシルエットは空中に飛び上がっていた。白い何かは反応しようとするが間に合わない。黒い体が飛び蹴り、というより自由落下と言うのが正しいかもしれない。白い胴体にめり込み、お互いに吹き飛ばされる。よろめいた黒い巨体が立ち上がろうとする瞬間、顔が動きこちらを見た。

「ガラティオス」

私は叫び、両腕を広げて立ち止まった。

 私のガラティオスがこちらに走ってきた。白い何かも体勢を整え、左腕を黒い巨人に向ける。エリファはその機を逃さず体当たりを仕掛けた。白い四本の腕が青い巨体を締め上げ、覆い隠した。

「来てくださったんですね」

走りながら操演席を開き、ホッケが顔を出した。

「ありがとう。守ってくれて」

私はガラティオスに、ホッケに手を伸ばす。

「でも」

私の前でガラティオスが立ち止まり、ホッケが飛び降りる。エリファは残った左腕で白い何かの右腕を引きちぎろうと伸ばしていた。しかし、あばらの右腕についたナイフが左足に突き刺さり、胴にも何発も矢を撃ち込まれている。

「あとは私の仕事だ」

私は操演席に潜り込む。久しぶりの操演者は磯の臭いがした。設定を書き換え、計器を確認しながらすぐに立ち上がり、エリファの方へ振り向く。白い右腕がもぎ取られると同時に、青い左足が切断され地面に落ち、腰は矢によって完全に砕かれて、かろうじてストリングで繋ぎ止めていた下半身は自重で引きちぎられ、左足に少し遅れて落下していった。

「そこの白い奴」

私は叫び、再びガラティオスを操る。深呼吸して、走り続けて乱れた息を整える。

「来るのは知っていました」

白い何かから女の声がする。動けなくなったエリファのガラティオスを地面に捨てた。トーモエにしても、積極的に殺す意図はないようだった。

「誰の差し金だ。何が目的だ」

エリファに倣って、ガラティオスを横に振り照準を逸らす。

「私の意思です。悪いけどこうするしかないの」

女が叫び、左腕から矢が飛び出るが当たらない。しかし、一発撃つと狙いを定めるのをやめ、車輪がキリキリと回り後退し始める。しかし、この声は。私は知っている。

「マイアなのか。どうして」

「町を守るためにはこうするしかないの」

白い奴にマイアが乗っている。信じ難いが同時にすんなりと受け入れられることだった。起こりえないことを確信していた予感が現実化しただけだ。

「守るだと。テロでなにができるというんだ」

マイアは劇場であったところに侵入し、瓦礫の上に乗り上げた。

「私が守っているのはテロからです」

「妄言を」

私は三段跳びの要領で高く飛び上がる。逃げ回っていることから、矢はどうやら尽きたらしい。

「この劇場がアルナセとの国境を越えた。知らないはずないですよね」

しかしマイアは瓦礫を掴み投げ私にぶつけ、空中で避けることができず落下する。「そしてこの劇場に隠されたアルナセから来た何かの証拠。私たちは、町の人たちはすべて知っているのですよ」腕を鞭のようにふるい、崩れ切っていない劇場の部分に叩きつける。

「答えなさい。ニュグオール・ザンはこの劇場で何を始めるつもりなの」

「ニュグオールなら死んだ。ずっと前に」

「まやかすな」

再び車輪が回転し、今度は高速でこちらに突撃してくる。旋回能力は低いが直線の速度は向こうの方が数倍速い。

「そして平和強制軍の遺跡、あそこの警官たちがニュグオール派に買収されていることは知っている。海から来た船が劇場と接触したことも」

地面から起き上がろうとしたところで衝突し、私は林に吹き飛ばされ、木をなぎ倒し、マイアはすぐにあばらの腕で重心を整えて見せた。

「そうなんでしょ、劇場はアルナセと戦闘状態にある。この期に及んで合同演劇だとでも言うつもり」

「何も起こってなどいない」

「そうですよね、何も起きなかった。そうですよね」

マイアが加速し、私の右足を除く四肢を押さえつける。

「だからすべてなかったことにするべきですよね。近世兵器で」

「何」

「だからこの町と劇場を跡形もなく消し去り、再びキプナとアルナセを眠らせるつもりですよね」

「すべて消し去るなどできるわけがない」

「できます。一つの都市を一瞬で溶かしてみせる近世兵器は存在しました。あの肉屋やノギみたに、すべてを隠蔽して、現実から目を背けて」

白い腕たちが黒い巨人を祀るように持ち上げる。

「逃げ場などあると思うな」

マイアが絶叫し、私を瓦礫の山に投げ捨てる。全身に激しい衝撃が伝わる。

「全部嘘だ。町の噂に惑わされるな」

私は瓦礫の山を押しのける。すると目の前に刀が、エリファの持っていた刀が突き刺さっている。私はそれを抜き、白い奴を正面に見据えて構える。

「まだやるつもりなのですね」

白い三本の腕が蜘蛛のように広がる。私は瓦礫を滑るようにして雪崩落ちる。

「仮に正しいとしてこの劇場を破壊して解決するわけがない」

「します。あの劇場の侵犯劇が再軍備派とアルナセと劇場の共犯に基づくマッチポンプだと知っています。その絆を証明する何かがこの劇場に潜んでいる」

薙ぎ払うように振るわれた左腕を膝を曲げて躱し間合いを詰める。しかし残った二本のあばらの腕が私に伸びる。刀を下から振り上げると何かにぶつかった感触がしたが、片腕が私のガラティオスの首を掴んで持ち上げる。すぐに掴んだ腕を蹴って外そうとする。が、離れたと思った瞬間、振り切っていた左腕がまた往復し、ガラティオスの胴にめり込み押しのけられる。なんとかバランスを崩さず間合いを取り、構え直す。

「だから破壊するしかないの。いくらあいつらとはいえ、証拠がなければ傍若無人に動けない」

マイアの言っていることは支離滅裂だったが、本気で信じているようだった。

「この劇場が、ガラティオスが消えれば火種を消せるとでも」

「そのためなら私は戦います」

「浅はかなヒロイズムだ」

「そうですか、戦争が現実、搾取が現実、暴力が現実。そんなもの私は認めません。たとえその先に何もなくても、誰かが立ち上がらなければならない。誰がを考えなくてはならない。わかってくれますよね」

「それがあなただとでも。傲慢な」

「現実に気が付いた人には責任がある」

「あなたに何がわかっているというんだ」

私は一気に距離を詰めて斜めに刀を振るう。防ごうとした腕ごと切断され、腰の中央まで食い込ませると素早く抜いた。操演席は避けたが、かなり無力化できたはずだ。しかし、すでに白い何かは一瞬を動かなかった。

「投降なさってくれますよね。両手を上げて降りてください」

しかし依然として動かない。バッテリー切れだろうか。ふと刀を見やると一部に赤黒い塗装が付いているのに気が付いた。乾ききっていない赤い液体が雫となって地面に落ちる。白い何かはもう動かなかった。もうじき日が沈もうとしていた。

 劇場の被害はひどいものだった。私はつぶれ切った肉塊を白い奴の中に確認すると、すぐに劇場の救援に向かった。あちこちで火が上がり、作業服たちが消火し始める。誘導されて瓦礫を除けると、何人もの人が、石の下の虫のように湧き出てきた。動く者もいれば動かない者もいる。途中でバッテリーを充電し直したが、その日は徹夜で瓦礫の撤去を行った。なんせ動けるガラティオスが私しかいない。火は消し止めることができたが、資料はほとんど焼失し、機械も焼かれ潰され、まともに動くものは少ないようだ。なろほど、私が来たときにはすでにマイアは目的を果たしていたのか。被害の状況が少しずつ見えてくる。ワクとヘリクは死んだそうだ。私の知っている範囲ではヘッショ、ガナモ、ヌイヌ、コーネ、ヘビ、ラポム、ダナテ、ベカナが死んだ。名前は忘れたが、顔を知っている死体もいくつか見た。すべての死体を確認し終えると、私はあとのことは他の人に任せてガラティオスの中で眠った。

 外の騒ぎで目が覚めた。怒声が聞こえる。あんなことがあったのだ。張り詰めていた神経が限界になっても仕方がない。私は操演席を開けて身を乗り出し、体を伸ばす。すると様子がおかしい。作業服たちは確かに言い争いをしていた。殴られている者もいる。しかし相手は劇場の人間同士ではなかった。誰なんだ。ふと作業服の胸倉を掴んでいる男に見覚えがあった。ノーナ社の人間だ。マイアが仕組んでいたのだろうか。それだけではない。あそこに見える女は町で見かけたことはあるがノーナ社の者ではないはずだ。私はガラティオスを歩かせる。

「やめてください。なにごとですか」

私はガラティオスから叫ぶ。立ち上がった巨人を見ても人々は怖気づくどころか、余計に刺激されたようだ。しきりに叫んでいるが、爆音のうねりが束なって、何を言っているのかわからない。

「そうやって僕たちをも殺すつもりなんだろ。政府の人形が」

と声の一つを聞き取る。

「私たちは皆さんに危害を加えるつもりは一切ありません」

「ならマイアはどうした」

人々の吊り上がった目が私を見据えている。

「マイアはこの劇場の人たちを殺したのですよ」

「なぜマイアがそうしなければならなかったのか、胸に手を当てて考えてみろ」

人々が一斉に騒ぎ立てる。ノーナ社の人ならともかく、町の人間はこれほどまでにマイアを慕っていただろうか。違和感がある。それにノーナ社の人間これほど大勢を扇動する能力はなかっただろう。まさか再軍備派だろうか。しかしニュグオールは死んでいる。それにこの連中の憎悪は政府に向いているようだ。再軍備派にとっても都合がいい状況ではないだろう。興奮しきった人たちが乱闘し始める。私はこれ見よがしに足を踏み鳴らして刀を地面に突き立てると、動きが止まった。

「それがお前たち政府のやり方だということがよくわかった」

と言ってしぶしぶ町の人間たちが立ち去る。しばらくの間誰も動かなかった。

 幸い屋根が残っているところは残っていたので、私たちはそこで寝泊まりした。重傷人も多く感染症にかかっている人もいたが、町の医者には連れて行けない。トーモエをマイアの襲撃後、すぐに劇場の人間が迎えに行ったが、誰も見つからなかったらしい。私はその後トーモエのガラティオスだけ回収した。エリファはガラティオスの中で気絶していたところを町の人に集団で殴られて数か所の骨を折った。命に別状がないだけましだろう。すぐに首都に使いを送ったが、未だに対応の回答はない。エリファと私がこの劇場を仕切らなくてはならなかった。

 ある日、あの女が現れた。ヘリクと会った女だ。女は目の前の劇場の様子が目に入らないかのように以前と変わらない笑みでごきげんようと挨拶した。

「あなたの、政府の意思はよくわかりました」

「敵対的意図はなかったとご理解願えましたか」

私には顔をあげる気力も残っていなかった。

「何をおっしゃっているのですか。平和的話し合いを求めた市民をガラティオスで威嚇し、反政府組織と結託して証拠の隠蔽を謀る。この意味がアルナセにとって、友好的に映らないことは承知ですよね」

「待ってください。出鱈目だ」

私は焦る。この誤解を解かなければまずいと直感した。

「それもわかっています。これはアルナセの使者ではなく私個人の意見ですが、あなたの侵犯がただの事故だともわかっています」

「だったら」

「でも、どうしようもないんですよ。私にも。私はキプナで起こったこと、起こりうること、すべてを報告する義務があります。それがどのように解釈されることがわかっていても。残念です」

女は初めて笑顔を作るのを止めた。

「待ってください。本当に誤解なんですよ。現にこの劇場は壊滅状態で、演劇を行う体力はない。いや、あなたのおっしゃるマッチポンプというのが本当なら、余計に敵対的意図は見いだせないはずだ。これはキプナが自浄しよう、あなたとのけじめをつけようとした結果だと」

「ですから、私には何もできないと申し上げています。私は単なる使者にすぎません。判断も決定も私の仕事ではありません。それに、町の暴動が激化していること。再軍備派が議会の過半数を超えたこと。ノーナ社が平和強制軍の遺跡を占拠していること。すべて私が報告するまでもなく政府は知っているのです。私は政府の決定を事後的に補完するためにここに送り込まれたに過ぎない。もうすでに遅かったんですよ。あなたも、私も、アルナセも、キプナも」

私は何かを言おうとして手を伸ばしたが声が出なかった。女は両手で目頭と鼻を包むように挟んで深呼吸した。

「話は以上です。もう会うこともないでしょう」

女が足音もなく立ち去る。波止場には船はとまっていない。あの女は何処から来て何処に行くのだろうか。

 気が付くと私は劇場での残骸での暮らしに慣れていた。夜な夜な聞こえるうめき声は減っていき、死体も少し増えた。私はいつものように釣りをしに行く。政府はいまだに劇場の対応について反応しない。もしかしたら私たちの送った使者は到達できなかったのかもしれない。通信参謀室なら連絡が可能かもしれないが、町には近づけないし、使い方もわからなかった。海藻が引っかかってしまい、また釣り糸を投げ直す。町の人間はあの日から一度も劇場に接触してこなかった。不気味な沈黙だったが、考えても仕方のないことだった。数回様子を見に行かせたが、商店は破壊され、列車も止まったらしい。

 これからどうなるのか私には見当もつかなかった。劇場の人間は一度も私に指示を仰がなかった。ただ今日の食料を手に入れることが最重要課題だった。さらに隣の町へ行くには、列車も止まった以上、往復で三日は掛かってしまう。その町も最近は様子がおかしいらしい。使いにやった者が言うには、海の向こうから何かを走らせるのを見たとか、ノーナ社が政府の中枢に潜り込んでいるとか、隣町で警官がリンチされ殺されたとか、不穏な噂が立っているらしい。これがキプナの意思なのだろうか。少しずつゆっくりとキプナという束がほどかれようとしている気がした。このまま町の怒りが他の町へ伝播していくことも、政府が近世兵器をよみがえらせることも、アルナセと戦争の続きが始まることもすべてが同じくらいありえないことのように思え、同時に十分あり得る未来だと感じた。そして仮に何かが起こったとしても、結局は少しだけ様子の違う日常が続いていくだけだと私は知っていた。魚の死体を釣り上げた作業服たちがゲラゲラと笑い声をあげた。劇場は着実にもとの形に戻ろうとしていた。この先に何があるのかわからない。何もないのだろう。しかし私のガラティオスがある限りきっと大丈夫だと思えた。風が私の髪をなびかせる。少しだけ強い波が波止場を打ち付け、私の足を濡らした。海は凪いだまま太陽の光を反射してきらめいていた。そして私は水平線の上で何かが光るのを見た。

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機巧新世ガラティオス 上雲楽 @dasvir

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