第3話

 私は疲れ果てていた。考えても無意味な権力闘争や陰謀について、いい加減うんざりしていた。誰が何をしたくて、私に何をさせようとしているのか。そんなこと知ったことか。少し前の私は、知らず知らずのうちに劇場と町の空気に飲み込まれて、ゴシップに熱くなりすぎていたようだ。未だに下らない流言を垂れ流し続ける劇場や町の人間とはすっぱり縁を切りたかった。私が一人になれる場所は自室と例の部屋、町と劇場の間の道だけだった。しかし、自室は監視されているだろう。そう確信していた。劇場の噂は加熱していった。アルナセにまつわるものもあれば、劇場の人間関係にまつわるものもある。他にもたくさん聞いたが、そのほとんどすべてが相変わらず、突飛で馬鹿馬鹿しいものばかりだった。にもかかわらず、いやそれゆえに飽きもせずに楽しんでいるようだ。同時に劇場全体の修繕は、初めてここに来た時では信じられないほど盛んに行われた。塩混ざりの風雨に侵されたコンクリートは補修、取り替えられ、小道具室は完全に作り変えられた。一体どこにそんな予算があったのだろうか。ヘリクは何も言わなかった。マイアではないが、やはり私にはこの劇場の活気と増殖していく噂が同根のものだと感じられた。劇場の空気と言えばまとめられるだろうが、そのような漠然としたものではなく、たった一つの原因が背後に潜んでいるのは明白だと考えていた。

 また文部省からの伝令が度々送られるようになった。送られる内容は特に何かを指示するものではなく、私には劇場の人間をねぎらう文書のように思えたが、トーモエとエリファにはこの劇場の戦略的価値が増大していることを伝えてきたと思えたようだ。政府から放任されてきたこの劇場へ立て続けに伝令が届くのは前代未聞だと言う。二人は劇場の目覚めが政府の既定事項であったと感じ取ったらしい。エリファさえ劇場の空気に吞まれたのか度重なるエチュードに文句をこぼすことはなくなっていた。一方のヘリクはこの伝令を危険なものだと感じたようだ。エチュードの承認は露骨に減らされ、劇場では休憩や休日が増えた。劇場でくすぶっているエネルギーのガス抜きを図っていることは明確だった。最初、ヘリクも二人の操演者と同じように、伝令は、政府が劇場に注目している、というメッセージを伝えるものだと解釈したのだと、私は思っていた。しかしヘリクの様子を見ると、あの伝令を忠告、警告だと解釈したのではないかと思った。政府は劇場なぞどうでもいい、だから余計なことをするなというメッセージだ。もしかしたら遺跡の発掘と何か関係があるのだろうか。相変わらず遺跡の話題は一切劇場で出なかったし、私も話すべきではないだろうと思った。

 私は仕事に没頭した。しかしできることはほとんどなかった。エチュードの頻度は減らされ、掃除や釣り、野菜栽培は劇場の人間がやってしまった。ヘリクは町への用事も明言しなくなっていった。誰も何も言わないが、各々が自分の仕事を確信しているようだった。私はヘリクに何も言われずに手渡された箱がどのような意味があるのかさえわからなかった。困惑している私を見るとエリファは

「かわいそうにね」

と言って私から箱を受け取り、どこかへ消えていった。私にできるのは海を見ることだけだった。海は変わらずその姿を横たえていたが、波止場に人がいない日はなくなっていた。小舟に乗って釣りをしている者もいる。私はふと思い立ってその小舟を一人で借りた。断られると思っていたが、二つ返事で快諾した。私自身、操演者という立場の発揮する権力に無頓着だったようだ。小舟の操作を教わり、小舟を繋ぎとめていたロープを離す。小舟は少しずつ速度を速めて沖まで出た。海上から眺めた海は何か変わるだろうかと思ったが、そんなことはなかった。波に揺られるのが心地いいとは知らなかった。しかし、初めて出た海上は特に感動を覚えるものでもなく、仕事の名目で小舟を出したせいか、いつもの海を見つめる日常の延長戦に過ぎない気がした。あの向こうに国境線がある。と考えるとどこか頭が痺れたような感覚になったが、劇場で見たのと同様、水平線しか見えないのを確認すると、そのような興奮はすぐに消え去った。小舟という一人になれる場所を発見した以外に得られるものは何もなかった。

 ホッケとの大道具室への侵入はまだ続いていた。滞在時間は三十分、四十分と増え、一時間を超えることもあった。それでも誰かが来ることはなかった。ホッケも慣れて大胆になったのか、不安を口にすることはなくなっていた。ホッケは何とか立ち上がるまでには上達したが、それ以上は伸び悩んだ。最初は私でさえ振り回され気味だったピーキーさに加えて、私の癖に合わせて調整されている。むしろ両足で立っているだけでも才能を認めたいくらいだ。私たちを泳がせているのは、情報を掴ませないため、あるいは波風を立ててこれ以上劇場を刺激しないためだと思っていたが、ホッケを見ていると、こうして別の人にガラティオスを操演させる積極的な理由があるのではないかと思えてきた。ホッケが監視している側の仲間でもあるなら、違和感にも納得が行く。さもなければ伝令に、ホッケを黒いガラティオスを操演させたまえとでも読み取ったのだろうか、と考えて苦笑する。いかにもこの劇場ではありえそうなめちゃくちゃな解釈だ。しかしこの劇場ではありえないことではないように思えた。黒い巨人がバランスを崩して尻もちをつき、鈍い衝撃が伝わった。

 ノーナ社は噂を利用して不安を煽り賛同者を増やそうとしていたが、うまくいっていないようだった。もともと鼻つまみ者の集まりなのに、扇動めいたことをすれば不信感が募るだけだとマイアは理解していないようだった。それでいて反感を強める町の人間の様子を見て噂の存在を確信するのだった。異様に活気づく劇場と反比例するように町は穏やかに、それでいてはっきりと衰退しているように見えた。いつも私が通りかかるたびに監視していた腰の曲がった老婆もいつの間にか見かけなくなっていた。マイアは強い言葉でノーナ社の人間を鼓舞したが、テロを明言することは絶対にしなかった。しかし町からの排斥が進むたびに発言は過激化し、一斉に批判されたとはいえ町の人間を愚民だと罵る参加者も見られた。変わらないのは相変わらず眠っているハキミと、いつもばつが悪そうにはにかんでいるノギくらいに思えた。ノギと関わることは初めからあまり多くなかったが、通信参謀室での一件以来、意識的に避けるようになった。ノギがハズキュリ・ガイノンの使いでマイアとガラティオスを準備しているというのは本当だろうか。苗字を持たないものがそんな重要な任務を任されるとは思えないが、偽名という可能性がある。それに私という例外が現にいる。首都の情勢も変化しているのかもしれない。いけない。また益体もない憶測に夢中になってしまっている。できるのは目の前のことに集中するだけじゃないか。と考え直すと一つのアイディアが浮かんだ。

 ある日、勉強会が終わったあと、ノギにこっそりと耳打ちし人気のない路地に呼び出した。

「珍しいですね、二人きりで会いたいなんて」

ノギが恥ずかしげに笑った。

「愛の告白ですか」

ノギが冗談を言うのも珍しい。警戒しているのだろうか。

「私が以前、海の向こうで何かを見た話はご存じですよね」

「ええ、ノーナ社の、いや町の人ならほとんど知っていると思います」

「信じてくれますか」

「もちろん。仲間ですから」

とすげもなく言った。

「もしその情報があると言ったら」

「どういう意味ですか」

ノギが動揺する。

「あの日、私が何かに気が付いたのは、ある機械が警報を鳴らしたからなんです。でも警報は誤作動と切り捨てられてその日の記録は抹消されていました」

ノギが真顔で続きを促す。

「私はあの日の記録に必ず、何かの兆候があったと考えています。そしてそれはどこかにまだ保存されている」

「その根拠は」

「ヘリクの手紙を盗み読んだんです。宛先はわかりませんでしたが、不都合な何かを隠蔽したこととそれを劇場に隠したと書いていました。文面からして宛先は政府だったと思います」

「それをどうして急に自分に」

「劇場は誰が信頼できるかわかりません。真実を明らかにする目的について言えば全員が敵かもしれない。それに、マイアは心労が溜まっているようですし」

「なるほど」

と言って腕を組む。

「協力できることがあるならぜひ。と言ってもあまり思いつきませんが。すいません」

「いえ、正直言うと誰かに愚痴を言いたかっただけなんです」

と陰のある笑顔を作る。

「町に他に頼れる方は」

「いえ、どうもずっと町から疎まれているようで」するとノギが初めて驚いた表情を見せた。

「まさか。町の方にはアイドルですよ、なんせガラティオスの操演者ですから。それに顔が整っていますし」

 ノギと別れて帰途につく。これで少しはノギが動きを見せるはずだ。そうすれば何かわかるかもしれない。気になるのはノギの最後の言葉だった。私が美形で人気者だと。見え透いたお世辞、というより完全な嘘だった。もしや私の嘘に感づいた上での意趣返しだろうか。ノギの当て擦りめいた言葉は気になったが、どうでもいいことだ。

 「無理にとは言いません。しかし、この劇場が全面的に正しいとはお考えではないですよね」ワクの耳元で囁く。大道具室は変わらず忙しない。今でも作業服たちが何の活動をしているのか知らないが、常に仕事に追われているようだった。

「ノーナ社と接触していたという噂は本当だったのか」

ワクも小声で返す。

「俺たちを勧誘するってことは、祭りで何かするつもりか」

「祭りですって」

「違うのか。もうすぐ町の祭りだろう。てっきり」

「いえ、てっきり皆さんは祭りに興味がないのかと思って。皆さんは行かれたことが」

「ああ、毎年。このあたりじゃ唯一の息抜きだしな」

祭りのことは初耳だったが顔を見る限り悪印象を持っているわけではなさそうだ。

「ニュグオール派に抵抗するためにも、今はノーナ社に力を貸して欲しいんです」

「ニュグオール派だと」

「ええ、ここだけの話、私が劇場に赴任したのはニュグオール派の意向が大きいそうなんです。何か企んでいるらしい」

ワクの目が見開かれる。

「皆さんにも立場があるのはわかっています。でも、劇場を守るためでもあります」

「……何人か、賛同者を知っている」

「でしたら」

「ただし、おかしいと思ったらすぐにノーナ社は切り捨てる。いいな」

「ありがとうございます」

ワクが仕事に戻っていく。他の者にもアプローチをかけようと思ったがやめた。これでワクとその部下たちが動くはずだ。立ち止まって考えても他人の意思などわかるはずがない。ならば積極的に他人動かしてしまえばいい。穏やかに静まり続ける海を眺めて、私は決心を強めるのだった。

 後日、勉強会にはワクを含めて十一人が参加した。マイアはこんなに多いと、部屋に入り切りませんね、と喜んでいた。

「悪い。迷惑だったか」

ワクがぶっきらぼうに謝る。

「いえ、大歓迎です。ありがとう。しかし、キャパシティは実際どうしたものか」

「公園はどうですか」

参加者のピンクの服の女が手を上げる。

「公園、ですか」

ノギが戸惑った。

「ビラや演説はされていますが、活動をオープンな場でされたことはありませんでしたよね。いい機会かもしれません」

私がフォローする。

「……確かにそうですね。やましいことは何もしていないのですから。わかりました。ノギ、御座を用意してください」

マイアがサッと上着を羽織り外に出た。ノーナ社の人たちもワクたちも想定外の展開に面食らったようだが、後に続いた。人の波に押されてノギの顔は窺うことはできなかった。

 外は晴れていて過ごしやすい温度だった。ぞろぞろと歩く私たちに町の人も驚いているようだった。その視線を知ってか知らずか、マイアは機嫌よさそうに先導した。誰かが「ピクニックみたいですね」と漏らした。ハキミも

「こう天気がいいと眠くなるな」

とあくびしながらついてきた。

 「さて」

マイアは御座にみんなを座らせると両手を広げた。傍から見ると宴会か何かのようだ。「御覧の通り、ルージの紹介で新しい仲間が増えました。あらためてありがとう」参加者たちが拍手する。「では、お名前を教えていただいていただけますか」一泊おいてワクが立ち上がる。

「ワクだ。劇場で舞台監督をしている」

「カラです」

「ノノノ」

「ヘッショ」

「ラポムです、よろしく」

「ケータコ」

「カシマ」

「ユーヤフだ」

「ワーパ」

「ゲンノウ」

「ケジ」

次々に立ち上がり、拍手が挟まれた。

「今日の議題は統一戦争以前の選挙制度にしようと思っていましたが、やめにしました」

参加者たちからどっと笑い声が沸き起こり、ワクたちは一瞬、顔を見合わせた。

「この公園で昔何があったかご存じですか」

太った男が額の汗をハンカチで拭きながら答える。

「古戦場でしたよね。あ、特別臨時野外劇場指定区域です」

「その通りです。三か月続いたアルナセとの戦争。その末期でデオロ・ハルバスカのガラティオスが破壊された地です」

「三百年で割れば初期も初期だがな」

とユーヤフがぼやいた。参加者も数人クスリと笑った。マイアも一瞥して微笑みかける。

「皆さんもデオロの輝かしい戦歴は至るところで聞いたことがあるでしょう」

輝かしい、をわざとらしく強調する。

「ひとりきりでこの土地を守りきったとか」

「稼働限界を超えても敵を倒し続けたとか」

「三人の妻を養っていたとか」

「アルナセの奴らの耳を食いちぎったらしい」

「さすがにそれは嘘だろ」

と各々口々に話し出した。

「こんな話を知っています」

ラポムが口を開けると人々が耳を傾けた。

「ハルバスカの妻の一人はアルナセの女だったそうなんです」

ラポムは話し始めたはいいが、想像以上に他の人が集中して聞くのに臆したのか、一瞬言葉を詰まらせた。

「いえ、たいしたエピソードではありませんが。というのもアルナセとの演劇を終えて消極的入団希望者を拘束していた中にその女がいたそうなんです。若い女が珍しく、ハルバスカがなぜ君が戦っているのかと聞くと、退屈しのぎと答えたそうです。しかし、その後も熱心に何日も話を聞き続けると、その女が見世物小屋の生まれで、その見世物小屋もアルナセの政府に風紀を乱すとして禁止され、娼婦になるか戦ってみせるしかなかったそうです。ハルバスカは大変心を痛めて、妻に迎えたそうです。周囲の者はスパイに違いないと言って反対したそうですが、ハルバスカはその女のために特注のガラティオスまで作らせたそうです。その女とハルバスカとの隠し子の子孫が今もこの町で生き残っているかもしれないと」

「ありがとう。興味深い話でした」

とマイア。

「しかし、皆さんはご存じのはずです。デオロ・ハルバスカは当時の、いや今でも擦り切れるほど政府のプロパガンダに利用されて、そのエピソードは虚飾に満ちている。」

ケータコとカシマが何か言いたげに顔を見合わせた。

「では真実などどこにあるのか。オカルトの類ですが、デオロ・ハルバスカ非実在説なんて噂もあります」

「最近聞いたー」

ノノノがのんきに返事する。

「例えば、有名な閑散の舞について。当時のガラティオスの性能は」

「お姉ちゃんたち、ガラティオスが好きなの」

気が付くと横から小さな男の子が駆け寄ってきた。遅れて母親らしき女が息を切らし走ってきている。

「そうだよ。男はみんなガラティオスか列車が好きだからなぁ」

とハキミが手を振った。勉強会中に起きているのはほとんど初めて見た。

「デオロ・ハルバスカのガラティオスはね、紫なんだよ」

男の子は興奮している。母親がようやく追いつき、

「すみません、急に。ほら行くよ」

と手を引く。

「よかったらお二人も参加しませんか」

ピンクの服の女が口を挟む。

「私たち今、歴史の勉強会、というか親睦会の最中で。よければ」

マイアが続ける。

「ノーナ社といっても怪しい者じゃないんですよ」

と眉の太い若者がへらへらと叫ぶと、母親の顔がみるみる引きつった。

「あの、忙しいので」

逃げようとしたが、男の子は動かない。どこかを見て、いや私を見ている。

「やっぱり、新しい操演者の人だ」

「……そうだよ」

私は答える。

「そうなんだ、やっぱり。ずっと見てたよ。かっこいいなあって」

男の子が母親の手から擦り抜けてとてとてと近づき私に抱き着く。

「なんで劇場の人形が増えたの。操演グローブが臭いってホント。苗字がないってのは、そんなことないよね」

矢継ぎ早にまくしたてる。ふと顔をあげると何人もの人たちが遠巻きに私たちを見つめていた。私はゆっくりと立ち上がる。

「では、ガラティオスの秘密を教えてあげよう」

演説口調で遠くまで聞こえるように語り始める。参加者たちが母親を優しく、しかし有無をいわさず座らせる。男の子は爛々と目を輝かせている。

 気が付くと他にも何人もの人が私の話を聞いている。子連れだけではなく老人も居た。母親はいつの間に慣れたのか、参加者たちと談笑している。ノーナ社の人間はこの手の懐柔は苦手だと思っていたが、手慣れた様子だった。私の知らないマニュアルがあるのかもしれない。私とノーナ社の間には未だに画然とした距離があった。恐らくノーナ社の名簿に私の名前はまだ載っていないはずだ。母親の知り合いらしき人がおずおずと近づき挨拶していた。その人たちも今では御座に座っている。

「ノーナ社ってこういう歴史サークルだったんですね」

「そんなところです」

「普段もこんなことを」

「外では初めてです」

と言った会話が聞こえた。あの態度の軟化を見ると、ノーナ社の手管もあるが、子供の教育に役立つと判断したのかもしれない。集まっていた子供たちが私に続きを促す。疲れた私は、ワクを舞台監督だと紹介した。子供の興味がそちらに移り、ワクに群がる。ワクは子供が苦手なのか露骨に困った顔をして他の劇場の人間に、話してやれ、と押し付けようとしたが、舞台監督がやるべきですよ、と笑ってはやし立てた。ワクがぼつぼつと語り始めると、子供たちが大量の質問を挟み込んだ。母親たちは微笑ましそうに笑っていた。

 日が傾き、マイアが、今日はこのくらいにしましょうか、と切り上げた。子供たちは名残惜しそうに不満の声を上げた。参加者たちは母親たちに、普段このように活動していますので興味がありましたらまた是非、とパンフレットを渡した。少なくとも母親たちはあからさまな拒絶の色を示さなかった。劇場とノーナ社の人間も入り混じって談笑している。マイアは上機嫌だった。

「こんなに大成功するなんて。また外で活動してもいいかもしれませんね」

ほとんどの参加者はこの結果に満足しているようだ。ハキミは面倒になったのか、途中でこっそりと逃げ出していたのが見えた。

「あらためて感謝しますよ」

マイアが満面の笑みを浮かべる。

「やはり新しい風を受け入れるのは間違っていなかった」

「風ですか」

「正直、これまでの活動には限界を感じてしました」

マイアが自分を抱くように腕を組む。

「この町での啓蒙はまったく進まないし、パイプがある議会の政治家も何人かはいるけど主流派には程遠い。元老院は私たちを気にもとめていないし。でも、今日で確信しました。すでに何かが変わっているし、変えることができる。私にはわかっていた気がします。この町で伝染した空気。町の人間の恐れと不信を期待するかのようなあの目つき。それも今日のような日のためだったって」

「カルジャ神の思し召しですか」

私は皮肉めいた口調を向ける。

「今日くらいはそう言ってあげても構わない気分です」

マイアが鼻を鳴らす。マイアはこの勉強会の成果も噂が実現した結果だと、あるいは噂の根源にある一なる何かに導かれていると感じているようだった。私を町の、劇場の意思の使者、いや神の使いとでも思っているのだろうか。私は誰の意思のためにも動いていない。しかし私にはマイアが愚かだと断ずることはできなかった。

それからノーナ社には町の人が顔を出すことが増えているらしかった。町の態度も軟化したように感じる。相変わらず私は監視されているようだが、話しかけてくる人も見られるようになった。知らない女が

「劇場の操演者ですよね」

と話しかけてきたことがある。私は振り返り、そうだと答えると

「知っていますか。あの話」

と無表情で尋ねられた。

「あの話とは」

「じゃあいいです」

女は溜息を吐いて立ち去る。町の噂はより曖昧に形を掴ませないものになっていた。しかし私にはこの町の態度の変化に思えるものも、私を取り込み、排除するための意思が変形したもののように映った。これは影絵が変わって見えたようなものだ。いくら狐から鳥へ姿が変わったように見えても、現実に存在する手の形が変わっただけだ。手が狐や鳥になるわけではない。未だに手がどこにあるのかわからないが、確かにその実在は感じている。

ノーナ社の人間は変化を大げさに喜んでいたが、残念ながら私の目的に関して言えば成功したとは言い難い。こうして大々的に動いてみせれば、私の背後に潜む何かが掴めるかもしれないと思った。しかし、何も変わらなかった。海を見る。もはや海は私のもがきをあざ笑う閉塞と閑寂の象徴だった。海の向こうにあるもの。何もないのは、何も起こりはしないのはわかっている。それでも見続けるしかなかった。エリファが、本当に仕事熱心だねと皮肉った。

「熱心なのはそちらもでは」

私の行動をせき止めていた何かが緩くなってきているのかもしれない。

「熱心だからニュグオールとも対立してみせる」

「あ、知ってたんだ」

エリファは一切取り繕わず飄々としていた。

「ハリクとトーモエとワクと、あと何人かしか知らないと思ったけど。そこから聞いたの」

「そんなところです」

私は無性に腹立たしかった。しかし私は何に怒っているのだろう。

「ニュグオール派はこの劇場で何をしようとしているんですか」

「正直、私もよくわからないんだよね。だから付き合ってられねぇよってかかわるのを拒否したんだけど」

エリファが前髪をくるくると指に巻き付ける。

「ララック家出身の政治家がニュグオール派でね、もっともそいつは再軍備には反対らしいんだけど。それでニュグオールと私にもパイプがなくもない。直接会ったことはないけど、何度も手紙をもらった。最初は私を激励する手紙だと思った。政治家だからそういう根回しというか人を誑し込む手段としてありそうだと思ったから。でも次第に違うと思えてきた。これは私に何か重要な任務を伝えているのではって」

「この劇場が退屈だったからですか」

「そうかもしれない。例えば手紙にヘリク・ハリクとは懇意にするようにと書いてあったとする。でもそれは単に上司と仲良くしろってい意味だけじゃなくて、ヘリク・ハリクは敵だから警戒しろとか何か情報を探れとか同じニュグオール派であることを伝えているとかヘリク・ハリクと連携して別の敵に備えろとか、どのようにも読むことができる。それで、なぜ議会の政治家のニュグオール・ザンという人間が劇場の操演者であるララック・エリファに手紙を出すのかということを考えれば、私に何かをさせようとする意図があるに違いないとしか思えなかった」

「それで、何をしたんですか」

「私は何もしないことをした。だって劇場は古び衰えすぎていると書いた次の手紙には劇場の設備は十分に過剰でさえあるとか書いてあったからね。正直、場当たり的にその場しのぎの思い付きを並べているように思えた。ニュグオールはこの劇場の現実も現状も知らないけど、イデオロギーだけは一丁前だからとりあえず権力を発揮してみせて自尊心を満たしているんじゃないかって。でもそんなはずはない。相手はニュグオールだよ。どんな野望で動いているのかわからない。劇場にも何人のニュグオールの部下やシンパがいるかわからない。その時気が付いたの。これは何もするな、させるなという指示だって。私がこの劇場で相反する指示の間で摩耗することも、何かを選択してどんどん立場を危うくしていくことも、すべてニュグオールの計画だったんだと思う。なぜ私なのかはわからないけど確実にそうだと思った。だから選択しないことを選択した。選択しなければならないときは前提からひっくり返そうとした。それで余計劇場からは監視されるようになったんだけど」

「それってワクとのことですか」

エリファは目を伏せて唇を舐めた。

「どうしてそこでワクがでてくるの」

エリファは本当に思い当たりがないようだった。

「いえ、すみません。勘で言ってみただけです。でもどうして話す気になってくれたんですか」

「別に隠してないし」

エリファはくすくす笑った。

「それに、忠告というかアドバイスかな」

と言ってエリファは立ち去った。話し過ぎて少し恥ずかしがっているようだった。嘘でなければ、この劇場のことが見えてきた気がする。エリファは逃げていたのだ。劇場から。現実を見ることから。ならば私が戦っている現実とはなんだ。簡単なことだ。私は操演者である。だから敵はアルナセにある。何にも惑わされたりはしない。離れていったエリファが海の方角を凝視している。その先には私には何もないように見えた。

 町には気がつくと鳥を模した飾りが増えていた。勉強会の合間に聞くと、町の祭りの飾りつけらしい。

「土着の宗教とカルジャ教が習合したお祭りで、捕まえた鳥をあるがまま、自然に返すんです。結構有名で、国中から珍しい鳥がたくさん集められてきれいですよ。見物客も大勢来ますし」

とマイアが教えた。マイアなら、解放するために大量に捕らえるなんていかにもこの町の方々が考えそうなことですね、とでも言いそうだと思ったが、案外、素直に楽しみらしい。町の人たちがさすがマイアさんはなんでも知っていますね、と褒め称えた。町の参加者は増え続け、今では勉強会は民家から町の集会所を使わせてもらうようになっていた。歴史サークルと装って人を集めていると思ったが、特権階級の税金がどうのとか町と劇場の関係がどうとかガラティオスの欺瞞性がどうとか話しているところを見ると、政治結社としての性格は特段隠していないようだった。

「ノーナ社では祭りで何かしないんですか」

名前は忘れたが劇場の男が尋ねた。

「ええ、特に」

とノギ。参加者たちがぜひ何かやりましょうよと騒ぎ始めた。

「露店なんてどうですか」

「手品ショーとか」

「できるやついるのかよ」

「こういう日こそ演説にうってつけです」

「煙たがられるだけだよ」

「組体操とか」

「私、腰痛めてるのよね」

「野菜の直販とか」

「今から育てるのか」

「やっぱり露店」

「普通すぎない」

「いいじゃん普通で」

「食べ物系なの。それ以外」

「あ、演劇とかは」

「私たちはテロリストではありません」

マイアが急に声を張り上げた。全員が一斉に静まり、じっとマイアを見る。

「あ、いえ、違いますよね。すみません。少しぼうっとして勘違いしちゃって。演劇、ですよね。いいかもしれません」

マイアがうなじを掻いた。

「そうですね、いいかもしれませんね。演劇」

とノギがフォローすると流れは決定的に演劇に傾いた。俺は裁縫ができるとか、町と場所を掛け合ってみるとか、声楽をやっていたから声は自身があるとかまた盛り上がり始めた。マイアは顔を洗ってくると言って席を外した。マイアがテロの可能性を明確に否定しているのは初めてみた。マイア自身も町と同じに変わったのかもしれない。ハキミが

「脚本だけどよぉ、ヘリク・ハリクに頼んだらどうだ」

と歯の間から笑い声を漏らした。ヘリクを知らない町の人たちはもちろん、劇場の人たちも私を含めて首を傾げる。

「なぜ急にヘリク・ハリクの名前が」

と私は尋ねる。

「頼めばわかるって。大丈夫、ハキミがお礼にキスしてやると言っていたって伝えりゃ断らねぇよ」

てっきり以前、ハキミがヘリクの名前を出したのは見栄からだと思っていた。しかし、本当に知り合いなのだろうか。

「わかりました。頼んでみます。ただし」

私は指を立てる。

「一人、演劇の準備に加えてほしい人がいます。ジュカというアルナセの人間です」

一瞬空気がざわめく。が、すぐに誰かが、いいじゃないですかと言うと、差別を乗り越えるためのノーナ社だの、さすが操演者ともなると先のことまで考えてらっしゃるだの口々に囃し立て始めた。受け入れてもらえるならばありがたいが、ノギはジュカの名前を聞いても何の反応も示さなかった。ハキミは

「なんだ、知り合いか。ふーん。まあいいか。じゃ、契約成立だな」

とニヤニヤしていた。

 劇場が浮足立っているのはいつものことだったが、祭りが近づくにつれてむしろ大人しくなった気がした。エネルギーを祭りで発散しているのか、仕事でミスをして祭りをふいにしないためかはわからないが、作業服たちの間で飛び交う混沌とした指示や掛け声に、どこか一つの方向、流れができているように感じた。これは単に私が劇場の仕事が少しずつ見えてきたせいなのかもしれない。ヘリクのもとへ行くと、ヘリクも少しそわそわしているようだった。

「もうすぐ町でお祭りがあるってご存じですか」

「もちろん。心配はしていないが羽目は外しすぎるなよ」

そう言って笑う。

「それで、町で演劇をすることになって。演劇の方の」

「ほう」

意外だとでも言いたげに目を開ける。

「それで、もしよろしければ脚本をやっていただけませんか」

「私がかね。そう言われてもだなぁ」

ヘリクが自分の腹をさする。

「ハキミという男が頼めばやってくれるだろうと」

「何、ハキミだと。あいつを知っているのか」

「そちらこそお知り合いだったんですか。お礼にキスしてやるとか言っていましたけど」

「くそ、あの馬鹿」

ヘリクが子供っぽく悪態をついて頭をかかえた。

「……いいだろう、引き受けたよ。使える人数とか設備を教えてほしい」

「わかりました。決まり次第。でもまさか本当に引き受けて下さるなんて」

ヘリクが顔を真っ赤にして耳を引っ張る。

「昔は好きだったんだよ、合同演劇もの。いつの間にか卒業してしまったが。……それで、実は若い頃は小説を書いていたことがあってな。いわゆる合同演劇ものの中でも操演ものの娯楽小説だが。主人公が悪い敵を倒して世直しをするような。若気の至りというか、今読めばひどいものだが、あいつってばまったく」

ヘリクが動揺しているところを見るのは初めてだった。この態度も恥ずかしいらしい過去を打ち明けるのも私への信頼だと思っていいのだろうか。

「言っておくが」

「他の人には昔のことは秘密にします」

「助かる」

ヘリクがテーブルの水をごくごくと飲み干す。

「案は考えておく。早く形にして修正もしたいから、ある程度組織は作っておくように」

ヘリクが深いため息をついて平静を取り戻そうとする。私はまた感謝の言葉を伝えると退出し、その後劇場の知り合いに演劇について誘ってまわった。断る者と快諾した者は半々くらいだった。あまり人数が増えすぎるとヘリクは平行して何本も書く羽目になるかもしれない。顔を真っ赤にしてひーひー言いながらペンを走らせるかわいそうなヘリクを想像すると、少し痛快で親近感が増したような気がした。

 町の飾りが増えるにつれて、空気も祭り一色に染まっていく気がした。きっともう誰もアルナセの噂など気にしていないだろう。というのも、ジュカがノーナ社の人たちに混ざって劇の相談をしていたからだ。私はまだ声をかけていなかったが、誰かが気を利かせて先に話しをつけたのだろう。談笑していたジュカは私がやってきたのを見ると、走り寄ってきて

「誘ってくれてありがとネ」

と笑った。服を着ている状態よりも裸を先に知っている人間と話す体験というのには少し戸惑うものがあった。アルナセの女というのはてっきりもっとエキゾチックで露出の多い恰好をしているものかと思ったが、ジュカは町の人々と同じような恰好をしていた。布の質はあまり高くなく、靴も古びて汚れていたが、シンプルにまとまって全体的に調和のとれた、同世代の少女たちと比べればそれなりにおしゃれな服装をしていた。

「実は役者班に決まったヨ。しゃべるの苦手ダカラセリフない役作っといてって伝えておいテ」

と私の肩を叩いた。ジュカが役者班とは。善意か悪意かわからないが、やはり距離を置かれているのかもしれない。

「ノギと会ったか」

「会ったヨ。歓迎してくれタ」

「何か言っていたか」

「え、歓迎してくれたヨ」

「ここに来たのはノギに誘われたのか」

「アー、誘っタのはルージでショうガ」

「なら」

「尋問じゃないんだカラ。しつこいヨ」

と言って頬を膨らませて、談笑を輪に戻ってしまった。ノギが近づいてくる。

「あなたの紹介したジュカという方。頭のいい方ですね。教えたことはすぐに吸収してくれる」

「ジュカを知ってましたか」

「いえ、初対面ですよ。ちなみにどこで知り合ったんですか」

よくしゃあしゃあと言えるものだ。

「町でちょっと、ひょっこり」

するとジュカが輪の中で踊りだした。アルナセの踊りだろうか、全身がゆっくりと脈打つような動きでロープを操りだした。周期的にロープが無秩序に体に絡みつき、その一瞬後には、嘘だったようにするりと抜けてロープが回転し、円を描いた。見物人たちが驚嘆の声を上げる。ノギも見入っているようだった。気が付くと周囲の人たち皆が手を止めてジュカに注目している。踊りがペースを速める。描いた円がしだいに小さくなり、同時にロープのうねりも一見、ランダムさが増しているようだった。集中した張り詰めた空気が周りにみなぎる。例外は相変わらずハキミで、またいびきをたてていた。踊りを終え、ロープを両手でピンと張ると拍手が沸き起こった。周囲の人たちが次々と質問を浴びせているがやかましくて聞こえない。ジュカの姿も人波に押されて見えなくなった。

 演劇で役者として使える人数は二十人程度、衣装を裁縫できるのは五人程度、残りはほかの部署に配属し、演出はマイアが担当することとなった。踊りを見た人たちは何人かジュカを演出に推薦したが、向いてないからと辞退した。私は劇場の仕事を言い訳にして演劇自体の参加を断った。非難の声があがったが聞こえないことにした。ノーナ社と町の関係はマイルドになったようでステージの手配も滞りなくできたらしい。一応、ノーナ社としての活動ではなく、マイアを中心とした文化サークルだとして申請したらしいが、あんなにピリピリしていた町がそう簡単に態度を翻すのには違和感があった。いけない、邪推は私の悪い癖だ。今はただ演劇がうまくいっているのを喜べばいい。おおむね体制が整ったことをヘリクに伝えると顔を顰めた。

「ううむ、決まってしまったか」

「少しナイーブですから、政治的な内容や過度な性的、暴力的表現は控えてくださいね」

ヘリクにはノーナ社の活動であるということどころか、私がノーナ社と接触していることすら伝えていなかった。しかし私たちの間にはもはや公然の秘密であるような感覚があった。ヘリクの過去を知って、私たちにはある種の共犯関係のような親密さが流れていた。

「実は少し考えたんだが、祭りなのだからこの町にちなんでいる物語がいいと思ってな。デオロ・ハルバスカの三人の妻の話か、列車事故にあってしまった少女の話かどちらがいいだろうか」

どちらも聞いたことがあるエピソードだ。完全なフィクションを書くのは恥ずかしいようだ。それにしても、どちらの物語もラブロマンスだなんて。ヘリクをからかいたい気持ちになったが、それで機嫌を曲げられては困る。

「演技希望の方がそこそこいますからね、オーディションはしますがなるべく役は多い方がうれしいかもしれません」

「ではデオロ家の話か。しかし」

「昔を思い出しますか」

私は少し意地悪く笑う。

「黙りなさい」

ヘリクはまた少し頬を染めてしかりつける。

「すみません。では第一稿ができたら教えてください」

「ああ、わかった。すぐにそうしよう」

退出して部屋から離れると、ヘリクがうおーと悶える声が聞こえた。

 ワクはヘリクが脚本をやることを知ると驚いた。ワクは初めてノーナ社を訪れた後の数度、別の人を連れてきてやってきた。ワクは演劇に参加しなかったが、劇場の人間は何人か協力していた。トーモエがやってきて

「演劇ってなんの話」

と聞いてきた。私はノーナ社が町で演劇をすることになったと言うとトーモエは渋い顔をした。やはりまだノーナ社に良い感情はもっていないらしい。

「テロの計画か」

と口を尖らせた。

「いや、お芝居の演劇だ」

ワクが淡々と答える。表情にこそ出さないが多少むっとしたらしい。

「お前もそんな下らないことにかまわない方がいいぜ」

「演劇の脚本はヘリク・ハリクだがな」

「何、ヘリクが。やっぱりくだりまするかな」

トーモエが茶化すのを見てワクは余計に腹が立ったらしい。近くにいた作業服に乱暴な口調で

「お前、町の演劇で何を担当するんだ」

と聞く。名前は忘れたが、初めてノーナ社に来たときについてきた人だ。

「大道具ですよ。劇場と同じですね」

「おいおい、なんだよ。俺だけ仲間外れかよ」

トーモエが私の

肩を揺らす。

「劇場がおかしいと思ったら、みんな反政府組織のスパイだったのか」

と口走ると作業服たちが手を止めて一斉にトーモエをじっとみる。トーモエは唾を飲み込むと

「悪い。言い過ぎた」

と頭を下げた。

「そう言うのもわかりますけど、全然そういうのじゃないんですよ」

作業服のだれかが騒ぎ初め、口々に賛同し始める。トーモエはこれを見てどう思うのだろう。余計ノーナ社が危険な組織であるという確信を深めたのではないか。ワクはそこまでにしておけ、と言って作業服たちを鎮めたが、演劇の話題で盛り上がりだした。トーモエはそのまま何も言わないで私の顔を見た。劇場の喧騒が激しくなるにつれて私たちの間の沈黙が強調された気がした。

 完成した脚本の第一稿をもって劇場の人と町に向かうと、入ってすぐに町の人たちに取り囲まれた。遠巻きに監視はしていても直接何かを仕掛けてくるなんて考えていなかった。一人がこちらに歩み寄ってくる。いや私はこれを望んでいたのだ。何かをあぶりだすために劇場もノーナ社も焚きつけた。町の動きは必ずヒントになるだろうし、さすがにリンチは覚悟するが殺しはしないだろう。

「劇場の方々ですよね」

話しかけてきたのは知っている男だ。いつも私を監視していた。

「ええ、何か」

「あなたは操演者のルージさん」

「よくご存じで」

「いや、たいしたことではないんですけどお礼がしたくてね」人々がにじり寄る。

「何もしていませんよ、私は」

「そんなことはない」

別の女が叫んだ。

「町が変わったのはあなたのおかげだ」

また別の人が叫ぶ。

「ジュカを祭りに参加させたのはあなたですよね。本当にありがとう」

男が頭を下げた。これはどういうことだ。

「おかげで町のいやがらせが薄らいで」

「祭りがこんなに盛り上がるのも久しぶりだ」

「ノーナ社の連中も鎮めてくれて」

人々が私に笑顔を向ける。わけがわからない。劇場の人たちをちらりと見たが、困惑しているのは私だけのようだった。

「それはそうですよ。なんせ劇場の操演者なんですから」

ノノノがなぜか誇らしげに叫ぶ。

「頭を上げてください。私は本当になにもしていないんですから」

私は当惑を悟られないように人のいい笑顔を向けて見せる。

「今から演劇の手伝いに行くところなんです。もしよろしければ皆さんもいかがですか」人々は私の人格をほめて、ぜひ手伝わせてくれとついてきた。気味が悪い。懐柔策にしても手際が悪すぎる。ゲンノウはさすがルージですね、と私をつついた。どうやらこの場に私の味方はいないようだ。排除と融和を常にちらつかせてきたこの町の背後に潜む何かは、どうやらあからさまに私を取り込む方向に舵を切ったらしい。しかしなぜこのタイミングでこのようなやり方を。この茶番の目的はなんだ。思惑通り、何かは少し尻尾を見せたらしい。しかし把握できる意図はなにもなかった。

 ぞろぞろと人々を連れてマイアたちのところへ行く。マイアは驚いてみせて

「また新しい仲間を連れてきてくださったんですね。ありがとう。皆さんも歓迎いたします」

と言ってノギを呼び、私を取り囲んだ人たちをどこかに連れて行った。その中にはそもそもノーナ社とかかわっていた人もいたようで、すでに作業を始めていた、と言っても町の飾りを作りながら話しているだけだが、に加わった。劇場の人たちもすでにここでの人間関係が出来上がっていたようで、各々輪の中に消えていく。

「あなたは本当に町の方に好かれますね。うらやましいです」

当てこすりだろうか。それとも忠告だろうか。

「そんなことありませんよ。ずっと爪弾きもので」

「え、だって町の人はずっとルージが気になっていたみたいですよ」

「まあ、異分子は当然です」

マイアが溜息を吐く。

「過度な謙遜は嫌味ですよ」

「そんなつもりは、でも」

「見てください」マイアが手を広げる。「ここに集まっている人たち、みんな楽しそうですよね」

「ええ、」

「あなたのおかげでもあるんですよ。前まで私たちと劇場と町が手を取り合うなんて考えられなかった。それが今、現実に果たせている」

私のけしかけた欺瞞に過ぎないと言おうとする。

「あなたにどんな目的があるかわかりませんが」

どきりとしてマイアを見る。

「変えることができたのはあなたのおかげですよ。ありがとう」

マイアが私の腕を叩く。見知った顔が屈託なく輪に入り混じっている。確かにうがった見方をしすぎていたかもしれない。ここで何が起きているのかは何も知らない。しかし、目の前で垣根なく協力しあっている様子もまた現実だと信じたかった。本当は私にもわかっていたのかもしれない。私ができること、するべきことは閉じこもって終わりのない陰謀の中で窒息するのではなく、こうして現実を切り開いて、目的がわからなくてもその先に何もなかったとしても、何かをやってみせて誰かと手を取り合うことだったのではないか。

「そんなことより、脚本の第一稿が完成しました。デオロ家の話だそうです」

「もう完成したんですか。早速写してみんなで読みましょう。忙しくなりますよ、準備はこれから始まるんですから」

マイアが前髪をなびかせた。

 ジュカは文字が読めないので私が脚本を読んで聞かせた。アルナセの文字は書けるらしく、私の言葉を聞きながらミミズが痙攣したようなのたうち回った記号を別の紙に連ねていた。

「こんな話が有名なのカ。少しアルナセの女を馬鹿にしてないカ。デオロ・ハルバスカっテ男に都合が良すぎル」

他の人にはおおむね好評だったが、好みではなかったらしい。

「マア、やるしかないカ。参加決めちゃったシ」

ジュカが頬を掻く。

「もしかして誘ったのは迷惑だった」

「そんなことないヨ。みんな良くシテくれるようになっタ」

こう答えるのはわかりきっていた。私は何を求めていたのだろう。

「あの」と口を開き、ノギの話題を口にしようとする。

「何ダ」ジュカが私を見上げる。

「いや、本当に覚えるのが早くてすごいと思ってね」ノギのことを聞いてなんになるというのか。帰ってくる返事はどうせ、通信参謀室の客、せいぜい元老院のスパイだ、くらいだろう。ノギが元老院のスパイやニュグオールの使者だからといって何になるのだろう。それを知ってどうなる。何も変わらない。ノギは他の人たちと、当時の人間の服装やセリフの修正や予算について話し合っていた。私にはもうそれで充分だった。ジュカが目を細める。

「毎日がお祭り騒ぎで夢みたいダ」

「お祭りだからね」ノギの思惑、これはもはやどうでもいいことだったが、一人の力でできることなど何もないだろう。私の行動はジュカのために少しは役立ったのだろうか。ジュカは私の手を取って、この文字はどう読むのか。と聞いてきた。

 私は用を足し終えて作業に戻ろうとすると扉の前で襟足を伸ばした男が壁に体重を預けて立っていた。

「どうも」

「うまくいったみたいですね」

男はゆっくりと上体を起こす。

「そうですね。大盛りあがりで」

「ノーナ社がこう動くとは意外でしたが」

この口ぶりだと町の人間だろうか。

「アルナセの女をうまく利用できた。ふん、何がアルナセだよ、馬鹿馬鹿しい」

男が首を鳴らす。

「馬鹿馬鹿しいって」

「あのジュカって女の話ですよ。やっぱりあれ、アルナセ出身じゃないですよ。言われた通り調べましたから。おかしいと思ったんですよね。通信参謀室にアルナセの女がいるなんて」

意味がわからず私は茫然と立ち尽くしていた。男はそれを先を促すしぐさと受け取ったらしい。

「町の人間は簡単でしたよ。もともとお偉いさんには憧れというかコンプレックスがありましたから。なんであんなに操演者なんてものが好きなんでしょうね。ノギも馬鹿なやつだ。全部お見通しなのに、いや本当は知っているのかな、立派に道化を演じてくれる。傑作なのはあのもう一人の操演者。立派に道化をやってくれていると思えば、道化に誇りまで持ちだしたらしい。操演者らしい奴隷根性で涙が出ますね。肉屋のことは町の人も忘れるそうです。本当に町の連中は想像通りに動いてくれちゃって笑っちゃいますよ。あ、ハキミの噂を知っていますか」

「ああ」

ブラフだが今は情報が欲しかった。

「誰だお前」

男の眼付が急に鋭くなる。

「なぜ噂を知らない。トーモエの」

「遅いヨー」

扉が開きジュカが顔を出した。

「すみません、立ち話に熱中しちゃって。じゃあ帰りますね」

そう言って男はどこかへ消えた。追いかけようとしたが、ジュカが腕にまとわりついた。

「ルージがいないと読めないヨ。すぐ戻っテ」

男はもう見えなくなっていた。戻るしかなさそうだった。

「あの、ジュカがアルナセの人じゃないって本当か」

戻りながら聞いてします。

「嘘だヨ」

間髪を入れず答える。

「いつもの噂だヨ。慣れてル。でもルージは私を信じテ」

ジュカが私の腕を自分の腰に巻き付ける。私は、もちろん信じるよと言って、マイアたちのもとに戻った。

 私は劇場に戻るとヘリクにみんなから出た脚本の修正案を説明していた。ヘリクは一つずつ検討して、脚本に手を加えていった。

「それで、どうだった。反応は」

「みんな褒めていましたよ。面白いって」

「ふん、当然だろう。私が書いたんだからな」

と言って自分の腹をポンと叩いた。

「今日はありがとう。すぐに修正も検討する」

ヘリクは上機嫌だったが、私はそんな気分にはなれなかった。あの男の言葉を思い出す。もしもあの言葉が本当なら、そんなはずはないが、私がこうして劇場や町に働きかけたことも計画のうちらしい。あり得ない。私が動いたのは、何かを探るためだ。それに決めたじゃないか。他人の思惑などどうでもいい。自分にできることをするだけだと。しかし誰かにそう思わされていたとしたら。私はこの町を劇場の現実を自分の意志で変えて見せたと思っていた。だが本当は何も起きていなかったのだ。初めから今の状況になるように何かが仕向けていたのなら、マイアは完全な道化だったというわけだ。いや、男はノギを敵視していた。マイアの命令で動いていた可能性もある。ノギとマイアが対立するだと。そんなはずはない。それに、何かがあの男を通じて私を惑わせようとしたと考える方が自然だ。陰謀でも支配でもない。ただ便所であいつがお前を嫌っているらしいという噂を又聞きさせられたようなものだ。なるほど、あの男の言葉がすべてフェイクなら筋は通る。盛り上がってきた演劇の中、私を惑わせるのに絶好のタイミングではないか。熱いシャワーを全身に当てる。私は確かに現実の断片をあの場で見た。私はジュカを信じるべきなのだ。アルナセの出身かそうじゃないかなんて自分には関係がない。現にジュカは目の前にいる。私は人の輪の中で踊るジュカを見た。それで充分じゃないか。

 自室に戻ってもなかなか眠ることはできなかった。私は眠るのをあきらめ、劇場を歩いた。今日は新月で、普段よりも廊下は薄暗かった。私は例の部屋に入った。久しぶりに入ったような気がしたが、何も変わっていなかった。あの海の向こうにアルナセがある。だから何だというのだろう。アルナセという幻影に縛り付けられてこの劇場は。その時、水平線で何かが動いた気がした。それは嘘だと知っていた。何も起こらないのは知っていた。私は機械には一瞥もせず、警報もならなかったから当然ではあるが、波止場まで駆けていった。夜の海は何も見えない。劇場から漏れる常夜灯の明かりでかろうじて自分の立っている場所を把握できた。おぼろげに海が波打つのが見えた。周りには誰もいなかった。いつも騒がしい劇場も今日は静かなように波止場に繋ぎ止められていた小舟が揺れている。私はロープを外し、小舟を沖に出した。海を見る場所が変わっても何かが変わるわけはない。当然だ。小舟が少しずつ速度を上げる。波に揺られる感覚が心地よかった。劇場から離れるごとに光が減り、何も見えなくなっているようだった。目は慣れてきたはずだが、海と空の区別がつかない。風を切って闇の中に自分が溶けていく感覚がした。目を開いているはずなのに何も見えない。その時、何かが見えた。星が見える。知識のない私にはどの星も同じに見えた。昔授業で教わった星座を探してみたが、どこにも見つけられなかった。思い出してみれば、この季節では見られない星座だった気がする。さらに小舟が速度を上げる。星の一部が隠れていることからそこに雲があるのだろう。月のない今夜ではおぼろげな輪郭も掴めなかった。私はこの劇場でのことを思い出していた。そして町のことを。カーラ家を。目の前の海を。速度の中で頭がぼんやりとしてくる。海。海自体。海の向う。アルナセ。根源的な何かを感じた。海の、劇場の、町の根源的な何か。私が少しずつ海に消えていく。

 そしてその瞬間、あらゆることが私の中で明瞭になった。 


 破裂音がした。私は目を開ける。いや、目は開けていた。何も見えないだけだ。光が見える。光だと。再び、はっきりと破裂音が聞こえた。そして小舟の近くに水柱が上がる。何が起きているのかわからない。同時にすべてを理解していた。小舟の舵をとり、劇場の方向に向きを変えて加速する。劇場は気が付くと見たことがないほど輝いている。美しいと思った。もう破裂音は聞こえなかった。振り返ると光は消えていた。劇場からけたたましい音のサイレンが鳴り響いていた。劇場に照らされ、大勢の人たちのシルエットが見えた。私は目を閉じた。そして朝日が昇るのを見た。

 殴られた頬の感触が痛みだとは気が付いていたが、自分の体のことだと実感がなかった。ヘリクは私を楽屋に監視をつけて拘束するように伝えた。エリファとトーモエはすでに沿岸でガラティオスに入って待機しているらしい。劇場ではまだサイレンが鳴っていた。作業服たちに両腕を掴まれ歩かされ、楽屋に入ると眠気が訪れた。誰も私に何も聞かなかった。連行されている際、通りがかっていくつかの部屋を覗いたが、ディスプレイがわかりやすい警戒色を発していた。劇場の人たちは、いつもと変わらない様子で慌ただしく駆けずり回っていた。耳をつんざくサイレンの中でも、自然に私の瞼は閉じていった。

 その日は一日中楽屋に居た。

 次の日、私は楽屋から出されてヘリクのもとに連れていかれた。手錠こそつけられなかったが、がっしりと作業服の間に挟まれていた。ヘリクの前に私を出すと、ヘリクは私以外は退出するように命じた。作業服たちが立ち去り、無言が続いた。

「お前は、自分が何をしたのかわかっているのか」

「教えて下さいよ。私が何をしたのか」

「……聞き方を変えよう。あの日何があった」

「何も起きなかったんですね。劇場は無事みたいだ」

「質問に答えなさい」

ヘリクの顔や語調には怒りも戸惑いも見られなかった。淡々と事務的な態度を崩さなかった。

「眠れなくて、海に出たんです。それで小舟を出しました。気が付くと破裂音がしました。もう一度破裂音が聞こえて水柱が上がりました。そのあと劇場に戻りました。あの日したことはそれだけです」

「お前はアルナセとの国境を越えた」

「そうですか」

「お前が聞いた破裂音、それはおそらく銃だ」

「銃って近世兵器のですか。でも」

「わかっているはずだ」

「何がですか」

「何が起きたのか」

「わかりません」

ヘリクは人を呼ぶと、私は再び楽屋に戻された。劇場の喧騒はいつもと変わらないはずなのにどこか懐かしく、安心させるものがあった。いつの間にか劇場の空気に染まりきったようだ。私はそれからしばらく、食事が運ばれる時以外に誰とも会うことはなかった。私たちが劇場で惰性と安寧の日々を送っていた間、アルナセでは何があったのだろうか。銃。近世兵器。アルナセ。その形を想像してみようと思ったが何も思い浮かばなかった。アルナセは私に対して極めて迅速に対応した。私は海を最近はほとんど見ていなかった。その間にもアルナセは。それに仮にこの世に銃が実在するとして、あの暗闇で確認もせずにすぐ攻撃するものだろうか。そして小舟にも私にも傷一つなかった。統一戦争、合同演劇、町の祭り。私には興味のないことだった。何も考えることができない。その後楽屋にいる間、一度も再びサイレンは鳴らなかった。

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