第2話

大道具室から発した熱気はいつの間にか劇場全体に伝播していた。どこを見ても誰かが忙しなく動きまわり、笑い声が聞こえる。トーモエも活気づいて、三日に一回はエチュードを行うようになっていた。もっともトーモエの場合は劇場の影響というより素の性格を出すようになっただけのようだ。

「一緒に飯食わね」

とじゃれつかれている内に、奇妙だと思っていたあの日のエチュードも特に違和感のあるものだとは思わなくなっていった。一方、エリファとヘリクはこの劇場に充満した異様な雰囲気を歓迎していないようだった。エリファは相変わらず飄々としていたが

「騒がしいのは苦手なの」

と言ってあまり姿を見せなくなった。対するヘリクは何やら苛立っているようだった。エチュードの報告書を持って支配人室に入ると、ヘリクは書類から顔を上げず、

「またエチュードか」

と言った。

「ええ、最近はみんな力が入っているようで」

報告書を渡す。

「やりすぎではないかね」

ヘリクが私の目を見た。

「先日、元老院のハズキュリ・ガイノン閣下に質問状を送ったよ」

「おっしゃる意味がわかりませんが」

「ハズキュリ・ガイノン閣下が君の赴任に口添えしたのは知っている」

ヘリクは執務机の引き出しから黒い封筒を取り出し、私に差し出した。これを読めということだろうか。私は受け取ると中の手紙を読みだした。差出人はハズキュリ・ガイノンだった。直接連絡を取れるとは、このヘリク・ハリクという男の地位は思ったよりも高いらしい。手紙は端正な字、恐らく秘書か弁護士の代筆だろう、で回りくどく曖昧な政治的なジャーゴンが散りばめられていた。なんとか要約すると、元老院はあくまで立法に対する諮問機関であり、一省庁の推薦状について権限もなければ関知するものでもない、というようなことらしい。

「やはり私の資格に問題があるとお考えのようですね」

「いや、閣下は君の素質に大変期待してらっしゃる」

この手紙をどう読めばそう解釈できるのか。何か特殊な暗号が仕組まれているのだろうかと思ったが、恐らくヘリクの読み方が正しいのだろう。定型句の切り貼りによって文字通りの文言とはまったく別のメッセージを取り出させるのが、このタイプの文書だとよくしっている。

「それでは」

「私の肝心な質問には一切返答されなかった」

ヘリクはコップについた水滴をぬぐい、一口水を飲む。

「君はなぜこの劇場に来た」

「文部省に推薦されて」

「志願したはずだ。でなければ候補にもならない」

「それはそうですが、カーラ家の意向です。」

「カーラ家が」

ヘリクは驚いて見せた。

「確かに世襲以外で特注品のガラティオスを与えられるのは前代未聞ですが、操演すること自体はそう珍しいものではないですよね」

「お前も質問をはぐらかしている。何のためにここに来たと聞いている。最近のこの劇場の空気は危険だ。最初からこれが目的だったのか」

「危険、ですか。外部からの刺激があれば変化が起きるのはやむを得ないと思いますが」

恐らくヘリクは仕事が増えるのを面倒がっているだろう。最近のキリキリした雰囲気に苛立って、変化のきっかけとしてわかりやすい私を目の敵にしているのだ。しばらくの沈黙の後、ヘリクは退室を命じた。

 私はそれからも海を監視し、時々掃除や操演や釣りをして変わらず過ごしていたが、劇場の狂騒は日に日に強くなっているようだった。静かだった廊下は常に笑い声が聞こえるようになり、たまに怒声も聞こえた。さらに夜になるとどこからかアルコールの臭いが漂ってくることがままあった。ヘリクは風紀には厳しそうだ。今の環境が気に食わないのも共感できる。

私はすっかり綺麗になったガラティオスの黒い体を磨いていると、ヘリクに町に食料の買い出しを命じられた。買い出しを担当していた者が風邪をひいたと説明したが、恐らくこの騒ぎの元凶らしい私を劇場から遠ざけたかったのだろう。私に扇動などできるはずもなかったが、少し今の環境から遠ざかりたい気分があった。快諾すると(もっとも拒否権はないが)照明室のホッケと一緒に荷車を押して町へ向かった。

町に出たのはこの土地に到着して以来だった。道中、ホッケは海を観測する機械について熱心に話していた。なんでも、近づくものは小舟だろうと海鳥だろうとすぐに感知するらしい。そう聞くと、あの古びた部屋で海を眺めた時間が無意味なものに思えたが、ホッケは

「最後に頼りになるのは人間の目ですから」

と言って笑った。照明室でも最近は活発になっているらしく、仲間と観測機械が百三十年前に海賊船を捉えた記録が見つかって盛り上がったと話してくれた。他には機械の様子を見て、どの種類の鳥が通ったのか推理しあって遊んでいるらしい。他の部署の様子を尋ねてみたが、ホッケは仕事内容も知らず知り合いもいないようだった。それどころか劇場の存在意義さえあまり理解していない様子だった。ヘリク・ハリクについて聞いたが知らない名前だとはにかんだ。

ゴルユの町は駅を中心に民家や商店が並んでいるが、首都とは比べるまでもなく小規模だ。平日なのもあるが人通りはほとんどなく、少ない若者は列車で近くの地方の学校や職場に通っている。路地の奥の民家で老婆がカーテンを閉めるのが見えた。ホッケはまず駅の南の八百屋に向かおうと言って歌を歌いながら先導し始めた。十字路を挟んだ先の妊婦がこちらを見つめている。なにやら視線を感じるのは歌のせいだけではないように感じた。町の老人たちは劇場の人間を嫌っているという話を思い出した。路地を抜けて開けた場所に出ると、ホッケはさらに声を張り上げて熱唱した。サビの高い声を出し切れず、声が裏返った。

駅に近づくと少し人通りが増えてきた。雑踏の奥にひと際大きな声が聞こえる。見ると長い髪を団子状に結んだ女がビラを配っている。

「人々の平等のために力をお貸し下さい」

と叫んでいる。ビラを受け取ろうとするとホッケが袖を引いた。

「最近多いんですよ、関わらない方がいいですよ」

と言った瞬間、女と目が合い、直接こちらに歩いてきて私にビラを渡した。

「ありがとうございます。今日初めて受け取ってもらえました」

そう言って女は歯を見せずに微笑んでみせると汗をぬぐった。ビラには身分差別反対、普通選挙実現、所得分配といった文字が装飾され強調されていた。

「あなたもノーナ社の運動に興味が」

と首を傾けると、私が口を開こうとする前にホッケが

「あるわけないですよ。劇場の操演者ですよこの人は」

ホッケが声を荒げた。その瞬間、喧噪が止み人々の視線が私たちに集まった。たった一瞬の沈黙だったが、ホッケがきまりの悪い顔を私に向けるとほとんどの人たちは興味をなくして自分の活動に戻った。

「いえ、だからこそそのような方が興味を持っていただけると大いに力強いです。お名前を聞いても?」

私は少しだけ溜息を吐いて

「私は操演者ですが苗字はありません」

と話すと、女の表情に困惑の色が浮かんだ。ホッケも驚いているようだ。

「しかし、いや、どういった事情か存じませんが興味があることは間違いないですよね」

曖昧な返事をすると、女はマイアだと名乗って懐から名刺を取り出して私に渡した。ホッケにも名刺を渡すか迷っていたようだが、ホッケが意図的にそっぽを向いているのを察知して手を引っ込めた。

「毎週末の午前中に勉強会をやっていますから、よかったらいらっしゃって下さい」

今度はビラよりも上等なパンフレットを渡して勉強会の場所や様子について説明し、

「茶菓子も出ますからぜひ」

とホッケに向かって付け加えた。ホッケは皮肉られたと感じたようで、眉を顰めるのを我慢して、何でもなかったかのように私の手を引っ張ってその場から立ち去った。後ろからまた女がビラを配りだす声が聞こえた。

 買い出しを済ませて劇場に戻る時には、すでに日が暮れていた。帰り道、ホッケはノーナ社の女の話題を口にしなかったが、

「そのパンフレットは見せびらかさない方がいいですよ、特にゴルユでは」

と呟いた。

 次の日、トーモエにノーナ社の人と会ったことを話した。ノーナ社に対する一般的な空気を、トーモエが劇場の一般的な人間とは言い難いが、知っておきたかった。トーモエは特権階級側の人間だが、思った以上にノーナ社に好意的だった。私に気を遣ったのかもしれないが、

「普通の人民にも苗字を名乗ることを認めるべきだと思う」

と真面目な顔で語った。トーモエ曰く、特権階級にもノーナ社に賛同している人は多いそうだ。かなり保守的な考えだった旦那様しか知らない私には驚きだった。勉強会について話すと、ぜひ自分も行きたいと言い出した。少し迷ったが、マイアの口ぶりからすると比較的オープンな会のようだったので、構わないだろうと思い一緒に行く約束をした。知らない政治結社の勉強会に参加するのは気後れしそうだったから助かったというと、トーモエは俺らダチだろ、とケタケタ笑ったが、でもそのパンフレットは操演者以外に見せない方がいいと言った。

 エリファにも話したが、あまり興味がないようだった。むしろ私がノーナ社に興味を持つのに驚いたようだった。

「私の立場は少し複雑ですし、興味を持ってもおかしくないのでは」

「そんな目立つことをするとは思わなかったよ」

エリファはどこか真面目な顔で私を見つめた。

「……何が目的」

「目的って言われても、興味があるということ以外にあるんですか」

と肩をすくめると、エリファは何も言わずに立ち去った。確かに、あらためて目的が何なのかと言われると、この劇場から離れたかったのもあったかもしれないと思えてきた。前は珍しかった劇場の狂騒も、今では煩わしく退屈な日常の中に織り込まれようとしていた。ヘリクの思惑は成功したわけだ。私はこの劇場からもいつの間にか逃れようとしている。

 外出の申請はあっさりと受理された。防衛の要である操演者が二人も外出するのにのんきなものだ。午前中に町にたどり着くには早朝に起きなければならない。私とトーモエは日の出とほぼ同時に町に出発した。

 町は休日のせいか、以前来た時よりも人が多かった。と同時に視線を感じる機会も前よりも増えたように感じた。トーモエは気にしていないようだったが、気が付いただけでも四人、私たちを監視していた。

 マイアに指定された場所はごく普通の民家だった。少し神経質になって、あたりに人がいないのを見計らってノックしようとすると、トーモエがさっさと戸を叩いてしまった。少し待つと足音がして、いかにも田舎学生のような朴訥とした男が戸を開けた。

「マイアの紹介で」

と名刺を出そうとすると、にこやかに、

「劇場の方ですよね、お連れの方もどうぞ」

と招き入れた。

 部屋には先に十五人ほど集まっていた。会釈するとまばらに挨拶が返ってきた。参加者は学生らしき人から老人までそろっていたが、ほとんど全員教育を受けた者らしき落ち着きを見せ、同時にどこかぎらついた飢えた目つきをしていた。例外は一人、労働者風の日焼けした男が奥に座って眠っていた。労働者風の男を見たのに気が付いたのか、出迎えた男が、小声で

「茶菓子だけ食べに来てすぐに寝ちゃうんですよ」

と囁いた。

 マイアは一人立って壁にもたれかかっていたが、私たちに気が付くと

「連れがいるかもとノギに伝えたら、別の人もくるなんてね」

と鼻で笑った。すぐに皮肉る癖があるらしい。私たちが席に着くと、さてと、と呟いてマイアは束になった紙を配りだした。

「今日は劇場の方がいらっしゃるかもしれないと聞いて、操演者について学びたいと思います」

と声を張り上げた。

「ノギが手伝ってくれました」

それを聞くと、案内した男が恥ずかし気に鼻を掻き、参加者たち(労働者を除く)が拍手し、私とトーモエも一泊遅れて拍手した。配られた紙は一ページ目に議題と簡単な要約が書かれ、次のページからレポートとどこかの本から引用したページが挟まっていた。

「この中にも何人か苗字をお持ちの方がいらっしゃいますよね」

とマイアが聞くと、ピンクの服を着た中年女性と小太りで禿げかかった男が手を上げ、トーモエもつられて手を上げた。何秒か過ぎて、私が一向に手を上げないことに、表情には出さなかったが、参加者たちは訝しんでいるようだった。マイアは私を指して、

「ああ、そうでした、えっとそちらの方は」

「ルージです」

「そう、ルージさん。ルージさんは操演者でありながら苗字がおありにならないんでしたよね」

とわざとらしくはっきりと言ってみせた。

「ええ」

私がそっけなく答えると少しざわめきが起き、二人は手を下ろして他の参加者と顔を見合わせた。それを確認して、トーモエも手を下げた。マイアはページを開くように指示すると、

「操演者が現代の形になったのは最近、アルナセとの合同演劇の直前です」

と言って私たちをちらりと見た。

「統一戦争で近世兵器が用いられた際、世界の人口が半分にまでなったのはご存じですよね」

参加者が何人か頷いた。

「それが三百五十年前。樹立した国際連邦はすべての兵器、火器の所持を平和裏に禁止し、かつての国家は一州としての自治権を認められました」

「平和裏ってジェノサイドの間違いだよな」

とトーモエが耳打ちした。

「兵器も軍隊も持たずに軍事力を維持する。そこで用いられたのがガラティオスでした。戦闘ではなくあくまで人形劇中の事故と言い張ったわけです。そのためのスケープゴートとして利用されたのが芸事を司る一族です。狩りや演劇をして各地を放浪していた一族は当時被差別階級でしたが、次第に荘園領主や寺院に保護されていきました」

トーモエの顔が一瞬歪む。

「そして三百年前、国際連邦は弱体化し各州はすでに独立国家を再び名乗り、各地で緊張が走っていました。そんな中、アルナセが国境を越えたのです。連邦は弱体化したとはいえ武器の放棄を掲げたハラ条約は強固な影響力を持っていました。そこで国際社会における倫理的優位と軍事力のバランスのためにあの巨人、ガラティオスが生み出された。一族は各々苗字を与えられ、誉れある芸事と武芸の千二百年に拡大された操演者の歴史が捏造されたのです」

「それは違ぇだろ」

とトーモエが立ち上がって叫んだ。

「操演者の千二百年の歴史を馬鹿にするつもりか」

「愚弄するつもりなんて、まさか。しかし、受け入れ難いかもしれませんが、事実は事実です」

とマイアは表情を変えず言った。

「何を根拠に適当なことをほざいてんだ、エッテ家の本家には千二百年の家系図と当時の記録の写本が書かれ続けているんだぞ」

「ですから、すべて政府によるフェイクで、犠牲者で差別されてきた一族を懐柔、いやねぎらうための」

「だいたいアルナセとの合同演劇だって、きっかけはキプナが海上で発砲したせいだろうが」

トーモエが声を張り上げると参加者たちが喧々諤々としゃべり始めた。トーモエの声に驚いた労働者の体がびくっと震え、あたりを見渡すと、いつものおしゃべりかか、とでも言いたげにやれやれとかぶりを振ってまた目を閉じた。

「もう行こうぜ」

トーモエは私の返事も聞かず部屋を飛び出した。仕方がない。私も席を立つと再び部屋は静かになって私に視線が集まった。

「ちょっと認識にずれがあったみたいですけど、よければまたいらしてくださいね」マイアは自分が正しいことを一切疑わない様子で苦笑いした。行きと同じようにノギに案内されて家を出ると同時に家から喧噪が戻り、トーモエは家から離れた道路の突き当りで腰に手を当てて待っていた。

 あんな非知性主義者どもの集会だと思わなかった、とトーモエは足をこれ見よがしに強く踏みしめて歩いた。

「ありえねぇだろ、これだから」

と振り返って私を見ると、何でもねぇ、と言ってまた一人で歩き出した。確かに勉強会の歴史認識は少し偏っていた。しかし、私はトーモエが千二百年の歴史という人柱の一族を慰撫するための妄想を本気で信じているのに驚いた。旦那様も昔、一族に千年間伝わる秘宝と言ってきれいな形のガラス玉を見せたことがあった。当然千年前にそのような技術があるわけがない。私は一族の秘宝も膨大な注釈のついた家系図も虚飾にまみれた英雄譚も距離を置いた目で見ていたが、自分よりも聡明で学識深いはずの旦那様は本気で信じているようだった。本当は信じるふりをしていただけかもしれない。明らかな嘘であるからこそ、存在しないはずのガラス玉のような神秘性が自分たち一族の優越性を担保していると思ったのかもしれない。旦那様は敬虔なカルジャ教の信徒であった。カルジャ教も統一戦争前(後だったかもしれない。忘れた)に国家が捏造した人工の宗教という説が定説らしい。しかし、もともと口伝で伝えられた宗教であり、残っていた記録もすべて統一戦争以前の政府の宗教排斥政策で破壊され、焼き払われたということになっているせいで、何一つカルジャ教の歴史について確かなものはない。カルジャ神はただそこにいる。我々もただそこにいればいい。というのが大雑把な教義だ。なるほど、確かに為政者に都合がよさそうだ。しかし、本当に根も葉もない宗教をこれだけ国中に信仰させることができるのだろうか。本当はどこかにルーツがあるのではないか。歴史にも政治にも無知な私がこれ以上考えても無駄だろう。一つだけ言えるのはせいぜい何かを信じ切ってしまうよりましということだけだ。

「それにしてもいけすかねぇ連中だったな」

と頭の上に手を乗せてトーモエは足を止めた。

「そうかもね」

「あいつらの明らかに人を小馬鹿にした態度。苗字がないほうが倫理的に優位だとでも思っているのかよ」

「そんなことないと思うけど」

と言うと、トーモエは振り返って大げさに口角を上げて

「まあ、一つだけ確かなことは、あんな風に何かを信じ切っちゃってる馬鹿よりは自分を疑える俺の方が数段まともってことだな」

と高い声で大笑いした。

それからしばらく、度々ヘリクは私に何かと町への用事を指示するようになった。買い出しや郵便や、指定の場所に劇場から預かった荷物を置く仕事などだったが、いい加減代り映えしない海を漫然と眺めるよりよっぽどましだった。ヘリクは私たちがノーナ社と接触したことを知っているのだろうか。私は何も言わなかったし、エリファもトーモエも言わないだろうと思っていたが、しかしヘリクは確実に知っていると確信していた。ヘリクはルーチンワークの書類事務や何も起こらないのがわかりきっている海の監視が苦にならないようだった。その一方で仕事が面白いと思っているわけでもなく、仕事は極力減らして昼行灯を気取っていた。にもかかわらず仕事に対しては鋭敏に反応した。ある日、私とエリファはワクからガラティオスを強化プラスチックに換装する案を聞いた。トーモエは家の意向で不可能らしい。説明を聞いた私たちはヘリクに許可を求めに行ったが、私たちが口を開く前に却下しその理由を説明した。予算や整備性がどうと語ったが、恐らくヘリクは単にこの劇場の変化を恐れているのだ。私たちに話す前にワクがヘリクに話していただけだと思うが、私にはこの劇場のすべてを把握しているように振る舞うヘリクが時々恐ろしかった。エリファは、

「あんなこと言っていたけど、絶対エッテ家に元老院が圧力かけたせいだよね」

とまた皮肉っぽく笑ったが、案外この女はシニカルなポーズをとるだけで、劇場のことも世の中のこともヘリクより何も知らないのではないかと思った。ヘリクは他には喧嘩している作業服たちのもとに救急セットを持ってやって来たり、誰にも話していないはずの私の仕事を前もって終わらせたりすることがあった。そして私はヘリクの思惑通り、劇場から逃れようと町へ通っている。相変わらず劇場の空気は地に足が付かず、お祭り気分でけたたましい。それこそヘリクがこの劇場を支配などできていない証拠であるが、そのコントロール不可能な事象も、より大きなヘリクの支配の一部ではないかと思わせられた。

 ある日、私はヘリクに呼び出された。ヘリクは相変わらず姿勢よく椅子に浅く腰掛け、髭をいじっていた。

「君がこの劇場に来てからどれくらい経ったかね」

「正確には覚えていませんが、しばらく経ったと思います」

「劇場には慣れたか」

「ええ、よくして貰っています」

「町にはどうだね」

「少しは慣れたかと」

思春期の子供との距離感を掴みあぐねた父親のようにいくつか質問された。私にはヘリクの意図がわからなかった。思えば初めてあった時から尋問しているのか歓迎しているのか心配しているのかわからない。

「君にはまた町へ行って貰いたい」

「承知しました。それで何を」

「通信参謀室へ行って貰う」

「それが町にあると。何ですかそれは」

「行けばわかる」

事務的な連絡を終えるとヘリクは私をさっさと追い出した。意図のわからない指令は何度かあったが、今回は輪をかけて難解だった。何かの暗号だろうか。それとも意味深で迂遠な忠告だろうか。それとも単に言葉通りに受け取ればいいのか。私はエリファの部屋に行くと、通信参謀室を知っているか聞いた。するとエリファは私の脛を蹴飛ばした。涙目で混乱していると、エリファは鼻を鳴らして、

「そういうのはトーモエに聞きなさいよ」

と言ってどこかに立ち去った。

 その後、海を監視している際、トーモエと出くわした。トーモエに通信参謀室を知っているかと聞くと、

「お前もそんなものに興味あるとはな」

と下卑た笑みを浮かべて私の脇腹をつついた。

「いや、本当に知らないんだ」

トーモエはニタニタしながら手帳に地図を書きなぐり、破って渡した。

「まあ、行けばわかるから頑張ってこいよ」

とカラカラ笑うと、私の尻をはたいた。

 翌日、私は町まで行きメモを眺めてうろうろすること数時間、通信参謀室と呼ばれるところにたどりついた。らしきその場所は薄汚い小屋で、紫やピンクのけばけばしい色彩で彩られていた。扉に会員以外お断りの表札が見える。たぶん事情を知らない一般人を入れないためだろう。意を決し中に入ると甘ったるい香の臭いが立ち込めていた。カウンターに立っていた男に、

「国立メルテ劇場のルージですが」

と伝える。

「存じておりましたよ。ここに来ることは」

男の前歯は数本欠けていた。

「では向こうで服をお脱ぎください」

「服をだって」

意味不明な指示に私は面食らった。

「でしょうが。記録を付けられたり武器を隠し持っていたりしてはたまりませんからね」

とひゃひゃひゃと笑った。通信参謀室というからには確かに何か重要な情報や作戦をやり取りするのかもしれない。それならば裸になるのは理が適っている。スパイや暗殺対策以上に裸をさらけ出すことの心理的影響が大きそうだ。私は頷くと、奥の個室に案内され、籠の中に脱いだ服を入れて男に預けた。男は籠を受け取るとそれでは、と言って個室を出て行った。小屋は薄暗く、どこからか音楽が流れていて隣の部屋の様子は窺えなかった。

 暗さに目が慣れてきた頃、足音が聞こえてきた。

「失礼しマス」

と聞こえて顔を上げると一人の少女が個室に入ってきた。髪は短く切りそろえ、前髪はカチューシャで留めていた。年は私より少し下くらいだろうか。そして驚いたのは、いや予期していたのかもしれないが、少女もカチューシャ以外は何も体に付けていなかった。

「初めましてルージさんデスよネ」とほほ笑んで私の横に座った。他に目のやり場に困り、少女の目を見ていると、

「アタシ、ジュカデス」

と言って媚びたような笑みを浮かべた。

「ジュカデス、珍しい名前ですね」

「違ウ、ジュカ」

そう言って私の腰に手を回してきた。咄嗟に避けようとすると、手をあらぬ方向について倒れこんでしまった。ジュカと名乗った少女は手慣れたように私に覆いかぶさり、私の頭の横に手を置く。

「緊張してル。やっぱり初めてカ」

「何のことだ」

「ここまで来てしらばっくれル。それもよくあるコト」

少女は私の腕を撫でて

「アナタは何をしたいノ」

と耳元でささやいた。私は力を振り絞って少女を振り下ろすと立ち上がり部屋から出ようとした。

「待って。スグ出るト、アタシが叱られル」

少女が私の左腕を掴んだ。

「本当に何をするつもりかわからないんだ」

「いい加減キモイヨ」

また退出しようとすると少女に引っ張られて一瞬体が止まり、その反動で少女がこちらに倒れ込んできた。小ぶりな胸を私の腕に押し付けながら私の顔を見ると、ゆっくりとまばたきをして

「ジャア、もう良いヨ。でももう少しここに居テ」

と言って手を離した。

「それで、ここはどこなんだ」

「通信参謀室」

「何をすればいい」

「だから好きにすればいいヨ。まったく」

ジュカがどっしりと腰を下ろし、私も斜め前に座った。

「君はここで何を」

と言うとジュカが睨みつけてきた。まずい質問だったらしい。話題を変えた方がよさそうだ。。

「訛りがあるな。出身は」

と尋ねて、出身の話題もセンシティブではないかと後悔した。

「アルナセ」

 聞き取ったはずの言葉が通り過ぎた。もう一度同じ質問をすると、ジュカはゆっくりと「アルナセ」

と繰り返した。

「亡命してきたのか」

「ボウメイ」

私の言葉を反芻してちらと首を傾げる。

「国から逃げてきたということ」

「そう。カルジャ教徒はアルナセで生きられナイ」

 この少女はアルナセの弾圧から逃れてここに来たということか。少女はアルナセ、と発音するときにも表情は変わらず、諦念のようなものを感じさせた。私の目の前にアルナセがある。海の向こうの暴力が目の前に存在している。私は少し興奮したのかもしれない。ジュカの境遇が気になった。私は月並みな質問、家族や趣味、初恋に町の噂などでジュカと談笑してみせたが、アルナセのことが頭から離れなかった。会話の節々にアルナセに縛り付けられた痛みの記憶が透けて見える気がした。ジュカは右手の甲に小さな古傷があったが、体のどこにも傷や痣が見当たらなかった。

「アルナセってどんな国なんだ」

と聞いたところでジュカは時計を見た。

「時間ヨ。よかったらまた来てネ」

 ジュカは個室から出ていくと、しばらくしてカウンターの男が服を持ってきた。

「気に入りましたか」

男がにやにやとしている。

「また来てくださいよ。スパイ呼ばわりのかわいそうな子なんです」

 帰り道も私はアルナセのことを考えていた。香の気持ち悪い臭いが抜けて、少し冷静になってきた。ジュカの境遇は話を聞く限りかなり悲惨なものだった。しかし話の内容がところどころ矛盾しており、ある程度同情を買うための虚飾がなされているだろう。もしかしたらアルナセ出身というのも嘘かもしれない。それにあの少女は自分がカルジャ教徒だと言った。アルナセと三百年間国交がないのに、人工宗教のカルジャ教がアルナセに伝来するわけがない。いや、カルジャ教の発明はアルナセとの合同演劇以前だったか。それにもしかしたらカルジャ教のルーツはアルナセにあるのかもしれない。それよりもアルナセが、アルナセのおぞましい独裁の犠牲者が現に目の前に存在することが嬉しかった。私は不謹慎な考えだとして頭を振った。しかし、私の仕事、劇場での日々が無駄ではなかったことを確信できた気がした。

 劇場に戻っても私はまだ混乱していた。何に対して戸惑っているのかわからなかったが、ただそこに存在しているだけの存在だったアルナセがはっきりと輪郭を持って私の前に立ち昇ってきたように感じた。ノーナ社の人間たちもキプナのはっきりとした輪郭を実感できていたのだろうか。無性に海が眺めたくなった。例の古びた部屋には誰もいなかった。しかし、何枚か地図が更新され(といっても紙が新しくなった程度だが)、使い方のわからない機械もいくつか修理されているようだった。波の音が人の声でかき消される。いつも通り海を監視する。当然何もない。太陽の位置が変わっているのに気が付いた頃、海鳥が一羽横切るのを見た。

「こんなところに居たのか」

いつの間にかトーモエが後ろに立っていた。足音にも気が付かないほど集中していたのか。

「で、どうだったよ。同業者とは」

「同業者って」

「しらばっくれるなよ。行ったんだろ、通信参謀室」

「行ったけど、あの女が同業者なのか、それとも男」

「あ、男を相手にしたのか、お前。歌に踊りの密室劇」

と言ってヒヒヒと笑った。流行歌からの引用だろうか。

「あの裸の人間も操演者なのか」

「違う違う。俺たちと同じ芸事を司る高貴な人柱」

「あの部屋は何だったんだ」

「あー、詳しくは知らねぇけど、昔のお偉いさんの会議室みたいなもんだったらしい。で、工作員対策で裸になって、女たちに給仕とか、メッセンジャーとかやらせてみたいな。俺はいろいろサービスさせるために会議っていってみせただけだと思うがな」

「ようするに接待のための会議室で、会議のための接待小屋だったと」

「そんな感じ」

それを聞くとどっと疲れを感じた。ヘリクは私を通信参謀室に行かせて何をさせたかったのだろうか。懐柔、それとも何かの作戦を話すと思ったのだろうか。しかし、あの小屋の様子を見ると、接待以外の通信参謀室としての機能は働いていないようだ。きっとそのお偉いさんとやらが利用していた初めの頃から働かせる気もなかったのだろう。私は通信参謀室での様子を追求するトーモエをやり過ごして立ち去った。

 その晩、私はジュカの胸の感触を思い出していた。

 誰にも話していなかったが、私は時々マイアたちと接触していた。しかしノーナ社の活動にも日に日に興味が薄れていった。マイアは真剣なようだが、勉強会に参加する大半の人は実際に政府を改革できるとは思っていないようだった。マイアは、粛清などと大仰な言葉を使って改革が急務であることを主張したが、誰もそのための具体的なプランを出すことはなく、とにかくノーナ社の人間を増やすことに注力しよう、という結論に終始した。ノーナ社の規模も知名度のわりに小規模だった。全貌を把握しているわけではないが、参加している者は五十人にも満たないだろう。劇場でノーナ社を支持していることをこっそりと打ち明けてくれた者は何人かいるが、勉強会などの活動に参加している者は誰もいなかった。しかしマイアが言うには、これでも最近は参加者が多い方らしい。

「国立メルテ劇場がありますからね。関心はもともとかなり強い方です」

マイアはなぜか誇らしげに語った。

「よくある地方の劇場では」

「再軍備派が一番注目している劇場がここなのですよ」

再軍備派とは俗称で、最近議席を伸ばしているニュグオール・ザンたちの派閥のことだ。再軍備派は直接口にしたことこそはなかったが、ガラティオスを廃止し、近世兵器をよみがえらせようとしているのは公然の事実だった。

「最近、動きが活発になっていますからね、早く普通選挙を認めさせないと大変なことになる」

苗字を持たない人たちに選挙権を与えれば反ニュグオール派に傾くだろうと考えるのはノーナ社の人間特有の浅はかな楽観主義だったが、私も少し危機感は覚えていた。近世兵器を蘇らせようとする再軍備派と民主主義を蘇らせようとするノーナ社の、懐古趣味と傲慢さはどこか旦那様を思い出させるものだった。

「それに君が来た。どう転がるかわかりませんが、これは変化の兆しだと思うんです」とマイアは笑った。この劇場に来たことなのか、ノーナ社に参加していることか、恐らく両方だろう。

「買いかぶり過ぎですよ。一人の言動で世の中は変わるものでもありませんし」

「変わりますよ」

マイアは至って真剣だった。

「世界というものは維持しなければ簡単に風化して劣化してしまうものです。私たちはただ崩れかけた壁にツルハシを少しずつ振るえばいい」

これほどの楽天家でなければ政治活動など、やってられないかもしれない。ノギたちは素晴らしいお考えです、と言って拍手した。マイアとそれ以外の人たちの間には明確な壁があった。マイアはノーナ社の幹部格だとは思っていたが、それ以上の役割でもあるのだろうか。すると神経質そうな顔をした青年が手をすっと上げた。

「それはテロ、暴力に訴えてでもということですか」

場が凍てつく。

「手段の正当性だけが結果の正当性を保障します」

とマイアは堂々と宣言した。また参加者たちは喝采した。私と質問した青年とノギだけが違和感に気が付いたようだった。マイアは質問をはぐらかしている。もしや暴力も正当な手段と考えているのでは。しかし仮に手段として、武力蜂起やテロを考えていてもせいぜいできるのは鉄の棒を振り回す程度のことだろう。現実的ではない。このノーナ社の空気を見ても。マイアがテロを企てたところで賛同者はほとんどいないだろう。どうも私自身変化に過敏になっているようだ。

勉強会はその回を例外として無難に、平穏に行われた。参加者はじわじわと増えているようだったが、抜ける人も数人居た。勉強会に毎回参加しているのは、マイアとノギを除けば、労働者の男くらいだった。マイアはテロの可能性について一切肯定しなかったが、巧妙に否定を避けた。いつもの退屈な勉強会を終えて、私はノギにマイアについて相談しようか迷った。しかし、もしノギがテロに共感していたら、あるいはマイアを疑っていることを非難したらと、逡巡している内に、数分も歩いてしまって、ノギを尾行してしまう形になってしまった。今日はとりあえず諦めようと思うと、ノギは見覚えのある路地に曲がりこんだ。ふと気になってノギを追いかけた。目の前に紫とピンクで彩られた小屋が見えた。ノギがあたりを見渡し始めたのでふいに隠れてしまう。ノギは誰もいないのを確認すると、通信参謀室に入っていった。私は苦笑いを浮かべて溜息を吐くとそそくさと劇場に帰った。

エチュードにおいてエリファに勝る者はいない。弓でも刀でも実力は群を抜いていた。エチュードを重ねる内、初めは新品同然だったエリファの青いガラティオスも私たちのガラティオスと同様に傷が目立つようになっていた。

「傷がついているとようやく本当にガラティオスがあるんだって実感できる気がする」

とエチュード後にエリファは呟いた。

「操演者としての自覚ということですか」

「ガラティオスって法的には着ぐるみじゃなくて操り人形扱いなのは知っているよね」

「ええ、でも」

「そう、そんな区別に意味なんてない」

エリファはいたずらっぽく笑うと、文部省のお偉いさん以外はね、と付けくわえた。

「だからガラティオスはこの国の欺瞞の象徴だったし、私の手足の延長だったし、私自身の肉体でもあった」

なぜ急にこんな話をするのかわからない。愚痴のつもりだろうか。

「確かにガラティオスを操演していると私の意識が肉体の外側に拡大された気がします」

これは気休めではなかった。私の人形と歩幅を合わせ、外との距離を見計らう内に、体が拡大したような感覚を抱くことは珍しいことではなかった。

「拡大する。そうだね、着ぐるみじゃないって意識のせいかな。私がガラティオスの方に拡大しても私とガラティオスはイコールではない」

抽象的な問答に興味はなかったが、エリファがここまで多弁になるのは珍しいことだった。求めているのは共感だろうか、それとも教育、討論。

「私はガラティオスと自分を同一視するのは愚かしいと考えていたけど、でもガラティオスについた傷だけが私の現実だって気が付いたの」

「えっと、おっしゃる意味がよく」

「いや、カルジャ教のただそこにあればいいって中々奥が深いな、と思ってね」

と言ってカラカラ笑った。まだ話を聞きたかったが

「ところで、通信参謀室はどうだったの」

と追い詰められたので逃げ出した。

 私はいつもの古ぼけた部屋に退散した。私は特に用事がない時にはこの部屋で海を眺めることが多くなっていた。この場所だけがあの劇場の狂騒から守ってくれる気がした。ガラティオスの操演席は常にモニターされている。だからエリファと違って私はガラティオスが自分の居場所だと思ったことはない。相変わらず海は凪いだまま太陽の光を反射していた。エリファの言いたいことはよくわからなかったが、早めの中年の危機というやつだろう。近頃の劇場はやかましすぎる、エリファはますます閉じこもるようになっていた。ならば今までの人生を顧みたくなってしまうのも無理はない。表現の仕方が違うだけでヘリクとエリファは似ているのかもしれない。私は棚からこのあたりの海図を取り出した。コンパスを持ってキプナとアルナセの距離を測ってみる。初めははるかな存在だったアルナセが、今ではとても身近な存在に感じられる。この感覚をエリファは警告したかったのだろうか。エリファがそんなお節介を焼くタイプには思えないが。波止場に海鳥が下りて、釣りをしている作業服たちの近くを陣取って魚を狙っていた。遠くに黒い鳥が見えた。このあたりでは見ない種な気がする。小舟にのって釣りをしている作業服たちが見える。一瞬、何かの光が反射したように思えたが、私はすぐに忘れてしまった。もうじき日が暮れようとしていた。

 そしてブザーが鳴り響いた。聞いたこともない音が急に耳をつんざいたので私は飛び上がった。音の発生源は部屋の機械からだった。ディスプレイが赤色の警戒を発し、異常を知らせていた。少しは扱いを知っている機械だった。何かが接近している。そう読み取れた。鳥だろうか、しかし今まで鳥に反応したことはない。それに早すぎる。その何かはアルナセ側からキプナ側の国境線へ向かっていた。サイズや高度を知ろうとしたが、読み方がわからない。あるいは細かいことは観測できないのかもしれない。

 私はあわてて海を見た。夕日に照らされた水平線の輪郭はぼやけてよく見えない。双眼鏡を探したが見当たらない。機械は警告を続けていた。しかし、私にはいつもと同じ海だとしか映らない。いや、違う。あれは人影ではないか。水平線に黒い点が表れた気がした。私は点の存在を確信した瞬間、その点は明らかにこちらへ移動してみせた。私には見える。そしてその点は人の形をしている。人にしては大きすぎる。まさかガラティオス。しかしガラティオスが海を渡るのか。その点はやはり少しずつ大きくなっているように思えた。が、警報が鳴りやんだ。振り返って機械を見ると通常の状態に戻っていた。再び海を見る。しかし点はすでにどこにも見つけられなかった。懸命に探したが、そのうちに日が完全に落ちた。夜になった海を見てはっと我に返る。劇場の様子がおかしい。他の部署も海は観測しているはずだ。なのに何の動きも感じられない。廊下の奥から数人の笑い声が聞こえた。私はヘリクの元へ駆け出した。

 なだれ込むように支配人室の扉を開ける。ヘリクはいつもと変わらない様子で本を読んでいた。

「報告したいことがあります」

「ノックくらいしなさい」

ヘリクは浅く息を漏らした。

「それで何か」

「私は見ました」

「何をだね」

「それは……わかりませんが、海から……でもアルナセからキプナに向かって来ていました。高速で」

「そんな報告は他から来ていないがね」

「でも」

「それが国境を越えたと」

「いや、それは」

私は機械から目をそらしたことを後悔した。

「とりあえず記録が残っているはずです」

ヘリクは深呼吸すると立ち上がった。

「君はまだ若い。だからあの海から何かがやってこないかと思う気持ちはよくわかる」

「しかし」

「君と同じように何かを見たと騒ぎ始めた人を、これまで何人も見てきた。そのほとんどは勘違い、観測機器の誤作動。ああ、クジラだったこともあったな」

と言って私の肩に手を置いた。

「しかし、事実は認めなければならない。この海では何も起こらない。書類はどうあれ戦争は終わっているのだよ」

肩の手を払いのけるか迷っていると、哀れみと同情を含んだ目をして手を離し、体の後ろで手を組んだ。

「私も若い頃はよく想像したものだ。恐ろしいアルナセの人々がやってきて私たちのガラティオスが勇猛に立ち向かう。もちろん犠牲者は出るかもしれない。しかし、その悲しみを乗り越えてでも正義のために戦わなくてはならない」

ヘリクが振り返る。

「だから君の、君たちの気持ちはわかるつもりだ。退屈で単調な毎日。何かが起きることを待っていたんだろう。同時に何も起きないことを知っている。日常が絶対のものであると確信を強めるのと比例して、何かへの期待、予感が強まる」

ヘリクは机まで歩き、置かれていた水を一口飲んだ。

「見てしまったものは仕方がない。大切なのは折り合いをつけることだ」

「しかし、何かが起きることはありますよ。現に」

「違うな。変化の兆しに見えたものが日常の一幕にすぎないことは君がよく知っているはずだ」

劇場のことだろうか。それとも私が見た何か。ノーナ社、操演者たち、エチュード。ここに来てからの記憶の断片が繋ぎ合わされて脳裏に浮かんだ。

「パラダイムはあり得ない。ただ今より悪い明日が続くだけだ」

「でも、確かに何かが起きたんです。確かめればいい」

それを聞くとヘリクは音響室に内線を回し、

「では、行こうか」

と歩き始めた。

 音響室の女が言うには、あの部屋の機械が警報を鳴らした記録はないらしい。当然私は抗議したが、音響室の女もよくあることだから、と慰めるような目で私を見た。

「もしかしたら誤作動の可能性もあります、明日念入りに見てみます」

と女はフォローしたが、余計に辱められている気分になった。先に女が退出し、私とヘリクが取り残された。

「明日、他の観測機械も異常がないが確かめさせよう」

と言ったが、今すぐ行わない時点で、私の話を信じていないことは明白だった。ある意味では信じているのかもしれない。ヘリクの目に私は、単なる偶然や勘違いを神の奇跡だと喧伝して回る手合いと同類に見えているのだろう。

「今日はゆっくりと眠るといい」

私の腕を軽く触った。子供のように扱われ、みじめな気分にさせられた。ヘリクも立ち去り、一人部屋に取り残された。私はいつの間にか潮風の臭いが気にならなくなっているのに気が付いた。気を静めようと劇場を歩く。劇場の様子はやはり何かが起きたことを感じさせる兆候はなく、すでに私は本当に何かを見たのか信じられなくなっていた。

 とっくに日付が変わっても私は眠ることが出来ず、またあの部屋に戻っていた。何もないのは知っている。ヘリクは何のためにここで働いているのだろうか。意味などないのかもしれない。仕事に意義を見出すなんて操演者的な驕りだな、と自嘲した。自分でも気が付かない内に旦那様に染まっているのかもしれない。私は例の機械を再び見てみる。今も正常に動作しているようだ。記録を見てみる。すると奇妙なことに気が付いた。昨日の記録がすっぽりと抜けている。この抜けが異常動作の原因だろうか。いや、違う。これはあの女に意図的に抜き取られたものだと確信した。私は過去の記録を遡る。抜けていない、抜けていない……。私が赴任する前まで遡ると、再び丸一日記録が抜けている日を見つけ出した。間違いない。何かが起こった記録はすべてなかったことにされている。そして、私はヘリクの真意に気が付いた。ヘリクは何も起きないと絶望しているのではない、何も起きなかったことにしないと何かが起きてしまうことを知っているのだ。ヘリクの隠蔽は恐らくこの機械だけではないだろう。この劇場の記録がどこまで改ざんされているのか見当もつかない。私は身震いした。恐れているのか、喜んでいるのかわからない。しかし、何かは起きたのだ。ヘリクはそれを隠匿し、この凡庸な日常を守ろうと邁進している。先ほどのヘリクの言葉は私への憐憫でも教育でもない。ヘリクもまた恐れて、自分に言い聞かせていたのだ。私はこの部屋に居たことを悟られないようにこそこそと自室に戻った。音響室の女はヘリクの指示で動いて記録を抹消したに違いない。ならばこの劇場の誰が敵か、私を監視しているのかわからない。私に今できるのは、休息をとることだけだと悟り、すぐにベッドで目を閉じた。

 後日、私はノーナ社であの日の体験を話した。もし本当に何かが起きたのならば、機密漏洩になる。しかし、私は行動を起こさないではいられなかった。ノーナ社の人間たちは、目を丸くして驚き、マイアも興奮して

「このような不正を行う政府は粛清しなければならない」と息巻いていた。私は何度も町へ赴き同じ話をした。

 ある日、いつも眠りに来る労働者が肉屋と話しているのが見えた。挨拶しようか迷ったが、恐らく眠っていたから私の顔は知らないだろう。それに、外でノーナ社の一員だと知られることを嫌がる人は少なくない。こっそり通りすぎようとすると、労働者が

「だから、国境超えてきたんだって。アルナセが」

と唾を飛ばしてまくしたてていた。

「そんなの誰でも知ってるって」

肉屋は困った顔をしていた。眠っているだけと思っていたが案外聞いているらしい。それよりも肉屋が知っているのに驚いた。これほどまでに噂が広がるのが早いとは思わなかった。確かに最近町の雰囲気が重苦しいような気がしていた。思い込みだと思ったが、私を監視する町の人間も増えてきているようだった。私は相変わらず町ではいい顔をされないので、どのような噂が広がっているのかわからない。町にノーナ社の人間以外の知り合いもおらず、マイアたちについても町から、世間から爪弾き気味な人が多い。その時、一人だけ候補を思い出した。

 衣服を脱ぎ捨てて個室で座る。まさかまたここに来るとは思わなかった。カウンターでジュカと会いたいと言うと二回目以降は指名料がかかると言われた。残った前歯も折ってやろうか。

「久しぶりだネ。嬉しいヨ」

と言ってすぐに私に抱き着こうとしてくる。私はさっと避けて抵抗した。

「いや、違う。また話を聞きに来たんだ」

「冷やかしはすごく困ル」

ジュカは眉に皺を作った。

「近頃町で流行っている噂について知りたいんだ」

「ウワサ」

と一瞬怪訝な顔をしたが観念したのか口を開く。

「いろいろアル。煮汁のおいしい保存法、赤ちゃんの泣き止ませ方、八百屋の三股、台風到来の予感、列車事故の真相、節税になるパンの食べ方、人さらいサーカス団、金物屋の腰痛が治ったのはカルジャ神の思し召し、八子の犬、腐った果物の利用法」

「例えばアルナセが国境を越えたとか」

と言うと、ジュカは私を突き飛ばした。

「アンタもアタシをスパイ扱いするのカ」

ジュカは立ち上がって部屋を出ようとした。

「待ってくれ、違うんだ。最近町の様子が変で、それで何か関係があるんじゃないかって」

「本当ニ違うのカ」

ジュカが憮然とした表情で振り返る。

「本当だ。もし困っていることがあるなら力になりたい」

ジュカはまだ釈然としない様子だったがまた私の横に座った。

「……アタシアルナセ生まレだから、もともと町に嫌われてル」

ジュカが言うには、今まで直接いやがらせされたことはなかったが、それでも警戒されていたそうだった。

「働く場所もここぐらいしかなかったシ」

と言ってはっとした顔をする

「イや、室長には感謝してル」

「室長って」

「カウンターの男。文部省文化局長直属文教施設戦略部振興企画課通信参謀室室長」

「待ってくれ、ここは文部省の管轄なのか」

「らしいケド」

と何でもないことのように言った。この通信参謀室が政府との共犯関係で成り立っているとは考えていたが、文部省直々の組織だとは思わなかった。

「デ、最近はアルナセの女に売るものはないとか言われル」

どうやら最近は差別が大っぴらになっているようだ。雰囲気が変わった時期を聞いたが、私が何かを目撃する少し前だった。

「正直どんなウワサかもよくわからないシ」

「話してくれないってこと」

「ア、同僚は話してくれル。近所の人も少シ。デモ、毎回違うウワサに聞こえルというか、変化していルというか、大きいウワサの一部を切り取ってアタシに伝えてるみたいナ。」

「よくわからないな」

「ウーン、みんな、ウワサを知っている人にシカウワサを話してないみたい。アタシが知っている話はウワサの一部の一部。ダカラ意味不明」

ジュカが腕を組む。

「近所の人もそう。何かにおびえてル」

「他の人に助けを求めないのか」

「アタシが姿を見せると町の人怖がっテ隠れルケド、同僚が買い物とか手伝ってくれル」

「例えばノーナ社とか」

「ノーナシャ」

「政治団体。町でビラを配っているのをよく見ないか。民権団体というか反政府組織というか」

ジュカが首を傾げる。私は少し意地の悪い気持ちになり、

「ノギを知らないか。ここに入ったことがあると思うが」

とニッと笑って言った。

「アー、ノギ知ってル。いい人。知り合いなのカ」

「同僚、というか同志かな」

私は苦笑する。

「ノギのことを知りたいのか」

「まあね」

「海の向こうで何を見た」

「え、人影」

「わかりました。ノギからハズキュリ・ガイノン閣下にご連絡申し上げます。現在ノーナ社の構成員はおおむね三百名。増加傾向にあります。そのうち五十人程度がゴルユを拠点に活動しています。最高指導者はハームだというのが公の情報ですが、ハームは存在しません。架空の人物なのかすでに死亡したのかは今のところわかりません。事実上の指導者はマイアという女です。前回の報告では危険性は低いと申し上げましたが、訂正いたします。ノーナ社にニュグオールのスパイが一人紛れ込んでいました。以来、ナイーブになって、武力も手段として考慮している様子です。先日、カッシャ家とマイアと私が接触しました。ノーナ社が、マイアがガラティオスを手にするのも時間の問題かと。ですがこのまま自由にさせていた方が都合がよろしいかと存じます。問題は国立メルテ劇場です。ララック家の女、ララック・エリファがニュグオール派から離反したそうです。もっとも小道具のシュルからの報告ですので信憑性は五分でしょうか。ララック家の女と舞台監督のワクが仲間割れしたのか、口論しているのを目撃したそうです。しかし、実際に劇場の雰囲気が殺気立っているのは肌で感じました。何度か潜入しただけですが、日に日に劇場の整備が進んでいました。どうやら送り込んだ家紋なしがうまく機能したようです。とはいえやはり海からは何の反応もないようです。これは当然ですが、最近町に奇妙な噂が立っていて気がかりです。アルナセが国境を越えてくるだとか、アルナセが子供をさらっているとか、アルナセが近世兵器の再開発に成功したとか。まあ、定期的に流行するいつもの噂の類ですが、タイミングだけに奇妙です。劇場に送り込んだ家紋なしが海からやってくる何かを見た、という妄言を吹聴する少し前から噂が目立った気がします。それに流行が早すぎる。ノーナ社の連中は仲間意識といいますか選民意識が強いですから、家紋なしの話を広めることはしていないと思います。ところで家紋なしをノーナ社にも送り込んだのも閣下のご意思でしょうか。もし私が力不足だとお考えでしたらあらかじめ謝罪いたします。無礼を重ねて申し上げれば、今の劇場の雰囲気はいっきにニュグオール派に傾きかねません。大変危険です。今、ヘリクに対して行動を起こすのは得策ではないかと。私にもヘリクの思惑が掴みかねております。今の劇場がヘリクに都合がいいのか悪いのかさえわからない状況です。最後に、カーラ家の件はどうなさいましたか。対処が難しいようでしたら家紋なしを使いたいと思います。以上」

裸の少女が滔々とまくし立てた。

「な、何」

「アナタ、ガイノンの部下と知らなかった。ア、劇場も国立ダカラみんなガイノンの部下みたいなものカ」

「あ、ああ。そんな感じかな」

と言って立ち上がる。

「今日はありがとう」

「いいヨー。また来てネ」

一仕事終えたとでも言いたげにジュカは足取り軽く立ち去った。

 劇場に帰る道中、私は今までになく混乱していた。一つだけ確かなことは、通信参謀室が本当に機能していたということだ。惰性と欺瞞こそが目くらましだった。私は、この国はもっと痩せて衰えているものだと思っていた。年々出生率は低下しているし、租税は上がって貧民が増えているらしい。統一戦争の反省からある程度コントロールしているとはいえ、目立った技術刷新も起きていない。各団体への政府の影響力も低下していると聞いたことがある。しかし力が見えなくなったのは衰退ではない。地に深く根を張って、私にも預かり知れないところで蠢いている。あるいは政府の人間たちにさえもはや地に張った何かを制御できていないのかもしれない。ハズキュリ・ガイノン。この女が私を操演者として文部省に推薦したとは聞いていた。と同時にそれが不可能なことを知っていた。元老院の権力は今や名ばかりだったはず。だからこそ議会でニュグオール・ザンのような者の増長を許したのではないか。元老院はカルジャ教やガラティオスと同じ、ただの象徴としての役割しか持っていないと思っていた。だからこそ、元老院が私のような家紋なしを認知しているというおとぎ話を屈託なく受け入れることができたのだ。おとぎ話を信じるためには、それができるだけ現実には起こりえないことでなくてはならない。起こり得るおとぎ話はただの現実の続きだ。しかしおとぎ話が現実に起きてしまった。劇場に赴任してからの日々の記憶から現実感が消えていく。いや、本当は現実感など覚えたことはなかった。ガラティオスを操演している間だけが、私は現実の延長ではなくおとぎ話の続きを生きることができた。それも違う。私がガラティオスを操演している時だけが現実だった。私の意識がガラティオスを通して拡大しエリファやトーモエと、劇場と、キプナと繋がった。これも嘘だ。私は仕事で操演しているに過ぎない。思うことはなにもない。そのすべてが正しいし、間違っていることを知っていた。過去の記憶のすべてが私の知らない誰かの現実とおとぎ話に回収され、同時に疎外されたような気がした。はっきりしているのは町にも劇場にもガラティオスにも私の居場所などなく、しかしそこに居続けなければならないことだけだった。逃げ場などどこにもない。

 劇場では誰も噂話について知らなかったし、同時に誰もが噂話について知っていた。というのも、その流行っている噂は、誰かがアルナセについての噂を隠蔽している、というものだったからだ。たまに、他の部署の観測機械の記録を見せて貰うことができた。他の人は私が何かを見たと騒いだことを知っているのかわからないが、快く、それどころか自慢げに見せてくれた。あの日の日付を確かめる。機械の読み方を教えてもらいながら記録を遡るが、何か兆候のようなものを見つけることは一度もなかった。また記録が削除された形跡もわからなかった。こうして自分の体験が存在しなかった証拠を見つけるたびに、むしろ私は何かを見たことの確信を深めた。この劇場はあらゆる勢力の陰謀が渦巻いている。そしてその陰謀に私の存在が組み込まれている。ならば簡単に私に証拠を掴ませるようなへまはしないだろう。例の部屋の警報を鳴らした機械はいつの間にかどこかに消えていた。

 この奇妙な噂が活発になったのは、エチュードが増えたからだろう。今ではほとんど毎日行っている。私の黒いガラティオスの感触にもすっかり慣れてきていた。ガラティオスの操演席は密室だが、すべてが監視、記録されている。発言や心拍数、稼働履歴などすべてだ。劇場のうねりはとっくに演出家にも伝播していた。演出家のアガナはエチュードのたびに得られたデータを分析、解析し適切なアドバイスをしてくれた。ワクともよく話しているため、人形の整備や改修にも何か提案しているのだろう。私たちのガラティオスの動きは目に見えてよくなっていた。それがエリファにはあまり面白くないらしい。いつも通りトーモエがエチュードに誘うと、露骨に嫌な顔をした。

「悪いけど、頑張りすぎじゃない」

しかし誘われれば必ず参加した。ジュカの言葉、いやノギの言葉か、それともワクか私の知らないスパイの言葉を信じれば、ジュカは再軍備派の一員で、そして離反したらしい。再軍備派にとって劇場の練度が上がって演技力が、否軍事力を強めるのは都合がいいことなのだろうか。エリファの態度がはっきりしないことで、再軍備派の思惑もつかめなかった。トーモエは印象に過ぎないが、どこの派閥に属しているわけではなさそうだった。しかし、トーモエがエチュードを増やしたことが、この劇場に蔓延する噂を確信に変える触媒になったのは事実だ。誰もが、気が付かない内に何かが変化しつつあるのに気が付いていた。劇場の人たちは各々、その変化の原因をアルナセに、ノーナ社に、そして私たち操演者などに求めたが、それもすべてが正しくてすべてが間違っているのだろう。

 ある日、波止場で釣りをしながらホッケが

「将来の夢ってありますか」

と聞いた。私は特に思いつかないと言うと、

「えー、もったいないですね。こんな時期なのに」

目を丸めて見せた。

「時期って」

「だって自分たちって今が一番若い時期なわけですし、何かしないともったいなくないですか」

というと手を私の耳に近づけて、

「それに知ってますよね、あの噂」

と囁いた。私はどの噂のことかわからなかったが頷いた。

「自分はいろいろやりたいんですよね。資格とって扱える機械も増やしたいし、新しい靴も欲しいし、わりと子供も欲しいし」

ホッケが餌の消えた釣り糸を引き上げる。

「あと笑わないで欲しいんですけど」

片目をつむってうなじを掻いた。

「ガラティオスにもいつか乗ってみたいなーなんて」

「いいよ」

「ま、やっぱり、えっ」

「乗せてあげる」

ホッケから表情が消える。

「いや、駄目ですよ。劇場的にも、その、自分なんかが」

「こっそりやれば大丈夫だから。それに怒られるのは私だから心配しないで」

私は眉を下げて口角を上げて見せた。

「責任ある立場だとちょっと危ういけど、今が一番若い時なんだからさ」

釣り糸に重みを感じて引き上げると腐った魚が引きずられて浮かんだ。

 週末の夜明け前に私とホッケは大道具室に集まった。ちょうどこの時間帯が勤務時間帯の交換時間になっており、週末は早く仕事を終える場合が多い。十分以上は誰もいないだろう。

「本当にやるんですか」

ホッケが右手で左腕を握りしめている。

「何事もチャレンジだよ」

私は黒いガラティオスに認証し起動させた。操演席から手を差し出してホッケを招き入れる。ホッケは緊張のせいか手汗でびちゃびちゃだった。正直操演グローブを貸したくないが仕方がない。

「じゃあ、動かし方は外で指示するから」

と言って飛び降りる。ホッケが涙声で文句を言った。

「じゃあまず立ってみようか。左手を丙の型で固定しながら円運動、足で第三ストリングをゆっくり刺激して」

巨体が蠢き、ホッケが悲鳴を上げる。

「大丈夫。初めはみんなびっくりするから」

人形の右手がわなわなと動く。ホッケの叫び声が聞こえた。

けっきょくその日はニ十分程度で右足の甲の動かし方を把握したあと、日が昇ったので解散することにした。ホッケはぐしゃぐしゃの顔で感謝の言葉を並べたあと、さっさと自室に逃げ込むように走って行った。私といえば、想定外の事態の連続に驚いていた。初めからホッケが動かせるとは思っていない。そもそも、起動こそさせたが、操演グローブはバイタルや指紋で認証するものだと思っていた。だから人形が動いた時、もしや初めから操演者以外が操演することを想定しているのではないかと疑った。しかし、考えてみれば当然だった。まったく動かせなければ整備だって難しいだろう。問題は、誰も大道具室に来なかったことだ。大道具室にもガラティオスにも熱関知や生体認証を含む何重もの警報が仕組まれているはずだ。いくら交代時間だからといって誰も反応しないとは考えられない。そして、今こうして待っていても誰かが来る気配はない。優に三十分は誰も来ていないだろう。明らかな異常だ。私は自室に戻ることにした。考えられる可能性は一つ。私は泳がされている。私が監視体制に探りを入れていることに気が付いたのだろう。大道具の人たちに指示できる人間は少なくない。ノギらは不可能だろうが、ヘリクにもトーモエにもエリファにも可能だろう。他にも数人の可能性は残る。ワクたちが指示されたのではなく、ワクが指示したかもしれない。と考えると、以前、ワクがノーナ社への共感を語っていたことを思い出した。ならノギの工作に賛同する可能性もあるかもしれない。いやノギの報告ではエリファと仲間割れしたと言っていた。ならば再軍備派なのか。嬉々として仕事に没頭するワクが力にあこがれるのは不自然な妄想ではない気がしてきた。私は考えるのを止めてシャワーを浴びた。いつの間にかシャワーの使用時間帯制限はなくなっていた。

町の変化をようやく実感したのは、普段買い物していた肉屋がいなくなった時だった。店内はそのまま、肉屋の主人とその妻と人数は知らないがその子供、主人の母親が一晩の内に消えたらしい。事情を聞きたかったが、肉屋の周囲の人は呼びかけても反応しなかった。私を遠巻きに眺める人の数が増えるのと反比例して、私と目を合わせる人の数は減っていった。

「それはね、怖がっているんですよ。肉が放置されていたでしょ。腐ってはもったいないからってみんなでこっそりわけてしまったそうですから」

とマイアは言った。

「それにしても町の様子がおかしい気がします」

私が顎に手を当てて答えると、マイアが懐から一枚の紙を取り出した。

「どう思う」

と手渡されて読んでみると、ノーナ社は狂ったテロリストの集団だとか、マイアは人を殺しているとかの罵倒がぎっしり大仰な言い回しで埋まっていた。正直、政府の腐敗を糾弾するマイアの論調に近いものを感じたが、

「ひどいものですね」

とそっけなく、しかし同情を感じさせるように言ってみせた。

「近頃ばらまかれるようになったんです。どこかみんなピリピリしているというか」

マイアにクマが出来ているのが見えた。辟易しているのは本当だろう。

「私たちも怖いんでしょうね。正体不明で。何をしているのか毎日駅前で説明しているのに」

「単に反対勢力の、勢力と言わないまでも投函者の思想がノーナ社と相いれないとか」

「あり得ませんよ」

マイアがあまりにもはっきり断言するので、返事をする機会を逸してしまった。

「肉屋もこの中傷ビラも原因は同じだとお考えだと」

「そうです。……私、この町の出身ではないんですけど」

マイアが前髪をかき上げる。

「最近、このゴルユという町の姿が立体的というか有機的に立ち昇って見られるようになった気がするんです。わかるんですよ、この空気は仕組まれている」

「スパイか工作員か何かですか。申し訳ないですけど、陰謀論じゃないですか」

マイアが私の目をじっと見る。少し露骨に怒らせすぎたかもしれない。

「あなた、ニュグオール派の人間だって本当ですか」

「え、違いますけど」

かまをかけているのだろうか。マイアの目は変わらず真剣だった。

「ルージ、あなたはカーラ家の出身でしたよね」

「そうと言われればそうですが」

「孤児院からカーラ家に引き取られて丁稚奉公。義務教育を修了した後の経歴はなし。そして最近になって文部省の推薦を得て異例の出世」

「よくご存じですね」

別に隠している経歴ではない。私を知る誰かに聞けばすぐにわかることだ。

「カーラ家とニュグオール・ザンは懇意みたいね」

「あり得ませんよ。旦那様はニュグオールのやり口が気に入らなかったみたいですから」

「なら、なぜあなたが劇場に居るんですか」

マイアが少し語気を強めた。

「悪いけど、あなたの黒いガラティオス。調べさせていただきました」

ガラティオスのデータは最高機密のはずだ。それを調べられるとは、ノーナ社の能力を甘く見ていたことを痛感した。

「あの人形、ほとんどの数値が既製品のポテンシャルの二十パーセントを超えています。そんな超高性能機をあなたに。あなたは何者なの」

「以前、ガラティオスは理屈をこねくり回しただけの偽りの平和だと非難されていませんでしたか」

「偽りでも現実に機能している。質問に答えていませんよね。あの人形は、あなたは何なの」

「待ってください。それが再軍備派と繋がっている証拠だとでも」

「ええ」

マイアが腕を組む。

「ニュグオールの理想はすべてのガラティオスの撤廃ですよね。ガラティオスの性能を上げることが軍の再配備に役立つとは思えませんが」

「ニュグオールは段階的に進めようとするはず。つまり演劇を本物の殺戮に変えることから始めるはずです。あの人形を人型兵器だと読み替える。そして劇場は秘密基地に。あり得ない話ではないはずです」

なるほど、一理ある推測だ。

「そうかもしれませんね。でもニュグオールとのつながりは肯定するにしても否定するにしても証明しようがありませんが」

マイアが待っていましたと言わんばかりに微笑む。

「どちらにしてもかまいません。私たちはノーナ社の同志だと思っていますから」

マイアが顔を近づける。

「そのかわり、もしニュグオール派の人が接触してきたら情報を教えて欲しいんです。例えそれがあなたの旦那様でもね」

マイアの吐息が頬にかかる。

「ええ、かまいませんよ」

これは取引にもなっていない。ただのマイアのお願いだ。私に断る理由がないだけだ。

 その後、マイアから町の噂について聞いたが相変わらず要領を得ない。マイアも町から排除されているためだろう。しかし、マイアの様子でははっきりと意味が分かっているようだった。アルナセの噂は依然増えている。それが不穏の種だと考えるのはわかる。しかしマイアは街道の西から三つ目の花壇の花がすぐに枯れることと、近所の子供がリンチされ片目を失明したことを同じ何かが根源にあると考えていた。その根源にアルナセも繋がっていると。正直ノイローゼからくる妄想だと思っていたが、あの女は想像以上の情報をもっていそうだ。妄想の中に真実が紛れていても驚かないだろう。

 マイアと別れて、あてもなく町をぶらついていた。町の様子を調べたいが、ノーナ社の人間ではマイア以上の情報は期待できなさそうだった。ジュカを思い出したが、人が変わったようにメッセンジャーになりきってしまったのを見て、不気味さを感じていた。なぜヘリクは私を通信参謀室に行かせたのだろう。二度通っても真意はいまだにわからない。本来の機能(今となってはどちらが本来の機能かわからないが)を知っていて行かせたのだろうか。すると公園のベンチに誰かが座っているのが見えた。勉強会の労働者だ。通り過ぎようと思ったが、そういえば肉屋と話していた。何か知っているかもと近寄ると、労働者は顔を上げて

「おー、政府のワンコ君じゃねぇか」

とげらげら笑った。何だ、思ったより起きていたらしい。

「どうも、ルージです。あなたはええと」

私はわざとらしくとぼけて見せた。

「ハキミだっつうの。仲間なのに薄情な奴だなぁ」

労働者の口から強いアルコールの臭いがした。昼間から飲んでいるようだ。

「えっと、ちょっと聞きたいことがありまして。かまいませんか」

「ハイ、男ハキミ、年齢は秘密でございます」

と言って一人で腹を丸めて笑った。完全に出来上がっている。この状態で聞いてもあまり意味はなさそうだがせっかくの機会だ。

「この前肉屋のご主人と話されていましたよね。仲は良かったんですか」

「何だよ、見てたなら挨拶しなさいよ。礼儀ってものを知らないなぁ」

男は持っていた瓶から直接、確実に酒だろう、を飲んだ。

「肉屋のママルとは大親友でよぉ、居なくなってびっくりしてんだよぉ」

「いなくなったってご主人がですか」

少ししらばっくれる。

「家族全員。前の日は普通に話していたのに何でなんだよ」

と泣き出した。ハンカチを差し出すと鼻をかんで返そうしたので差し上げた。

「みんなよぉ、言ってるんだよ。アルナセの奴らがさらったって。肉屋の肉を食って、皮は剥製にするつもりなんだよぉ」

なるほど、田舎者が好きそうななんともスリリングな話だ。

「夜逃げだとおっしゃっている方もいらっしゃるようですが」ただの自分の推測だが、普通に考えればこれが現実的だろう。

「それはあるかもな。この町から出たくない奴なんて誰も居ねえよ」と笑った。「でも普通は出て行ったりしねえよ。逃げ場なんてねぇんだから。どこ行ったってよぉ、同じなんだよ」瓶をベンチにどんと置く。「ああでも言ってたな、肉屋がニュグオール派と繋がっててだから消されたって」

「ニュグオール派ですって」

「ワンコ君知らねぇのかよ。今議会で力伸ばしててぇ、また大昔みたいに火を噴く車とか空を飛ぶ火薬庫とか作りたがってるイカレ野郎だよ」

肉屋がニュグオール派と繋がっているから何なのだろうか。失踪のサスペンスに一ひねり入れてみただけだろう。しかし、人々の噂にニュグオール、政府の陰謀が出てくるのは少し気がかりだった。さらにニュグオール派と対立する何かも暗示している。

「もしかしてスパイかなんかだったんでしょうか」

「肉屋がどこをスパイすんだよ。それを言うならノーナ社に潜入調査している俺を疑うべきだぜ。ちったぁここを使いな」

と言って私の頭を指でとんとん突いた。

「でもよぉ、正直本当にスパイでもあんま驚かねぇというか、世を忍ぶ仮の姿だったんじゃ、みたいな。この町の人間全員が工作員でも驚かねぇよ」

「それはどういう」

「この町の奴らはなぁ、豚なんだよ。てめえが搾取されて虐げられているのに、気が付かねぇふりして、これが普通だ、って澄ましてやがる。で、ノーナ社とか、誰でもいいけどよぉ、これはおかしいんじゃねぇかって言うと、馬鹿を見透かされた気になってうるせぇってキレ始める」労働者はぐでんぐでんになって頭を振り始める。「ま、一番の豚は俺だがな」

「体制におもねる性質が強いってことですか。でも生活がありますし仕方がありませんよ。そういうの」

「生活、現実……お前なんもわかってねぇな。そういうのは与えられるんじゃなくて作るもんなの。ヘリクを見習いな」

一瞬、緊張が走る。

「ヘリクをご存じなんですか」

「そー、俺の大親友」

ハキミがうなり声のように笑いこける。単なる酔っ払いの妄言に決まっている。ヘリクの名前なぞ調べればすぐに知ることができる。

「一緒にお仕事されていたとか」

「そーそー」

「ちなみにどのような」

「あー、いろいろだよ。いいじゃねぇか。思い出したくねぇし」

やっぱり大ぼらだったようだ。かわいいところもあるじゃないか。

「ありがとうございました。ヘリクにもよろしく伝えておきます。肉屋のご家族見つかるといいですね。警察も探しているでしょうし」

などと無難な言葉の並べて立ち去ろうとする。

「あー。警察は無理だよ」

私は歩みを止める。

「だって隣町に平和強制軍の遺跡が見つかっちゃったんだもん。警察はそっちで大忙し」

「平和強制軍ですか」

ハキミがアルコール臭い溜息を吹きかける。

「ワンコ君、本当に何も知らねぇんだな。平和強制軍ってのは、国際連邦が息してた頃の、最後の軍隊。で、内ゲバとかお偉いさんの政局ごっこのおかげで分裂しちゃって、色んな派閥が地下に秘密基地作って潜伏したの。忘れたころに発見しちゃって、みんなびっくりってわけ。政府以外が手にしたらヤバいお宝がザクザクだしよぉ。政府が手にした方がヤベェかも知れねぇけど」

「いつ発見されたんですか」

「あー……前。少なくとも肉屋の消えるもっと前。案外肉屋が遺跡を発見したから口封じされたのかもなぁ」

と言って引きつった笑い声をあげた。次の言葉を待っていたが、いつの間にか眠っていた。私は今度こそハキミを放置して立ち去った。

 遺跡が発掘されたことは一切聞いていなかった。私は劇場の情報統制を確信した。活発な動きを見せる劇場の近くで遺跡が発掘される。きな臭い話だ。あるいは、発掘されたからこそ、あの劇場の空気が醸成されたのかもしれない。発掘現場に行けば入れてもらえなくても話は聞けるだろうか、と考えて止めた。下手に敵を刺激するべきではないと思ったのだ。ハキミは町の人々に自己投影した結果、自己嫌悪を世界のすべてに向けているようだった。口にはしていないがノーナ社も嫌悪の対象なのだろう。その意味でハキミの敵ははっきりしていた。では私は。私たちは何が敵なのだろうか。アルナセの輪郭が私の中で出来上がっていく内に、気が付けば絶対の敵としてのアルナセが遠くに霧散していく感じがした。ジュカの境遇を聞けば、アルナセの体制を許してはならないと思う。しかしジュカ程度の人はキプナにもゴルユに限ったって数え切れないほどいる。私はキプナをどうしたいのだろうか。どうにもならないことは考えても仕方がない。遺跡のおぞましい殺戮兵器に思いをはせてみたが、合同演劇よりも前へ歴史を遡ることに、想像力が及ばなかった。

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