機巧新世ガラティオス

上雲楽

第1話

 私が国立メルテ劇場に到着したのは、もう既に黄昏時だった。駅から劇場へ歩く途中、見えないほどの小雨を時々頬に感じるたびに、迎えもよこさない劇場を恨めしく思ったが、いくら最前線基地の操演者に任命されたからとはいえ、自分の立場を考えれば当然かもしれない。駅のある町から劇場に伸びる街道は整備こそされていたが明かりはなく、周囲はうっそうとした林に囲まれて余計に薄暗く感じさせた。私のほかに歩いているものは誰もいない。歩きながら次第に磯の臭いが強くなっている。劇場は海沿いにあると聞いている。方向は間違っていないだろう。時折知らない鳥の鳴き声が聞こえた。劇場に到着して早々、荷物も置かせて貰えないまま門前で照会されたのには面食らった。しかし劇場支配人のヘリク・ハリクに訝しげな眼付で歓迎されても、慣れたもので特に気にならなかった。長い間、むしろ閉鎖的な空間でずっと過ごしていた人間がお客様を歓迎する方が不気味ではある。ヘリクは蓄えたあごひげを擦りながら、

「君が操演者のルージなのか」

と言って咳払いをする、

「驚くのもわかります。自分がガラティオスの操演者だなんて、戦後三百年以降、異例であることは承知しています」

私は首都で任命された頃から友人たちに何度も繰り返してきたのと同じ返事をした。

「いや、戦後ではない。我々の偉大なる祖国キプナと悪逆非道の独裁国家アルナセは現在も交戦状態にある」

ヘリクは真面目な顔つきで言ってのけたが、その言い方は使い古された常套句を口にした時特有のアイロニーを感じさせるものだった。

「私も操演者を名乗る以上、心得ています」

と言って微笑む。ヘリクは相変わらず値踏みするような眼差しを崩さなかったが、私たちの間には共犯めいた信頼が芽生えていた。ヘリクは真面目そうだが、このように政治的な冗談を使って見せる人なら、案外わかる人なのかもしれない。

「来る途中襲われなかったか」

「襲うですって」

「この町の噂だよ。この林には謎の男が潜んでいて夜な夜な人肉をむさぼるらしい」

「それはなんとも」

むしろヘリクは冗談好きな質なのかもしれない。ヘリクの無表情では冗談なのか本気なのかいまいちわからない。

 その後の手続きはスムーズに行われた。前例のない抜擢とはいえ文部省の推薦状付き。血統はともかくカーラ家出身でもある。数枚の書類にサインすると、

「後は私がやっておこう。今日はもう疲れただろう」

そう言って私の部屋に案内した。シャワーを浴びたかったが、もう入浴の時間が過ぎているからと許可されなかった。うるさい奴だ。コンクリートで覆われた自室は一人部屋だった。ベッドに机と椅子。簡単な洗面所のついた質素な部屋だ。窓は私の顔を反射し、外の様子は真っ暗で窺えない。豪華とは言えないまでも、ここでの待遇はそう悲観しすぎなくてもいいのかもしれない。ヘリクが起床時間を伝えて扉を閉めた後、濡れタオルで体を拭いた。部屋の中にも近くの海の臭いが充満している。雨も気が付かない間に止んでいたようだ。あるいは初めから降っていなかったのかもしれない。しかし、私には初めて嗅ぐ潮風よりも、波音がここまで聞こえることに驚いていた。波の音が大きいのだろうか。それとも劇場が静かなのだろうか。当然、夜であろうと監視は続けているはずだ。しかしこの静けさは人の気配を感じさせないものだった。現にヘリク以外の人は気配も感じなかった。用意されていた寝間着に着替えてベッドに転がると、やはり自分がここに来たのは間違いだったのではないだろうかという考えが一瞬よぎり、自嘲する。新しい環境でナイーブになっているらしい。町からの道のりで疲れている。

枕の硬さを意識している内に、私はいつの間にか眠っていた。

翌朝、指定の時間に第二会議室へ入った時にはもうヘリクたちが集まっていた。

「三十分前行動が基本だろうが」

背の高い瘦せこけた男が睨みつけた。これ見よがしに足と腕を組んでどっかりと深く座っている。男の靴底がかなりすり減っているのが見えた。襟につけた家紋を見ると、エッテ家の操演者のようだ。もう一人、奥にニタニタとしながら座っている女はララック家の人間らしい。

「失礼しました。以後気を付けます」

と平謝りし、ヘリクに手招きされて横に立った。

「二人も知っている通り、新しいガラティオスの操演者のルージ君だ」

とヘリクが口を開くと同時にエッテ家の者が席を立った。

「だから納得していませんよ。今まで何百年もエッテ家とララック家の二人でやってきたのに、どういうつもりですか文部省は。しかもよりにもよって」

「自己紹介がまだだったね。私はララック・エリファ。こっちの男はエッテ・トーモエ」

と女が少し大きな声で話し初め、男を制止した。私は会釈をしたが、トーモエと紹介された男はまだ苛立っている様だった。

「もともと一つの劇場には三家の操演者を揃える決まりになっている。これまでが例外だっただけだ」

ヘリクは淡々と事務的に説明した。

「しかし」

「それ、欺瞞ですよね」

ララック家の女が口を挟んだ。

「まあ、かまいませんけど」

とヘリクに眉を上げて見せる。女は幾分か理性的だと思ったが、私の目の前でシニカルな態度をとってみせる以上、やはり歓迎されているとは言い難いようだ。男は怒鳴って清々したのか女が同調してくれたことに気を良くしたのか、何も言わずに席に座った。

「とにかく、誰が増えようと仕事内容は変わらない。他に何か」

二人とも何も言わなかった。これ以上荒波を立てても無駄だと感じたのだろうか。ヘリクは最低限の仕事は終えたとでも言いたげに後ろ手を組むと、後のことは二人に聞くようにと言い残して部屋を出た。三人になった部屋に遠くから波の音が聞こえた。この時、時刻は指定時間の十分前であった。

 「つまりここでの一番の仕事は海の向こうのアルナセとの国境を監視すること。要するに何もしなくていいってこと」

劇場の施設を案内しながらエリファが言う。トーモエも付いてきているが、憮然とした、はっきりと不信を表明した表情のまま、目も合わさず一言も発しない。

「でも操演はしますよね」

「いや、ほとんどしていないよ。上演しない劇の練習なんてしたくないでしょ」

とくすくす笑った。

「それに、どうせまだルージ君のお人形が届いてないんだし」

「それも胡散臭ぇんだよ」

とトーモエが呟いた。

「……先ほど言っていた欺瞞って、どういうこと何ですか」

「いや、一つの劇場にお人形は三つと言っていたでしょ。あれ、文科省と家の利権のごたごたで決められた数字なだけで、別に意味があるわけじゃないから」

窓枠についた埃を指で拭きながら、さもなさげにはにかんだ。

「それだけですか」

「そうだけど」

と会話を交わしている内に、これまでより一回り大きな部屋に出た。壁には劣化した海図が貼られ、機械のようなものがいくつか作動していたが、壊れているものも少なくないようだった。先ほど言っていた海を監視する業務のための機械だろうか。部屋の中央の机にもまた古びた地図や本が置かれていた。

「あの方角がアルナセ」

と言ってエリファは窓の向こうを指さしたが、ただ海が見えるだけだった。まさか国境なんてものが見えるとは思わないが、対岸らしき陰さえ見えない。鳥も雲もなかった。

「この部屋は何をするところなんですか」

「正直、好きにしたらいいと思うけど、やっぱり海の監視かな。操演者の仕事ってわけじゃないけど」

と言うと椅子に座り両手を広げた。

「国立メルテ劇場にようこそ。操演者同士仲良くしましょう」

 この劇場をひとしきり案内されて、昨晩の印象が正しかったことがわかった。劇場の大きさと比べて、人がほとんど居ないのだ。操演者とヘリク以外は、数人とすれ違うだけで、昼間でも誰かと会話している様子はなかった。それどころかどのような仕事をしているのかさえわからない。二人はすれ違っても会釈する程度で挨拶はしなかった。操演者としての自負、傲慢さがそうさせるのか、没交渉な環境に慣れているせいなのかは知らないが、すれ違う人たちを紹介さえしないところを見ると、エリファにとって重要なものではないことは確からしい。ひょっとするとエリファも名前や仕事内容さえ知らないのかもしれない。

 「それでどうしたらいいんですか」

「何が」

「仕事です」

「簡単だよ、海を眺める」

出窓に放置され劣化したゴムをバラバラにしながらエリファが笑った。トーモエは劇場を歩き回っている内にいつの間にかどこかに消えていた。

 それからはエリファの言う通り、海を監視する仕事に努めた。時々海を眺めながら劇場を掃除していた。いくら事実上終戦状態だからといって国境の警戒は怠るべきではない。しかし、この三百年間何も起こらなかったのも事実だ。海を眺めていたのは、操演者としての責任感以上に初めて見る海が珍しかったかもしれない。この海の向こうにアルナセがあるという実感は湧かなかった。アルナセはガラ党が独裁政治を行い、人民を厳しく統制、搾取していると聞く。アルナセとの三百年間に渡る戦争の内、戦闘行為があったのは最初の数か月だけだった。当時、戦闘、いやこの国の言葉を借りれば演劇中の不慮の事故は誇張されながら幾度も語られ続けている。首都に居た頃は、当時の操演者たちの武勇伝を引き合いにして、人生訓や組織運営論を啓蒙する本を読んでいる人を列車で何度か見たことがある。三百年前の、しかも操演者という特殊な人たちの言動が果たして社内政治なんかに役立つのだろうかともはや小馬鹿にさえしていたが、今では、三百年間の停滞を思えば十分に今と三百年前が連続した時間の流れにあることがはっきりと理解できる。我らの神、カルジャ様はただそこにいらっしゃる。キプナの国教のカルジャ教の教えだが、敬虔な信者ではない私でさえ、凪いだ海を見続けているとその教義が深く実感された。海の向こうで繰り広げられているであろうおぞましい暴力を想像すると、むしろ漫然と海を見て過ごしている私の方が三百年の歴史から隔離され、リアリティのないものの様に感じられた。いや、だからこそ、この劇場の在り方に早く馴染もうと思って海を見続けているのかもしれない。しかし、海を眺めることに辟易する頃になっても、私はほとんど誰とも会話することさえなかった。時折ゆったりと歩いてくる作業服の者は私を見るとさりげなく、それでいてあからさまに目を伏せて通りすぎた。部署に私が顔を出すと、どこか僕科的な沈黙がピリピリとした無言の圧力に変わるのも何度も体験した。二人の操演者は観測機械の並んだあの部屋に一切近寄ることはなかった。私はこの劇場で自分が確かに役割を果たしていることを実感したかったのだろうか。自分がよく使うところから掃除をするようになった。幸い劇場の塩害と経年劣化のおかげで、掃除範囲に困ることはなかった。劇場に蔓延する埃を見ると、日常的に掃除や整備はされていないらしい。扉の開く部屋を一つずつ掃除して回り、かつてこの地で亡くなったデオロ家の操演者のことを考えていた。どこかの雑誌で歴史学者は否定していたが、息絶えるまでに十二倍の戦力差を相手にしても尚戦い続け、アルナセの軍勢を撤退せしめたそうだ。子供でも知っているほど有名な話だが、あまりの出鱈目ぶりに吹き出しそうになる。こんなおとぎ話が本気で戦意高揚に役立つと政府は考えているのだろか。きっと政府も私たちも、相手は馬鹿だから信じているに違いないと思いあっているのだろう。しばらくそのデオロ家の男の下の名前を思い出そうとしたが、いつまでも出てこなかった。窓の外に落ちた腐った魚の頭、恐らく鳥が落としたのだろう、を捨てながら、ふいに違和感を覚えた。三百年前、この劇場に居たのはデオロ家、エッテ家、ララック家の三家のはずだ。なぜデオロ家ではなくカーラ家の私がここにいるのだろう。それによりにもよって私が。なるほどトーモエが怪しむのもわかる。文部省には思惑があるのかもしれないが私には関係がない。私にできることは目の前の仕事に対処することだけだ。私は窓のサッシに溜まった埃を何時間も掻き出していた。

 たまに見る劇場の人間はたいてい寝るか、声を潜めて何かをつぶやきあっていた。一度だけ、異常な事態に出くわしたことがある。いつものように海図と海を交互に眺めていると、ブザーの音が鳴り響いた。私は驚いて立ち上がり、音のする元へ駆けていった。しかし、誰も何も反応していない。すれ違った作業服は何も聞こえないように廊下でぼうっと立っていた。音のする部屋では、一人の女がお茶を啜って、ブザーを鳴らし続ける機械を無視していた。

「なにごとですか」

私は慌てて尋ねる。

「あー、よくあるあれなんで。大丈夫です」

女はティーカップをことりと置くと伸びをした。

「ほら、他の機械はなんともないでしょう。これだけ変なんですよね」

「しかし、状況と機械のどちらが異常かわからなくても何かしないと」

「こちらに来て日が浅いですしね、わからないのもわかります」

女が口をとがらせて息を漏らす。

「この劇場でやっていくコツはですね。気にしないことですよ。退屈を。だって何も起きないんですもん」

女はゆっくり立ち上がると機械をバンバンとたたき出した。しばらくしてブザーが鳴りやむ。

「ね、大丈夫だったでしょう」

女は腰を振って体操すると、バキバキと関節の鳴る音が聞こえた。

「どちらにしても、ここは私の仕事ですから、操演者はお気になさらず」

私は何も言わず外に出た。あの女の言う通り、この劇場での過ごし方が少しわかった気がする。しかし私にはそれが許し難いことのように思えた。そう言っても私は別に腹を立てているわけではなかった。私のしたいこと、するべきこと。どちらもこの劇場に存在していると確信していたからだ。

 劇場の人たちが居眠りしていることも知っている。ある部屋、壁一面に機械の設置されている、では、毎日三人の男がいつ見ても机に突っ伏して眠っていた。私が見ていることさえ気が付かない様子だったので、一度入ってみた。機械の軋むような駆動音に混じって、三つの寝息が聞こえた。少し意地悪に足音をたてて動いても変わりはしない。私は肩をすくめるとその部屋にはもう近づかなかった。ひょっとしたら眠ることが任務なのかも。夢で敵の悪意を探知しようとしているとか。

 まあ、そんなことはありえないわけだが、それっでなくても時々見かける人々の多くはうつむくか横になっていた。旦那様だったら人前で横になるどころか、うとうとした時点で折檻していたはずだ。もう昔のことなのにいまだに背筋が凍る。

「そんなに背筋伸ばして疲れない?」

とエリファが後ろから話しかけてくる。

「いえ、大丈夫です。それより、その、ここの規律というか、その」

「ああ、少しハードすぎたかな」

私の肩越しに居眠りを続ける男たちへ目をやり、クスクス笑う。

「しかし、これでは有事の際に……」

「有事って?スパイの自爆とか?こんな田舎にそこまでする価値ないよ。まあ、わかってきたと思うけどさ、平和にしていれば何も起きないから。私も最初は緊張したから気持ちはわかるんだけどね。現実を見ると、ね」

男の一人がひと際大きないびきをして、ガタっと体を震わせた。

「おはようさん。いい夢だった?」

エリファが私に向けていた笑みそのままで男に語り掛ける。

「ぼちぼちですね。さすがにこの椅子は古すぎる。すぐお尻痛くなっちゃいますよ」

まだぼんやりと目を開けていた男は悪びれる様子もなく肩をマッサージしだした。他の二人はまだ眠り続けている。

「ね?」

とエリファ。私はどう対応するべきかわからず、この部屋の機械の用途を教えてほしいと聞くと、さも面倒そうに専門外なんで、と男は言った。

 その日は早朝に大道具室に呼ばれた。廊下を歩きながら、久しぶりに喧噪というものが聞こえてぎょっとした。足早に大道具室に入るとそこに黒い巨人が座っていた。

「お前のために特注されたガラティオスだ」

振り返ると作業着を着た眼鏡の男が腕を組んでいた。周りには同じく作業着を着た人間たちがなにやら話し込んでいた。群衆、と言えるほど多くの人間がこの劇場に居たことに今まで一切気が付かなかった。

「俺は舞台監督のワク」

と言って右手を差し出した。私はこの土地で初めて自分と同じ苗字のない人と会って内心親近感を覚えていたが、それよりも巨人が気になっていた。胸の操演席を地面に下ろして座っている巨人は大人二三人程度の高さ、立てば四五人程度になるだろうか。私は興奮して挨拶もそこそこに私の人形、ガラティオスに近づいた。背中に装飾されているはずの家紋は見当たらず、黒光りするプラスチックの人形はうっすらと顔を近づけた私の皮膚の色を反射させた。

「ハズキュリのお墨付きって心配していたけど、流石に火器は搭載していないみたいだね」

気が付くとエリファが横で私のガラティオスをじっと目を細めて見つめていた。

「ハズキュリってニュグオールとは対立してんじゃねぇの。だいたいそんなことしたら条約違反じゃん」

忙しなく動き回る作業着の者たちの間からトーモエがヘリクと歩いてきた。ワクは作業着の女に何か怒鳴っていたが聞き取れなかった。

「本当に家紋なしなんだな。何ものなんだ、お前」

トーモエが声を低めて睨みつける。

「私はカーラ家で丁稚奉公をしていました。旦那様の相手役として操演の教育は受けていましたが、孤児なので家紋はありません」

「世襲じゃねぇのになんで特注品の人形が与えられた」

「皆さんと同じです。文部省の推薦は」

「だからなぜそれがお前だったんだって聞いてるんだよ」

「さあ」

トーモエが両目を吊り上げ、まさに殴りかかろうとする剣幕で私に近づいた。ヘリクが一瞬遅れてトーモエを掴もうとして手が宙を切った。

「お前、あの人形を操演して俺とエチュードしろ。今すぐ」

「何を急に言い出すんだ。駄目に決まっているだろう」

今度こそヘリクがトーモエの腕を掴むことに成功した。

「こんな異常事態を受け入れろって、おかしいですよ」

トーモエがヘリクを振り払う。

「いいじゃないですか。別に」

エリファがにやにやと両手を上げた。

「やりましょうよ。エチュード」

「しかし」

と言いかけたヘリクはエリファに何か耳打ちされるとゆっくりと目を閉じて、それから首を縦に振った。大方ガス抜きに丁度いいとでも言ったのだろう。

「弓はなし。竹刀じゃなく刀でいいよな」

と凄むトーモエにヘリクがまた何か言おうとしたが、エリファに見つめられると溜息を吐いて、好きにしろと髭をいじった。

 ヘリクが何も言わなかったのを確認すると、吊り上がった目つきはそのままに口角を片方上げて、赤いガラティオス、大道具室の隅に佇むトーモエの人形に走り出した。私はまだ承諾なぞしていないのだが。しかし、ヘリクもエリファも作業着の者たちも、ただ眺めるばかりで私の味方をしてくれそうにはない。エチュードするしかなさそうだった。操演席に向かおうとするとエリファが白々しく

「操演できてよかったね」

と笑った。ヘリクはワクと何か話している。

「納品したばかりでまだエアジェットの調整が甘いんですよ」

と操演席で作業していた男が声を張り上げた。

「かまいません。大丈夫です」

と言って作業着の男を追い出した。操演席の入り口はイソギンチャクのように無数のストリングがせり出している。ストリングをかきわけ中に潜り込み、体の指定の位置に絡みつける。作業していた男は何か小言を呟いたように見えたが、ガラティオスの起動音にかき消されて聞こえなかった。

 操演用のグローブを装着する。感覚はカーラ家で使っていたガラティオスとあまり変わらないが、新品特有の硬さがあった。カーラ家の技術が用いられているのか、あるいはどこの家のガラティオスもたいして変わらないのかもしれない。

 「ルージのガラティオスを立てます。周りの方は離れて下さい」

と叫んで周囲を確認する。楽し気なエリファ以外は全員無表情でガラティオスを見つめている。急なエチュードはやはり歓迎されないようだ。計器を確認し、上体を持ち上げる。これまで操演していたガラティオスよりも静かな駆動音を鳴らし、ゆっくりと立ち上がる。異常がないことを確認し一歩歩かせる。やはり動作が軽い。調整不足のせいかと思ったが、歩行音を聞くと実際にガラティオスの重量が軽いのもあるようだ。また一歩、一歩ずつ歩みを進めて、大道具室に掛けられていた刀をガラティオスに取らせた。トーモエの赤いガラティオスはとっくに稽古場へ入っているようだ。私たちと同時に、作業着の者が何人か大道具室から稽古場に向かった。野次馬かと思ったが、相変わらず表情は固く、興味本位といった雰囲気ではないらしい。刀でのエチュードを思うと。私も操演を楽しむ気分にはなれなかった。

 稽古場に赤い巨人が仁王立ちして待っていた。稽古場も周囲のコンクリートの劣化が進み、整備が行き届いているとは言えなかった。一方トーモエの人形は使った形跡は認められてもほとんど傷一つなく、操演があまり行われていないという話の信憑性を感じさせた。

「逃げずに来たか」

と叫び声が聞こえたが、声色から先ほどのような激しい興奮状態にないことがわかった。ゆっくりと、しかし手慣れた動きで赤い巨人が刀を抜いた。私も刀を抜こうとすると巨人が摺り足で素早くにじり寄る。

「遅いんだよ」

赤い巨人が刀を振り下ろす。かろうじて上体をのけぞらせ抜刀するが、トーモエはすでに距離をとっていた。周囲から作業服の人たちのどよめきが聞こえた。

「どんな手を使ってこの劇場に潜り込んだ」

不意打ちも強い拒絶の姿勢も、きっと私に対す恐れからくるものなのだろう、一定の距離を保ち、今度は不用意に近づいたりはしなかった。急にイレギュラーが紛れ込めば、不安になるのももっともだ。

「私はただ仕事を拝命しただけだ。何もしていない」

こちらから近づこうとする。しかし、歩幅の感覚にまだ慣れない。敏感に私のガラティオスが反応しすぎるようだ。

「他人のしたことなら知らぬ存ぜぬで済むと思うなよ」

とトーモエの人形が刀を振り下ろす。咄嗟に刀で防ごうと半歩踏み込む瞬間と足を掛けられ地面に倒れる。この人形の動きにまだ慣れていないことを見抜かれていたようだ。倒れこんだ黒いガラティオスに刀を突き立てようとするトーモエから刀を手放し転がり逃げる。

「なら私にどうしてほしい」

幾度か逃げたところで、勢い余った赤い人形が刀を地面に突き刺して一瞬固まった。

「俺は意味を知りたいだけだ。お前の素性が」

隙を突いて激しく地面を叩き、反動で起き上がらせる。動きが段違いに早い。黒いガラティオスは想像以上の運動を発揮していた。

「そんなこと」

助走を付け飛び上がり両足で蹴り上げる。

「何っ」

とトーモエは漏らし刀を抜くのを諦めて巨人の両手で操演席をガードしたが、そのまま吹き飛ばされ地面に叩きつけられる。劣化したコンクリートが砕け土煙が舞う。ショックアブソーバーは機能しているだろうが危険かもしれない。トーモエの元に駆け寄ろうとするとよろよろと赤い巨人が立ち上がった。蹴りを受けて地面に叩きつけられた左腕は動かないらしい。他の部位もプラスチックの表面がひび割れ、へこんでいる。

「まだ終わってねぇんだよ」

と走り出す。巨人の体当たりを予期して防御姿勢を取り横に逃げようとする。しかし巨人はぶつからない。トーモエは私の手放した刀を片手で拾い上げ再び襲い掛かろうとしていた。トーモエがうなり声を発し上段から斬りかかる。しかし激情した動きは単純で、旦那様より早いものでもない。私は振り下ろされた刀を両手で挟み込み捥ぎ捨てる。刀に気を取られたその瞬間、動かない赤い左腕を掴み、腰を捻り、黒い腰にトーモエのガラティオスの重さを乗せる。トーモエが短い驚嘆の声を上げ、投げようとしたその時、私のガラティオスからけたたましいブザーの音が響き、動きが止まった。

「だから、調整不足と言ったろうが」

とガラティオスの外で誰かが叫んだ。ガラティオスの計器はバッテリー不足と各箇所の過負荷を示していた。しかし、黒いガラティオスに背負われる格好となった赤いガラティオスも動こうとはしなかった。操演席が開き、トーモエが顔を出して私のガラティオスの背中に飛び乗った。

「……俺の負けだ」

自分の背中をモニターできず、落ち着いた声だけが聞こえた。私も操演席から地面に降りる。

「完全に信頼したわけじゃねぇけど、少なくとも実力は本物みたいだな」

逆光で眩み、トーモエの表情はよく見えない。

「それは、ありがとうございます」

「今までの態度はひとまず謝る。んじゃ、今から俺たちはダチだ」

と背中から滑り落ちる。トーモエは友好的な笑顔を浮かべて右手を差し出した。おずおずと握手するとがっしりと手を握られ、左腕で肩を組まれた。作業服たちから拍手が沸き上がる。その奥でエリファは相変わらず笑みを浮かべて拍手に混ざった。

 それから私とトーモエとエリファは頻繁に話をするようになった。と言ってもこの劇場についての話題などほとんどあるものでもない。故郷や近くの町での出来事について、アルナセのおどろおどろしい都市伝説について話すことが多かった。私たちはよく釣りをした。誰の仕事というわけではないが、最寄りの町のゴルユは遠く、食料の調達は一日がかりの仕事になるため、ある程度、食料を自給する必要があった。プランターでいくつかの野菜も育てていた。

「海を見ていれば哨戒任務もこなせるし一石二鳥でしょ」

というのがエリファの言い分だった。加えて、よそ者である劇場の人間は町の老人たちからあまり良く思われていない。エリファもあまり町に行きたくないらしい。その一方でトーモエはよそ者である私に対して、今までの対応が嘘だったように打ち解けた。元来、距離の近い性分のようだ。完全に信頼したわけではないと言っていたが、そのようなそぶりは全く見せなくなった。この前はトーモエの部屋に招かれ、カードとコインを使って遊んだこともあった。あのエチュード以来、私の素性について詮索しなかった。ゲームに買ったり負けたりするたびに、泣いたり怒ったり笑ったりしていた。またトーモエは三百年前の合同演劇での伝説が好きらしい。当時のエッテ家の人間がいかに勇敢で逞しく、国家を守るために戦ったか大げさな身振りで嬉しそうに語った。その語り口から見ると、ずいぶん語り慣れているらしい。他の劇場の人間にも話して聞かせているのかもしれない。私はトーモエの大仰な演説を心を無にして聞き流す作業服たちを想像してくすりと笑った。トーモエは私が話に聞き入っていると捉えたのか、ますますこめかみに筋を立てて唾を飛ばしながら熱弁を奮った。忙しい奴だ。この距離感の急激な変化はありがたくはあるが、同時に不気味なものでもあった。自分があらゆる意味で異分子なのは事実だ。なのに、あのエチュードの一瞬でこうも簡単に好意を向けられるものだろうか。実力は認めたとしても、余計に意固地になる方が、トーモエの直情径行で思い込みの激しい性格を見ると自然に思えた。エリファは最初からトーモエがこのように動くことを見越してけしかけたのだろうか。それに、喧嘩をきっかけに友好を深めましたなんて、三百年前の英雄譚にでもありそうな陳腐な筋書きだ。そういえばここで亡くなった操演者に似たようなエピソードがあった気がする。まさかすべてトーモエの狂言ではないか。馬鹿馬鹿しい考えだ。だいたい、そんなことをする目的がわからないし、それならエチュードは竹刀で行っても良かったはずだ。刀は本気で私を排除し、不慮の事故さえ厭わない意思の表れだろう。しかし、この考えを完全に捨て去ることはできなかった。というのもワクが原因かもしれない。

 あのエチュードの後、ワクに二つのガラティオスをボロボロにしたことを謝りに行った。大道具室では大勢の人間がガラティオスに張り付いて活気づいていた。指示を飛ばしていたワクの暇を見計らって話しかけると、

「お互いこれが仕事だから気にすることはない」

と言った。人形の整備に右往左往する熱気は、学生時代の文化祭の準備を思い出させた。

「しかし、何でエチュードに応じた」

ワクは作業から目を離さず尋ねた。

「操演してみたい気持ちもありましたが、その時はそうすべきだと思ったので」

「実力を見せれば黙らせられると思ったか」

「そんなことは……いえ、全くないとは言えませんが」

「……エリファにけしかけられたのか」

ワクは私を一瞥すると、青いガラティオス、エリファの人形に目をやった。

「それは、まあそうですね。決めたのは自分の意思ですが」

と言って苦笑したが、ワクは眉一つ動かさなかった。

「エリファには気を付けた方がいい」

「えっ」

「エリファは首都から来た人間だ。政府と繋がっている気がする」

「首都から来たのは自分もですよ。それにこの国立メルテ劇場が政府と繋がっていても当然なのでは」

「ニュグオールたち、再軍備派とだ」

「それにしたってここは最前線基地ですし、おかしくないのでは」

「この国には基地も軍事力も存在しない」

「わかっていますよ。そのための劇場とガラティオスです」

と政府のプロパガンダを口にした。あまりに空虚な言葉で、自分で言いながら皮肉めいた笑みを浮かべてしまう。片眉を上げて冗談だと強調して見せたが、ワクは真顔を崩さなかった。

「それをニュグオールどもはわかっていない。ガラティオスを条約逃れの欺瞞だと切り捨てようとしている」

私はワクが何を話したいのかわからなかった。意味はないのかもしれない。中年女性が恋愛ゴシップを楽しむように中年男性は政治ゴシップを楽しむものだ。

「あいつらは三百五十年前の続きをしようとしているんだよ」

話しぶりのわりに、依然表情は冷静だった。

「お前を信頼しているのはな、お前が苗字を持たないからだ」

ワクが初めて声をひそめた。

「それがどういう」

「俺はノーナ社の言っていることはあながち間違いではないと思っている」

なるほど、運動家かぶれか。ならば苗字を持つ特権階級を敵視するのも頷ける話だ。

「この劇場は防波堤なんだよ。日常を維持するための」

片田舎の外れの風化しかけた数ある最前線基地の一つに過ぎないこの劇場の価値を過大評価しすぎている気がしたが、何十年もこの平穏さに閉じ込められていては、自分の仕事と居場所に価値があると思いたいのも無理はない。だからノーナ社の唱えるキプナの粛清にも賛同するのだろう。適当に相槌を打っていると私も同類だと思ったのか、眼鏡越しに少し目尻が緩んだのが見えた。

「ニュグオールは現実主義者を標榜しているが、俺に言わせれば自分の頭の中だけの現実に世の中を合わせようとするなんて十分にロマンチストなんだよ。何も現実が見えていない」

と言い捨てた。しかし、私にはニュグオール派もノーナ社もすべてが現実味のないことだった。政治的なあれやこれにはたいして興味はない。ただ、目の前の知り合いが何か計り知れない思惑を抱いているのではないかという不安だけが自らの問題として感じられるものだった。

 そしてワクとの会話を思い返してみれば、一切お咎めなしというのも異常なのではないかと思えてくる。勝手に調整不足で動かされ、トーモエの人形もボロボロにしたのだ。罰や小言の一つもありそうなものだが、作業服たちは全員嬉々として修理や整備に精を出している。ヘリクも何も言わない。これはあのエチュードが舞台監督のワクたちも含めた狂言だったのではないかという予感を覚えさせるものだった。が、同時にこれも馬鹿馬鹿しい考えだと振り切った。エチュードは私たちの重要な業務だ。ヘリクが黙認した以上、罰などあるわけがない。それに小言なら隠れて言うだろうし、そもそも作業服の印象程度がなんの証拠にもなるというのか。しかし、あの爛々と仕事に没頭する様子を見ると、ワクはこれを予見して、エチュードを止めなかったのではないか。不作為での関与はしていたのではないだろうかという考えも浮かぶ。なんせノーナ社の支持者だ。現状を打破しようと考えるのも突飛ではない。では突破された先は。無気力な作業服たちがガラティオスの増強を進めた先は。そのようにこの劇場の現状が打破されて行きつく先はニュグオールの理想なのではないか。私にはわからない。釣りをしている間、矛盾した考えが常に浮かび上がり、その両方があり得ないことのように思えた。それからしばらくして、劇場のどこでも誰かのひそひそとした話し声が聞こえるようになった。

 ある日、私はワクの部下のヘビとカナシャと一緒に釣りをしていた。お互いに無言のまま、海を見続ける。海は常に穏やかで、荒れているところを見たことがない。釣り糸が引っ張られ竿を上げるが、餌だけがなくなっていた。つけ直そうとするが用意した餌もすでに尽きていた。すると

「あの、よかったら使いますか」

と言ってヘビが自分の餌を差し出した。私はありがたく受け取り、再び糸を垂らす。二人がちらちらと私を見ている。

「なかなか釣れないね、ここ」

と私は話しかけてみる。

「……そうですね」

とカナシャ。少しだけ高い波が波止場に叩きつけられ跳ね返る。

「ノーナ社と接触してるって本当ですか」

と藪から棒にヘビが尋ねる。カナシャは、おい。やめろってと言ってヘビの脇を強めに小突いた。

「いや、違うけど、どうして」

「単なる噂ですよ。ほらヘビ、謝れって」

「噂って」

「だってエッテ家の操演者と対立されてたでしょう。てっきりそうじゃないかってみんなが」

「対立というほどのことじゃないけどね」

「いまじゃエッテ家の操演者もすごく楽しそうだし、何かあったのかなって」

「楽しくないの、仕事」

と私は少し意地の悪い笑みを浮かべる。

「楽しくないですよ、毎日何もないんですもん」

ヘビが釣り糸を一度引き上げ、もう一度別の場所に垂らした。

「いっそ劇場が爆発しないかなってみんな言ってますよ」

カナシャが注意すると思ったが、一緒になって笑い転げた。どうやら劇場ではお決まりのジョークらしい。

「ぶっ壊すと言ったらやっぱりエッテ家の奴だろう」

「いや、ララック家もなかなか」

「ていうか知ってるか。ヘリクやばい実験をしているらしい」

「え、それってアガナのことじゃねぇの」

益体もない噂話に没頭して二人だけの世界に入ってしまい私は取り残されてしまった。大きくあくびをする。目に涙がたまり、海がいつもより輝いて見えた。

そして波止場から潮の香に混ざって干からびた魚の死骸の臭いがした。

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