四、

06.夜響はどこにもいない、だけど――

 空気の中に、かすかに水のにおいがする。夜響やきょうの好きな、雨の降る前の匂いが、運転席側から流れてくる。助手席に座って、窓に額をくっつけて流れる商店街を眺める。窓を開けて欲しいと思う。閉じこめられた子供みたいに、夜響は黙りこくって所長に背を向けていた。

「夜響」頭の後ろで気詰まりな声がする。「どこへゆくか、訊かないのか」

「所長んち」

「もっと遠くへゆかないか」

 再び沈黙が包む。

「前に温泉へ行ったろう、あのときみたいに、どこか遠くへ旅しないか。今度は私が連れてゆく、どこでも夜響の好きなところへ」

「じゃあ、織江おりえさんのいるおっきな家まで行って」

 その言葉の意味を知ろうと広松は振り返ったが、夜響は背を向けたままだった。

「何を怒っているんだ、夜響。きみの友だちに、ぞんざいな物言いをしたからか?」

 そんなんじゃないよ、夜響は口の中で呟く。

「私は黙って家を出たきみを責めたりしないだろう、それどころか――」

 どこからか曼珠沙華の花を一輪出して、フロント硝子の前に置いた。

「違うよ」夜響は遮った。「夜響はひびきにはなりたくないんだ。だから所長に、まもるくんとこに帰って欲しい」

 そしてようやく振り返った。所長、と横顔を見上げる。一度は言葉を呑み込んだ。

「お祭りの夜を覚えてる?」

 信号が赤になって、車は止まる。

「あの日ね、織江さんを怒らせたのは、夜響なんだよ」

 広松は一片、曼珠沙華の花弁をもいだ。「知っている」

 唇に乗せ、ふっと吹く。それは頼りなく宙に浮き、すぐ足下あしもとに落ちた。

「違うんだ、夜響」と向き直る。「私はようやく気付いたんだ。夜響を人に戻そうと本気で考えて、やっとだ。夜響がいなくなる怖い夢を見てしまった。汗をかいて目を覚ましたらきみは本当にいなくなっていたが、夢とは違う。探せばみつけられる。夢の中ではね、俺が血だらけになってやぶの中を、坑道の奥を、樹海じゅうを探し回っても、夜響はもう消えてしまってみつからなかったんだ」

 信号が青に変わっても自分をみつめる所長から、夜響は目をらせずにいた。「知ってるんでしょ、もう。夜響が誰だか、あたしの名前も歳も」

 車はまた発進する。

「今日、夜響の家に行ったよね。それであんたは妹に言ったんだ。『私がきみのお姉さんだと思っていた少女は、まるで別人だった。期待させてすまなかった。一刻も早く、お姉さんが見つかることを祈っているよ』」

 広松はたじろいだ。

「知ってるよ、夜響はオニだもん。双葉ふたば怪訝けげんな顔をしたけれど、どなたなのって親が居間から顔を出したから戸惑っているうちに、あんたに逃げられちゃったんだ」

「そうだ、あの子はやきもちも逆恨みも忘れて、ただ一途に姉の帰りを祈っていた。だから問いただされてぼろが出ないうちに、私は急いで逃げてきた」

 やきもち、と夜響は眉をひそめた。「双葉が誰に、やきもち焼いて逆恨みするんだ」

 広松はちょっと苦笑した。「よくできたお姉さんにだよ」

 夜響は沈黙する。

「お母さんの期待は優等生のお姉さんに皆持ってゆかれて、自分はあきらめられてる、そんなふうに苦しんでお姉さんを嫌うようになったんだろう」

 夜響は目を伏せる。すっぱい涙の果実を食べたみたいに、眉根を寄せた。「そうだったのか」

 沈黙を続けたのちに、ぽつりと呟いた。

「所長は、夜響より夜響のことを知ってるんだね」

「そう、私は知っている。きみの名も歳も。だけどそんなことは関係ない。私の前にいるのは今も昔も、夜響という不思議なオニだけだ」

 眉間に苦渋がにじむ。

「あらがえないんだ。分かっていても」

 急ブレーキをかけ車を脇に寄せると、広松は夜響の手を取った。「これほど強い感情は長い間忘れていた。今までずっと流されてきた私に、こんな情熱を思い出させてくれたのは、きみなんだ。かつてはきみの家族のために、きみを人に戻そうと思っていた。だけどそこには俺がいなかった。今、きみの手を握っている俺こそ、俺自身だ」

「そういうのを欲って言うんだよ」夜響は広松から視線をそらす。「所長じゃない、こんなの」

「なぜだ夜響。きみは私に何度も、一緒に遠くへゆこうと誘ったじゃないか」

「所長じゃないよ! オニになったんだ!」

 広松は目を丸くする。「なるわけないだろう? それとも夜響が私をオニに?」

「してないよ! オニなんて魔物が本当にいると思う?」

 夜響は広松の手を振り払って叫んだ。「それは人のことだ!」

 何も言えない広松に、付け加える。

「みんな自己暗示にかかってたんだ」

「だがひびきは――」

 夜響は目に涙をためたまま、首を振る。

「夜響に話してくれたよ。彼女を鬼に変えた生前の恨みを。尽くし続けた夫に裏切られても何も出来ず、そんな自分が情けなくて憎らしくて、ついに病に倒れて他人ひとのためだけに生きたこの世とも、おさらばできると思ったのに、うらみは彼女を鬼女に変え、泉光院せんこういんっていう坊さんに壺に封じられて、復讐以外の喜びを忘れてしまった。ひびきも、普通の女の人だったんだよ」

 あかい瞳を所長に向ける。

「オニになっちゃえば楽なのに、ぎりぎりのところで踏ん張ってる所長が、夜響は好きだったんだ。ああそうだ、今ようやく、独占欲じゃなくて、所長を好きだって言えるよ。所長が消えちゃったからね」

「私は消えてなどいない」

「夜響の知ってる所長なら、夜響をなだめて守くんとこに帰ってくれるもん。夜響は、ユリをオニにするんじゃなかったって思ってる。ハルカがオニの力を使わなかったことに感謝してる。自分からオニになった一葉いちはは、ほんと馬鹿で弱くて、かわいそうな子供だよ」

 広松はもう一度、夜響、と白い手を握った。

「私は、私だ、夜響」

 そうか? と夜響は問うた。「夜響は、夜響じゃない。夜響なんて、存在しない」

 広松は目の前の子供に、不可解な目を向ける。

「夜響はあたしの理想であり、あんたの理想であり、そう、全ての人の心に住む幻想だ。誰かの望みを映して姿を変える。そして人を惑わせる」

「夢を見せると言え、夜響」

「狂わせるんだ、あんたみたいに。夜響なんていないよ。地球上のどこ探したって最初っからいなかったんだ」

 すうっと透けるように、閉じたままの扉から、夜響は車の外へ抜け出た。広松は慌てて扉を開け、外へ出る。「夜響、行くな、私を置いてゆかないでくれ!」

 広松の目の前で、夜響はふうわり宙に浮く。初めて会った夜と違うのは、夜響が、す、と角の根本に手を添えたことくらい。

「夜響は間違ってたんだ。あんたをこんなに変えてしまった。街の人たちを半狂乱にしちまった。夜響は帰るよ、もう一度幻に」

「待て夜響!」広松は手を伸ばす。「あんたは皆に夢を見せた。それはすごく素敵なことだ。忘れていたものを取り戻させた。あんたはほんとに素晴らしかった。ただちとやりすぎた、それだけだ。消える必要はない。最初からいなかっただって? 馬鹿を言うな! あんたは確かに、俺の前にいたはずだ。誰だったかなんて関係ない。行くな夜響、どうか消えないでくれ!」ありったけの力を振り絞って、広松は叫んだ。「己の心ばかりをみつめるな、吸い込まれちまう!」

 だけど彼の伸ばした指の先から、夜響はぐんぐん遠ざかってゆく。

 遙か彼方で、少女は呟いた。「所長は一度も、あたしの名を呼んでくれなかった」

「夜響!」

「夜響はどこにもいない」

 だけどその続きが、聞こえるはずのない下方にいる広松の耳の中で、はっきりと響いた。

 ――きみの心の中を除いては――

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