05.この胸に住みついた小さなオニを守り続けて

 様々に夜を語り尽くし、全ては丸く収まり、幕は静かに降りるのだと、ハルカは思っていた。それを望んでいた。だが夜響やきょうの話を聞きながら、軽い足取りで四階に降りてきた遥は、部屋の前で佇む見知らぬ男に眉をひそめた。夜響が後ろで呟いた。「所長、なぜここに」

 それから非難の混じる声で、

「なんでここが分かったんだ」

「前に話してくれたろう」

 と苦笑する広松に、夜響は舌打ちした。

 遥は反射的に、夜響をかばって広松の目前に立つ。その肩に、広松は手を置いた。「きみもオニだな」

「違うよ」夜響がずいと前にでた。「ハルカに触れるな。この人は違う、オニじゃない」

 それからくるりと遥に向き直り、その額に指を当てた。「ハルカには、オニの力なんか必要なかった、最初からね」

 夜響が何をする気なのか、遥はすぐにさとった。「夜響、いいの?」

 夜響はただ、穏やかな笑みを浮かべてうなずくだけ。遥は目を閉じなかった。額に集まった黒い光が、白い指に吸い込まれ、そのまま夜響の体の中にけ消えるのを見ていた。苦痛も何もない、何の変化もなかった。オニの気を心に取り込まなかった遥に、引き剥がされる痛みはない。

「夜響」

 遥は夜響を抱き寄せる。ひとり遠くへゆくことになる、といった言葉を思い出す。

「ごめんね」所長に聞こえぬよう、抱き寄せ耳に唇を近付けた。「ごめんね、一葉いちはちゃん」

「ハルカ、夜響は行くよ、この男に伝えなきゃならないことがある。だけどきっと帰ってくる」一歩離れて、夜響はしっかりと遥を見上げる。「だけどそのときにはもう、夜響じゃないかも知れない、姿が変わっているかも」

 紅い瞳は、不安に揺れた。

「あたしが愛したのは、夜響の姿じゃなくて存在そのものだよ」遥は断言する。「人は心の中に作った幻に恋をする。全てはイメージなんだ」

 夜響はうなずいた。広松と共に歩き出し、遥に向けて軽く手を振る。遥も応じる。じゃあね、とは言わない。弱い蛍光灯の下、二人の背中は遠のく。階段を回り、消えた。そのとき初めて、遥はこみあげるものに気が付いた。部屋へ駆け入り、窓から通りを見下ろす。何も考えられない空白があって、果たして夜響はスーツ姿の男と階段を下りてきた。

「夜響ー!」

 窓から身を乗り出し大きく手を振る。夜響も、何度も何度も手を振っている。暗闇の中その姿は車に吸い込まれ、白い光を乗せたまま、車も建物に紛れて消えてしまった。

 窓から離れられずに、じっと遠くの街をみつめる。あの日、夜響はこの窓枠に座っていた。どこか遠くに連れ出して、と手を伸ばすと、おやすいごようと笑って、この窓から夜の世界に連れてってくれた。全てはここから始まり、ここで終わった。

「ううん、終わってなんかない」首を振る。「あたしは大人になんかならない。今年が十代最後の夏でも」

 四月生まれの遥は、また日差しが強くなる頃には成人している。

「あたしの心の中には夜響がいる。そう、だからなりたくてもなれないんだ」

 長い眠りについていたのに起こしてしまった。今日みたいな気持ち、ずっと忘れていたのに。

 誰の心にも小さな鬼は潜んでいる。人を振り回し、時には大切なものを守るために必要なものを壊し、まともな日常を突き破るから、人々は知らないうちに首を絞め、殺すすべを心得ている。それが大人になることと、勘違いしているのか。自制と掃き違えているのかも知れない。

「あたしの中の夜響、消えないで、強く生きて。あたしの情けない理性に圧せられずに、あたしを突き動かして、いつまでも!」

 窓枠を強く握る。あの月に座ったんだよ、と空を見上げた。

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