三、
04.たとえ姿が変わっても、必ず君をみつけ出す
(
どくんと波打つ。慌てて扉を開けた。
「どうしたの、怪我してるじゃない!」
「だいじょぶだよ」
「とてもそうは見えないよ」
「オニの力を使うと痛み出すんだ。それで血も出る、だけど」
「いいから入って」
夜響の言葉を
角を生やした夜響は、ベッドに座って足をぶらぶらさせながら涙目で見上げる。「痛い。ハルカ、痛いの」
Tシャツに朱が移るのも構わず、遥は夜響を抱きしめていた。「もうオニの力なんて使わないで。そんなものに頼んないで。ずっとここにいてよ、夜響」
「ありがとう」
ちょっと驚いた遥の前をすり抜けて、夜響は流しで手を洗う。ふと傍らに目を止めて、
「これなあに」
「さっきユリちゃんが来てね、夜響に渡してって」
傷の手当てをしてもらいながら、夜響はCDを袋から出し、ひらりと膝に落ちた紙を手に取った。床にひざまずいた遥ものぞき込む。
「あいつ、
見下ろすまなざしに、小さな怒りと哀しみ、不安と安堵、理解と疑問が交錯する。夜響はそっと、CDをプレイヤーに乗せた。
〈薄汚れたバニードール 路地裏に転がってる
捨てられ忘れ去られて 猫さえも寄りつかない〉
聞き覚えのある曲が流れ出す。明るいのにねじれた雰囲気と、作られたかわいらしさに憧れていたゆりを思い出す。
〈ねえ
黒いコートと黒いマントをちょうだい
悪魔になって世界の底まで堕ちてみたいの
今のまんまじゃただのゴミだから〉
「ゆりちゃん、今はもう家に着いた頃だよ」事の
「もう帰ってる」
え、と見上げると、
「夜響の家はここでしょ?」
「うん」
遥はにっこりとうなずいた。
〈小悪魔姿で路地を抜ければ
眠らぬ町はぎらぎら光をぶちまけて
夢もドラッグも犯罪も
ごちゃ混ぜにして呑み込んでる
誰も気にしない あたしの姿なんか
くたびれたサラリーマンも 一瞬ぎょっとしただけ
すぐに去ってくわ ほら他人の振り〉
歌に耳を傾けている夜響の額から、紅く染まったガーゼをそっとはがして、
「誰かに手当てしてもらったの?」
「うん、
「織江さん?」
「所長の奥さんだよ」
遥はちょっと首をかしげる。不可解だ。慎重に言葉を選びながら、
「夜響は、所長って人が好きなんじゃないの?」
言ってみたら充分露骨だった。
「夜響はオニ、所長は
「まだそんなこと言ってるの?」口調が険しくなる。「夜響をつくったのは、あんたでしょ!」
夜響の肩にしっかりと手を置き、
「夜響はもうひとりのきみ、きみ自身なんだよ!」
夜響はまっすぐ、遥の目をみつめている。
「あんたが夜響なんだ。あんたの魅力は――」
ゆっくりと、白い髪に指をすべらせる。
「消えやしまいよ」
「魔法がとけても?」
遥はこくんとうなずく。「かぼちゃの馬車が消えても、美しいドレスを脱ぎ捨てても、王子がシンデレラを探し出したように」
二人の顔がゆっくりと近付く。すがるような赤い瞳、夜響は目尻に涙をためたまま、そっとまぶたをおろす。遥はその唇を奪った。熱い、音のない、果てしない一瞬。
「あたしは必ずあんたを探し出す」
遥が立ち上がる。夜響は熱に浮かされた少女のように、夢うつつなまなざしで見上げている。
「人に戻ったきみを本当に愛せるのは、あたしだけだ」
ぱっと花が咲くように、夜響の顔に笑顔がさす。
「だってあたしに夢を見せてくれたのは――」
言いかけた遥に、
「あたし、
「そう、ほかでもない
夜響はベッドから飛び上がって、遥の首に抱きついた。わお、と声を上げて、遥はベッドに転がる。ふたりは抱き合ったまま床に転がり落ちて、みつめあい笑いあった。ちょんと頬にキスをくれた夜響の髪を、やさしく撫でながら、
「大丈夫、もう痛まない?」
「平気だよ」
と、硬い角を指でなぞる。「力を使わなければ、痛まないから。ここまで飛んできたから、さっきは血がたくさん出たの。ハルカに早く会いたかったんだよう」
胸に頬を寄せて、甘えた声を出す。
「もう一度、ハルカを月まで連れてゆきたかった」
ふと哀しい目をした。
「行けるよ!」遥はぱっと立ちあがる。「ついてきて!」
玄関から飛び出し、夜響の手を引き走る。非常階段を五階へのぼり、行く手をふさぐ鉄の柵に足をかけたとき、向こうの部屋の扉があいて、一瞬二人は息を呑む。大学生らしい青年が、非常階段など振り返りもせずに、背を向けて歩いて行った。
「平気だった」
くすくすと笑いがもれる。遥がまず柵の向こうへ下り、続く夜響を抱きとめる。
「重いじゃん!」
遥は叫び、二人して階段にしりもちついた。
「ハルカより軽いもん、絶対」
「あたしはあんたより背が高いから」
ちび、と夜響の頭を叩いて、階段を駆けのぼる。待ってよ、と夜響も慌てて立ち上がり、後に続く。
夜の空の下、四角い屋上が広がっている。
「わあお」
夜響が歓声を上げ、
「今夜は三日月だね」
遥は手に届きそうな星空を見上げた。それから振り返って、
「なんか食べ物持ってこよう!」
と、階段へ舞い戻っていった。
ひとり屋上に残された夜響は、膝を抱え、果てしなく続く夜空を見上げる。
「ハルカ、夜響はいま
初めて遥に会った夜から次々と、所長が夜響を救ってくれた日、恐ろしく冷たいひびきの仕打ち、骨董品屋で壺を割ったとき、それから学校や家、憎ったらしい妹のこと、記憶は時を
「ほんとは、
織江さんは、不自由だから、望みも叶った喜びもあると言った。彼女は頭の中の自由な世界を、夜響に気付かせてくれた。
「それだけで充分じゃないか、現実では、頭の中では出来ないことをするほうがいい。自分以外の誰かが、いるんだから。それを、自分の時間が奪われると思って避けてきた
あたしを好きんなって、夜響。心のずっと底から、
「夜響は誰も好きにはなれないんだ。ハルカにも所長にも、好きだとは言っていない。だけど、ううん、だからこそ、全ての人に愛して欲しい」
――オニになったんだね、あたし――
涙がこぼれる。
「泣くな、
声に出したそばから、夜響は袖を濡らしていた。
「夜響ー!」
片手に大きな袋を
「夜響、お酒飲めるよね?」
やや不安げにうなずくと、
「よーっし、今宵は宴会ぞ!」
夜響は、遥が下のコンビニで買ってきた、袋の中身をのぞきこむ。「なんで日本酒……」
「太巻きも買ってきたの。あとお菓子。今夜は飲むぞー」
ちらりと夜響を見下ろして、遥は横から抱きついた。
「夜響、大好きだよ」
遥は変わった、と夜響は胸の内で呟く。オニにならなくても、変われるんだ。
「
夜響が恥ずかしそうにうなずくと、遥は呼ぼうとして、結局照れてやめてしまった。視線をそらす遥を、夜響はかわいいと思う。
曼珠沙華の消えた着物の裾には、鞠がひとつ描かれている。夜響はこめかみの傷を気にしながら、それを手のひらに乗せた。月をめがけて投げ上げれば、夜気を切ってぐーんと月より小さくなる。それを追って遥が走る。次第に大きく近付く鞠を、飛び上がって両手に挟んだとき、遥は夜の中に浮いていた。
「夜響! じゃなくて
「無理に呼ばないで」
夜響は頬を赤らめる。走って鞠に飛びつく。
「ハルカ、目ぇつぶって。このままあの三日月まで飛んでゆけるよ」
二人は手を取りあって目を閉じる。心に幻を描いて目を
「あ、あんなところにごちそうがある」
さっき持ってきた袋を指さして、遥がふざけて言った。夜響が先に走って行って、お菓子の袋を独り占めすると、遥は笑いながら怒って、逃げようとする夜響の帯をつかむ。月の上を転げ回り、はしゃぎ疲れて足を投げ出し、ネオンサインにきらめく街を見る。誰かと並んで見る夜の街は、淋しくなんてない。青春だとか友情だとかは、遠い世界のたわごとだと思っていたけれど、もしあるならば、今、これがそうなんだ。
「オニの力なんて、いらなかった」
夜響が初めて言った。
「そうだよ、あたしたちなんでも出来る。夜になれば、見えないものも見えるから」
真っ黒い空の一点を指さし、
「あそこに見える、青い輪のある星ね、あたしあそこから来たんだよ、三百年前に」
自由が悪い訳じゃない、欲望が悪い訳でもない、排除せねばならぬものなど何もない。罪も恥も捨て去ればいい。ただ、否定することが、世界の輝きを奪ってしまうだけ。
「じゃあ夜響はあの星に礼を言おう。ハルカに会えて良かった」
「あたしも、地球上の全てのものに感謝する、
夜響はきょとんとした目で振り返る。
「夜響は、あたしにオニの気を入れたんじゃない、あたしが封じ込めてたものを、もう一度起こしてくれたの」
紙コップに月を浮かべて杯を交わす。永遠を誓いあったみたいに、透明に溶けた月の光は、
「あたし小さい頃から弟が欲しいと思ってたの、ずっと。でも今はそれ撤回だよ、
「夜響もハルカの妹がよかったよ。あんなやな奴の姉じゃなくて」
妹がいるの、と意外そうな顔する遥にうなずいて、
「すっごい憎ったらしい奴」
「夜響だってかわいくない」
またいじわるな遥に、べーっと舌を出してやった。
酒に心をとろかされ、夜響は饒舌になる。
「うちの近くに怪しい骨董品屋があってね、そこがおもしろいんだ」
遥は初めて、今話している子供がどこから来たのか、誰なのか、確かな手触りの中で向き合っている気がする。今なら夜響に手が届く。
「その骨董品屋ね、読めない字で書かれた昔の書物もいっぱいあるんだよ」
「変体仮名ね。夜響も昔のもの好きなんじゃん、あたしの江戸好き馬鹿にしないでよ。うちの
「留年して待っててくれんの?」
「馬ーっ鹿。あたしは院に行くの」
夜響の額を指ではじいた。
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