11.一葉は夜響に、世界を壊せるほどの愛を捧げたのに
「どうした」
「頭も痛いし寒気がする」
「風邪か?」
額に手を当ててみるが熱はない。「何もかけずにソファで寝たのが良くなかったか」
日が暮れると室内には、涼しい風が舞い込む。
「分かんない、寒い」
少女はもぞもぞと、タオルケットの中にもぐり込む。困った顔してベッドに腰掛ける広松に、
「どこにも行かないで、広松さん。隣に寝て」
「いや――」
「あたし右に寄るから、ね、ここに横になって」
少女がせがむので、広松はタオルケットの上にごろんと横になった。「まだお父さんとこんなふうに並んで寝たりするのか?」
「知らない。あたしがものごころついたときには、うちの両親離婚済みだもん」
一瞬にして少女への同情と、
(俺たち二人のことじゃない、守のためなんだ)
不安がり助けを求める少女に、今度は幼い息子が重なって、広松はぼんやりと窓の外に目を向けたまま、少女の肩を抱いた。そして同時に、ベランダの手摺りに座る人影に気が付いた。
窓硝子が砕け散る。はっとして振り返る少女の顔に、驚愕と意地の悪い歓喜が交錯する。真夏だというのに、
「ここで何をしている、ユリ」
赤い目を吊り上げた夜響は、醜く恐ろしい鬼であった。ゆりが嘲笑の形に歪めた唇から毒の刃を吐く前に、何も知らぬ広松が夜響をゆりから引き離す。
「よすんだ、夜響。この子に手を上げるんじゃない」
「なんで――」
信じられない光景に、夜響の目は大きく見開かれ、驚愕と哀しみに揺れた。ゆりは広松の背中に隠れ、声を立てずに大口を開けて笑う。
「どうして」
夜響の視界がじわりと
「こういうこと」
ゆりは意味ありげに呟いて、ぴょんとベッドの上に跳び上がると、広松の首に腕を絡めた。慌てる彼の頬を撫でまわし、唇に指を差し入れ、うなじに接吻する。
「やめろぉ!」
夜響が叫んだ。
「あははは。ガキが粋がってんじゃないよ、広松さんね、あんたみたいな子供にゃあ興味ないってさ!」
追いかける夜響から逃れて、ゆりはベッドから飛び降りる。部屋を出、笑いながら居間を横切り、短い廊下で夜響に捕まった。
「広松さんはね、あんたを気持ち悪いって言ってたよ」
夜響の後ろから広松が何か言うが、ゆりの笑い声にかき消されて聞こえない。
「なんか言いなよ、夜響!」
無言のまま、夜響は仰向けに倒れたゆりに馬乗りになり、その額に指をあてた。はっとして、ゆりの顔がひきつる。「やだよ夜響、やめて、人になんて戻りたくない!」
――消えろ
夜響が低く呟いた。
「どうして、なんで! そんなにあの男が好きなの?」
「黙れ」
夜響はぐっと、額にあてた指に力をこめた。「問題はお前らの関係じゃない。ユリ、あんたが約束を破ったことだ」
「約束」
「そうだとも。夜響はお前に夢をあげる、その代わりにお前は夜響に愛を誓う」
ゆりの視線が、夜響のそれとぴったり合った瞬間、夜響は指先に神経を統一した。
「いやぁ!」
悲鳴が上がる。
「貴様は夜響を裏切ったんだ!」
ごうっと
「助……けて」
「もう終わったよ」
夜響がゆらりと立ち上がる。「さっさと消えちまいな」
「夜響…… ふざけんな……」
蚊の鳴くような声で呟いて、ゆりは必死で上体を起こした。ひどい脱力感で、廊下に両手をつくだけで精一杯、乱れた髪の間からにらみつける。
「消えろ」
白い裾から白い足が伸びて、ゆりの横っ面を蹴り飛ばした。「人の気は吸い取らずにやったんだ。有り難く思えよ」
ゆりの顔が恐怖に染まる。人の気を吸い取られれば、死ぬ。最後の力を振り絞って、部屋の外へ這い出た。
扉に挟まっていた細い足が消えて、ばたんと閉まる玄関に、冷ややかな目を向けていた夜響はだが、振り返ると涙に頬を濡らしていた。一度に二つのものを失った。「なんでだ」
なんでだ、所長―― その痛い言葉を聞く前に、広松は何とか説明を試みた。だが焦る言葉は言葉にならず、夜響がなぜと問う相手も「所長」ではなかった。
「なんでだ、夜響は―― 夜響は最高なんじゃなかったのか? 神にも悪魔にもなれたはずだ! 本当の自由を手に入れたはずだ!」
先程にも増す瘴気の渦が、嵐となり広松を襲う。その真ん中で、夜響は狂った笑い声をあげ始める。
「望みはひとつ残らず叶うんだ!」
「夜響、抑えろ! それ以上自分を憎んではいけない!」
だが広松の呼ぶ少女の名は、本当の名ではない。夜響など存在しない。少女の心は常に暗い嵐の中、一度として広松の手が届いたことなどなかったのだ。
(俺はこの子のことなど、何も知らないんだ)
広松は歯を食いしばり、調べた少女たちの名を思い出した。今の少女がゆりと呼ばれていたので、まず市野沢百合子を除外し、次に思い出したのは、山本一葉の名だった。
「
気を込めて叫ぶ。夜響は動きを止めた。笑い声も途絶えた。
「誰だよそれは」
涙を流しながら、笑みを引きつらせる。
「あたしはもう人じゃない、夜響になったんだ! 夜響は、あたしの、救世主なのに!」
子供たちが憧れマスコミが書き立て広松が愛した夜響、だがその理想のイメージに最初に恋をして、もっとも強く愛し続け、ずっと頼り続けたのは、ほかでもなく創造者である少女だったのだ。
彼女は両手で顔を覆う。泣き叫ぶ。「夜響は美しいよ、気持ち悪くなんかない」
再び瘴気が渦を巻き始め、広松は慌てて、
「どうして思い出させるの」か細い声で、夜響が問うた。「あたしはただ、夜響でいたいだけなのに」
広松は、夜響の額に護符を押しあてた。
「
(どうか静まってくれ夜響、弱い心を殺さないでくれ)
広松は一心に祈り続ける。だが――
「嫌だ! あたしは変わりたいんだ!」
叫び声が嵐を生み、広松は吹き飛ばされた。廊下の壁に背中を打つ。
「所長はそんなに、夜響に消えてほしいんだ」
こめかみの皮膚が裂け、吹き出す鮮血の中から、角が姿を現した。夜響は益々オニになってゆく。
「違う」
広松の声はかすれている。衝撃で噛んだ唇からは、血が流れる。
「違うぞ、夜響」
青ざめた顔に目は座り、唇を赤く染めながら、荒れ狂う瘴気に構いもせず夜響へ近付いた。目眩と吐き気が針となって襲う。
「来るな、来ちゃ駄目だ、所長! 夜響はあんたを殺しちまうかも――」
その言葉は続かなかった。傷だらけの広松は、気が遠くなるような嵐の中で、しっかりと夜響を抱きしめていた。衣は裂け、強風にはためいている。
「夜響、私は確かに、きみを愛しているんだ」
もう、どうしようもなかった。護符も呪文も無意味なもの、荒れ狂う夜響の魂を鎮めることなど出来ない。広松は何も考えられず、ただ思いのままその子供を抱きしめていた。
「所長、所長」夜響は泣きじゃくる。「痛いよ、怖いよ」
両の角の根本から血を流しながら。
「怖かったな、夜響。だけどもう大丈夫だ、私がいるから」
夜響の白い髪に、広松は頬をこすりつけた。次第に収まってゆく嵐の中で、広松はささやく。「こんなことはもう、今夜で終わりにしよう」
果たして夜響は、素直にうなずいた。
(ようやく、幕は下りる、夜響は人に戻る)
広松はじっと、目をつむった。達成感に満ちた喜びより、淋しさが胸を突き上げる。
(もう二度と、奇妙で不思議なオニに会えなくなる――)
額の血も止まって、夜響はベッドの上で膝を抱えていた。
「夜響もう眠い。儀式は明日でいい?」
とろんとした目で見上げる。
「そうしよう」
幼さが残る顎の辺りを、指で撫でてやる。
「夜響が逃げると思うんなら、紐で縛る?」
ベッド脇のかごに入れてあった布団干しに使うビニール紐を、体にぐるぐると巻き付ける。
「馬鹿」
と広松は笑って、はだけた着物に巻き付いて、白い肌を締め付ける紐を床に捨てた。
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