三、

05.大人になんか、なりたくない

 ハルカは強く「終わり」を感じていた。頽廃たいはいが、観客へ灰色の手を伸ばす。

 開演前に買った『三人吉三廓初買さんにんきちさくるわのはつがい』のパンフレットを読めば、初演は安政七(一八六〇)年とある。明治のわずか八年前、人々は時代の終わりを感じていたのか、それとも今芝居を見ている遥の中に、頽廃が潜んでいるのか。

 不条理な世の底で、黒ずんだ罪が渦を巻く。先が見えない毎日に、不確かな不安を背負っていた人々は、理不尽の理由が欲しくて因果応報を語ったのか。遥もまた平和な現代にあって社会に不条理を感じ、あらがいがたい世の流れに、やるせなさを抱えていた。

 まぶしい遊里や魅惑的なおじょう吉三きちさは、灰色の空気を更に際立たせる。吉原を舞台にした、通人つうじん文里ぶんりと遊女・一重ひとえの物語は、寛政頃の人情本を想起させる夢物語だ。豪商の遊びも失われた幕末には、今の遥のように人々は、昔の華やかな遊びに憧れたのだろう。一方に夢があるから、現実は益々味気なく息苦しい。非合理の産物である心は、合理的な社会を拒む。いつの世も、若者は社会に反発し、大人たちは、「近頃の若者は」とぼやく。記憶の中にしかない過去は、もう現実ではない、心が見せる幻影だ。

 心の内と外の食い違いをそつなく越える人の横で、つまずき進めなくなる者がある。世間から排除され人格の価値を否定されたと絶望し、自らの心ばかりをみつめれば、吸い込まれてゆく。ぽっかり口をあけた闇に墜ちてゆく。甘い思い出と極彩色の別世界は、子供の心が抱えるような恐れと欲を満たしてくれる。

「だけど、逃げ場所である心にまで否定されたら――」誰にともなく呟く。「ゆりちゃんのように、自分の存在を消してしまうしかないんだろうな」

 折良く売店から戻ってきた夜響やきょうが、ばふんと椅子に腰掛けた。「かわいいもんがいっぱいあったよ。仲見世なかみせの縮小版みたい」

 浅草の仲見世だろう。片手に提げた、赤い巾着きんちゃくの中をのぞきながら、

「あの子ねえ、二回も飛び降りようとしたんだぜ」

 揶揄する夜響の嘲笑は、消えた一葉いちはに向けられたのか。

「夜響は、しなかった?」

 曖昧に尋ねると、

「ハルカだって、飛びたくなったことは、一度や二度じゃないだろ」

 夜響も曖昧に答えた。いつも自分のことを語るのを好まない。忘れたいし、捨てたい過去から定義されるのを嫌う。

「みんな、ね」

 と淋しく笑うと、夜響はうなずきかけて、だが名誉のために主張した。「でも夜響は、否定なんかした覚えないよ。勝手に消えてった」

 一葉いちはは、自分の心に墜ちてゆくのを止めはしなかった。そこはいつだって、疲れた少女を抱きとめる場所だった。オニになった一葉いちはは喜んで、合理的で物質的な世界から消えていったのだ。夢に溺れることの快楽を知っていたし、生活が壊れることなど、少しも怖くはなかったから。麻痺した一葉いちはの心に、人の哀しみなど映らない。彼女は湖底ばかりを凝視した。みなもには自分以外映らない。水の底の楽園めざして飛び込んだけれど、底は未だにみつからない。美しい緑の湖底は思い描いた幻、底なし沼だった。

「それはやっぱり、自分を消してしまうことなんだよ。ゆりちゃんはオニになって『食い違い』なんて、まるで恐れないようになったけど、オニになることは、決して自分を認めることじゃない。否定を続けても、前には進めない、受け入れることから始まるのに」

「み~んな分かってる。だけど楽しいのが一番、それが全てさ」

 巾着から、よく冷えたいちご牛乳を取り出して、側面のストローをはがし始めた。

「楽しさしか知らない人間は、笑いながら人を殺すことも出来るんだよ。痛みも苦しみも知らずに」

 聞いているのかいないのか、両手で紙パックを押さえておいしそうに飲みだした。

「客席内飲食禁止だよ」

 眉をひそめる遥に、

「さっきおばさんグループが弁当広げてたよ」

「そんなおばさんのまねなんかしちゃ駄目」

「ハルカってほんとまじめ」夜響はくすっと笑う。「なんでも深刻に考えんのはよしねえ」

「そりゃあたしだって、まじめくさった話してる暇があるんなら、また月まで連れてって欲しいよ、だけど――」

「ハルカも結局、楽しいのが一番なんだ」

 高くが響き、場内は暗くなる。

「なんか飲みたいもんある? この巾着からは、なんだって出てくるんだよ」

「じゃあ冷たいお茶」

 はい、と隣から声がする。暗闇の中で夜響のほうへ手を伸ばすと、ひやりとしたものにあたった。

「そりゃあ夜響の手だ。こっちだよ」

 笑いを含んだ声がささやいて、冷たい手が遥を導き、ペットボトルを握らせる。ありがと、と受け取って、いつの間にか夜響の体が異様に冷たいことに気が付く。

「寒いの?」

「別に。だんだん人から遠ざかってるだけさ。夜響はなんだって出来るようになる」

「夜響」

 と、細い腕を強く握る。この場所に引き止めようと。「もうそれ以上オニにならないで。あたしの中からオニの気を取ってなんて言わない、ずっと遠くへ旅をしたっていい。だからもうそれ以上、自分を嫌っちゃ駄目」

 夜響は何も言わない。幕が上がり、荒れ寺の本堂が姿を現した。絢爛けんらんたる昔をしのばせる欄干の彫刻も、今は煤けている。夜響はそっと、遥の肩に寄りかかる。

 窮地に追い込まれた、おぼう吉三きちさとお嬢吉三は、この寺で遺書を記す。

 彼らは悔いることなど、考えもしなかった。規範も規則も善も蹴散らして、ただ好き放題してきたのだから。後悔など、馬鹿真面目に耐え、に従って生きてきた奴等のものだろうと。だが気付いた。気ままに重ねてきた盗みが、殺しが、多くの悲劇を生んだこと、それが大切な者を蝕んでゆくことに。誰かの思いを知ったとき、誰かのために何かしようとしたとき、人を傷付けることは苦しく、生まれる自制心は暴発する欲を抑える。子供の無邪気さと残酷さは、雪に解け消えてゆく。

 大詰め本郷火の見櫓やぐらの場は、火の見櫓も続く屋根も、辺り一面の純白。欲望を冷やすように、危険すぎた純心のように、雪は音もなく降りしきる。三人の運命は、雪と共に消えてゆく。

 消えゆくものへの哀しさは、いとおしさを呼び、深いところから湧き出たぬくもりは、全てを包み込み消し去る。自己への執着を忘れれば欲もなく、自制心は必要ない。欲がなければ失うことなど怖くはない。死への恐怖さえ無縁だ。吸い込まれる自分さえ消え、しがみついていた「我」のはかなさを知る。

「常にこんな気持ちでいられたら、苦しみとも痛みとも、永遠に無縁だろうに」

「興奮のよろこびがない人生なんて、夜響はやだね」

 帰り道の半蔵門駅、仕舞いまで聞かずに夜響は切り返した。「大人になるってのがそんなことなら、夜響はずっと子供でいたい」

 地下鉄の駅は真夏でも、洞窟のようにひんやりとしている。

「自己を捨て去るのが真の自由かもよ」

 夜響はふるふると首を振る。

「そりゃ痛いの苦しいの嫌だけど、それと同時に楽しいのまでなくなっちゃうんじゃ、夜響はごめんだよ。危険と背中合わせの遊びだっていい。堕ちてゆく快感ってのもあるからね。三人吉三は後悔なんてしないよ、行くとこまで行って辿り着いた死だからね。どうせ最後にゃ皆死んじまう、やりたいようにやるだけさ」

 駅のベンチにちょこんと腰掛けて、

「心に渦巻く欲望を捨てたら大人になっちまうんだ。ハルカが前に話してたように、合理的な世の中を作る、合理的な大人が出来上がるんだ」

 無機質なアナウンスが流れる。

「そうして子供の夢世界を――夜響の世界を壊すんだ。現実なんて、心を壊す役にしか立たないんだよ? 知ってるでしょ!」

 遥はうなずくしかない。「感動なんて、人のために泣くなんて、物語の中でしか出来ない。この世界では、夢見ることも考えることも許されない……」

「そうだよ、ハルカ言ってたじゃん、それらは全て非合理的だから、排除されるんだって。夢も安らぎも哀しみも、哲学的命題もみんな、物語の中にあるんでしょ」

「そう、言ったよね。裏側の世界がなかったら、あたしたちは心を保つことも出来ないって。だけどほんとにそう? あのときあたしは疲れてた。小説の中じゃあ現実は、さもつらいもののように描かれるけど、それほど悪いところじゃない。あたしたちは、虚構世界に丸め込まれてるんじゃない?」

 夜響は慌てて首を振り、遥の腕を取った。

「ハルカ、行かないでよ、大人になんかなんないで。楽しいことに、疑問なんか持たないでよ!」

 遥は静かに首を振った。「夜響、違うよ。合理的な世間に追従することと、誰かのために自制心を持つことは違うよ」

「ああ、違うかもね!」立ち上がり、両手を振って叫ぶ。「ならそれは弱い心だ。人の目を恐れて、したいことも出来ないんだ。もしくはやさしさなんていう、甘いまやかしに流されてるだけなんだよ!」

「どうして弱いことがいけないの」

「手に入れられないからさ」

「欲に流される弱さってのも、あるんじゃない?」

 詭弁きべんのうまい遥を、夜響はにらみつけた。「ハルカなんて大嫌いだ! つまらない説教ばかりして、夜響の最高な気分を台無しにする。まるで、素敵な物語をくだらない漫画だと言って、子供の手から取り上げる母親のようにね!」

「待ってよ、夜響」

 遥は立ち上がる。

「夜響はハルカに夢をあげた。なのにハルカは愛をくれる代わりに、夜響を壊すのか?」

「行かないでよ、夜響!」

 後ずさる夜響を追うのは、遥のほうだった。「遠ざかってゆくのは、夜響のほうじゃない! 弱さを捨てれば、他人の弱い心も分からなくなって、夜響の心も消えちゃうんだよ? 夜響が、この世界から消えるんだよ!」

 夜響がぱっと、後ろへ飛んだ。閉まる寸前、電車のドアに吸い込まれ姿を消す。

「夜響! あたしはあんたを壊したいんじゃない、救いたいんだ!」

 扉はあっけなく閉まり、今頃先程のアナウンスを思い出した。

(電車が参りますって言ってたっけ)

 重い体をベンチに沈める。

「今度はいつ戻ってくるの、夜響」

 一人になった途端、地下鉄の駅は暗闇に浮かぶ無人島になった。線路の端は闇へと消え、わだかまる黒に息が詰まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る