04.穢れた欲望も無邪気な夢物語も、一つの心

 数日後、双葉ふたばはひとりで再び店を訪ねた。

 硝子戸ガラスどを引くと、ぷんとかび臭い湿った空気が鼻を突いた。いっちゃんはいつも、こんなとこに通ってたのか、と思う。何かを買うでもなく、老店主と語らうでもなく、物が抱く物語に思いを馳せる楽しさを求めて。

 薄暗い店の奥に一瞬、一葉いちはの後ろ姿が見え、透けた。天井のポスターを見上げている。一葉いちはは名も知らぬ、銀幕のスターたちの顔写真だ。今はすっかり色褪せているけれど、一葉いちはには華やかな歓声が聞こえる。今は消えた喧噪を、彼女はいつくしんだ。

 扇風機に吹かれたじいさんは、入ってきた双葉に声もかけず、新聞を広げている。震える羽音に仰向けば、埃をかぶったクーラーが、五十年前の空気を吹き出している。

「こんにちは」

 緊張した声に、じいさんはしばらくしてから何も言わずに顔を上げた。

「こんにちは。この前は姉がすまないことをしました」

 きちっと「気をつけ」して礼をする。

「あの、姉は、あの日このお店で何をしてたんですか」

 知らないねえ、というように、じいさんはゆっくりと首を振る。

「花瓶を落としちゃったのは、わざとじゃないんでしょ? それとも面白がって、笑いながらやったの?」

 手に負えない小悪魔のような、夜響の姿を思い出す。

 じいさんはまた首を振った。「ここで新聞を読んでいたから、見えなかったがね、最初はそっちの棚で、本を読んでいたよ」

 双葉は棚を振り返る。

「あんたのねえさんが店を出た後でみつけたのが、この本だ。店の奥に広げてあった。もとはそこの棚に置いてあったもんだがね」

 「もう両記りょうき」と題された和綴じの本を、双葉はのぞき込む。じいさんはしわがれた指で、毛羽立つページを一枚ずつめくった。

「このページがひらいてあった」

 左上に奇妙な一輪挿しの図が描かれ、その下には漢字交じりの変態仮名が、数行に渡って書かれている。

「なんて書いてあるの」

 勘定台に身を乗り出しのぞき込むが、続け文字は達筆すぎて全く分からない。じいさんが指で追いながら、

「此の壺、忌まわしきものの封じられし壺なり。文化の頃、日向国ひゅうがのくに佐土原さどわらの僧、野田のだせん光院こういんといいしが、諸国しょこく行脚あんぎゃおり武蔵国むさしのくににて――」

「なんだかよく分かりません」

 双葉がを上げると、

「つまりだ、昔偉いお坊さんがいて、その人が旅の途中の村で物のに会い、それをこの壺の中に封じたというわけだ」

「いっちゃんが割っちゃった壺っていうのは」

 じいさんは腰をかがめて、足下あしもとの段ボール箱から、新聞紙の包みを取り出した。恐る恐る開けてみれば、陶器の破片、片面に和紙が貼りついている。もう両記りょうきに照らしてみれば護符のようだが、上に貼られたほかの護符を剥がしたため、破れて字は読めない。新聞紙に乗った破片は、古くて汚い「ごみ」でしかない。書物の図は、樹海の奥からのぞく瞳のように、見るものを恐怖へ誘うのに。

「いっちゃんは、その物のを解き放っちゃった―― でもどうして、いっちゃん自身がオニになっちゃったの」

 双葉は泣き出しそうになる。

「あれを、ねえさんだと思うかね」

「思うよ! ほかに誰だっていうの? 誰だか分からないような恰好になって、わざとめちゃめちゃして、人を困らせて楽しんで、全然変わってないもん。あの人は昔っから、ああいう悪魔だったの。それもすごく化け上手な、たちの悪い悪魔」

「その悪魔を、あんたはどうしたい」

「いっちゃんに戻す」

 きっぱりと、言い切った。何も言わないじいさんに、

「だってね、今のままじゃあ家が死んじゃうから。あたしはずっと、あたしが我が家の太陽で、いっちゃんは月だと思ってた。でも今のうちは、太陽も月も昇らないの。真っ暗闇だよ。それに―― オニになってでも思い通り生きたかったいっちゃんの気持ち、あたしも分かるんです」

 どうしてだろう、姉が消えてから、あんなに分からない人だと思っていた彼女が、もうひとりの自分のように感じられる。

(演じたものが違うだけで、オニになっていたのは、あたしだったかも知れない)

「誰も本当のあたしなんて知らない、本当の自分に戻りたいって、ふと思うことがあるから」

 ふうちゃんって悩んだことなさそう、いいよね、という友だちの言葉を思い出す。そんなこと全然ない。だがそれは言葉にした途端、いつもの冗談になる。あたしって繊細だから、そのどこに嘘があるでもないのに、皆大笑いする。男子も、山本には何言っても大丈夫、と女扱いもしてもらえず、先生にはいつも怒られる。以前は悩みもしたが、今は皆が勝手に作り出したもう一人の双葉を、黙って受け入れるしかないと、悟ってしまった。静かに過す一葉いちはを、うらやましいと思うこともある。でもいいや、あたしは楽しいほうがいいもん、と、割り切っている。

「本当の自分っていると思うかい、あんたは」

「そりゃいるんじゃないですか」

 事も無く答えたのに、後ろから近付く不安に怯えて、すぐに話を変えた。「いっちゃんは、どうしてオニになっちゃったんだろ」

「なりたかったんだろう。もしあれが、ねえさんだとすればね」

「なりたかったって――」

 世間の理想像を演じていた一葉いちはは、その姿に嫌気がさし、自分だけの理想像を造りあげた。皆が喜ぶ、淡泊で健康的な少女の姿を捨て、自分を毒婦に変えてしまった。彼女に期待し満足してきた人々を嘲笑うように。だが自由を求め続ければ、また人を裏切り遠くへ飛びたくなる。大衆が好む分かり易いイメージでくくられ、その枠組みにもとづく判断から、抜け出したくて。今もまた、夜響に理想を重ね求める人々が、いるのだから。

 一葉いちはの多面性、多様性は夜響というひとつの人格には納まらぬだろうと、双葉は漠然と感付いていた。一葉いちはの世界は、限りを知らない。人の心は膨張を続ける宇宙のように、無限の存在だから。一葉いちははそれに気付いた。心の真ん中に口を開けた闇にも、それが全てを呑み込む無だということにも。魅了され、真っ暗い穴をのぞき込み、一葉いちはは吸い込まれてゆく。その穴は心が砕かれ壊れ、ばらばらになるのを防ぐもの。宇宙の中心に口を開けたブラックホールが、その引力で宇宙をひとつにまとめているように。想像の翼を広げれば広げるほど、心は拡散を恐れ、中心の闇を濃く深くしてゆく……

 じいさんはまたページをめくる。図はなく、仮名がせせらぎのように流れている。双葉はお手上げ、とじいさんを見上げた。

「……秘術を以て封ず。ゆえに記すことあたわず。――野田泉光院が物の怪を封じた方法は書けぬとあるな。それから次は、この物の怪に邪気を吹き込まれた者を、どう正気に戻すかが書いてある」

 一、何々、というのが三行並んでいる。正気に戻す方法は三つあるのだろう。

「一、返上 ――物の怪に力を戻させる、ということらしいな。だがこれは、憑かれた者を説得せねばならんし、その者にある程度正気が残っている場合じゃな。しかも、危険と気付た物の怪に、それこそ取り殺されるかもしれん」

 双葉は身震いした。

「一、封じ」

「オニの力を封じるってこと?」

「その者の体から追い出すのだろうな」

 分かったような、分からないような気分で、双葉はうなずく。「偉いお坊さんとかが、やるんでしょ」

 じいさんも曖昧にうなずく。次は、と指さし、

「一、見破り」

「みやぶり? 何を見破るの。その人が邪気に冒されてるかどうか?」

「いや、正体だろう。魔物や悪霊を封じるときには、その者の名を以て縛る、というのがある。エクソシストってぇ映画を見たことあるか? あの中で、牧師が悪魔の名を必死で聞き出そうとするだろう」

「見たことないです」

 じいさんは、あっそ、と気のない返事、

「『封じ』というのだって、名が分からねば出来ぬだろう」

 じゃあ何が違うの、と双葉は段々分からなくなる。

「見破る、のだろう。本人から聞き出すのではなく」

「でも、その物の怪が邪気を吹き入れるところを見てる人がいたら、簡単じゃん。それに、実は取り憑かれてるんだけど、そうじゃないように装って人を殺すようになったとするでしょ、そんなふうに姿が変わらない場合は?」

 双葉は想像をたくましくする。思い描くのは、昔話の舞台になるような村で、普段は気のいい農民が、物の怪に邪気を吹き込まれたという物語。

「そういう場合には、有効ではない方法だろう。これは最も手軽だが、現実的でない方法だから、最後に書いてあるんじゃろうが、これが効くのは、全く予備知識のない者が、直感で見破れた場合じゃろうな。だが『正気失いし者に弱心在るときのみ』とあるぞ。正体を見破られて心が揺れれば、邪気は消えるのじゃろう」

 勘定台に肘をついて、双葉は首をひねって頭を整理する。じゃあ、と呟き、一語一語確認するように、

「あたしは、夜響の正体を、直感で見破ったんじゃないかな」

 テーマパークへ、三澤くんと友だちと出かけた帰り、夕空に夜響が現れた。皆「オニだ!」と喜び勇んで騒ぐ中、双葉は手にしたバックを取り落としそうになる。

 ――いっちゃん!

 叫ぶところだった。まず呆れた、それからほっとした、最後に哀しくなった。そして、何が何でも、一葉いちはをこの現実世界に連れ戻そうと思った。

 顔を上げたじいさんが、小さな厳しい目を向けている。

「あたしなら、いっちゃんを人に戻してあげられる」

 じいさんの苦い顔にも構わず、

「ただ名を呼ぶだけでいいんでしょ」

「だが」

 じいさんは、しわがれた声を益々低くして、

「夜響がねえさんだとして、夜響は一葉いちはに戻りたいのか? あんたは戻してあげると言うが、夜響にしてみれば、戻されてしまう、だろう」

「夜響に弱い心がなければ、あたしには戻せないってこと?」

 じいさんは、いや、と首を振る。「無理矢理消されたなら、夜響は不幸だ。わしは勿論、あんたやお母さんたちのつらさは、痛いほど分かる。だが一葉いちはとて、家族との別離がつらくないはずはない。まだ十四だろう、ねえさんは」

 双葉はうなずいたが、十四歳がそう子供とは思えなかった。

「それでも未だ夜響でいるのは――」

 じいさんは何を考えているのか、店の壁のずっと向こう、どこか遠くをみつめている。

「あたし、夜響を無理矢理いっちゃんに戻したりはしません。でももし、いっちゃんがまたこの街に戻ってきたら――」

 双葉は思わず、夜響をいっちゃんと呼んでいた。

「この壺から出てきた物の怪は汚いよ。ここから逃げ出したいとか、違う自分になりたいとか、誰だって思うことだもん。そこにつけこんで、いっちゃんをあんな怖いオニにしちゃうなんて!」

 怖いオニと言ったところで、じいさんはくすりと笑った。険しい顔が急に柔和になる。おじいさんにとっては、夜響もただの子供で、いっちゃんと変わりないのかも、と思う。

「あたし、いっちゃんはただついてなかっただけだと思う。こんな壺に出会っちゃって。理想の自分に近付こうって、それはこの世界でこの現実で、あたしが実行しなくちゃいけないことでしょ。夜響なんて名乗って逃げるのは違うよ。きっといっちゃんは、それに気付いたらここに戻ってきます。そしたらあたしは、その名を呼ぶの」

 じいさんはひとつ、ゆっくりとうなずいた。「信じるようにするがいい」

 はい、と双葉は返事して、

「あたし信じてます。いっちゃんがきっと、ここに戻ってきてくれるって」

 骨董品屋を後に、双葉は夕空を見上げる。

〈よい子の皆さんは帰りましょう〉

 夕空に、絵の具のように「ふるさと」が流れ、犬の遠吠えが重なる。小さな公園で遊ぶ子供たちの影が、長く伸びている。早朝には生ゴミをあさる烏も、二羽三羽と連れだって西の空へ帰ってゆく。

 もうすぐ日が暮れる、夜響の時間がやって来る。

(人の心は夜みたいだ)

 きらきらとした夢を無数に浮かべ、同時に得体の知れない暗闇を内包し、その全ては未知の存在。夜響はそこから生まれた、夢と闇を映す幻だ。表のきらめきや、見せかけの派手さにばかりとらわれる人々は、夜響を見ながら、それを描いた一葉いちはに気付かない。ただ、夜響を指さし笑っている。

 いっちゃんはいっちゃんなんだ。きっと気付いてくれるよね。気付いたなら、そのときはもう一度、あたしのそばに来てよ、うちに帰ってきてよ。いっちゃんが自分で自分にかけた呪いを、あたしが解いてあげる。そして明日からは、うちで、学校で、いっちゃんの生まれたこの世界で、望むまま思うままに動いてね!

 それが可能ならば。幼い双葉はまだ、それが可能かも知れぬと思っていた。「本当の」自分がいると思うくらい、彼女は幼かったのだから。

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