二、
03.誰も知らないもうひとつの物語
(高いところ、好きなんだよねえ)
思わず溜め息をつく。高いといっても五階くらい、街灯に咲くプラスチックの花に商店街のアーケード、細い路地は双葉の住むこの街と、匂いが似ている。
(ここを、思い出してるの?)
画面をみつめる瞳が
〈今すぐ下りて来なさい!〉
ハンディスピーカー片手に男が呼びかけ、屋上まで梯子が掛けられる。
「声枯れてるぞーっ、スピーカー使ってんだから、叫ばなくて大丈夫だよ?」
ビルの上で、ちょこんと首をかしげる夜響。
〈余計なお世話だ! とにかく下りて来なさい!〉
「言われなくても下りるよーん」
ゆらりと立ち上がる姿がアップになる。引いて撮れば、子供らしい仕草が毒を隠す。だが近付けば、赤い瞳に狂気が漂う。長く伸びた下睫と、大人か子供か分からない唇から、双葉は慌てて目をそらした。
白い花びらのように、夜響は風に乗り街路樹へ飛び移る。枝に腰掛け足をぱたぱた振って、梯子を移動する人々の慌てようを楽しんでいる。
「テレビなんか消してちょうだい」
ふいに後ろで
「あ、お母さん、帰ってたんだ」
確か今日でパートはやめるのだった。それを思い出して何か言おうとすると、
「よくそんなくだらないもの見てられるわね」
ぐったりと疲れた母の顔を見ると、何を言うのも嫌になった。
(どうして気付かないの。いっちゃんはここにいるのに)
テレビの中の夜響は散々ふざけて、調子の外れた笑い声をあげている。
(いっちゃんはあたしの前でだけ、いっちゃんだった?)
そんなことはない。演技上手でうまく立ち回り、双葉に比べりゃ叱られないが、四六時中「いい子」を装ってたわけじゃない。
部活の先輩にからまれたとき、根は気の強い
「カッターナイフどこぉ?」
などと言いながら、電話台の下から目当てのものを見つけだし、二階へあがるところを母に咎められた。
「いっちゃん、それをどうするの」
「別に」
ふたりのやりとりに気付いた双葉は、二階から身を乗り出し、事件が起こるのを楽しみに待つ。姉が怒られれば、自分の株が上がる気がするからだ。
「そんなもの持ってゆくのやめなさい」
母はエプロンをかけたまま階段の下まで出てきて、
「そんなこと考えてないよ」
「本当に、馬鹿なことを考えるんじゃないわよ」
階段をのぼる
「考えてるわけないじゃん。あたしそんな馬鹿じゃないよ、信じてよ」
事件にならなかったことにがっかりして、双葉は部屋へ引き返す。一歩遅れて入ってきた
「なんか用?」
先ににらみつけた双葉に、くすっと笑う。「別に」
「雑誌なんか読まないくせに」
と、椅子の上に広げたファッション雑誌を手に取った。畳に座り、椅子の足に背をもたせ、ページをめくっていると、頭の上でかん、と音がした。仰向けば、机の上にカッターナイフが転がっている。
「切り刻めば?」
隣の椅子にのけぞる
「二度と見られない顔になるって? あたしどうせかわいくねえし。あーあ、人類全て
言葉の奥で、赤黒いインクがどろりと動く。そのとき双葉は
いっちゃん、きみは全ての人の、注目と、愛と、関心が欲しかった。だからオニになった、いろんなものを捨てて。こんな古びた街もちっぽけな家も、忘れてしまうんだね、だけど――
(あたしも、お母さんもお父さんも、捨てて行っちゃうの、いっちゃん!)
いっちゃんの中にずっと昔から潜んでいた、きらきらとした星屑のような夢のかけらにも、静かにうねる濁流のような狂気にも、あたしは
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます