02.愛をくれたら夢を見せてあげる
ベッドに顔をうずめた
ねじれた笑みは、哀しいくらいに空っぽだ。
「夜響には、あたしの言葉なんか、聞こえないの?」
遥かの胸には哀しみより、もどかしい怒りが押し寄せる。夜響は歪んだ笑みを浮かべたまま、
「夜響が聞きたいのはただひとつ、あんたが夜響を欲している言葉だけだ」
自分へ愛を持てない夜響は、どうあがいても満たされない。例え全ての人に愛されても、求め続ける。愛されたいのは、愛したいからだとは、気付かずに。
遥は言葉を選んで言った。
「あたしは、伝説の裏にある、誰も知らないもうひとつの物語が好きなんだよ」
夜響はしばし遥をみつめ、伝説とは夜響というオニの話、裏の物語とは
「夜響はどうして、オニにならなきゃなんなかった自分を、みつめないの? 考えてみなさいよ、どうして自分から、きれいでもないそんな姿になったのか」
「うるさい」
心の
「つまんない話はもうやめな。オニだって理由だけで、夜響を怖がんないで。ハルカもオニなんだよ?」
至って無邪気な口調が腹立たしい。
「まあちっとも呪えないみたいだけど」
くすりと笑う。瞳には、どろりと赤い色がわだかまっている。遥は唇を噛んだ。失恋の痛手をつつくのみならず、ケンカするのが嫌で訊けなかったことを、こうもいけしゃあしゃあと抜かすとは。
「いつあたしをオニにしたの」
「ええっと―― 初めて会った次の晩かな。夜響トイレに起きたの。そんときだよ」
なんの悪気もなく、指折り数える。その姿はまた、気味の悪い鬼から無心な子供に戻っている。
「オニの気をね、ちょこーっとあげたの」
「いらない。返すから取って」
「やだねーっ。ハルカも夜響とおんなじ化けもんさ。運命共同体だぁ」
「ずっと一緒にいてあげるから、取ってよ」
誰にでも、自分が嫌で変わりたいと思うことがある。だがそのたびに、背中の裏側が粟立つ気味悪さは、やりきれない。
「いられない」きっぱりと、夜響は首を振った。「一緒になんていられない。ハルカがオニになんなきゃ、夜響だけが、ひとり遠くへゆくことになる」
うるむ瞳に遥が気付くいとまもなく、
「夜響に恋しちゃいなよ、きっと幸せになれる」と、ぬれかかる。「ねえ夜響に墜ちてよ、ハルカ。幸田さんなんか忘れてさ」
思い出したくないところをまた突かれた遥が、にらみつけるのも構わず、
「夜響のどこが駄目? 駄目なとこなんて一個もないでしょ、世界一の恋人になれるよ、あたしたち!」
あたしと言ったのは、
「訳分かんないことばっか言わないでよ! ちょっとは人の話を聞いたら?」
「夜響に恋すれば、夜響の言葉しか聞きたくなくなるよ」
「よく言うよ! あんた全然きれいじゃないんだよ? 鏡の前で笑ってみなさいよ、気持ち悪いばっかだから。ゲイバーの店長みたい!」
言ってから、しまったと思う。夜響が言葉を失った一瞬に、遥はその場にいられず、慌ててトイレに逃げ込んだ。
(またやっちゃったぁ)
便座の蓋に座って、頭を抱える。
(夜響以外の全ての人には、あたしすっごいやさしいのに)
頭の後ろにあいた口が、偽善者偽善者と責め立てる。いつも欠点を探し、しつこく毒を吐き続けるその口を恐れて、無意味に「欠点」を治そうと必死になる。
夜響には嘘をつきたくない。やさしく接せられる全ての人々より、夜響のほうが大切だから。だがそれが、不用意な言葉を発する要因になる。心の姿は複雑で、遥は性善説にも性悪説にも賛同できない。心を包む膜を捨て去れば、楽しい顔が現れる一方で、残酷な顔もあらわになる。
夜響は、怒ってトイレに駆け込む背中を見送って、ちぇっと小さく舌打ちした。「やってらんねえなあ」
ベッド脇の小さな机に向かう。ノートパソコンの上に鏡が乗っている。
「そうかい、夜響はきれいじゃないかい」
じっとのぞきこむ。
「
低い背もたれに背中をあずけ、
「あたしは夜響が大好きだ。それでいい、昔の場所になど帰らない。夜響になって、良かった」
はっきりと言葉にする。今は生きている心地がする。ふっと笑みを浮かべたが、確かに遥の言う通り、不気味かも知れない。余計に加齢する。
「う~ん、所長の前では笑わないようにしよう」
鏡を覗き込んで研究する。オニになってから、哀しみや憂鬱は長続きしない。何でも明るいほうへ転化できる。楽しいのが一番、それだけで満腹。
「無表情が一番きれい。冷たさの中に哀しさが混ざってて、重なる色が表情を与えてくれる。強いまなざし、妖艶な
自嘲気味な下向きの笑みは、彼女の最高の瞬間、笑うと不気味な彼女の、でも最も色っぽい瞬間、最も――哀しい瞬間……。
「あたしって超カワイイ」
鏡に浮かぶオニの
「夜響を嫌ったら許さないよ、所長。ハルカどころじゃ済まさないから。ああ、夜響は全てが欲しい、全ての人の心が欲しい。皆が愛をくれたなら、夜響は代わりに夢を見せてあげよう。きらびやかな夢で、この世界を包んであげよう」
恍惚としてまぶたを閉じる。大きくのけぞると、白い髪がばさりと後ろへ揺れた。両手を高く差し出せば、真っ白い着物の袖がするりと落ちる。昨日までは、守くんをかわいいと思った、会ったこともない所長の妻も、守くんのお母さんなら所長をいじめても、夜響が成敗するのはためらわれた。でも今は――
「夜響は神になってやる」
紫の唇に触れる。目を伏せ、鏡の向こうを
「例え美しくないこの姿でも、所長がほかの人を見るのは許せない」
低く呟いた。
水の流れる音がして、トイレの扉が
「あ、やっと出てきた、ハルカ。夕食何にすんの?」
ドアを開ける前に大きく吸い込んだ息を吹き出して、遥は冷蔵庫を開ける。「えっと――」
明るい箱の中には麦茶しかない。
「下のコンビニ行ってくる!」
サンダルを引っかけ、ノブに手をかけると、
「財布忘れてる」
と、笑いを含んだ夜響の声。机の上にあったポシェットが、弧を描き手元へ舞い落ちる。
「サンキュ」
呟いて振り返ると、夜響の笑顔がある。泣き出しそうになって、慌てて外へ飛び出せば、まあるい月が浮かんでいる。
「謝りそこねた」
遥は口を尖らせる。恥ずかしがり屋の性分か、ごめんねもありがとうも、肝心な時に出て来ない。爪先をみつめながら、ひとつずつ階段を下りる。
「夜響ごめん、ほんとは大好きだ、あんたのこと」
ビニール袋を
「ちょっと待て、夜響、自分で食べ物出せるて言ってなかったっけ? それで笑ってたんだ! あ~食費返せ~!」
何かたまらないものがこみあげて、怒りだか喜びだかも分からずに、夜響の待つ部屋に向かって駆け出した。
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