10.少女は今宵、花ひらく

 湯に浮かぶ盆の上、お猪口ちょこの酒に花がひとひら舞い降りる。見上げれば満開の桜、その中に浮き出す白い姿、夜響やきょうはのぼせて枝の上で休んでいる。裾に曼珠沙華を咲かせた衣は湯に濡れて、子供から少女へと花開く、体の線をかたち取る。

 ここは霞の湯。ほかに若葉の湯、紅葉もみじの湯、雪積もる寒木かんぼくの湯、それから月下の湯。不思議なことに、月下の湯以外は、見上げると朝の空が広がっていた。四季折々の湯はそれぞれ雲の上、雲と雲は小さな橋で結ばれている。「所長、奥さんいるの?」

 枝の上から夜響が尋ねる。

「いるよ」

 と答えると、ちょっとすねたような顔をした。「子供は?」

「いる」

「いくつ?」

「今年小学校に上がったよ」

「かわいい?」

 と訊くので、かわいい自慢の息子のこと、ちょうど良く酔った勢いもあって、広松は饒舌になる。所々に奥さんの悪口がはさまるのは仕方がない。

「いいなあ。会ってみたいなあ」

 夜響は目を輝かせる。

「オニじゃなくなったらな」

「なんでオニでいちゃ駄目なの。所長の説明納得いかないよ」

 自由を謳歌したいと言った夜響に、明確な反駁は加えられなかった。人を傷付けぬよう、周りとうまく調和できるよう、嘘をつくのは生きる智恵だが、そうすることが正しいわけではなく、そうせぬことが間違っているわけでもない。夜響を説き伏せる言葉がみつからないのは、広松にも迷いがあるからだ。

「ほんとは説明なんかしてほしくないの。理屈なんか嫌い」

 夜響は花びらのように、枝から舞い降りた。湯けむりの中、素足が水面みなもを歩いて、広松の前に膝を突く。衣と同じ、雪のように白い指が、そっと広松の頬に触れる。

「所長もオニになろ、嫌な奥さんとも別れられる。別れる勇気をくれるんだよ」

 熱にうるむ赤い瞳、白い頬もかすかに上気して、ふんわりと色づいている。白い腕が広松の首に絡みつく。

まもるを手放す気はないからな。織江あいつは収入も私より高いし、私が育てられる見込みは少ない」

「大丈夫。そんな弱気、オニになれば消えてしまうよ。夜響と一緒に守くん、育てようよ」

「ミイラ取りがミイラになるのはご免だよ」

 気が付くと夜響は湯の上ではなく、広松と同じ湯の中で、白い衣をゆらめかせている。胸に頬を寄せられ、なんとなく肩を抱く広松の目に、子供と思っていた夜響が、ひとりの娘に映った。

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