09.ようこそ、むげん温泉へ

 ぼんやり明るい空には星もまばらだけど、それでも道路脇に車を止めて窓から見上げるのは、家へ走りたくないからだ。寝息をたてるまもるの寝顔を見守るのは幸せだが、そうして待つものが織江おりえの帰りとなれば、いかにも気が重い。仲町なかまち校に左遷された、その一言が、不相応なプライドに阻まれ出て来ない。

 織江はいつも、広松をみじめな思いへ突き落とし、現実に縛り付ける要因となる。織江がいるから、倉橋の言葉など気にかける。呪術好きも、織江にとってはただの馬鹿な話で、気味悪い趣味ほどにも気に留めていない。

 ハンドルに両腕を置き、横を流れる暗い川を見下ろしていた広松の、視界の隅をふわりとかすめる白いもの、顔をあげて右左、視線を巡らすその先に、夜空に浮かぶ着物姿。

夜響やきょう

 思わず苦笑する。心の弱ったときに現れるのは鬼ゆえか。一旦姿を消したと思った夜響は、いきなりフロント硝子に逆さまに顔を出した。さすがの広松もぎょっとして、

「趣味の悪いいたずらをするんじゃないっ」

 夜響は髪を逆立て、にやーっと笑う。

 ドアを開け、

「退治されに来たのか」

 と外に出ようとすると、夜響の方から車の中に身をすべらせた。「なんでそんなこと言うの」

「どうした、元気がないじゃないか」

 助手席にもたれる夜響を覗き込む。白い髪からふわりと漂うアルコールの匂い。

「お前、酒飲んだな」

「いいんだもん、夜響はもう二十はたちだもん」

 広松は困った奴だとばかりにしかめつらして、

「嘘をつけ」

 大きな手を夜響の頭に乗せ、こちらを向かせる。夜響はちょっと淋しそうな上目遣いのまま、

「所長、今日は洋服なんだ。前髪が色っぽいよ」

 と額に落ちた一房の髪を指先でつまむ。この前会ったときは、気合い充分、オールバックにしていた。今日はとてもそんな気分じゃない。

「そんなことを言って、許してもらおうったって駄目だ」

 夜響は意に介せず、苦笑を浮かべる広松の肩に頬を寄せる。

「ねえどうして、オニでいちゃいけないの。これはとっても素敵なことなのに」

「夜響、私がなぜひびきを封じたか分かるか」

「それは分かるよ!」

 夜響はすぐさま身を起こし、まっすぐ広松を見た。「だってひびきは二百年前に封じられた腹いせに、人を殺そうとしたり、夜響にも奴隷みたいな扱いして、いっぱいひどいことしたもん。でも夜響は違う。人を傷付けることなんかしない、ただ自由を謳歌したいだけだ!」

「だがオニのままでいれば、いずれ心が死んでひびきのようになるぞ」

「ならない!」

 強く首を振る。広松は夜響を説得せねばならなかった。数百年間、護符に封印され霊力を削られ続けたひびきと違って、夜響の苦しみと哀しみは今ここにあるもの。霊を納得させて成仏させるように、相手が受け入れねば折角の呪術も役に立たない。

 空の星はいつしか消えて、ぽつりぽつりと雨が道を濡らしてゆく。

「所長、所長は自由にいたいと思わない? 夜響は心だけでも自由にいたかった。でも、わずらわしい全てのことを無視できるほど、夜響は強くなかったから、人の目を気にして、人の期待に沿うよう自分を殺して、ずっと仮の生活を続けてた。でもひびきは、そんな臆病な気持ちを消してくれたんだ。だから今、夜響は、自分を消極的にするいろんなしがらみから解き放たれて、こうして自由に自分を見せられる。にせの皮をかぶったままじゃ、誉められたって好かれたって、意味がない」

細い腕を広松の首に絡めて、憂いを帯びた瞳でじっとみつめる。

「夜響は、本当の夜響を愛して欲しいんだよ」

 着物の袖が下がって、白い腕が露わになった。「オニになんなきゃ、所長にほんとの夜響を知ってもらうことなんか、一生叶わなかった」

 広松は無情に、その腕を払いのけた。「お前の目はひびきにそっくりだ」

 夜響ははっと息を呑んだ。赤い瞳で憎らしげにみつめ、

「あんたはオニにもなっていないのに、そうやって人を傷付ける」

「じゃあオニになったお前は、既に誰かを傷付けた自覚があるんだな」

「違うもん!」瞳がかすかにうるむ。「夜響はほんとのこと言っただけだもん!」

 きゅっと唇をかんだ。

「ありのままを言えば人を傷付ける、だから嘘をつくのが、やさしさじゃあないのか」

 車のドアにぴったりと背を付け、じっとみつめる夜響に、

「オニになったお前は、自分の恐怖心が消えると同時に、人の恐怖心をおもんぱかることも出来なくなった。それが、心の消えた鬼になる第一歩だ」

「違う……」

 夜響の反駁はんばくは弱々しい。

「違わない。お前の心は消えかけている」

 夜響は無言で車のドアを開けた。

「所長なんか嫌いだ! 夜響は、夜響を嫌う人なんかに用はない!」

 雨の中へ走り出す。濡れたコンクリートの上、裾をからげて走る背中に、後続の車が迫る。

「夜響!」

 広松も車を飛び出す。タイヤが地面をこする耳障りな音と同時に窓があき、危ないだろ、と男が怒鳴った。夜響は走り続ける。

(空を飛んで逃げないのは、追って欲しいためなのか)

 息苦しさをかみしめ、反対車線へ飛び出し、ガードレールを越えたところで、広松は小さな背中を後ろから抱きしめた。

「馬鹿野郎」

 低く怒鳴れば、夜響はなおも腕をすり抜けようと、草の上に転がった。

「危ないっ」

 草原の向こうは、コンクリート補強された急斜面、下の細い道にも車が通る。両肩を押さえてようやく捕まえると、仰向けのまま夜響は荒い息を繰り返している。無言で見下ろす広松の、髪からもジャケットの肩からも、夏の雨がこぼれ落ちる。

「お前は、市野沢いちのざわ百合子ゆりこなのか?」

 車のライトが次々と、無表情のままの夜響を照らし出す。ひびきが封じられるのを見ていた夜響は、名に潜む力に気付いている。雨に打たれながら、ずっと口を閉ざしていた。広松は、にらみ合いを打ち切り立ち上がる。「車に戻ろう」

「疲れちゃった。動けない」

 溜め息混じりに、しゃがんで広い背中を向けると、座り込んだ夜響は、にんまりとしておぶさった。ゆっくり歩き出した広松に、

「所長は夢を見るの、嫌いなの?」

「まさか」

 思わず苦笑する。夢想家だから、霊や鬼の存在を信じている。

「じゃあこれからどこに行きたい」

「家に帰るだけだよ。それとも夜響が、桃源郷へでも連れてってくれるのか?」

「そうだよ。所長が夜響のこと、大切に思って放したくないみたいだから」

「そうだ。私がお前を嫌っているなんて、言うんじゃないよ」

 あやすような広松の言葉、きっと言わない、と夜響は嬉しそうに答える。「ねえ、どこへ行きたい。どこでも言ってみて」

「それじゃあ―― ゆるりと温泉に浸かって、最高にうまい酒と海の幸が食べられるところかな」

「全然夢ないじゃん」

 広松は思わず笑い声をあげる。濡れた体で車のシートに腰を下ろすと、

「じゃあ夜響が運転する」

「おい」

 止める間もなく、車は川の上へすべり出す。

「服は大丈夫。すぐ温泉につくから、そこで浴衣に着替えられる」

「そういう話じゃなくて」

 ハンドルに手を伸ばした途端、車はふっと宙に浮き、くるりと宙回転、あっという間に足下あしもとは空、頭上は川、下から吹き上げる雨に包まれて、すべるように降下してゆく。デパートのエレベーターみたいに、おなかの辺りが浮き上がる。霧の噴水が吹き出す黒雲の上に、「坊ちゃん」の舞台になった道後温泉みたいな建物、その前には巨大な亀、「むげん温泉」と名入りの半纏着た猿が、甲羅に立って、手を振り迎えてくれる。

 ひびきの見せた幻より数段手の込んだ演出に、目眩さえ覚える。隣の夜響はほんとに楽しそう。夜響は鬼の力を、夢の世界に遊ぶこと、人に夢を見せることに使っている。そんな夢想家の一面を誰にも見せぬゆえ、現実は薄れゆき、次第に大きくなる幻想に呑み込まれ、少女はオニになった。喜びも苦痛も感じない、他人事ひとごとのような人生は、仮の生活だ。名も姿も与えられたもの、捨てたところで失うものなどない。

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