三、
08.働かざる者食うべからず
黒板の前で額を拭い、汗などかいていないことに気付く。クーラーの効きすぎた教室で、生徒たちは律令政治の小テストを解いている。広松は再び、頭の中の五日前に舞い戻る。
(夜響というのは偽名だな。それでなきゃ、俺に名を呼ばれて縛られぬはずがない)
子供たちに、隣同士自己採点を任せて、
(夜響はオニになることを望んだ愚かな子だ。そんな子がどこかで行方不明になっているはずだ。その子の名前が分かれば俺の勝ちだ)
五分前に授業を終え、教科書とチョーク入れ小脇に講師室へ向かう。すれ違う講師の数がいつもより多いのは、ここ本部教室で、個別指導部の定期研修が行われたためだ。講師室に入ると、他教室から来たアルバイト講師二人が、何やら真剣な顔で、頭を寄せ合っている。
「行方不明って?」
「大宮の方で持ってる
広松も、白衣のボタンをはずす手を思わす止める。
「母親が出て、家に帰ってないって言うの」
「テレクラとか出会い系とかやって、変な事件に巻き込まれたとか」
そう言われて慌てて首を振り、
「遊んでる感じの子じゃないの、勉強はできないけど。まじめそうっていうより――」
言葉を選んで一瞬目を伏せる。
「いじめられそうっていうか、ちょっと暗い感じの子だから、心配なんだよ」
もしや、と広松は受付後ろの本棚へ向かう。個別指導部、「高校生」の生徒台帳を探し、最初のページから順に指で追ってゆくと、程なくして目的の名はみつかった。「高一、
一応手帳に写し取る。ただの偶然に過ぎないかも知れない、だが可能性は皆無ではない。夜響は幼く見えるが、オニとなり、やりたい放題をしたならば、三十五の広松とて子供のようになるだろう。
「広松先生」
後ろから呼ばれて、慌てて手帳をポケットに突っ込む。
「倉橋先生が呼んでましたよ」
それだけを伝えて、若い講師は去っていく。
(なんだろう)
と、苦い顔になる。本部教室長の倉橋は、超難関コースの数学担当、彼を好きだという生徒は見たことがない。太った魚を思わせる丸い目と、甲高い声を思ってうんざりしながら、奥の部屋へ向かう。
(身に覚えがありすぎるというのが痛いな)
成績優秀な講師と言い難いことは、広松自身が一番分かっている。いつもの嫌味を覚悟して、失礼します、と足を踏み入れると、パソコンに向かっていた倉橋は、回転椅子をこちらに向けた。「どうぞどうぞ」
勧められるまま、隣の椅子を引き出して腰を下ろせば、
「あれ~、先生座って下さいなんて言ってないよぉ」
例の甲高い声、慌てて席立つ広松に、
「ああ、いいんですよ、座ってくれて」
どうも、などと頭を下げるのも情けない。
「先生ねぇ」
と、倉橋が出したのは、月ごとの模試の結果をグラフにしたもの、広松の受け持つクラスとその下のクラスは、次第に差を縮め、六月には逆転している。目をそらしたくてもそらせない広松に、倉橋は、どう? と答えようもないことを迫る。
(早く用件を言ってくれ)
曖昧な返事を繰り返しながら、胸の中で呟く。じらされるのはご免だ。
「先生この仕事、向いてないんじゃないかなあ」
突然解雇! と血が引いてゆく。
「でももうちょっと頑張ってみる?」
「はい、やらせて下さい」
意気込み答える広松の、まぶたの裏に、一瞬映ったのは織江の冷たい横顔。
「先生分かると思うけどねえ、アルバイトの講師さんでも、すっごい頑張ってくれてる人がいっぱいいるの」
「はい、私はそれ以上に頑張りますから、成績に結びつけますから」
背に汗かく広松の耳を、聞き慣れた声が射る。倉橋先生、と扉があいて、小柄な女性が顔をのぞかせる。
「ああ、
職場では旧姓で呼ばれているが、妻の織江だ。ゆるく波打つ髪に、色白で小さな顔、意志の強そうな瞳も鼻も唇も、全てが小さくきゅっとまとまっている。難関高校受験のための、上位二クラスを担当する講師は、授業終了後毎回会議を行っているから、その催促に来たのだろう。広松には程遠い世界の話だ。
「それじゃあ広松先生ね、夏期講習からは
「は」
手短に用件を告げる倉橋に、一瞬広松は目を白黒させる。
「仲町教室の場所と地図はね、ああこれこれ、持ってっていいから」
机の横に積んだ冊子からひとつを手渡し、倉橋は足早に会議室へ向かった。会議室の向こうに出口があるので、広松は倉橋の後ろについて歩く形になる。会議室の前を通り抜けるとき、ほかの講師らと机についた織江と目が合ってしまう。その冷たいまなざしが、いいわね、あなたはもう帰れて、と呟くよう。
(守のためにも母親のお前が早く帰ってやるべきだろう、今夜だってあの子は、ひとりで夕飯食べてひとりで寝てるんだぞ)
一瞬見せた鋭い目線で、それだけのことが伝わったのか、織江は仕返すように、広松の手にした全教室の地図に目を向ける。広松はふいと視線をそらし、まっすぐ前だけを見て、もう来ることはないかも知れない、所沢本部教室をあとにした。
「
悪運払いのつもりで、ぶつぶつ九字を唱えながら駐車場まで歩いていたら、
「やべっ」
と、まだ残っていた男子生徒数人に馬鹿にされたようだ。見られたならしょうがない、もう来ることもない場所だ、広松は開き直って空中に、指で大きく縦、横、縦、横、と線を引きながら、
「臨、兵、闘、者――」
と叫んでやった。男子生徒らは、これは危ないと、そそくさ逃げ帰ってゆく。
人との関わりは、気を遣ったり辛抱を通したり、社会生活を営むためには当然の義務だが、だからこそ精神の自由だけは持っていたい。心までは
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます