07.現代を生きる少女の闇は前時代の鬼を軽く凌駕する
「次は東京都杉並区の連続殺傷事件についてです」
「昨夜遅く、東京都杉並区今川の路上で、無職の角町孝史さん五十六歳が、何者かに刃物で斬りつけられ、病院に運ばれましたが重傷です。二日前から付近では、同じような殺傷事件が続いており、警察では同一犯の犯行と見て調べを進めています。現場では今回も着物を着た女が目撃されており……」
音量を下げ、陰湿な影をまとった空き家を窓から見上げる。崩れかけた塀の向こうに、黒い雨戸が見える。事件現場となった表の通りには警官が二人いたが、裏は無人だった。
せまい車内でスーツから神主姿に着替えた広松は、興奮を秘めたまなざしで助手席に積んだ本を見下ろした。「呪術と信仰」、「陰陽道」などなど、幾度も読み直して内容は全て頭に入っている。表紙をちらりと見るだけで、買った日の熱意を思い出して「気」が高まる。三十五とは思えない、裏山に探検に出かける子供のような笑みが、彼の顔に浮かんだ。「やはり鬼はいるんだ、科学万能の時代でも」
夢見るように呟き、数珠を首にかけ
だが崩れたブロック塀をまたいだとき、途端に強い圧迫に襲われ、はね返されたようにのけぞった。飛び上がる鼓動を抑え、街灯の輪の中で目をこらすが何もない。
「結界か」
両手の指を絡めて印を組み、強く祈る。
「
気の塊を打ちつけると、みなもに映る像のように視界がゆらぎ、情景がふっと切り替わった。先程と変わらぬ朽ちかけた空き家だが、閉まって見えた雨戸は開き、白い着物姿の子供がのぞいている。
(警官が動かないのは結界のせいか)
ひとりうなずき塀を越える。空き家には何者かの気配があるのに、警官は退屈そうに見張りを続けるばかり、なぜ中の者に話を聞かないのか、広松は不審に思っていた。
招き入れるように、子供は屋敷の奥へ姿を消す。それを追い、縁側から部屋に上がるが既に人影はない。広松はごくりとのどを鳴らして、目の前の襖をからりとあけた。
着物姿の女がひとり、こちらに背を向けて月見をしている。結い上げた黒髪と白いうなじのコントラストが目を引く。開け放った障子の向こうに警官の姿などない。手入れの行き届いた庭が、月明かりに照らされている。
(あやかしの見せる幻か)広松は目をこする。(ということはこの女も――)
「今宵は十五夜ですえ、旦那」
女が、振り返らずになまめかしい声で誘う。大きく襟を抜いた着付けがあだっぽい。
「私はお前を封じに来た者だ」
「無粋なことを」
煙管を煙草盆の端に打ちつける、高い音が響いた。広松は構わず経文を唱え出す。「
「おやめ!」
ぴしゃりと女が叫んで、ゆっくりと立ち上がる。紺の
はっとして、広松は身を引く。あやかしは心を読んだように、知りようのないことを口にする。
「そんなお顔、よしておくんなさいよ」
煙管の先で、つつつと広松の頬を撫でる。「塾の名講師としても、祈祷師としても、わしが協力すれば大変な名声を得られるのだえ。もう誰にもおまはんを馬鹿にはさせない。織江もかわいい
腰を抱く女の腕へ、広松は後ろ手にそっと数珠をかけ、
「私を惑わすな。私は悪しき力で望みを叶えようなどとは思わない!」
叫んだ広松の後ろ、襖の陰で、子供がひっそりと瞑目した。「
自嘲気味な呟きに、広松は思わず振り返る。十二、三に見えるその子は、裾に曼珠沙華をあしらった真っ白い着物に、赤い帯を締めている。のぞく手足は青白く、肩に触れる髪だけが、吸い込まれそうに黒い。
「危ない!」
唐突に子供が叫んだ。慌てて次の間に転がり込んだ広松の、今いた場所に、刀が振り下ろされた。いつの間に、と思ったとき、頬に走る痛みに気付いた。撫でた指がぬるりと赤く染まる。――煙管と見えたのは刀だったのだ。
女の口は裂け、目は真っ赤に吊り上がる。裏庭に飛び降りた広松は、庭の端に立てかけた梯子をのぼって二階へ逃げる。
「名が分かればな」
名は相手を「縛る」ことが出来るから、その隙に封じられる。あとを追い二階へついてきた子供が、その呟きに応じた。
「夜響知ってるよ」
「教えてくれるのか」
広松は目を見開く。オニの仲間と見えるこの子供が、なぜ味方する。登り口の唐紙を閉め、護符を貼ると、
「夜響は自由になりたいんだ」
くすっと笑う。子供らしい笑い方だった。
護符の力で登ってこられぬ鬼女は、正体を現し、階下から恐ろしい声を響かせる。「夜響、裏切るのか! その男は経文ひとつ満足に唱えらぬ愚か者だえ? 白黒は見えているぞ!」
夜響が上目遣いに、ふっと笑んだ。「あのキツネババア、ひびきって言うの」
よし、とうなずく広松に、
「階段はもうひとつあるんだ!」
板張りの廊下を走って案内する。広松は小さな背中を追いながら、階下から響く声に耳をふさいだ。
「わしを封じたってお前は何も変わらないよ!」嘲笑が響き渡る。「怪しげな趣味、全てがお前にまさる妻、文句はあっても口には出せない
広松は、動揺すまいと目を閉じた。だが、悔しい、と歯ぎしりする自分がいる。天井の低い廊下を左に折れると、幅広の階段が見えた。上から三段目に、護符を貼る広松へ、見上げるひびきは嘲笑を浴びせる。
「ほうら、何も言い返せまい、お前は頭に血がのぼったときこそ、動けなくなる性分なのさ。いいのかえ、わしの力が欲しくないのかえ、全てがお前の望むようになるんだよ」
美しい女の幻は消え、化け狐と化したひびきは、渾身の力を込め一段一段と近付く。俊敏に駆け上がれないのは、護符のせいだ。
「夢が見たくないのかえ」
見上げるまなざしに誘われて、広松は強く首を振った。
階段の上に立ちふさがり、印を組み
「わしの名を知ったつもりでいるようじゃが、教えてやろう、それはまやかしぞ。夜響は我が分身じゃからな」
「おっさん、だまされるなよーっ、このキツネババア、猿くらいにゃあ智恵が回るんだ」夜響が後ろから叫ぶ。「あんたなら退散させられるよ、絶対だ! よう色男、あんた平成の安倍晴明だ!」
広松は苦笑した。世辞にしても盛り上げてくれるのは嬉しいが、もう少しましな励ましようがあったものだ。だが暗雲の晴れてゆく心に、何か力が湧いてくるのを、広松は確かに感じた。ひびきは歯ぎしりする。瞳の中に紅蓮の炎を燃やし、まさに狐の如く跳躍する。狙いの先は、広松ではなかった。
「夜響!」
ひびきは階段横の柵を飛び越え、二階で観戦していた夜響に飛びかかる。「貴様の口がうるさくて集中できぬ。先に黙らせてやろう」
悲鳴を上げ、後ろに転がる夜響の肩に、ひびきの爪が掛かる。
「なんだよ! あんたを目覚めさせてやったのは、この夜響なんだぞ!」
「黙れ」
残酷な笑みに顔を歪めた。
「止まれ、ひびき」
広松の声が響く。
「オン マリシエイ ソワカ、オン マリシエイ ソワカ……」
「
断末魔の悲鳴が上がる。体をそらせ、乱れた裾から獣の尾がのぞく。「折角、折角二百年の眠りから覚めたのに――」
身も凍る恨みの声を残して、姿はかき消え黒い霞と化してゆく。広松はまだ一心に、
倒れていた夜響が右手を伸ばした。黒い霞はその白い手へ収縮してゆく。
「夜響、何をしている」
「言っただろう、夜響は自由になりたいんだ。そのためにはオニの力が必要なんだ」
広松の顔が青ざめた。
「やめろ、よせ! オニになどなってどうする、ひびきのように、心など欠片もない化け物になるんだぞ!」駆け寄り、細い肩を両手で握る。「オニになどなるな。きみは今のままで充分だ」
夜響は静かに首を振る。広松の目の前で、夜響の黒髪は老婆のように白く変わってゆく。
「夜響―― きみは子供だから、まだ何も分かっていないんだ。思いのままに生きることは、本当に素晴らしいことなのか? それが自由なのか? きみは、抑えつけられる欲望をきみ自身と思っているのかも知れないが、情けない私を励ましてくれたのが、本当のきみではないのか?」
「傷のなめあいなんて大っきらいだもん。それから、夜響は子供じゃない」
「子供は皆そう言うものだ」
だがもう、夜響の歳など分からなかった。瞼を縁取る
夜響はぱっと身をひるがえして広松の手から逃れると、ぴょんぴょんと階段を駆け下りてゆく。やはり、護符を貼った段を飛ばして。
「ねえ、おっさん何者なの」
階下で首を傾けて見上げる夜響に、ただの塾勤めだ、と答えようとして、広松はつまらない、と口を閉じた。相手は子供、しかも今夜は非日常。
「憑き物落としと悪霊払いは天下一、極秘機関の関東支店、その所長だ」
夢想家の
「ふうん、天下一の割には全然聞かないね」
「実は近頃めっきり依頼が来なくてな。信心の薄い
夜響はくすくす笑い出す。「ほとんど知られていないのに天下一で、極秘機関のくせにサイトがあるのか? なんか変だよ」
その笑みもやがてオニの影に呑まれて消えてしまう、そう思うと一刻も早く、夜響の心からオニの気を祓わねばと気が
「オン マリシエイ――」
広松が唱えだした途端、夜響の頭髪の一部が、ものすごい勢いで伸びだした。数房が波打ち宙を泳いで近付くと、
「お巡りさ~ん、助けて! 痴漢!」
表に向かって大声あげる。
「おい、馬鹿っ」
広松は慌てた。荒れ果てた庭のすぐ向こうに、くるくる回る赤いライトに照らされて警官が立っている。二人は一瞬、顔を見合わせたが、すぐに一人がブロック塀をまたいで走ってきた。
「助けて、この男です!」
さっきまでの低い声とは打って変わって、
慌てた広松は情けなくもあたふたして、夜響を黙らせることばかりに必死になる。
「何をしている、離れなさい!」
空き家に上がった警官が広松を引き離し、
「怪我はありませんか」
と振り返ったとき、既に夜響の体は宙に浮いていた。若い警官は思わず息を呑む。
「夜響はただ、自由に駆け回りたいだけなんだよ」
月の下、荒れ庭にゆうらり浮かんでいる。異様に伸びた数本の
「じゃな、所長、また会おうね!」
元気に手を振ると、くるりと宙回転して夜空を駆けてゆく。白い背中は次第に小さく、やがて月明かりに消えた。
残された二人は言葉もなく、ただ子供の消えた夜空を見上げている。なまぬるい風が草木の抱く陰を揺らし、頬を撫でゆきすぎた。
広松は、じんわりと汗をかいた額を拭った。
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