◉幕間◉わたしのお姉さま。

 十五歳になって、ようやく本の世界で読んだ社交界デビューを楽しみに王都に来たけれど、目新しい世界に心が踊ったのはほんの一瞬で。


 毎回女性にはこう言っておけば良いとでも思っているみたいに、同じような台詞でダンスに誘われるのも容姿を褒められるのも、早々に嫌になってしまった。語彙の装飾が過多なのも少なすぎるのも考えものね。


 すぐに領地のみんなと収穫袋をソリにして滑った丘や、高い建物がほとんどないせいで広かった空や、お姉さまの馬に同乗させてもらって見に行った夕焼けが思い起こされた。


 王都にいる社交シーズンの間に、こちらでしか手に入らない本を翻訳しておきたいと思って、日中に買いに行ってもらっていた本を読む。内容はどれも領地で待つみんなの人気を意識して、恋愛ものや単純明快ですっきりする英雄譚。


 息抜きに必要なのは娯楽で、悲しいことや苦しいことはあまり人気がないもの。だけど――。


「はあぁ……一人で翻訳するのって退屈だわ。お姉さま、早く帰って来てくださらないかしら」


 思わず声に出して自室のドアを睨んだものの、ドアノブが回る気配は一切しない。さっきから廊下の気配に気を取られてばかりで、ずっと同じ行ばかりを読んでしまっている。


 お父さまは仕事でお留守だし、こちらの屋敷の使用人達とはまだ少しだけ距離がある気がするので、実質わたしの本当の味方であるのはここにいないお姉さまだけだ。でもそれを不満に思うのはわたしの我儘だと分かっている。


 社交場でお父さまといるときに話しかけてきた、コーゼル侯爵という男性にわたしの翻訳を褒められて、思わずお姉さまの名前を出してしまった。そのせいで社交が苦手なお姉さまを、そんな気ではなかったにしろこちらに呼び寄せてしまったのだから。


 今日は、そのコーゼル侯爵家に生徒になるかもしれない令嬢との顔合わせに出かけている。もしも令嬢が気に入ってお姉さまを家庭教師にと求められては、寂しいけれど家格からいってわたし達の家に断る道はない。


「相手の令嬢がお姉さまを気に入らなければいいのに……なんて、そんなこと、あり得ないわよね」


 優しくて、聡明で、慈愛に満ち、身分に頓着せずに分け隔てなく知識を与え、自分ですら気付けない価値を接する全ての人々に教えてくれる……まるで創生の女神のように素晴らしいお姉さま。


 本当は勉強なんてつまらないことは、必要な部分だけを押さえておけばそれ以上頑張る必要なんてないと思っていた。貴族の娘は多かれ少なかれ、淑女の心得を母親から学ぶ。


 けれどわたしの家はお母さまが早くに亡くなったせいで、それがほとんど終わっていなかった。お父さまはそれを気にして、城に出仕して領地を留守にする間に家庭教師をつけて下さり、勉強されるお姉さまの隣でわたしは人形遊びをして過ごしたけど……今にして思えば、絶対に邪魔だったわよね。


 背筋をピンと正して授業を受けるお姉さまは、けれど、いつもどこか退屈そうで。まだ三十代くらいだった女性の家庭教師は、お姉さまが間違えると手の甲を物差しで打った。


 うっすらと赤みを帯びるお姉さまの手の甲を見て、幼かったわたしはとても強い憤りを家庭教師に向け、実際に家令のギルバートに頼んで、王都にいるお父さまに何度も手紙を出そうとした。でもそのたびにお姉さまに先回りをされて、手紙は一通もお父さまの元に届くことはなかった。


 そして優秀な生徒だったお姉さまは、あっという間に家庭教師など必要としなくなり、最後の授業を終えた日に『もう教わることはありませんわ、先生。今日までお世話になりました』とお姉さまが仰ったときには、本当に誇らしくて。


 それをお姉さまが傲っていると怒り出した家庭教師に、お姉さまはにっこり笑って『お客様・・・のお帰りです』と追い出してしまった。あのとき本当はまだ契約期間中だったと知ったのは、ずっと後になってから。


 でも期間中に契約を破棄した違約金をきっちり払っていたので、相手も何も言えず引き下がったとギルバートが教えてくれた。本当にお姉さまは凄い。


 八歳から家庭教師をつけられたお姉さまは十二歳で家庭教師を解雇し、わたしの教育をしながら、家令の教えと独学に加え領地の領民から話を聞いて、十五歳でギルバートを右腕に領主代理の肩書きを手にした。


 貴族の子女に求められるのはお飾り程度の知識と美しさだけだと、どの教本にも載っている。けれどそれでは駄目なのかもしれないと思ったのは、お姉さまを見ていたからかもしれない。


 ――十五歳。

 今のわたしと同じ歳。


 デビュタントでお姉さまが王都に行ったほんの一瞬だけしか、甘ったれなわたしがお姉さまと離れた記憶はない。それが四年前にお姉さまが過労で調子を崩されたことで、これまでのように甘えたままではいけないと悟った。


 お母さまに続いてお姉さままで亡くしては、わたしもお父さまも生きていけない。そんな打算的な考えが半分、役に立って疲労を軽減させて、あわよくば認められたいという……やっぱり打算的な思いがもう半分。


 だけど、勉強に今までよりも真剣に打ち込む理由なんてそれで充分だった。お姉さまもそんなわたしの姿勢を喜んでくれ、同時に大袈裟なくらい褒めてくれた。初めて姉妹で領地の仕事をした日はいつもよりうんと褒めちぎられて。夜も褒められすぎて興奮で眠れなかったくらいだったわね。


 そこまで記憶を遡らせてから、改めて手にしたままの本に視線を戻す。するとどうしたことだろう。今まで文字の上を滑っていくだけだった視線が文字を拾い上げていく。


 一行、一行を視線でなぞり、何度も何度も、気に入った言い回しを思い付くまで紙に書き綴った。ペン先が性急に紙の表面を引っ掻く音と、インクの香りが室内を占める。


 もっと、優しい労りの言葉を。もっと、熱烈だけれど素直な愛の言葉を。もっと、心を憎しみに駆られる醜い言葉を。


 ――もっと、もっと、もっと、もっと。最初の読者であるお姉さまを驚かせて、その心を楽しませるものを――。

 

 ――……、

 ――――……、

 ―――――……、


 気を付けていたのに右手がインクの乾いていない部分に当たり、紙に擦れた跡がついてしまった。軽く舌打ちをしてその頁を床に捨てると、不意にすぐ近くから「淑女が舌打ちをしてはいけないわ」と声がして。


 弾かれたように視線をあげた先にあった穏やかなダークグリーンの瞳に、眉間に皺を刻んだわたしの顔が映り込んでいた。


「こっちの表現はとても詩的で好きだけれど、こっちの頁の情熱的な意訳も好きだわ。やっぱりアンナの翻訳の才能は素晴らしいわね。原作を崩しすぎない解釈なのに、原作よりも面白くなっているもの」


 社交場で聞いたようなお世辞の色のないお姉さまの称賛は、わたしにとっての何よりのご褒美だけれど――。


「いつ戻ってきたの?」


「そうね、一時間ほど前かしら? アンナがあんまり一生懸命だったから、声をかけそびれてしまって」


 そう微笑むお姉さまを見つめてふと思う。

 ――十五歳。わたしは何ができるだろうか。

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