*3* 教えるのは、楽しいよ。

 同人育成ゲームというカオスな世界に転生してから二ヶ月。


 ここはほんの十年ほど国境線付近で蛮族相手に戦闘を繰り広げ、近頃ようやく相手側に停戦和睦と言う名の従属をさせた以外は、まぁそれなりに安定しているらしい国、ジスクタシア王国。


 ゲームの世界に転生して困っているのはひとえにこれ。あまりゲームの中で語られていなかった部分にまで歴史があるとは……西洋史を学び直している気分だ。まさか自国の歴史を今さら妹に聞くこともできないので、使用人の皆や妹が心配しないように深夜にひっそり勉強している。


 我が家はジスクタシア王国の一子爵家であり、やや片田舎に位置する場所に領地を頂いている。そんなエステルハージ領は現在はちょうど春から夏に変わろうという頃。薄青かった空の青が濃くなり、土と緑の香りが立ち込める季節だ。


 領地はさほど広くないものの、小麦や野菜などの生産力が比較的安定した穏やかな土地である。


 日記の内容とゲームの記憶を頼りに帳簿をつけたり、領民の声を聞くべく馬に乗って領内を視察したり、教会や孤児院での識字率向上を序盤の間に上限まで上げるために奔走したり、時々息抜きについてきたがるアンナを馬の前に乗せて領地をぶらついたりしていた。


 ゲームのシナリオにあった主人公の“勉強が好きで、社交は苦手。結婚は社交的な妹がいるので父親も強くは言わないでいる”という緩い設定がそのまま使用されているようで、領主代行としての仕事以外はかなり自由がきく。


 問題は領主代行の仕事が多忙ということだけど、これは初日にやらかして以降、ゲームと同じようにアンナが協力者としてスケジュール管理などをしてくれるし、父の信頼している家令も手伝ってくれるのでやや軽減された。


 どうにも最近前世でゲームの時間が取れなかったので、こちらの世界で短期間にスケジュールを詰め込みすぎていたらしい。私が転生した初日にアンナが手紙で《過労で倒れた》と送ったところ、すぐに早馬で手紙が届いた。


 内容的には《すぐに帰れなくてすまない》という簡潔なものだったのだけど……ちょっと嬉しかったのだ。残念ながら母親はすでに他界しているものの、ほぼ理想的な家族像である。


 その後は適度に空白のできたスケジュール表は妹管理の下、私が勝手に隙間に仕事を捩じ込まないよう厳重に保管されてしまった。


 そんなこんなで、目下の目標は当初の予定通り【最短での本編入り】に固定している。しかしそれと並行して妹や、年に四度ほどしか戻ってこないので、まだ顔を合わせられていない父の幸せも視野に入れて行動を起こすことにした。


 取り敢えずまずは十二歳の妹を、国外か国外に親戚を持つ貴族家へ嫁がせられるように教育する。最悪今回ルートを間違えてしまったとしても、妹が国外で生きていけるように手を打つ。


 ――ということで。


「お姉さま、これはこの訳詞でいいの? 何だかおかしな文章になるのだけど」


「発音も聞いてみたいから、声に出して読んでみてくれるかしら」


「こ、声に出して……って、間違えていそうなのに?」


「ええ。外来語の勉強ですもの。最初から間違えないようになんて無理よ。それにせっかくだからアンナが上達したところを聞いてみたいわ。駄目かしら?」


 現在隙間時間の活用と初めてできた妹という存在を愛でつつ、お嬢様教え子に出会うまでの準備期間として家庭教師の真似事をしているのだが、これが思いのほか楽しい。前世の終わり頃の苦しさとは無縁だ。


 やっぱり基本的に何かを人に教えることが好きな性分は、一度死んだ程度では変わらないらしい。


「お、お姉さまがどうしてもって言うなら仕方がないわね。じゃあ、読むわ」


 頬を上気させて満更でもなさそうな妹に向かい、ささやかながら盛り上げようと拍手を送る。アンナは嬉しそうにはにかんで、その可愛らしい唇を開いた。


「“おお、麗しのジョセフィーヌ。君を想うと心が甘く乱れる。どうかこのわたしを、可愛い貴方の犬にしてベッドの中で愛して欲しい”」


 直後に清楚な美少女の口から飛び出した内容に目が点になる。妹のものとは別に、教科書として使っている自分の小説を見てその理由が分かった。


「許されるならその――、」


「待ってアンナ。もういいわ」


 感情を込めて朗読を続けようとしたアンナを笑いを噛み殺して止めると、妹は「だから言ったのに」と唇を尖らせた。お昼間に読むには刺激の強そうな文法間違いをしでかしている。


 ……正直この先をどう訳しているか気になるものの、十代向けの恋愛小説が一気に官能小説になってしまうだろう未来しかない。それはそれで非常に興味はあるが。


「うん、途中まではいい感じだったわ。この作家の回りくどい文法表現がいけないのよね。まず“ベッドの中で”の部分は“夢の中”と訳して、それからこの部分は“貴方”と“可愛い犬”が混じっているわ。間にあった分からない部分の文法を適当に繋げては駄目よ」


 以前塾で“彼は妻の作ったお弁当とパスポートを持って”という文章を、何故か“彼は手作りのパスポートを持って”と訳した強者を思い出した。私的には満点をあげたかったのだが、塾講師としてあれでは困る。


 あのときは笑いの発作を鎮めるのに十分ほど要して大変だったけど、他の生徒達と一緒にどこが躓きやすいかを確認するいい機会にもなった。


「笑ってしまってごめんなさい、アンナ。でもあんまり一生懸命に間違える姿が可愛くてつい。どこが分かりにくかったのか教えてくれるかしら?」


「もう……実は謝る気がないでしょう、お姉さま」


「そんなことないわよ。それに貴女には意外と翻訳者としての才能があるかもしれないわ」


 教育の上で大切なのは如何に生徒となる人間の興味を惹くかにある。私の提案にアンナの眉がピクリと動いた。実際このジスクタシアのものに限らず、屋敷内にある他国から取り寄せた本の多くが男性の翻訳者である。


 中には女性の感覚で翻訳した方が面白い題材のものも多い。恋愛ものなどを高尚にお堅く訳されては魅力も半減だ。口付けの描写だけで空や海が割れるのかと思わせるほど、大袈裟で甘い雰囲気がない。


「そうだわ、この次はもっとつまらない本を用意するから、それを使って翻訳者ごっこをしましょう。興味を惹き付ける翻訳なら、もっと面白く読めるものも世の中には多いのよ。瑞々しい貴女の感性に期待しているわ」


 かくしてここぞとばかりに持ち上げた私の言葉に、素直で可愛い妹は直前までの不機嫌さをスパッと切り換えて、輝く笑顔で何度も頷いてくれたのだった。

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