レンフィールド・シンドローム

黄呼静

レンフィールド・シンドローム


 吸血鬼と同棲している。

 SNSで知り合って、彼女に隠れる場所として私の自宅を提供したのが始まりだ。

 自宅と言ってもさほど広くはないアパートの一室で、本来だったら人を呼べるような場所ではない。それでも彼女は隠れる場所が必要で、私は彼女に興味があった。


 彼女は一見して普通の女の子で、吸血鬼だと言うのもはじめはあまり信じていなかった。

 待ち合わせの駅で初めて会った時、彼女は紺のパーカーにミニスカート姿でコンクリートの柱にもたれかかっていて、荷物も殆ど持ってはいなかった。


 私が同性でなければ、援助交際の待ち合わせかなにかと思われたことだろう。

 それから彼女を部屋に招いて一緒に住んでいるが、未だにいつか警察が私の部屋のインターホンを鳴らし、彼女を両親のいる元の家へ、私を未成年者略取みせいねんしゃりゃくしゅの罪状で留置場へ連れて行くんじゃないかって、考える時もある。


「ねえ、吸血鬼って本当なの?」


 私が同棲に馴染んできた彼女に尋ねた時、彼女は肩まで伸ばした黒い髪を波打たせ、静かにこくんと頷いた。ヘアケア化粧品のCMみたいに、白いうなじを少しだけ覗かせて、言葉少ない彼女の、頷きとともにゆらりとなびくその髪を見た時に、そのジェスチャーの意味よりもはっきりと、初めて人ならざる何かの力を感じた気がする。


 それまでに私が見た彼女の”吸血鬼らしいところ"など、日中にカーテンの隙間から覗く陽の光をよけながら、その綺麗な髪を静電気でぼさぼさにして毛布に包まって、死んだように眠りこけているところだけだったから。


 彼女の食事の問題について、私はいつも気にしていたが、ニンニクはカリカリに焼くか乾燥したものなら問題ないと説明されたっきりで、私の出す物は基本的に何でも食べている。

 私は説明を受けた次の買い物の日にさっそく乾燥ニンニクを買ってきて、ぺペロンチーノを作って出してみたが、彼女はそれをペロリと平らげ、それらしい反応といえば食べる前に少し無言でにらまれたくらいだった。


 少なからず苦手ではあるのか、私のイタズラが気にいらなかったのか、あるいは辛い料理が苦手だったのかもしれない。後で聞いた所によると、あの伝説というのもあくまでニンニクの花が吸血鬼除けになる、というだけのことらしいけど。


 私は十字架についても、流れる水についても聞いてみたが、そんなものは単なる迷信らしかった。

 彼女はべつにキリスト教の神に敵対する悪魔が、少女の死体を乗っ取っている存在では無いらしい。また、利根川水系の恩恵に預かるこの一帯で、隣の町へも行けずに右往左往うおうさおうして困っていた訳でもなかった。

 ただ街のあちこちにあるほこらや神社、お寺等にはあまり近づきたくないと言っていた事もあるし、実際に、彼女は……なんなのだろう?



 同棲からしばらくたって、彼女を彼女の種族たらしめる特別な”食事”。吸血行為に関しては、私の方から彼女へ提案した。


 彼女は家に来て一週間経っても、一月経っても、その事については触れようとはしなかった。

 夜中にごそごそと起きている気配があっても、どうやら渡したタブレットで動画サイトを見ていたり、小腹でもすいたのか冷蔵庫の中身をあさっているようで、夜な夜な街に出て人を襲っていると言う事も、私の寝込みを襲うと言う事もなかった。


 それどころか基本的に私が誘わないと外へは出ようともしないし、私がバイトに出て日中や夜中までいない時であっても、一日中何処へも行かずほんとうにただ部屋で寝ているだけなのだと、万年床まんねんどこの布団のしわが物語っていた。


 だから私は、何から逃げているのかと聞くと決まって「警察から」だと答える彼女と、他の家出少女とを決定的に判別する為に、彼女へ私の血を呑む事を提案してみたのだった。


「別に……そんなには必要ないから」


 ぶっきらぼうに、そう彼女は答えた。

 ではどれくらい必要なのかと私は聞くが、彼女は答えない。

 でもあのSNSを見て、私に接触を持ってきたというのは少なからずそう言う事だ。

 そう言う事であるはずだと私は思い、そう行動したのだ。


 私は時々、手首を切る。

 それを写真に取ってSNSにアップロードするのが、私の趣味のようなものだ。

 でも彼女と同棲するようになって、変に意識していたためにずっと出来ないでいた。その間手首を切らない事になにか違和感があったし、ふとその事を考えている時もある。


 普段だったら一、二週間に一度、少なくとも一月空ける事は無い。

 手首の内側や外側、乱雑に切ったり、模様のように切ってみたり。

 きわどい写真を撮るために、内腿うちももとかお腹とかを切ってみた事もあった。


 ステンレスの剃刀かみそりの刃で、皮膚の少し下のザラザラとした所を引っ掻いていく感覚。

 網の眼の様に張り巡らされた、痛覚神経を鋭い刃で触るためにそう感じるのだろう。滑るような刃と私の奥でかなでられる、痛みの波が対称的で不思議な心地がする。

 カッとなって何度も切った傷の奥から、プックリと果実が熟れるように赤い血の雫がみ出るのを見ていると、なんだかポーっとして、後から思いだすととても気持ちのいい体験のように思えるのだ。


 私は別に何か吐き出したい事があるとか、痛みで忘れたい事があるとか、そう言うのではなかった。もちろん手首を切って死にたいとか、自分を否定して傷つけたいとかでも無い。所謂ところのファッションリスカで、決して深く切る様な事はしなかった。

 SNSへの写真の投稿とかと連動して、多少依存気味ではあったけども。



 たぶんあの時の私は、彼女に対する失望感みたいなものもあったんだろう。


 彼女が本当に吸血鬼なのかどうかは、常に懐疑かいぎ的に見てきたし、今でも本当のところはどうなのかは知らない。

 ただ私のSNSを見ていてくれて、私がああいう事をしていると知っていて、彼女は吸血鬼を名乗ったのだ。だからいつまでも彼女がそのことに踏み込んできてくれない事が、裏切りのように感じられたし、口ではそれらしい事を言って、平気でニンニク入りのパスタを平らげる彼女の事が憎らしかった。


 初め彼女は、目の前で切った私の手首から目をそらしていた。

 もしかしたら吸血衝動しょうどう? とか、そう言うのを抑えていたのかもしれない。

 ギュッと口を閉じて、何かに耐えるように、横を向いて黙っていた。


 でも私は、彼女がそうしているのを見るとさらに彼女が憎らしくなり、カッとなった。

 よく覚えてはいないが、SNSにたまに書く様な、メンヘラみたいな言葉を投げかけて彼女に迫ったんだと思う。意味不明な言葉を並べ気を引いてみたり、彼女が知らない様な私の過去を断片的に持ち出して、責めるような事を言っていたかも。演技のつもりではいたけれど、たぶんそれは私の本性の一部でもあると思う。

 普段リアルでは決して見せない姿だった。


 しばらくして私の肘から床に糸を引くまで血が垂れてくると、彼女は意を決したように私を見たのだ。興奮していて、多分、普段切らない様な皮膚の深くまで、刃は行っていたと思う。彼女は私の腕をとると、その一番大きな傷にむしゃぶりついて、私の血を吸ってくれた。彼女は飲んでくれたのだ。


 普段だったら、まだジクジクして強く痛みを感じている頃だったはずだ。

 まだ胸が強く締め付けられ、頭が暑くて、まだリストカットの気持ちよさを感じようとしている自分自身が、頭の隅で小さくうずくまっている頃のはずだ。


 でも彼女が私の傷に唇を当てた瞬間、それは変った。

 手や足の指先が温かくなって、自分の皮膚感覚が膨張したように鋭敏えいびんになる。うるさいくらいに鼓動が高まって、肌を押し上げるような血の流れを全身に感じる。

 手首の傷の痛みは消え、彼女がチロチロと舌先で舐める傷口の断面から、こそばゆいような気持ちいいような感覚が昇る。今まで感じてきた焦りやもどかしさ、彼女への期待や不信感までも、全てが肯定されたように温かいものへと変わる。そして皮膚の中、頭の中、渦を巻いて巡る血の中に、自分という存在がいる事がどうしようもなく嬉しく、その事を認めてくれる彼女がどうしようもなく愛おしい。


 その瞬間から、私は彼女のとりことなったのだ。



 私は出来れば毎日でも、彼女に自分の血を飲んでほしかった。

 しかしその翌日に私は熱を出し、そのまましばらく寝込んでしまった。


「私、貴女に血を吸われちゃって……もしかして貴女の、吸血鬼の仲間になるの?」


 熱にうなされ尋ねると、彼女は笑って、それは違うと言った。


 どうやらこれは、彼女の唾液への拒絶反応の様なものらしい。

 手首を切って彼女に血を吸われたすぐ後に、その傷はすぐふさがれてしまった。

 でも一見して新しい私の皮膚のように見えるそれは、実は彼女の唾液から作られた私のではない皮膚で、初めてそれに触れた私の身体が強く反応しているんだとか。実際その後、傷の個所は赤くはれて熱くなり、私の全身の熱が引く頃にはさらに新しい皮膚が下に出来あがって、それは瘡蓋かさぶたのように干からびて取れてしまった。

 彼女からもらった何かが、自分の中から失われてしまうのは寂しい気もしたが、私の血は彼女の栄養になったのでよしとした。


 そういえば不思議な事だが、私はそれ以降自分が彼女の仲間になりたいとは考えなかったし、彼女も私を吸血鬼の眷族けんぞくにしようとは言わなかった。彼女が私の事をどう考えていたかは知らないが、そもそも血を吸う事にもためらいがちだったし、他の吸血鬼を作る事にも罪悪感があったのだろう。そして私の方では多分無意識のうちに漠然と、今の様な欲望を持っていて、彼女の眷族と言う立場を望まなかったんだと思う。


 ちなみに言っておけば、眷族を作るためには彼女の方でもいろいろと準備が必要で、一人の人間が吸血鬼に変わるにはそれ以外の期間がさらに数カ月も必要らしい。

 結局、この具体的な方法については、私も彼女からは何も聞かなかった。



 そうして一度目の吸血を行い、私と彼女はしばらくそれを行わなかった。

 熱が冷め傷が癒えたら、私としてはすぐにでも彼女にもう一度血を飲んでほしかったが、彼女はしばらく要らないと言うし、私もバイトに復帰しなければならなかった。

 せいぜい毛布にくるまる彼女とスキンシップを図ったり、鉄分の豊富な食事を用意して体力を戻す事にした。

 そしてその後、私が体力を回復し二度目の吸血に至るまで、たっぷり三か月を開けての挑戦となった。


 どうやらギリギリまで血を我慢したいらしく、なかなか彼女の方からは言ってこない。

 私の方も一度の吸血では多くを消耗し、慣れてきてスパンの短くなった今に至るまで、結局十数回ほどしか彼女に血を飲んでもらってはいない。


 彼女に吸血されるようになってから、私はずっとリストカットを我慢している。

 その時の三か月はずっと彼女の吸血の事で頭がいっぱいだったので、リストカットの事はあまり考えなかった。しかし衝動的に血を見たくなったり、SNSの反応がものたりなかったり、書く内容に詰まる時はどうしてもその事が頭をよぎる。


 そういう時、私はじっと彼女の方を見つめる。

 彼女に血を飲まれる事を考えると、自分でただ血を流すなんて馬鹿らしくなるし、もしかしたら彼女の方から私を求めてくれるかもしれない。


 実際、そういうときの彼女の瞳は不思議だった。

 私と同じ濃いブラウンの瞳で、くりくりと可愛らしいが、蒙古もうこひだもあって決して日本人離れしたほどの顔ではない。それなのにどうにも印象的で、見つめていると何かを訴えかけてくるように思え、こちらから視線を外す事は出来ない。


「吸血鬼の魅了なんて、迷信だよ……みんな、私の言う事なんて聞いてくれない」


 彼女はそう言っていたが、それはウソだ。

 私は彼女の眼に見つめられると、自分が支配されていると感じる。

 彼女の何かにならなくてはと、自分をコントロールする事が出来ない。



 そして二度目の吸血が行われたのは、そういった状況の時であった。


 その時私は、べつにリストカットの事など考えてはいなかった。

 ただ小説や映画のように、牙を伸ばした彼女の口で私の身体を傷つけたら、どんな感じなのだろうと考えていた。いつものように私は彼女の方を見つめ、そして彼女と眼が有って、私はその瞳に吸い込まれるように動けないでいた。


 すると彼女は頭に被り握っていた毛布の端から手を離し、それが滑り落ちるままに任せて立ち上がり、こちらへと来たのだ。

 恰好かっこうのつかない話だが、彼女はその時上下とも灰色のジャージ姿のままで、わたしの眼の前にはいまや陳腐ちんぷにも見える有名ブランドのロゴが迫っていた。私は眼の前へと下がってきた彼女の視線が無言でそう促すままに、すこし上半身をのけ反らせ、後ろに手をつき、組んでいた足を投げ出し彼女をそっと迎え入れた。

 彼女は私の腿の間に片膝をつくと、覆いかぶさるように顔を寄せ、私が彼女を見上げる形で、しばしまた見つめ合った。


 既に私は彼女が何をしたいのか理解しており、ただ彼女の獲物として、そのまま彼女がアクションを起こすのを待った。

 普段あまり口を開けずその歯を見る機会は少なかったが、今まで少なくともあんなに鋭い犬歯は生えていなかったはずだった。その少し前にもそうであったように、昼にはいつも不健康そうな肌も髪も、夜には艶やかで白く、黒い。


 すでに鼓動の高なっていた私とは違って、耳も頬も透明な産毛のおおう真っ白なままだったが、額や首筋には青い血管が透き通って見え、一様に白磁はくじの様と言う訳では無かった。桃色で薄く小さな唇や、小ぶりでツンとした鼻先、長いまつ毛に縁取られた眼も、当たり前にあってしかるべき造形に収まっていたが、全体では現実感のないくらい彼女の容姿は綺麗に見えた。

 私は次第に呼吸が浅くなってくるのを感じ、意識を手放して気絶してしまいたいくらいだった。


 そうしているうちに彼女は顔をさらによせ、私の顔の横を通り過ぎると、首筋に鼻や頬を擦りつけてきた。

 目をつむり、肩で息をして小刻みに震え、私はまるでモンスターパニック映画でよくあるワンシーンの、こちらに気付いていない怪物の前で、息を殺し通り過ぎるのを待つヒロインみたいだったと思う。

 怪物の方が小さくて、ヒロインである私より美しかったが、確かに状況はよく似ていた。


 しかし映画の中のヒロインと違って私が望んでいる事は、怪物に獲物として認識され、そして捕食される事だった。手足の末端には血が通わず冷たくなり、背筋からはゾクゾクとしたものが上って来ていたが、その時私が感じていたものは淡い多幸感だった。


 彼女は何度か鼻や頬を擦りつけ、鼻息でくすぐる様にして私の首筋にマーキングした後、今度はその部分を舌で舐めはじめた。

 私は声を上げその場から飛び退いてしまわないように、意識して吐く息を深くし、胸の奥と喉、口と鼻の間を狭くしてフーフーと首筋に感じるくすぐったさを逃がした。

 そうして十分に私の首筋を濡らし、私の服従を確かめると、彼女はいよいよ大きく口を開き、その部分に鋭い牙をあてがった。


 今まで散々気取った言葉を並べ立てて彼女の事を書いておいて、本当にチープな言葉になると思う。

 でも、幸せだった。

 その時の感覚は、ただ幸せだったと言うほかない。

 そして私があんな間抜けでなければ、もっと幸せになれたかもしれない瞬間だった。


 先回では私は自分から手首を切って、彼女に押し付けて、それはいわば彼女が私の自慰に付き合ってくれただけだった。でもその時は、彼女は私が言う前に動き、私が自分から流した訳ではない血を吸って、飲んで、求めてくれた。

 本当の意味で私は彼女に吸血され、支配され、捕食されたんだと思う。


 彼女の小さな下顎が私の喉の片側を抑え、柔らかい唇や舌が押しあてられる。

 そして上顎の長い犬歯の先端が首筋を撫でるように滑り、突き立てられる。

 そのまま顎の力で咬むのではなく、彼女は口で吸い、上顎を押しつけるように、鋭い牙を突き刺した。


 いつの間にか脇を通って背中に回されていた彼女の腕が、情熱的に私の背を抱いている。

 首の筋肉が牙で強く押しつぶされ、苦しいような鈍い痛みと、目や顔を内側から押されるようなツンとした痛みを感じる。やがて皮膚の二つの個所で、ミチミチと裂けるような鋭い痛みがして、皮膚の下に太い異物が刺さるのを感じた。


 私は唸るように喉を鳴らし、肩で息をしていた。

 頭の中ではこの痛みを感じたい、息を止めてこの喜びを自分の中に留めておきたいと考えていたのに、身体は言う事を聞かず全身に脂汗をかいて、歯を食いしばって固まっていた。

 或いは涙を我慢せずに、そのまま彼女と一緒に倒れ込んで泣いてしまえば、まだ感情の中に何かを残せたかもしれない。でも私は、馬鹿みたいに後ろに手を付いて肩を緊張させたまま、無理やり胸を上下させ、この人生で最も幸せな一時を拒絶していた。


 彼女の牙は、皮膚の表面を突き破っただけだ。

 筋肉に刺さった訳でも、下の太い血管を破った訳でもない。

 ただ私の皮膚を突き破って、皮膚と筋肉の間に滑り込んでいただけだった。

 たった直径数ミリの牙が、それも愛しいはずの彼女の牙が、皮膚の組織を割いてその下に入っただけで、痛みに慣れていない私はいっぱいいっぱいだったのだ。


 その後彼女が一旦牙を抜いて、改めてその傷から彼女が血をすする間、もちろん私は幸福感を感じていたし、気持ちよさも感じていた。

 しかし心のどこかで満足出来ていなかったし、ある意味で初めての吸血であり、五本の指に入るほどの幸せな彼女との行為を、最大限に感じる事が出来なかった事は後々まで私の中に大きなしこりを残した。

 今となっては、それも含めて良い思い出だけれども。



 その後私はやはり彼女との行為の代償を支払う事になるのだが、どうやらそれは少し歪な私達の関係によって、二度目にしては長く寝込む事になったらしい。

 もともとあった傷を舐めて吸血するより、牙で皮膚を破る方がダメージが大きく、彼女の唾液も多く体内に入る事になる。したがって回を追うごとに急速に軽くなっていくはずのこの拒絶による発熱も、私の場合は初回に軽く今回には重く、総じて同じほど寝込む事になり、やや変則的なものとなったようだった。


 私はその間今回の吸血行為の事を考え、昼間には殆ど意識を保てない彼女を脇に抱いて寝ながら、少し涙を流してその悔しさを反省した。


 単純に準備不足と言うのはあったのだろう。

 あの時は彼女の方から血を求めてくる事を真剣には予想していなくて、ふとしたことから及んだその行為に、覚悟も準備も出来てはいなかった。もちろんそれを彼女のせいにはしたくなかったし、あれほど自分が痛みに弱いなら、今後ももっと覚悟を持って彼女と生活するべきだと感じた。


 それに今にして思うと、あの時彼女は私の身体を押したり、私の首を咬む前にはたっぷりと準備の合図をしていてくれていた。つまり私は、彼女がしな垂れ掛って首に鼻や頬を擦りつけたり、首筋を舐めてくれている間に、楽な姿勢になるか布団の上へ彼女と共に移動するべきだった訳である。


 その事に気付いた私は悶絶して、その場で暴れ、泣き出したい気持ちになったのだが、隣にいた殆ど息もせず死んだように眠る彼女に遠慮して、ただ悶々とするしかなかった。


 だから、彼女との理想の吸血行為が成立したのはそのずいぶん後であり、愚鈍で察しの悪い私が本当に満足できたのは、あの時から半年ほど経った後だった。



 やはりきっかけは、彼女との目線が合う事だった。

 その頃になると、私も彼女の特に表へ出さない機微きびをなんとなく受け取れたし、そういう周期が彼女と重なってきたんだと思う。私はしばらく動かないで待って、彼女がゆっくり私の元へ近づいてくると、焦らすように後ずさって布団の上まで誘導した。


 その幾日か前に、ずっと布団の上で生活する彼女の為にペタンコになっていた古い布団を新調していた。

 私はさわり心地の良いフカフカしたその上へ、一緒に買った大き目のクッションを置いて背に敷いた。そのまま一緒に倒れ込むように迎え入れ、彼女お決まりのマーキングから行為は始まった。


 首筋に甘えるように顔を擦りつけ、舌で十分に舐め、歯を当てがって準備は完了した。

 私は背に回された彼女の手に応えるように左手を彼女の首に回し、彼女が首を咬みやすいように右の肩の力を抜き、続く腕をだらんとさせる。


 それから、圧迫するような、苦しいような鈍い痛みが首や顔の周辺を襲い、いよいよ彼女の牙が私の中に入ってくる。


 ツーンと、手の指の関節や足の裏、へその奥へ伝うような鋭い痛みが走り、首の皮膚が裂かれ、押し広げられていく。

 私は殆ど息を止めたように喉の奥をしめ、鼻から少しずつ抜いていくように極々細く息を吐く。脈打つ心臓とともに痛みは波となり、私はそれを逃がさないように集中し意識した。やがて彼女が牙を抜くと、私は口を開いて溜まっていた息を吐く。

 無意識に緊張していた身体の幾つかの筋肉が弛緩しかんし、あっと声が出るのが抑えられなかった。


 彼女はそれを気にするでもなく、しばらく舌で傷の縁を舐め、唾液を送り込むように周りの皮膚を温める。おかしな事に、彼女の舌の温度を感じないほどになると、傷口から私の血が自然と流れ出すのがわかった。彼女の唾液とは区別して、自分の体液が傷口を流れ出るのを感じる事が出来たのだ。


 吸血行為自体にはその時もう十分慣れていたはずなのに、その後の事はさらに不思議だった。

 痛みを受け入れる事に成功したと気付くと、私は既に普段なら行為の佳境かきょうに居るくらいに、快感を感じている自分に気付いた。身体はいつも通りに彼女を迎え入れているのに、頭の中ではこれから起こる事が怖くて、期待していて、感情はグチャグチャで、最早形を成してはいなかった。

 

 彼女が私の血を吸うごと、彼女がプッと唇を離し息を吸って、再び私の首筋に口を付けるごとに、ゾクゾクと何かが昇って行き、高まって行くのが感じられた。必死に息を整えて吐き出していないと、何かを掛け違えて自分が壊れてしまうのではないかと感じた。

 私は肉体が命じるまま、肉体を支配している彼女が命じるまま、その何かが背筋を刺し貫いて昇って行くのを、泣きそうになりながら制御していた。


 そうやって何度か溺れそうになりながら呼吸を繰り返すうちに、私はその何かを制御するコツの様なものも頭の隅に感じた。不確かではあったが、最早恐怖に突き動かされていた私は、頭の中のその部分に制御を預け逃れようとした。


 その試みは上手く行ったのか、次第に自分は落ち着いて行った。

 しかし冷静になったらなったで、これまでにもずっと感じていた対外的な感覚が私の意識に入り込んできて、今度はその相手をしなければならなかった。


 私は愛しい彼女の顎や頭に、自分の鎖骨や耳たぶを押しつけて、力を抜いていた右腕で彼女を抱いた。

 彼女の髪と私の髪がこすれ合い、耳の中に反響してジリジリと響くのを感じながら、右手を彼女の腰に回してさすったり、左手でも彼女のうなじを撫でたりもした。全身が敏感になって、足の指と指の間に空気が通る涼しさを感じたり、滑らかな布団やクッションと背中がこすれたり、モゾモゾと動かした内腿が彼女の膝と意図せず触れあうのを感じた。

 

 私がそう感じているから彼女もそうとは限らないし、実際には彼女にとってこれは単なる食事である。ただ以前から私が彼女のこう言った食事中に、彼女にも私と同じ物を感じてほしいと行動するのを、彼女はある意味で黙認していた。


 だけどその時の私の感覚は、神経だけではなくその血にも及んでいた。

 私は彼女の喉の奥が鳴り、私の血がねっとりと飲み下される事を感じていて、そしてそれが私の右手や左手、不規則に触れる内腿の感触と連動しているのを見逃さず、確信した。


 不幸な事に、或いは幸せなのかもしれないが、その事に気付いた瞬間、また私の中にゾクゾクとした物が押し寄せてきた。それは頭の隅から湧きあがって、現在の意識を塗りつぶそうと襲ってくる。

 私は身体の動きを止め、またしばらくはその感覚を制御しようと追われる事になった。


 そうして私は何度か自分の中の衝動を制御し、キャパシティを越えそうになると頭の隅の他の自分にそれを預けて身体の感覚を取り戻し、また衝動が湧きあがるまで彼女の身体を求めると言う事を繰り返した。その間にもずっと彼女は私の血を飲んでいて、私はその血の感覚の中から多幸感を得て、それに浸ってた。


 たぶん、その主導権はずっと彼女に握られていたんだと思う。

 少なくとも私の方から止める事は出来なくて、彼女を押しのけたり彼女から流れ来る感覚に抵抗する事は出来なかった。


 私は終わりの見えず、永遠にも思えるこの時間の中で、初めて彼女を恐ろしい存在だと思い始めていた。その時の吸血によって、私は彼女の中に、もっと大きな何かを感じ始めたのだった。



 話は変わる事になるが、吸血鬼は処女の血を好むとは、おそらく本当の事だろう。


 私は……明かしてしまえば、男性経験は彼女と出会う以前からあったし、そう言う事は彼女と同棲するようになってもたまに行っていた。

 アルバイト先の同僚や店長に求められて応じる事もあったし、SNSで出会って金銭を目的に、という事もあった。後者はいわゆるパパ活と言うようなものであり、この頃から度々熱の為に休む私はバイトにも居づらくなって、今ではこちらで彼女との生活費を稼いでいる。


 だから処女かそうでないかが、彼女にとってどれほどの価値のある事なのかは、真には分からない訳だけど、少なくとも男性とそう言う事をした日は、彼女は決して私の血を吸ってはくれない。それどころかその翌日まで露骨に私との接触をさけ、しばらくは私の吐く息さえも浴びたくないと言った感じだった。


 男性と接触を持った事でこれなのだから、本当は彼女は一度も性交渉をしたことがない純潔な女性から血を飲みたいと考えているのかもしれない。

 本当のところは私の事を穢れた、汚い存在と考えていて、私の血は苦くて、私の血は臭いのかもしれない。


 ただ冷静になって考えてみれば、SNSでそのログを漁れば私の男性遍歴や、そうした交際のことは散々ほのめかして書かれていた。だからそれを知って私に同棲を持ちかけた彼女が、もちろん処女であるかどうかを私に求めていたとは考えにくいようにも思う。単に安全な存在であるとか、同性であるとか、住所が都合の良い所だったから私を選んだ可能性も多分にあるのだ。

 でもそれならばこそ、彼女は情報を吟味ぎんみして私を選んだはずで、私が純潔でない事は彼女にとって無視できる要素だったはずだ。

 少なくとも彼女が私を、選んでくれたのだから。


 そうしたインターネットで私の事を知り、関係を申し出る男性は様々だった。

 彼女に嫌われるのではないかと考える一方で、私には彼らの援助が必要だったし、こう言った外部との接触は、じっとしていられない所のある私に、彼女からはなかなか得られない刺激を与えてもくれた。


 彼ら自身も私のSNSを見て連絡をとったと言う事は、私の自傷癖についてももちろん把握している。私が彼らの前で肌を見せる時、平素に流される時もあれば、同情的に傷の事を聞いてくる事もある。こんな事をしていてはいけないとさとしてくる場合も、あからさまに嫌味を言ってくる場合さえあった。


 若い男性でも中年の男性でも、あまり容姿のよくない男性も当たり前にパートナーの居そうな男性であっても、その反応に法則性はなく、そして結局は例外なく彼らは私を抱いてお金を払って行くので、その時点ではいつも私は何も思う事は無い。しかし家に帰って彼女からよそよそしく気まずい態度を取られると、どうしても深く考えてしまう。

 彼らに言われた事をきっかけに、彼女の態度を疑ってしまう事さえあった。


 ある意味において私の貞操に関する問題は、彼女が私と出会う前に飛び越えて居たハードルでもあるが、それは無くなった訳でもなく、私にそれを取り払う事も出来ない。

 少なくとも私がこんな生活をすっぱりと辞めてしまえれば、それをこんな形で意識する事にはならないはずであった。しかし、彼女に血を提供しながら、一方で彼女との生活をより彩っていくためには、こうした援助はどうしても必要である。

 私はしだいに、同じく彼女が決して血を吸わない時期である、吸血行為直後にそうした活動をするようになった。


 最早その時には、吸血後の発熱は一晩ほどで治るようになっていた。

 彼女に吸われ、求められ、貧血でふらふらになりながらSNSで知り合った男性に抱かれ、彼女に気まずく扱われる時間を過した。


 その間ただボーっとしていたり、こんな風に自分を傷つけたり安く売るのはやめるべきだと諭してくる男性の言葉を、グルグルと頭の中で考えたりしていたと思う。でもしばらくすると、そのお金でちょっとした食事やプレゼントを用意して彼女と和解し、また血を飲んでもらうのだ。


 私達の生活は、ある意味で完結していて、充実していて、どんどんとその中にのめり込んで行った。実際、次第に増えていく彼女の為の大きなぬいぐるみや安眠グッズが部屋を埋めつくしていくのを感じなければ、私は彼女との生活が随分と経つ事にさえ気付かなかったほどだ。



 こうして冷静になって考えてみると、私は彼女とのこのある種波のある生活の中で、随分と我がままにもなってもいったと思う。


 初めて私から吸血を迫った時のように、おかしな行動も取ってしまったし、恥ずかしいような事も随分としてしまっていた。

 私に存在する意義の様なものを与えてくれる彼女に、支配者や上位者として私が仕えるべき彼女に、自分が男に抱かれながら養ってあげていると言うような、卑しい優越感の様なものを抱いていたような気もする。贖罪しょくざいと言う訳ではないが、その私の恥ずべき行いの例を二つここに語って、この長々とした話をそろそろ終えようと思う。



 彼女との行為の中で、どうやら彼女も私の感じているものとさほど遠くない感覚も抱いていてくれていると感じた私は、彼女との間に甘い幻想も夢見ていた。彼女との間に、支配者や下僕、捕食者と餌の関係では無い、他の部分を補え合えるような関係をである。


 日々の生活の中で、彼女へ普通の食事を用意したり、いやがる彼女をつれて衣服や生活用品を一緒に買いに行ったり。

 押し付けるような形ではあっても、クッションとかぬいぐるみとか、彼女には俗っぽくて本質的には似合わないかもしれないゴシックロリータの衣装とか。いろいろな何かを渡し、彼女がそれを受けっとてくれる関係は、私にそう言ったものを連想させた。


 同棲のカップルが、普段どういうふうに互いの想いを確かめあうものか、私はよく知らない。

 或いは私が血を吸われている間にするように、相手の身体を愛しく触り、偽りのない胸に浮かんだものを相手の耳元に囁く事はその一種なのだろう。

 しかし私には、彼女の確信に触れる勇気もなかったし、本来の私達の関係を脱ぎ捨ててしまった様な行為は、はっきりと違うと感じていた。

 

 私はその時もポーッと、やはり彼女の事を見つめていて、彼女も私の方を見つめ返してくれた。

 普段であれば私はそこでトクンと胸が高まって動けなくなり、服従を示すように仰向けになって彼女を待つはずであった。しかし以前から彼女との関係に、何か他のものを空想し悶々と悩んでいた私は、彼女が見つめ返すのを合図に、まるであらかじめ後催眠に掛っていたようにふっと行動した。


 次第にドクドクと、警鐘を鳴らすように胸は高鳴り続け、手足は冷たかった。

 フーフーと、身体の熱を逃がすように私は呼吸をしながら、立ちあがって引き出しの奥にしまった剃刀の刃を取り出す。立ちあがって振りかえった時、さしもの彼女もギョッとした表情を見せるが、それが私を興奮させ、押しとどまると言う事をさせなくした。

  私は興奮した息を吐き、唾液が零れそうな口を一旦つぐむと、喉を鳴らしてそれらを呑みこんだ。


 私は彼女の眼を見て、そして舌を出すと、手に持った剃刀の刃でその裏筋を切り裂く。

 震える手で持っていたステンレスの剃刀の刃が、舌に冷たく当たるのを感じると少し驚いた。思い切って機械的に二度、平行に素早く切ったつもりだったが、痛みの神経がジョリジョリと裂かれて行く瞬間を、スローモーションのように感じた。

 痛みと、期待と、興奮で、泣きそうな表情をしていたと思う。


 血が、あふれ出た唾液と一緒に糸を引いて胸に滴る。

 それを見ると彼女は、私の意図を理解して、口を少しだけ開けて目を細める。


 こう言う瞬間だ、と私はそれが訪れるのを感じた。

 私は気持ちよさも、喜びも、彼女に血を飲んでもらう事で授かるが、幸せだけはこう言う瞬間に感じる。予感の様なそれは、彼女が私の血を飲もうと、私の何かを受けようと、仕草をする瞬間に湧きあがってくる。


 その後の事は、やはり恥ずかしいので割愛させていただく。

 そこで何が行われたかは、解るように書いたつもりだ。

 結局は形として実ることなく、どうする事も出来ない想いを、彼女に少し特別な行為として受け止めてもらい、そして拒絶も肯定もそれをはっきりとさせないままにしておいた。しかし、私にとって特別なこの一時だけは、それを微塵たりとも他の誰かのものにしたくは無い。

 これはそっと胸の奥に、永遠にしまっておくつもりだ。



 それからの私達は、多少今までと違った関係に落ち着いたと思う。

 だからといって。私の存在を彼女が特別に思った訳ではないと思うけど。


 私としては彼女に、彼女の過す永い時間の中で、私自信の存在を特別なものとは思ってほしくない。私は彼女の歩む中で、小石でも窪みでも居たくない。

 ただ平坦な地面でありたい。


 変ったと言うのは単純に、私が彼女との行為の間、少しだけ自由に振舞えるようになったことで、いろいろと要求をするようになった事だ。首だけでなく他の部位へ噛み付いてもらって血を飲んでもらったり、普段は彼女が覆いかぶさるようにしていたのを逆にする事があったりもした。重かったかもしれないが、血を吸われ力の入らなくなった身体がしだいに彼女と密着していくのは、ただただ嬉しかった。


 襲われるように、背後から噛み付かれて血を吸われるのはゾクゾクとしたし、吸血鬼である彼女が鏡に映っている事に気付き驚きもした。(その時まで鏡に彼女が映っている事は、当たり前だと思い込んでいた)首筋ではなく、わき腹や腕、腿のきわどい部分へ口を付けてもらう時は、妙に興奮したのを覚えている。

 そんなふうに私達は、今までマンネリだった吸血行為に、いろいろな変化や刺激を求めるようになって行ったのだった。


 しかしそうなると私は、どんどんと新しい物を欲していき、古い物には満足できなくなっていった。正面から首筋を吸われるのだけは最後まで悪くないと思っていたが、一度行うごとに日を置かなければならない私達の行為は、どうしてもその一度一度が重く感じられる。行為が無様に終わるごとに、満足を得られないままに終わるごとに、自分の魂の価値さえ削られていく思いがした。

 私がそうやって焦る様に何かを追い求めたのは、多分今の様な想いがこの頃から意識しない裏ではっきりと、形作られていたからだと思う。



 あらかじめ言っておくと、今から話す行為について、彼女は私が話すたびにそれを拒否していたし、いざ行うとなってもあまり良い顔はしていなかった。


 私自身もこれは吸血鬼である彼女に頼むべき事なのか、最後まで自信は無かったし、押しつけである事もずっと意識していた。しかしこれまで言ってきたように、私は焦りや不安、また興奮や苛立ちと言った物を常に何処かに抱えていて、それに対し何か形として残る様な代償も常に求めていた。

 だから、後悔も愚かさも、恥も自責も感じているこの行為は、初めて彼女の牙がこの皮膚の奥に通った痛みを拒絶していた私にとって、最も幸せな記憶と、その代償である。


「本当に……いいの?」


 彼女は聞いてくる。

 私は言葉ではなく、頷いて答えた。

 ほんとうに直前まで、歯を食いしばるべきか、喉を鳴らして叫ぶべきか、私は悩んでいた。

 擦る様に奥歯で舌の両端を噛んでいて、今は滑って逃げているが、彼女が不意にそれをしたら、私は自分で自分の舌を噛みつぶしてしまうと思ったのを覚えている。

 鼻の奥でフーフーと息が鳴って、彼女はそのリズムを聞きながら、そうしてくれたんだと思う。


 私の右の乳房に、彼女は柔らかく唇を付け、吸う。

 皮膚の内側に血が集まるのを感じ、少し嬉しさを感じた。

 彼女の牙が皮膚に引っ掛かるのを感じると、いよいよだと理解して、頭が真っ白になる。

 牙が、皮膚の上を滑って、温かい彼女の息が鼻から掛けられる。

 もう一度彼女は強く吸うが、私の乳房は滑り、逃げた。


 私は一旦そこで息を吸い、不安や緊張を冷ます。

 もうすでに覚悟を決めていて、早くしてほしいし、ただ妥協もしてほしくはなかった。

 自分の頼みで、自分の体が悪いのに、ずいぶんな思考だったと思う。

 私の乳房に口を付け、もがいている彼女に少し苛立った。


 何回目かの挑戦で、彼女の奥歯が私の折り重なった皮膚を捉えると、いよいよだと本当に覚悟をした。

 そのまま皮膚が巻き込まれるように引っ張られ、強く潰される。

 鈍い、鋭い、ジンとするような痛みが走り、犬歯から奥歯、最後に前歯が、私の皮膚を潰し、千切って行った。

 ギシギシと、こう言う用途に向かない彼女の顎が鳴っているのを感じた。

 私も同じように、結局は食い縛る事を選択していて、ギイと喉の奥を鳴らしながら肺を押しつぶして息を吐いていた。

 私はそのまま喉の奥を閉じ、息を止めたまま横隔膜を下げ、全身に痛みを巡らせた。


 彼女が私の皮膚を食いちぎるのに、手こずっているのが解る。

 既に火傷した様に熱い潰れた皮膚の合間合間に、引き千切られる痛みも感じる。

 乳房全体が引っ張られ、胸や脇腹の皮膚が肋骨から浮くのを感じた。

 彼女がフーフーと息をするたびに、熱せられた炭にそうするように、傷口から熱が上がるのも感じた。

 脳に充満した痛みの中に、自分が浮いている様な感覚がする。

 彼女が前歯の間の最後の糸を千切り、私の乳房が垂れて戻った。

 血が、跳ねた。


 どっと噴いた脂汗と、涙。

 涎も垂れていて、失禁もしていた。

 隣で彼女は跳ねた血を顔に付けていて、私を咀嚼していた。

 そのまま私が彼女を見つめていると、彼女も私を見つめ返し、私を飲みこんだ。

 彼女の官能的に動くその喉を見ていると、私は幸せに包まれた。

 幸せで、幸せで、幸せだった。


 肌に感じる涼しさや、傷口から流れた血が、わき腹を伝う感触。

 極度に緊張していた身体の疲れや、ガンガンと脈打つ心臓の鼓動。

 布団に染み、既に蒸発を始めた、腰に感じる恥ずかしい生温かさと冷たさ、アンモニアの匂い。

 私は、私の痛みと彼女の歯の感触以外の世界が、そこにある事を思い出した。

 それと同時に、今まで止まっていた呼吸が再開され、大きく吸って、吐き出される。


――フーフーッ、フフッ

――ハーハーッ、ハハッ


 私が吸うたび、吐くたびに、胸が引きつり、細かく痙攣する。

 私は鼻声になりながら、フフフ、アハハ、笑った。

 そして苦しく胸を震わせながら同時にお腹の奥で、骨盤や私の女性の部分を包む筋肉も、さらに細かくツンツンと、引きつるのを感じていた。


 ピンクの、少し白い縁をもった皮膚は縮んで、盛り上がってる。

 結局その奥までに牙の届かなかった私の胸は、茹でたトウモロコシのような透き通った黄色の脂肪をその奥に覗かせている。

 彼女は私のわき腹の下から、ツツと舌を這わせ、血を舐め取ってくれた。

 痛みが染みて関節の固まった身体を震わせながら、胸と、お腹の奥を震わせながら、私はそれを見ていた。


 私はポーッとした頭で、その後も彼女が私の傷口を舐め彼女の唾液を塗り、彼女が口を付けて私の血を飲んでくれているのを見ながら、すでに次の行為の事を考えていた。


 私は、もう満足できなくなっていた。

 私の中の、血よりも、肉よりも、私にとって確かなものを彼女に奉げなければ、私の生は完成しないのだと感じていた……。

 いや、そうなのだと解った。




 例えば、つい先日まで膿んでいた、私の傷痕にウジがわいたとしたらどうだろう。


 彼らは私の、汚い、穢れた部分を食べ、すっかりと取り除く。

 しかし私はその間、醜い彼らに身体を預け、自らのそれらを彼らとともに見続けなければならない。

 彼らは皮膚のまだえぐれたジュクジュクとした部分で、のたうち、這い回り、時々正常な皮膚の奥にまで噛み付いてくる。

 例え彼らが私の生命までを奪わないとしても、私は魂を汚されるように思うだろう。彼らの存在を赦し、私が矮小な彼らに何かを差し出している等と考えるのは、暗く卑しい感情だ。


 しかし彼らが成虫となり、或いは蜘蛛などの巣に掛る時はどうだろう。

 その蜘蛛がスズメについばまれたり、そのスズメが狡猾こうかつな猫に捕えられてしまったとしたら。

 被捕食者となる彼らは自らの生命を脅かす相手の事を、そんなふうに思うだろうか?


 彼らは始め、相手の事など考えられない。

 必死に抵抗し、命をつなごうとし、最後の最後まであがこうとする。

 そして決して敵わないとわかる時、はじめてその相手の事を思う。


 それは恐怖ではない。

 なぜなら恐怖は無知から来る感情であり、彼らは相手の事を既によく知っているはずだから。


 そして嫌悪でもない。

 なぜなら彼らにとって相手は偉大で、自分の中で最早貶められない存在だから。


 おそらく彼らが考える事は、その相手に対する愛情のはずだ。


 深い、深い、愛情。

 なぜなら彼らは相手の事を知り、相手の事を敬い、自分は相手に奉げられる存在だと知っているから。

 自らを求め、そして偉大だとわかる相手を、どうして愛さずにいられるだろうか?


 そしてこれはただ肉欲や情動、興味や酔狂からくる愛情ではなく、とても理性的なもののはずだ。俗の肉体や俗の精神から湧いてくる物ではなく、より純粋で、個を超越したもののはずだ。


 蠅に取って蜘蛛はより大きな、蜘蛛に取ってスズメはより大きな、スズメにとっても猫はより大きな生命である。


 彼らの祖が進化し、その種を枝分かれさせ彼らは存在する。

 性はそれらをより広く発展させ、母子の本能はそれらを長く繋いでいく。

 しかし今度は、それらを束ね、より合わせ、より大きな生命へと収束させる力が必要である。種を越え、個を越え、彼らの生命はより大きな生命へと帰って行く。

 それらを肯定し、導いていくための、より高次の愛情が私達には必要なはずだ。


 彼女の生命に触れ、熱を帯び癒えていく胸の傷を見ながら思う。

 私は彼女に深い愛情を抱いており、それは今まで私が知っていた物より崇高なものだ。

 彼女に肌を重ねられても、私は気持ち悪くなどない。

 彼女に組み敷かれても、私は屈辱とは思わない。

 私は彼女の為に死んだとしても、それを恐怖とは思わない。


 この事は、誰にでも解ってもらえうる事だと思う。


 私は、より大きな生命の一部になりたい。

 私は、彼女の中で永遠に生きていたい。

 私は大海に落ちる、一粒の雫になりたい。



 あれから私は、勤めて平穏に過ごした。

 先ずは身体を休め、血が回復するのを待った。

 その間も何回かは、男性を呼んで援助を受け、抱かれた。

 彼女との生活の質は落としたくなかったし、それで解消出来るものもあった。

 まだ幾らかはあったが、貯金は崩したくない。

 どうしても寂しさを覚える日は、彼女と寄り添って寝た。

 彼女の体は、私よりも冷たい。

 ひんやりして、気持ちよかった。



「ねえ、本当に……いいの?」


「そう何度も聞かないで。わたし、それで幸せなのよ?」


 彼女は私を見つめ、私は彼女を見つめ返す。

 

 これは最後の確認。


 イライラするつもりはなかったけど、答える時間も惜しかった。


 彼女はいつもより長く、私の首筋に鼻をこすりつける。


 私の中で、何かが高まって行くのを感じる。


 彼女に多くを奉げられる事は感謝したいが、日を跨がなければまたそうできない事は恨めしい。


 もう既に、気持ちはって落ち着かないのだ。


「……来て。」


 声を出すと喉の震えが彼女との間で反響し、それだけで溺れそうになる。


 彼女が舌で、私の首を湿らせる。


 いよいよ……


「んっ、くぅっ……あっ!」


 グッと痛みが走り、私の皮膚を彼女の牙が破る。


 でも今日は、それだけでは終わらない。


 彼女の口と私の首の間に、一瞬冷たい空気が通う。


 そしてもう一度、彼女の熱い吐息と唇がそこを覆うと、牙がまた傷口にあてがわれる。

 

 私の内側を擦るように、牙の先を調整し、首の筋肉へと付き立てる。


 ビリビリとした痛みを感じ、顔の半分が麻痺したように他の感覚が解らなくなる。


 牙のあてがわれた筋肉が潰れ、鈍く強烈な痛みがその奥に広がる。


 私は彼女の存在をすぐそばまで感じ、指先一つ動かせなくなる。


 鋭い痛みと鈍い痛みが一定を超すと、私の痛みに沈んでいた意識はかえってその上に浮いてしまう。


 急にポーッとした感覚が襲い、痛みがそこに在るとわかるのに、それが痛みでは無くなる。


「あっ、あっ……あっ!」


 彼女の牙が、筋肉を包む薄い膜をピリッと裂き、その奥へ割って入るのがわかる。


 耳から入る音も、目に入る光も、痛みも、温かさも、すべてが並列な情報のように理解できる。


 彼女は今、強引に牙で私の筋肉を裂きながら、その奥へ触れている。


 いつの間にか下顎の牙も喉笛に深く食い込み、抑えつけられている。


 ドクドクと脈打つ周りの肉から、牙の太さが伝わってくる。


 十分に肉と血管を裂くと、彼女の牙が抜け、傷口全体からジワリと血と痛みが滲み出た。


「ハァ、ハァ……ヒューッ、ヒューッ」


 何かが喉に絡んで、可笑しな音が出てしまう。


 少し、恥ずかしい。


「いくよ……?」


 彼女の声が耳元に聞こえた。


 私は緊張のほぐれ、快感の通い始めた腕を彼女の背に回し、抱きしめる。


 傷口を覆うように彼女に口づけられると、その部分が熱くなり、吸われる。


 大きく開いた二つの傷口の縁を、八の字に舌先で撫でながら。


 唾液とか涙とか、よく血液から出来てるって言われてる。


 たぶん他の体液だって、その血液でさえ本当はそうなのだ。


 しょっぱくて、少し甘くて、ずっと太古からの、生命の媒となる雫から出来ている。


 彼女が舌で押すようにそれを私の傷口へ流しこむと、私の裂けた血管も、普段ならそれを塞ごうとするはずの血小板も、私の身体の外に触れている事に気付く事が出来ない。


 私の意識だけはそれを理解して、彼女と私の境を、血が通って行くのを感じる。


 彼女に穿うがたれた傷口から、トクトクと血が流れて行くのを感じる。


「んっ……くっ……ハッ、ハッ……」


 私は呼吸をなんとか繰り返しながら、なんとか自分を繋ぎとめる。


 彼女に血を吸われる度にキューっと、自分が小さくなっていくのを感じる。


 通販番組で見るような、布団圧縮袋に内蔵が入れられたみたいに、身体の内側に圧迫感を感じる。


 コクコクと、彼女が小さく喉を鳴らす音、私の心臓、私の肺が伸び縮みする音だけが聞こえる。


 手足が冷たくなって行き、でもボーっと、温かいようにも感じる。


 私の視界は右にうねって、でも息を吸うごとに元にもどる。


 頭ががんがん揺れる。


 オシッコがしたい。


 目の端から銀河が生まれたみたいに、星が散っていく。


 私の瞳の中に、宇宙がある。


 私は泣いてしまいたい。


 青白い星が幾つも飛んで、その奥の風景はモノトーン。


 胃が縺れて、吐き気がしてくる。


 彼女が私を嚥下していくのを感じる。


 私は小さくなっていく。


 どんどん、どんどん私は小さくなって、でも彼女の肌と触れる場所と、脳と、心臓と、お腹の奥は、それと比例するように膨らんで行く。


 私はどんどん大きくなって、今や彼女を包み込むほどだ。

  

 嘆くように、彼女は私に覆いかぶさっている。


 私の胸の上で、彼女の肩が震えるのがわかる。


 彼女も、喜んでいてくれるの?


 深い水底に、海の雫が落ちる音が聞こえる。


 そういえばこれで、また貴女は警察に追われる事になるね。


 また他の誰かに縋って、逃げ場所を探さないとね。


 携帯の料金は振りこんでおいたよ。


 通帳のお金は下して、引き出しの中に入れてあるから。


 パソコンや私の携帯、SNSの履歴から、貴女の事は消しておいた。


 また他の誰かの所へ行って、どうか私の事は忘れて。


 私は貴女の中で生きるから。


 貴方の、深い生命の中で。


 貴女の、赤い血の中で……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レンフィールド・シンドローム 黄呼静 @koyobishizuka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ