第7話・愛しているよ

 ジュイエに辞める旨を伝えると、お姉さんもマスターもとても惜しんでくれた。

「そうなの……さびしくなるわね」

「また遊びに来てください。いつでも待っていますよ」

 そう言って、一ヶ月に満たなかったけれど働いた分の給料を手渡してくれる。僕はそれで衣服などが山と積まれた露店で大きなかばんを買って、キヨくんの部屋に溜まっていた僕の荷物を詰め込んでいく。僕用衣装ケースにシールの束が大事にしまってあって、荷物を片付ける手を止める。

 シールを真剣に選ぶ佳奈さんの横顔。スマホカバーに貼られたイルカのシール。貼ったときの佳奈さんの笑顔。お別れだと思うととても切ない気持ちになる。

 何も本当に弁護士になるまでこの町を訪れないわけではない。週末や長期休みに息抜きに遊びに来ることはあるだろう。けれどこの町を離れることは、佳奈さんとのお別れの意味も含んでいた。僕はどうして彼女がデリヘル嬢をやっているのか、まだ知らない。いつ辞めてしまってもおかしくはない。そのとき佳奈さんがそれを僕に伝えてくれるのか、確かではないのだ。

 僕は町を離れても佳奈さんに連絡をし続けるつもりだけれど、佳奈さんにとって弟の代わりだった僕が、町からいなくなっても相手をし続けるに値する存在かはわからない。

 僕が弁護士になって再びこの町に帰ってきたとき、佳奈さんもまだここにいて、四歳差なんて些細なことになっていればいい、と思う。ただの弟の代わりじゃなくなっていればいいと思う。けれど、どうしてもそんな気がしない。

 町を離れる前に、いろんな人に会っておきたかった。

 まずリノさんに会いに、店へ出向いた。まだ裏で支度をしていたリノさんは、僕が町を離れることを告げたら、まだ化粧の途中だったにも関わらず、ぎゅうときつく抱きしめてくれた。とても優しい感触で、僕はリノさんが素敵な人だと改めて思う。キヨくんがそれに狂ったように嫉妬したけれど、リノさんはお構いなしに僕を抱きしめ続けた。

「元気でね、いっちゃん。また会いに来て」

 その愛おしげな声に僕は、はいと答えて、リノさんをやわく抱きしめ返した。

 いたるくんにも会いたくて、連絡をしたらすぐに会ってくれると言うので、ジュイエで待ち合わせをして、僕たちはふたりで顔を合わせて座った。

「家に帰るんだってね」

 いたるくんの空気混じりの声が言う。僕は頷いた。

「うん。友哉くんのところの顧問弁護士になるんだ」

「イチくんに良い目標ができてよかった。さびしいけど居場所が少し離れるだけで、僕たちの関係はいつまでも変わらないよ」

「ずっと友達だよ、いたるくん。さびしくさせてごめんね。いつも連絡するから。町に遊びに来たときはまた会ってね」

「もちろんだよ。いつでもここに帰っておいで」

 淡く微笑むいたるくん。

 どこまでも優しくて親切で強くて、でも果てしのないさびしさを抱えた人。なにもない星にひとりでいるような、さびしい人。中性的で儚い雰囲気をまとった人。

 僕はそんないたるくんが大好きだった。会うといつもうれしくなったし、そのたび彼の幸福を祈った。新しい世界を見せてくれたいたるくん。誰よりも幸せになってほしいいたるくん。

 そうして会話をしていると、カウンターにいたお姉さんが出てきて、ふたりの写真を撮ってくれると言った。僕は写真を撮られることに慣れていなくて、なんともぎこちない写真になったけれど、僕の宝物の一枚になった。

 どうか彼の道行きが、さびしいばかりのものではありませんように。僕は祈る。離れていてもきっと祈り続ける。

 帰り際、いたるくんも別れを惜しんで僕を抱きしめてくれた。折れてしまいそうに細い腕と、薄い体。けれど生きている熱と鼓動がたしかに伝わってくる。あまりに優しい温かさに、涙がこぼれそうになる。

「幸せになってね」

 そう言って僕は、いたるくんを抱きしめた。

 

 問題は佳奈さんだった。

 佳奈さんにはいつも日々の出来事を逐一連絡していたけれど、僕がこの町を離れることを決めたことは、なかなか言い出せなかった。どんな言葉でどう伝えればいいのかわからなくて、メッセージ画面を開いたまま指が硬直し続ける。

 いたるくんにも伝えたように、単純に「家に帰ることにしました」と告げればいいのだろうけれど、それを告げてしまっては何かが決定的に終わってしまう気がして怖かった。

 けれどこのまま黙っていては会えずじまいで家に帰ることになりかねない。残り時間は少ない。

 荷物の片づけを全て終えた日の夜、僕はキヨくんの部屋でスマホとにらめっこをしていた。

「イチ、漫画持ってくか? 読み終わってないだろ?」

 キヨくんがこの間一緒に買った漫画の山を指して言う。僕は首を横に振った。

「ううん、置いてく。今度遊びに来たときにでも読ませて」

「そうか。じゃあ取っておくわ」

 本当はすぐにでも続きを読みたかったけれど、持って帰るのは荷物になるし、僕がいた痕跡みたいなものをこの部屋に残していきたいという未練がましい気持ちもあった。この部屋の、この町の居心地があまりに良いから、僕を忘れないでと叫びだしたくなる。

 僕は佳奈さんに忘れられるのが怖いのかもしれないな、とふと思った。だからいなくなることを告げられない。佳奈さんの日々から僕がいなくなって、いつか記憶の中の遠い遠い彼方へ行ってしまう。それが怖いし、悲しい。

 けれど佳奈さんに会えないままここを立ち去るほうが悲しいので、僕はためらう指でゆっくりと文字を入力していった。

『突然ですが、家に帰ることにしました。その前に会ってお話できませんか?』

 緊張しながら既読がつくのを待つ。

 もしかしたら仕事中かもしれないからすぐに既読はつかないかもしれない。そう思っていたけれど、既読はすぐについた。心臓が音をたてる。白いスマホカバーを握りしめる。

 画面を凝視していると、ぽんと新たなメッセージが現れた。僕の目は一瞬でそれを拾う。

『帰るの!?』

『会おうよ! 明々後日の昼間なら時間あるけど大丈夫? まだいる?』

 僕は夏休みの最終日までこの町で過ごすことにしていたから、まだ少しの余裕はある。大丈夫と返信して、時間と待ち合わせ場所を決める。待ち合わせ場所は今までと同じ、駅前のコーヒーショップ。

 僕はその日がとても楽しみなような、けれどその日がいつまでも来ないでほしいような気持ちで当日を待った。

 僕はすでにジュイエを辞めていたのでいつでも暇で、キヨくんが仕事のときはひとりで、休みのときは一緒にお客さんとして一日に何度もジュイエに通った。

 そこでキノコちゃんにも会った。キノコちゃんにお別れを言うのは変かな、と思って何も言わずにいたけれど、いつものように奥の席でノートパソコンに向かっていたキノコちゃんが、カウンター席にひとりでいた僕に思いがけず近づいてきた。そしておもむろに隣の席に座る。

 僕が驚いてそれを見ていると、キノコちゃんはまっすぐ前を見たまま口を開いた。甘い声は相変わらずそっけなかった。

「あんた、ここ辞めたんだってね」

「あ、はい。家に帰ることにしたので」

「なんで?」

 あまりに直球の質問に、一瞬言葉が出てこなかったけれど、つっかえながらも返事をする。

「あ、えっと……弁護士になろうと思って、その、友哉くんのところの……あ、友哉くん知ってますか?」

「名前くらいはね」

「この間ビール売ってた人なんですけど、本当は大きい会社の息子さんで、だから僕は友哉くんのところの顧問弁護士になりたくて、勉強するために帰るんです」

「そんな頭良いの?」

「どうかな……悪いってことはないと思うのでがんばります」

「あ、そう」

 言って、キノコちゃんは僕を見る。ボブの黒髪が揺れる。

「せいぜいがんばりな」

 そして席を立ち、ノートパソコンを開いたままの元の席へ戻っていった。

 僕はその後姿を見送る。なんだったのだろう。キノコちゃんなりのはげまし、だろうか。

 キノコちゃんはいつも夢中になってキーボードを叩いているか、そうでなければイライラと指先でテーブルを叩いているかで、笑顔を見たことがない。声は甘いのにしゃべり方はそっけなくて、僕のことなんかに興味はないとその態度がいつも言っていた。声をかけてくるのは注文をするときか、インスピレーションを得たくて何でもいいから話をしてほしいときだけ。

 だから今の行動もただの気まぐれか息抜きなのかもしれない。誰かと話して気分を変えようという。

 だけど僕は、キノコちゃんからがんばれという言葉がもらえるとは思ってもみなくて、ちょっと信じられないくらいうれしかった。

 そのあとのキノコちゃんはこちらを一顧だにせず、一心不乱にキーボードを叩いていた。

 僕はこのあと、いたるくんと遊ぶ約束をしていたので、しばらくしてから席を立った。お勘定をして、店を出ようと扉に手をかける。そこで僕はふと思い立って振り返った。キノコちゃんが奥の席でイライラした様子でテーブルを叩いている。

「キノコちゃん」

 声をかけると、難しそうな顔をしたキノコちゃんが顔をあげた。

「あの、ありがとうございます」

 お礼を言うと、その難しそうな顔がさらに歪む。

「何が」

 イラだちで低くなった甘い声。それでも僕はやっぱりうれしいままで、彼女に頭を下げた。

「なんでもないです! お元気で」

 そうして僕はジュイエを出た。扉についたベルの耳に馴染んだ軽い音が、深い夏に似合わず響いた。

 

 佳奈さんとの約束の日は、僕がこの町を出る前日だった。

 僕はキヨくんの部屋を出ながら、この夏、結局雨は降らなかったなと思う。アパートの玄関から真っ白く輝く光が流れ込んでいる。もう見慣れた光景なのに、見るたび夏を実感した。こんなに季節を意識したのは初めてのことだったかもしれない。

 夜のパレードみたいに派手ではないのに、町はいつものように賑わっていて、車道には路上駐車の車が列を作り、歩道では屋台が軒を連ねる。勝手にテーブルセットなどを広げる屋台も多いから、人の流れが滞り余計に混雑する。人々は車道だろうとお構いなく行ったり来たりをする。熱を溜め込んだ建物や道路から熱気が放たれる。もちろん空では灼熱の太陽が町全体を蒸し焼きにしようとしている。

 僕は早くも冷房が恋しくて、けれどまだ町を歩いていたいような気もしていた。時間が止まって、この永遠の夏に閉じ込められてしまいたいと思った。永遠にこのままこの町で遊んでいたい、そう思った。

 子供じみた願いだ。でも、誰だって、何歳だって、時が止まればいいと思うような日に出会うことはあるんじゃないだろうか。何かの本が言っていた。時よ止まれ、おまえは美しい。「おまえ」が何を指すのかは知らなかったけれど、その文章だけは知っていた。時よ止まれ、おまえは美しい。僕は時間そのもののことだといいなと思う。

 コーヒーショップ前まで来て、窓から中を見ると、すぐそこの窓際に佳奈さんが座っていた。僕に気がついて、笑顔で手を振る。僕は時間に遅れてしまったのかと思って慌てて店に入った。冷えるほど涼しくて、汗が引く。僕は小走りでテーブルの間をすり抜けて、佳奈さんのもとへ行った。

「ごめんなさい、遅れましたか?」

「ううん、遅れてないよ。今日はあたしが早く来ようかと思って」

 いつも一臣が先に来てたでしょ、と佳奈さんは笑顔を見せる。

「ほら、大丈夫だから何か頼んできたら? 席は確保してるからね」

 佳奈さんの隣の丸椅子には、彼女の小さなバッグと薄手のストールが乗せられていた。僕は頷いて、また小走りでレジへと向かった。

 この間飲んだのとは違うフラペチーノを注文した。特別フラペチーノが気に入ったというわけでもないけれど、たぶんそれを持っていけば佳奈さんが喜ぶだろうと思ってのことだった。

 少し待ってからフラペチーノを受けとる。それを持って戻れば、やっぱり佳奈さんは楽しげな声をあげた。

「あー、それおいしかった! 前に飲んだよ。写真撮ろ、写真」

 言って、佳奈さんは席を空けてくれる。僕はそこに腰を下ろし、佳奈さんとそろってスマホで何枚もフラペチーノの写真を撮った。被写体は窓から差し込む光に照らされてかいた汗が輝いていて、眩しかった。

 一通り撮影を終えると、佳奈さんが言った。

「明日帰るのに、会うのギリギリになっちゃってごめんね。時間なくはなかったんだけど、ゆっくり話せたほうがいいと思ったら今日くらいしかなくて」

「大丈夫です。僕もゆっくり話せるほうがうれしいから」

「ならよかった」

 佳奈さんはほっとしたように微笑む。佳奈さんがゆっくり話したいと思ってくれていたことが、とてもうれしい。

 僕はなんとなく、そのうちまたこの町へ遊びに来たときにキヨくんや友哉くん、いたるくんたちのようには、佳奈さんには会えないんじゃないかと思っていた。わからない。前もって行ける日を連絡しておいて、時間を空けてもらうことだってできないわけじゃないはずだ。けれどどうしてだろうか。佳奈さんと会えるのはこれが最後という気がしてならなかった。そしてたぶんそれは、そのとおりなんだろうと思ってしまっている。

「弁護士になるんだって?」

 思いに沈みかけていた僕を、佳奈さんの声が引き上げる。

「あ、はい。なれるかはわかんないですけど、なれるまでがんばります」

「そっかそっかー。すごいやつなんだなあ、一臣は。がんばってよね、応援してる」

「めちゃくちゃがんばります」

 僕が気合いを入れると、佳奈さんはうれしそうにする。

 フラペチーノを飲みながらしばらく雑談していると、佳奈さんが持っていたストールを羽織った。

「冷えますか? 移動しましょうか」

「そうだねー、どうせならどっか遊びに行こうか?」

 言われて僕は勢い込んだ。

「じゃあ、カラオケ行きませんか。僕、前に佳奈さんが歌っていた曲、歌えるようになったと思うんです」

 しょっちゅう音楽配信アプリで流行のプレイリストを聴いていた結晶だ。なにも歌えなかった僕が流行りの曲を歌えるようになったところをこの際見てもらいたい。

「マジかー! 聴きたい聴きたい! カラオケ行こ!」

 佳奈さんはノリノリで了承する。

 僕たちはコーヒーショップを出て、以前にも行ったカラオケへ向かって歩いた。

 六階建てのカラオケ店の受付で、佳奈さんが会員証を出す。

「とりあえず二時間にしておこっか」

「はい」

 延長ってできます? と佳奈さんが店員さんに訊ねている。

 僕たちは伝票を預かって、指定された部屋へ向かった。前に来たときと同じように狭く暗い部屋。けれど僕は佳奈さんの仕事のことを思い浮かべなかった。そんなことはどうでもよかった。余計なことを思い浮かべるその一瞬一瞬が貴重なものなのだと、わかっていたからだ。僕たちは今日、お別れをするからだ。

 佳奈さんがテキパキとマイクやリモコンをテーブルに用意してくれる。

「何歌えるようになったの?」

 訊かれて僕が答えると、佳奈さんはよっしゃと言って手早くリモコンで曲を探しだした。そしてそれを送信する。

 僕はびっくりしてしまった。自分から言ったとは言え、まさかいきなり一曲目から僕が歌うとは思っていなかったというか、心の準備が足りてなかったというか。

 マイクを手渡される間に、前奏が大音量で流れ始める。イヤホンで聴いていたときとは印象が違って聴こえる。

 でも同じ曲であることには変わりない。大丈夫。僕はよく聴いていたメロディを思い出しながら、それをなぞるように声を出した。

 音楽のテストで先生の前で歌ったことはあるけれど、それとは別の緊張感がある。聞いているのが佳奈さんというせいもあるだろうけれど、マイクで拡張される自分の声というものがとても照れくさい。

 僕は佳奈さんがどんな様子で歌を聴いていたのか見る余裕もなく、やっとの思いで一曲を歌い上げた。

 はあ、と大きく息をついてマイクをオフにすると、佳奈さんが笑いながら拍手をしているのが目に入った。まだ流れている後奏にまぎれてはいるけれど、たしかに笑い声と拍手音がする。

「うまいうまいー! リズム感ないなりに曲についていってたよ」

 褒められているのか貶されているのかわからず、とりあえず笑っておいた。照れくささが何より先に立っていた。

 カラオケってこんなに照れくさいのか、と僕は初めて知った。みんな当たり前のように行くし、当たり前のように歌うけれど、照れないのだろうか。それとも照れなんかすぐに通り越してしまうのだろうか。

 僕は心臓が妙にどきどきしていて余裕がない。落ち着け落ち着け、と言い聞かせる。

 佳奈さんはリモコンを触りながら言った。

「一臣まだ歌える?」

「たぶん……あと何曲かなら」

「じゃあ順番に歌っていこ! 次あたしね」

 その手慣れた様子に感心する。僕もあとでリモコンを触らせてもらおう、と思う。

 佳奈さんは、たぶん前回には歌っていなかった曲を歌った。ゆったりとした優しい、けれど明るい歌で、佳奈さんに歌われることでとてつもない名曲になっていると感じた。優しくて明るくて、佳奈さんみたいな音楽だった。彼女と音楽が一体となっているようだった。僕は音楽でこんなに感動することがあるのだ、と震える心でそう思う。

 歌い終わった佳奈さんに僕は訊ねた。

「この曲はなんていうタイトルですか?」

 佳奈さんはタイトルと歌手名を教えてくれる。僕はアプリでその曲を探してお気に入りに登録した。たった一曲。お気に入りに登録された曲は今佳奈さんが歌ったその曲だけ。たぶん、これからもずっとこのままだろうと思った。これからどんな曲を聴いても、これ以上に心を震わせる曲はないと思う。宝物みたいに、たったひとつをお気に入りに登録しておくだろう。そして聴くたびに今日の日を、佳奈さんのことを思い出すだろう。

 リモコンの使い方を教えてもらって、順番に歌を歌って、やがて僕の持ち歌は尽きてしまった。のども痛い気がする。

「もう歌えないです」

「えー、もう? 一臣良い声してるんだからもっと歌って練習するといいよ、きっとすごいうまくなってモテるよ」

「モテ……?」

「もう何もない? 同じ曲歌ってもいいよ」

「合唱曲とかなら……」

 僕がそう言うと、佳奈さんはけらけら笑った。ひとしきり笑ってからノンアルコールのカクテルを飲んで言う。

「じゃあちょっと休憩にしようか」

「はい」

 僕も痛むのどを咳払いでごまかしながらジュースを飲んだ。

 佳奈さんはきっと僕の前ではアルコールを飲まないんだろうなと思う。飲めない僕を気遣って、というわけではなくて、きっと弟をかわいがるのにアルコールは必要ないからだ。むしろじゃまになるのだろう。

 佳奈さんは遠い人だな、と思った。今のこの距離より近づくことはたぶんできない。それでも僕は佳奈さんが好きだった。このままずっと一緒にいたかった。どうして時間は止まらないのかと思う。別に弟だってかまわない。ただこうして一緒にいて、一緒に笑っていられれば。なのにそれさえ叶わないのだ。そして僕はもう、町を離れなければならない。

 曲をかけるのをやめると、画面では小さな音で音楽番組のようなものが流れ続けてた。周りの部屋からの歌う声がわずかに漏れ聞こえてきていた。それでも、部屋の中はとても静かだった。

 僕は、町を立ち去り難くなっている自分に気がついた。弁護士になりたくないわけじゃない、絶対なるんだという決意に変わりはない。そのためには家に帰るのがいちばん効率が良いのもわかっている。だから僕は明日、この町を去るのだ。

 なのに今、どこにも行きたくない。時間さえ合わせればいつだって佳奈さんに会えるこの町に居続けたい。佳奈さんを置いて、いなくなりたくない。それは僕が佳奈さんを捨てていくのではなく、佳奈さんが僕を捨てるのに限りなく近いからだ。

 だって佳奈さんのことを必要としているのは僕で、彼女ではない。こうして一緒に遊んでいても、佳奈さんにとっては必ずしも僕でなければいけないわけではないから、距離が離れれば心も離れるだろうことは明確だった。

 僕じゃ、佳奈さんの大切な人になれない。

 佳奈さんの人生の一部になれない。

 その事実は僕の胸をきつく締め付けた。息が苦しいような気がして、胸って肺のことなのかな、なんてどうでもいいことを思う。

 胸が痛い。もっともっと話したいこと、訊きたいことがあるはずなのに、なにも出てこない。小さい静かな部屋で、僕たちは黙りこくっている。

 僕は、それがつらかった。涙が出そうなくらい悲しかった。別れなければいけないことが、身を切るように苦しかった。

「佳奈さん」

「ん?」

 呼ぶと、いつもより落ちついたやわらかい声が短く返ってくる。

 僕は、ただこの人のことがとても好きだ。

「佳奈さん、好きです」

 この人の過去になりたくない。

 なってしまうのがわかっていて、それでもどうしてもなりたくない僕の足掻き。

 佳奈さんは少し目を見開いてから、優しく、けれどどこか悲しそうに目を細めた。

「知ってたよ、一臣。知ってた」

 どこからそんなに優しい声が出るのだろう。人間にこんなにも優しい声が出せるんだと思わせる、佳奈さんの言葉。

「ありがとう、あたしのこと好きになってくれて。あたし、ろくな人間じゃないのに、一臣はいつもきらきらした目であたしのこと見てた。それがうれしくて、でもだましてるみたいで少し怖かった」

 目を伏せて語る佳奈さんを、僕は見つめている。佳奈さんがどんな人間でも僕は好きだと思った。

「うれしいよ。でも、ごめんね。一臣の気持ちには応えられない。あたしは一臣に恋をしてない」

「はい。わかってました」

「うん。ごめんね。でも、楽しかったね」

「はい。ずっと、いつも楽しかったです。佳奈さんがいると、僕はいつもうれしかった」

 苦しんだこともあった。怖くて仕方ないこともあった。それでも、佳奈さんの存在が僕にとって光であることは間違いがなかった。いつも楽しかったし、いつもうれしかった。佳奈さんの言葉ひとつに、仕草ひとつに、表情ひとつに僕は喜びを感じた。そこにいてくれるだけでよかった。そこにいて、僕と話をしてくれるだけでよかった。

 でも、お別れだ。

 僕は笑った。少なくともそのつもりだった。なのに涙が出そうに目の奥が熱い。

 佳奈さんはとても優しく微笑んでいた。慈しみと言ってもいい。僕に恋をしていない、けれど僕を好いている人の表情だった。

 賑やかなのに静かなカラオケボックスの部屋で、僕たちはただお互いを慈しんでいた。もうこれで終わりなのを理解している、どこまでもさびしく優しいやりとりだった。

 佳奈さんは言った。

「絶対弁護士になりなよ。たくさん勉強して、勉強以外のこともたくさん経験して、あたしよりきちんとした優しい女の子を好きになるんだよ」

「佳奈さんより素敵な女の人はいません」

「いるよ、大丈夫。一臣の未来は明るいってあたし知ってるから」

 涙を飲み込むと、呼吸がうまくできなかった。僕はくちびるを噛む。

 胸が苦しくて苦しくて、もう優しくしないでほしいと願った。でもその涙の温度の優しさを、僕にいつまでも注いでほしいと思った。

 けれどそれは叶わない。

 時間はどれだけ祈っても止まらないから、僕は佳奈さんが知っているという明るい未来に向かって進んでいかなければならない。たとえそこに佳奈さん本人がいなかろうとも。そのことで、僕の胸がどれほど切り裂かれようとも。

 僕は、行かなきゃ。

「佳奈さん。本当に、本当に好きでした」

「うん。ありがとう。今度会うときは、笑顔でいようね」

 佳奈さんはおしぼりで僕の顔をそっと拭ってくれた。冷房で冷えた頬に、流れた涙は熱かった。

 今度なんてきっとないことを、僕は理解していた。

 

 その日もいつもと変わらず、汗まみれで目を覚ました。鳴り続けるアラームを止める。

 僕はまだ寝ているキヨくんを強引に起こしてベッドから立たせ、シーツを剥ぐ。それから自分の寝ていたシーツも剥がして洗濯機に放り込んだ。着ていたTシャツもついでに放り込み、洗濯カゴの中で丸まっている清潔なTシャツと膝丈の短パンを着込む。寝ぼけているキヨくんを追い立てて、同じように着替えさせた。

 時刻は正午。洗濯機を回し、エアコンを入れる。

「腹減ったなあ」

 キヨくんの言葉に、僕らはいつものように部屋を出た。ひんやりとした空気の廊下。階段を下りたアパートの玄関からは、熱でもやが立つような白い光が差し込んでいる。今日も天気は快晴だ。

「酷暑ってマジだったな」

「毎日酷く暑かったね」

 言いながら人波を進んでいく。

 おにぎりの屋台は、まだ席が空いていた。僕とキヨくんは並んで座って注文をする。

「おっちゃん、俺こんぶと鮭」

「僕も鮭とおかか」

 おにぎり屋のガタイのいいおじさんは、おう、と返事をしてさっそくおにぎりを握りながら言う。

「茶はどうする」

「いるいるー。麦茶がいい」

「僕は緑茶」

「おう。待ってろ」

「今日はセルフサービスじゃねえの?」

 キヨくんが訊くと、おじさんはさっそく握り終えたおにぎりをひとつ皿に置きながら頷いた。

「そんなに忙しくねえからな」

「そうなんだ。忙しいよりいいんじゃねえ?」

「商売なんだから忙しいほうがいいに決まってんだろ」

 しゃべりながらでも、おじさんのおにぎりを握る手つきは素早い。大きな手で大きなおにぎりを次々握っていく。

「こんぶと鮭お待ち」

 皿に乗った大きなおにぎりが出される。次いで、

「鮭とおかかお待ち」

 僕の分の大きなおにぎりも出される。それからお椀にそれぞれのお茶を注いで出してくれる。

 僕たちは着替えたばかりのTシャツをまた汗で濡らしながら、おにぎりを食べた。冷たいお茶でお茶漬けにするのもおいしい。

 忙しくないとおじさんは言ったけれど、お客さんは途切れず入れ替わり立ち替わりやってくる。客足は多いほうがいいらしいので、僕たちは食べ終わったらすぐに席を立った。

「ごちそーさん」

「ごちそうさまでした」

「おう、また来いよ」

 おじさんがこちらを見ずに、一心不乱におにぎりを握りながら言った。また来たいな、と僕も思う。

 それからまた部屋に戻って、止まっている洗濯機から洗濯物を取り出して、すべてカゴに入れて屋上へ持っていく。日当たりの良い物干し竿を選んで、シーツを干す。水と洗剤のさわかやな良いにおいが鼻をくすぐった。僕の大好きなにおい。

 太陽に焼かれながらすべての洗濯物を干し終えて部屋に戻った。

「キヨくん、夕方になる前に洗濯物取り込んでね」

「りょーかい」

 スマホを触りながらキヨくんは聞いてるんだか聞いてないんだかわからない適当な返事をした。

 なにもかもがいつもと変わりなくて、僕の心もまったく動かない。

 でも、夕方にはもう僕はここにいないんだから洗濯物を取り込めないのに、と思う。

 僕は日が暮れる前にこの町を出ることにしていた。日が暮れだして、ネオンが灯り始める町を見ると、離れがたさが増す気がしたからだ。

 僕が初めてこの町にやってきた日、「人間のゴミ捨て場」は日が暮れていて、ネオンがけばけばしく輝いていて、いろんな音やにおいに満ちていて、下品なパレードみたいだった。きっとあれを思い出してしまう。始まりのあの日を。

 もうすることが何もなかった。昨日までに行きたいところには行ったし、会いたい人には会えた。洗濯もしたし、別にしなくてもいいお風呂掃除もした。最後なんだし、お世話になった部屋の掃除、と思ったけれど、キヨくんが部屋の真ん中にでれんと寝そべっていて、わざわざどかしてまですることともないかと思い直してやめた。どかすと言っても、ベッドのシーツは剥いでしまったわけだし。

 結局、読みかけの漫画を読んで時間をつぶした。何もかもが本当にいつもどおりだった。このままここで暮らし続けるんじゃないかと錯覚するほどに。

 けれど時間は止まらないし、僕は家へ帰る。

 しばらくしてキヨくんが声を上げた。

「あ、イチ、そろそろ時間だ」

 時計を見上げれば、見送りに来てくれるという友哉くんといたるくんとの待ち合わせ時間が近かった。

 僕は読みかけの漫画を閉じ、山に戻して大きく伸びをした。

 キヨくんがスマホと財布だけをポケットに突っ込むのとは正反対に、僕は来たときに持っていた小ぶりのトートバッグと荷物がいっぱいに詰まった肩掛けバッグを肩から斜めがけにした、ちょっとした旅行者みたいな大荷物だった。

 こんなにここを去る格好をしているのに帰る実感がわかないまま、再びキヨくんとそろって部屋を出る。

 外へ出た瞬間から蒸し焼きにされそうな暑さの中、僕たちは歩いていく。人に満ちていて、展覧会みたいに汚れた車が路駐されていて、屋台が軒をつらねて歩道を圧迫し、賭け麻雀大会が開催されていて、明かりの消えた看板が建物から上空に向かって突き出していた。誰かが何かを叫びながら車道を渡っていった。クラクションが高く鳴る。

 何もかもがいつもの光景だ。僕ひとりがいなくなったって、この町は惜しむこともなく日々を続けるのだろう。けれど僕はそんな町が好きだった。いつまでもいつまでもこのままでいてほしかった。

 ひとつひとつの光景を焼き付けるように眺めていく。永遠に離れるわけではないけれど、未来のことはやっぱりわからないから、永遠のつもりで僕は町のすべてを見つめていく。

 大通りを抜けて駅前通りに出ると、駅舎の入り口のところに友哉くんといたるくんが立っているのが見えた。手を振ると、向こうもこちらに気がついていたようで手が振り返される。

 賑やかな駅前。たくさんの人が駅の入口を行き交う。

「よう」

「お待たせー」

 友哉くんとキヨくんの気軽な声。

「こんにちは」

 いたるくんの儚い微笑みもいつもと変わらない。

 彼らは僕を信じている。いつか必ず弁護士という野望を叶えて再びこの町へ帰ってくることを。僕がこの町を愛したことを。

 僕もみんなを信じている。この町を愛していて、この町を離れることはないことを。

 だから気負わない。長い別れになるかもしれないけれど、それは永遠ではないことを知っている。いつだって遊びに来られることを知っているから。

「大荷物だなー」

 僕の姿を見て、はは、と笑いながら友哉くんが言う。いたるくんも微笑ましそうにしている。

「たくさんここで過ごした証拠だね」

「うん」

「さびしくなるけど、週末とか冬休みとか、時間あるときにはまた遊びにおいでよ。いつでも待ってるから」

「うん」

「漫画も取っておいてやるよ」

 キヨくんの言葉にも、僕はうんと頷く。

 普段みたいにけだるいお兄さんの姿をした友哉くんが、それにそぐわない発言をする。でも僕はもうそれに慣れていて驚くこともない。

「もしおまえが塾とか家庭教師が必要だと感じて、でも家で断られたら俺に言えよ。金なら出すし」

「そんな、悪いよ」

「投資だよ。おまえは俺のところの弁護士になるんだから。何かあったらとにかく俺に連絡しろ。場合によっては、今の顧問弁護士、酒井さんって言うんだけど、酒井さんつれていってもいい。おまえの親父は権威に弱いと見てる」

 僕はそのとおりだと思って少し笑った。

「ありがとう。何かあってもなくても、連絡するよ。息抜きに遊びにも来る」

「ああ、そうしろ」

 友哉くんも満足そうに笑った。

「キヨくんも居候させてもらって、お世話になりました。リノさんによろしくね」

「気にすんなよ。リノさんによろしくはしねえけど」

「そのくらいしなよ」

 くすくすと笑ういたるくん。

 別れの時間が近づいてきていた。この町を離れて、僕はひとりで戦うことになる。けれど心はもうひとりじゃない。この町が味方だ。いつだって僕を迎え入れるこの町が、僕のためにずっとある。

 僕は言った。

「みんな、本当にありがとう。僕、がんばるよ。元気でね」

 三人の顔を順繰りに見ていく。全然違うタイプの、それでもみんな僕の大切な友人。その人たちが笑顔で送り出そうと僕を見ている。

 僕はスマホを取り出して、駅前から町の写真を一枚撮った。それは人がやたら多いだけの、どこにでもありそうな地味な町の姿だったけれど、僕にとってはこんなに特別な風景はない。

「おまえも元気でな。風邪引くなよ」

「とりあえず無事に家に入れたら教えろよ」

「なんでもいいから連絡してね。僕もするから」

 三人に僕は頷いて、バッグを背負い直した。

 暑い暑い夏の日々に、僕はたしかにこの町で生きていた。生きることを知った。

 このひと夏に、僕のすべてがあった。

「じゃあ、僕もう行くよ。見送りありがとう」

 頷くみんなを見て、僕は一歩を踏み出した。名残惜しくないと言ったら嘘になる。でも、僕はもう決めているから。たくさんのものをくれたこの町のために何かが出来る人間になることを、決めているから。ひとりじゃないから。何も怖くない。

 明るい未来が僕を待ってる。

 長かった夏休みが終わる。僕の人生を変えた夏休みが。

 僕は振り向かずに駅へと歩き出した。

 さようなら、人間のゴミ捨て場。愛しているよ。また会おうね。

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真夏のゴミ捨て場 朔こまこ @komako-saku

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