第6話・犯人
友哉くんは相変わらず小さなワゴンを引いて安酒と煙草を売り歩いている。
「クリーム爆発しなくなっちまったから、人の集まりが良くねえなあ」
今日はどこでもイベントは開催されておらず、友哉くんも歩道に居並ぶ屋台に紛れてぼやく。それでもお客さんはぽつぽつとやってきてビールやワンカップ、煙草を買っていく。
僕とキヨくんはよく冷えたラムネとチューハイを買って飲みながら、炎天下を友哉くんとともに立ち尽くしていた。
僕は少し前から気になっていたことを友哉くんに訊ねる。
「どうしてこの仕事してるの? バイトするにしてももっと涼しいところでできるのもあるのに。儲かるの?」
すると友哉くんは腰を折ってワゴンにゆっくり頬杖をつき、不敵な笑みを見せる。顔つきのせいか、友哉くんが笑うとなんとなくいつも不敵な感じになってしまうのだが。
「そりゃあおまえ、誰かに雇われるなんてごめんだからだよ。めんどくせえだろ。これなら卸しからへこんじまったりとか売り物にならねえやつを安く買い叩いて持ってくればいいだけだしな」
「友哉くんは将来人を雇う側だもんね」
「まあな。俺は御曹司だからさ」
友哉くんは冗談交じりに言って笑った。
「でもまあ、こんなの儲からねえし、夏は暑いし冬は寒いしやってらんねえよ」
「じゃあ、なんで……?」
「ただ町をうろつくよりは楽しいかと思って。こんなことやってなくたって俺は町をいつもぶらつくし、イベントがありゃ見学に行くし、クリームが爆発すれば野次馬に行くよ。どうせなら小金でも稼ごうかと思って始めたのがなんとなく続いてる感じだな。特に夏は冷えたビール持ってきゃ喜ばれるし」
やっぱり友哉くんはこの町を愛していて、人生の中心にこの町があるんだと感じた。
ここで生まれ育っていたら、ということを最近よく考える。意味のない仮定だけれど、もしそうだったら僕はもっと違う僕だったんじゃないかと思ってならない。勉強ばかりして、それでも報われなかった僕は、ここでならもっと楽に呼吸ができたのではないか。
僕は僕なりにこの町がとても好きだから、もっと深く関わりたいと思うのかもしれない。
キヨくんと友哉くんの雑談を聞きながらそんなことを考えていると、どこからか子供の甲高い笑い声が聞こえてきた。タマとミケだ、と思う間もなく、雑踏の中からぽこんと弾かれてくるように小さなふたりが飛び出してくる。
「ラムネちょーだい!」
「ちょーだい!」
両手を差し出してワゴンに近づいてくるふたり。友哉くんは「おう」とためらう様子もなく返事をして、ワゴンの中に手を突っ込んだ。そしてよく冷えたラムネを二本取り出して、ふたりに渡してやる。
「冷たい!」
タマとミケはきゃきゃと笑って、慣れた手つきでラムネの蓋を開ける。そしてそれを勢いよく飲むふたりを、友哉くんは微笑ましそうに見守っていた。
飲み終わったのを見計らって、友哉くんが訊く。
「おまえら、昼飯は食ったのか?」
「ううん、まだ」
「じゃあ何か食わせてやるよ。何がいい?」
タマとミケはふたりで相談を始める。食べたいものを交互に挙げていって、ミケのほうが「ハンバーガー!」と言ったときに、タマも「それだ!」と同意して決まった。
この町にハンバーガーチェーン店はない。大通りの西側にオリジナルのハンバーガー屋が一軒あるだけだ。
友哉くんは財布からお札を二枚取り出してふたりに渡した。
「ほれ、何でも食え」
「お札だ!」
「お札だー!」
ありがとう! とふたりは声を揃えて言って、それから雑踏の中をうまくくぐり抜けて走っていき、やがて路地を曲がって見えなくなった。
彼らはまさにこの町で育っている最中で、僕が憧れるものを持っていた。
簡単に他人を羨んではいけないのはわかっている。だって彼らは両親がいないか、いても一緒に暮らせない事情があって、そのことをどう考え感じているのかわからないし、このままこの町を愛して成長するとは限らない。もっと真っ当に育ちたかったと苦しく思う日が来ないとも言えない。
僕は勉強ができないせいで、家では父に透明扱いをされていたし、弟たちには嘲笑されていたし、母は死んでしまった。けれど母が優しかった思い出を持っていて、家政婦さんは落ちこぼれの僕にも親切だった。寝床にも衣服にも食事にも困ったことはない。僕はたぶん、恵まれたほうの人間だ。
人には人の苦しみがある。だから羨んで妬んでも仕方ない。
それでも僕はタマとミケが羨ましいと感じてしまうのだった。羨んだって、どうしようもないことなのに。
感情というものは元来どうしようもないものなのかもしれない。だから僕らはいつも苦しむのかもしれない。
飲み終えたラムネの瓶を弄んでいると、聞いたことのある甘い声がした。
「ビールひとつちょうだい」
ふと顔をあげると、そこにはキノコちゃんが立っていた。空色の半袖ワンピースはどこかよれた印象だ。いつも半分死んだ目には濃いクマが目立つ。
「キノコちゃん」
僕が思わず口に出すと、キノコちゃんは今気づいたというようにこちらに目を向けた。
「ん? ああ、ジュイエの」
「はい」
「俺もいるよ!」
キヨくんが自分を指差す。
「見ればわかるよ。あんたら、こんな仕事もやってんの? この炎天下でご苦労なことだね」
言いながらキノコちゃんはビールを受けとる。
「いえ、僕らは仕事してるわけじゃなくて」
「あ、そう。暇なんだね」
気のない返事をしながら、おそらくノートパソコンの入った大きなバッグから財布を取り出し、小銭を友哉くんに手渡した。
プシュ、と気持ちのいい音をたててプルタブを開け、ビールをあおるキノコちゃん。そして、はあー、と大きなため息をつく。
「私、ちょうど原稿終えたとこ。もう眠くて眠くて、でもやっと終わったんだからビールくらい飲まなきゃやってらんないよ」
夜からまた仕事だし、とキノコちゃんは愚痴る。
「それまでに少し寝て、支度して。はあ、めんどくさ……」
終いにはひとりごとのようになっていく愚痴に、僕はお疲れ様ですと言うしかない。
「どうも。じゃあね」
甘い声でそっけなく言って、キノコちゃんはビールを飲みながら人の波に飲み込まれていく。これから家に帰って、夜には風俗の仕事にでかけるのだろう。
どうしてキノコちゃんが二足の草鞋を履いているのかはわからない。きっと聞いても教えてはくれないのだろう。別にキノコちゃんとは友達というわけではないし、知り合いとも言い切れない。単に仕事場の常連さんというだけだ。そうでなくてもキノコちゃんの性格からして、訊けば親切に答えてくれるタイプではない気がした。
そう思うと、僕の周りには親切な人が多いということがわかる。キヨくんを始め、友哉くんもいたるくんも、佳奈さんもそうだ。ジュイエのお姉さんとマスターだってそう。
あまり多くを望んでは罰が当たる気がして僕は自分を戒めるけれど、この町は「正しさ」がなくとも自由に元気にやっているのだから、何を望もうとも罰なんか当たらないのではないだろうか。
少なくとも、僕がこの町で生まれ育ってみたかったと願うことくらい、どうということもないではないかと思った。それがたとえ誰かの苦しみを軽んじることになっても。きっとどこかでは、僕の苦しみを軽んじる願いを誰かが熱心に祈っている。
そしてそれはきっと、この町に限ったことではないのだろう。僕はそう思った。
友哉くんがワゴンからビールを一缶取り出して、自分で飲み始める。何度聞いても、炭酸飲料のプルタブを開ける音は気持ちがいい。
「一臣、ここの暮らしには慣れたか?」
Tシャツの袖で額を拭いながら友哉くんが言う。
僕はこっくりと頷いた。
「すごく楽しい。僕、最近、ここで生まれ育ってたらよかったのにって思う」
「はは。ろくな人間にならないぞ」
「元々たいした人間じゃないからいいんだよ」
僕がそう言うと、友哉くんは眠そうな目でじっと僕を見た。何かを考えているのか、頭の中身を観察されている感じがする。なんだろう。そう思って見つめ返していると、友哉くんはやんわりと笑った。
「この町が好きか?」
「うん、好きだよ」
「おまえは家では落ちこぼれだったらしいけど、頭は良いし、将来有望なんじゃないのか。こんな町で暮らしてていいのか」
言ってビールをあおる友哉くん。
決して厳しい物言いではないけれど、何かを試されているような気がした。
友哉くんは一体どんな答えを期待しているのだろう。この町を愛している友哉くん。この町に愛されている友哉くん。
僕は正直に答えることにした。おもねっても仕方がない。
「将来有望かどうかはわかんないけど、僕はこの町で暮らしてるのが好きだし、合ってると思ってるよ。ここにいることで何かを無駄にしているとか、そういうことは思わない」
「そうか。もう勉強する気はねえの?」
「どうだろう、わかんない。そもそも夏休みが終わったらどうするかも決めてないんだよ。このままずるずる居続けそうな気がするけど」
「おまえさ、俺が好きか?」
突然の方向転換に、僕は一瞬友哉くんの言っていることが理解できなかった。
「え? なに?」
友哉くんは笑っているのに、瞳の奥だけが僕を焼き尽くすみたいに真剣な色を帯びていた。友哉くんはくりかえす。
「俺が好きか?」
「うん、好きだよ」
僕はとまどいながらもそう答えた。それが正直な気持ちだったからだ。
友哉くんは気だるいところがかっこよくて、大会社の御曹司なのにいつも安酒を売り歩いていて、親切で楽しい。少なくとも僕は友哉くんを友達だと思っていた。キヨくんと同じように、大好きな友達だ。
すると友哉くんは満足したように不敵に笑って、ふうんと呟きながら何度も頷いた。
「何の質問だったの?」
僕が問いかけると、彼はまたよくわからないことを言いだす。
「もうそろそろ夏休みも終わるな。リカバリーするのにちょうどいい」
「リカバリー?」
「おまえはこの町も俺のことも好きなんだろ。ここで生まれ育って、暮らしていきたいくらいなんだろ。信じたぞ」
「え、うん……」
今日の友哉くんはよくわからない。キヨくんも口を挟まずただ黙ってこのやりとりを見ているだけだった。
そんな僕らを、そして町を行く人々を太陽が焼いている。
真夏にここへやってきた僕の迷いを置いて、夏休みは終わりを迎えようとしている。いつまでも暑く湿った日が続くけれど、夏は確実に終わる。そのとき僕は一体どうしているのだろう。
よくわからないけれど何かを予感させる友哉くんの言葉の数々。
僕はなんとなく、何かが変わってしまうのではという予感に襲われて、ラムネの瓶をぎゅっと握りしめた。汗が額からこめかみを伝って流れ落ちていった。真夏の只中に僕は立っている。
ジュイエの仕事に夕方から入ると、店にはいたるくんが来ていた。カウンター席に座っている。
「いたるくん、いらっしゃい」
「イチくん。今から仕事?」
カウンターに入りながら頷く。
いたるくんはいつものようにアイスカフェオレを飲んでいて、その薄い体に白いシャツを余らせている。胸がきゅっとするような空気混じりの声。とてもさびしいところにいつもいて、幸せを願わずにはいられない人。
僕はそんないたるくんのことも大事な友達だと思っていて、常連とはいえこうして偶然会えるととてもうれしい。
今日のシフトはマスターとふたりだけで、忙しくなるかなと思う。でも今、店内にはいたるくんしかお客さんはいなくて、特にすることがない。食器や氷の用意はすでにマスターが済ませている。
僕はエプロンをつけながら、いたるくんに声をかけた。
「ねえ、いたるくん、最近友哉くんに会った?」
「友哉くん? 昨日かな、電器屋のテレビで競馬を放送しててね、そこにたくさん人が集まってたから友哉くんもお酒売ってたの見たよ。忙しそうだったから、挨拶だけして別れたけど。どうかしたの?」
僕は首をひねった。どうかしたかと言われても、うまく説明できそうにない。とりあえず僕はなんとかこの違和感を伝えようと口を開いた。
「うーん……僕、さっき友哉くんと会ってたんだけど、なんか様子がおかしかったっていうか……僕にこの町が好きか、俺のことが好きかって訊くんだよ」
「へえ、なんて答えたの?」
「どっちも好きだよって。それから急に夏休みも終わるな、リカバリーにちょうどいいなってよくわかんないこと言ってて、なんか不安になっちゃってさ。信じるぞとも言ってた。友哉くんどうしたんだろう」
「そっか。何か思うところでもあるのかな。友哉くん、イチくんのこと気に入ってるみたいだし、これからどうするつもりなのか気にしてるのかもね」
「そうなのかなあ」
あまりぴんとこなくて僕は唸る。友哉くんに好かれているのはうれしいけれど、それだけの言葉だったとは思えない。もっと何らかの意味が含まれていた気がする。
いたるくんはゆっくりアイスカフェオレを飲んで、それから考えるように視線を斜め上に向けた。しばらくそうしていたけれど、ふと視線を僕に戻していたるくんは話し始める。
「友哉くんはさ、この町を取り仕切る会社に生まれて、この町に育てられてきて。うまく言えないけど、どこかにこの町は自分のものって思ってる部分がある気がするんだよね。適当そうに見えるけど、きっと小さい頃から町のこと考えてきたんじゃないかなあ。だから町に住む人たちのことも自分のものみたいに気にかかるのかもしれない」
憶測だけど、といたるくんは苦笑する。
「僕がこの町の住人になったのに、夏休みが終わったら出ていくかもしれないことが気になるってこと?」
「わからないけどね。でも友哉くんはああ見えていろんなこと考えてるよ。それを口に出したりはめったにしないけど」
「そうだよね。僕もあんな目で見られたの初めてで、ちょっと動揺しちゃった」
「何か嫌なことが起らないといいね。クリーム爆弾だってもうずっと起こってないけど、いつ再燃してもおかしくはないし」
そうだね、と僕は頷く。
たしかにクリーム爆弾だってあるときぴたっと止んだけれど、犯人だっていまだわからないままだし、目的が町の再開発賛成派を脅すためなら、再開したっておかしくない。今は賛成派も静かにしているけれど、喉元の熱を忘れていつまた賛成の声を上げ始めるかわからないのだから。
友哉くんのお父さんを含む町内会の人たちは、再開発などさせまいと反対派として活動している。それはおおむねうまくいっているらしいけれど、友哉くんがこの町を自分のもののように思っているのなら、お父さんにまかせっきりでその結果を聞くだけという自分に満足できるだろうか。自分も何か出来ることをしたいと思うのではないだろうか。
ただの一町人である僕ですら、何か出来ることがあればいいのにと思うくらいなのだから、友哉くんの立場ならなおさらだろう。
そのことと、今日の友哉くんの様子が関係あるのかはわからないけれど、友哉くんも不安だったのかもしれない。
ある日突然やってきた僕が、キヨくんに連れられて我が物顔で町を闊歩している。今まで町に近づいたことさえなかった僕が、いつの間にか当たり前みたいに住人の顔をしているけれど、本当は何者なのか、本当に自分たち反対派の味方なのか、確かめたかったのかもしれない。そのくらい目の奥には真剣な色が宿っていた。
それにしたって、やっぱり言っていたことの意味はよくわからないけれど、結局こういうことは本人に訊ねなければわからないのだ。僕はそれを佳奈さんの件で学んでいる。
でも今日の友哉くんは訊いてもまともに答えてくれそうになかった。彼の中に確固たる何かがあって、見せるつもりはないけれど、それに基づいて僕を試したかったという感じがする。
僕は一体何を試されたのだろう。どんな答えを期待されたのだろう。僕はそれにうまく応えられただろうか。
僕はずっと答えのないぼんやりとした不安を覚えながら、その日の仕事をこなした。
やってくるお客さんはあまり多くなく、思ったより忙しくなかったし、不安にしている僕を慮ってか、いたるくんがずいぶん長居をしてくれたのでうれしかった。
優しくさびしいいたるくん。
僕もどんなに不安でも怖くても、いつも大事な人に優しくありたい。優しく強い、この町の住人になりたい。
また夢を見た。
自分の両手が赤く血に染まっている。そんなはずはない、と思う。思うけれど、僕は目の前の両手をよけて、階下がどんな状況になっているのか見たくない。不思議と恐ろしい気持ちはなくて、ただぼんやりとした空白の中にやってしまったんだなあという平坦な感想が浮かんでいる。
ただただ、もう家にはいられないんだな、と思う。
「イチー、腹減ったー」
キヨくんの情けない声で目が覚めて、ローテーブルの薄汚れた足とそのそばに積まれた漫画という極めて現実的な光景が目に映り、それでもまだ奇妙に平坦でぼんやりとした感覚が僕を覆っていた。どんな綺麗事を思っても、行動に移しても、僕はすでに汚れているんだということを思い出してしまった。だからゴミとなって人間のゴミ捨て場へやってきたんだということを。
どうして忘れていたんだろう。いや、忘れていたわけではない。それはずっと頭の中にあった。
けれど疲れ切っていた僕がそれを実感し続けるのが難しかったのと、この町で暮らすことへの新鮮さでいつもどこかに追いやられていただけだ。
夏休みが終わったらどうするのだろう、と考えていた。答えは出ず、おそらく二学期が始まってもずるずるとこの町に居続けるのだろうと思っている。
だって家には帰れない。僕がしたことは恐ろしくなくても、家に帰るのは恐ろしい。そこで僕を待つのは透明化や嘲笑どころでは済まないだろうから。
胸が苦しくなって、僕はそれらから目をそらした。目をそらしたって何もなくなりはしないのはもうわかっているのに。それでも見ることができない。だからこれからどうするかを決めることもできない。
現実が帰ってきているのだと思った。
ここに来たばかりの頃の僕は、疲れ切っていて何も考えることができず、常にふわふわとした浮遊感の中にいた。けれどここでの賑やかで猥雑でなんでもありでどうしようもない、けれど何にも追いつめられることもない生活を続けるうちに、僕の疲れは確実に癒えてきていた。
僕は意識をしないうちに少しずつ考えるという行為を取り戻し、現実感を取り戻していった。
僕は落ちこぼれで、この町に家出をしてきて、夏休みをここで生きている。それがこの瞬間の現実だった。
家には帰れない。帰りたくもない。僕は、この町で生きよう。
キヨくんの古いアパートの部屋で、僕はそう思った。誰も僕を探しに来ないということは、それが許されるということだ。
なんでもない一日の始まりに、僕は人生の道行きを決めたのだった。
「イチ、今日は仕事は?」
サンドイッチの屋台で昼食を買い、歩道に置かれたテーブルセットでそれを食べていると、向かいに座るキヨくんが出し抜けに言った。それまでずっと買ったガーリックパンが思った以上に固いと文句をこぼしていたのに。
キヨくんはいつの間にか片手にスマホを持っている。
「今日は夜からだよ。キヨくんは?」
「俺は休み。でもちょうどよかったな、友哉くんが話があるんだってよ」
「友哉くんが?」
「うん。昼食ったら会社に来てくれって」
「会社に?」
僕は驚いて食べかけの玉子サンドイッチを取り落とすところだった。
友哉くんと会うときはいつも友哉くんが引くワゴンのそばか、どこかの飲食店でだ。僕は友哉くんのところの会社がどこにあるかも知らないし、彼がその御曹司であることを知ったのすらつい最近の話だ。
それがどうして急に会社になんて呼び出すのだろう。それもキヨくん経由で。僕と友哉くんは連絡先をお互い知っているから、僕に直接声をかければいいんじゃないだろうか。
近頃よくわからないことが多すぎる。ともかく訊いたほうが早い。僕は考えるのを放棄した。
「僕だけ? それともキヨくんも呼ばれたの?」
「俺も呼ばれてるよ。成り行きだけど、おまえの保護者みたいなもんだしな」
「なにそれ。三者面談でもするの?」
「違うけど、まあ似たようなもんかな、たぶん」
その言い方に、キヨくんは何か知っているのではと気づく。
「キヨくん、なんで会社になんか呼ばれたか知ってるの?」
訊くと、キヨくんは少し困ったように後頭部をかいた。染め直さなきゃな、とよく言うプリン頭はいまだプリンのままだ。
「友哉くんに直接聞いたほうがいいよ」
そう言われて言葉が出なくなる。なんでなんでと疑問は頭の中を渦巻いているけれど、しつこく訊いたところでキヨくんは答えてくれないだろうという気がした。
先日の友哉くんの奇妙な言葉の数々。キヨくんとともにわざわざ会社に呼ばれた意味。何かを知っているらしい態度のキヨくん。
そういえばキヨくんは先日友哉くんが謎めいたことばかり話していたときも、口を挟まず黙って聞いているだけだった。あのときから何か知っていたのかもしれない。何もわかっていないのは僕だけで。
全然納得はいかなかったけれど、話があるというのなら別にどこへでも行くし、呼ばれていること自体に文句はない。そして行けばおそらく友哉くんの意図もわかる。
僕は小さく息をついてから、再び玉子サンドに齧りついた。
キヨくんのあとについて、友哉くんの会社があるという場所へ向かう。
そこは駅前通りにある大きなパチンコ屋の隣に立つ巨大なビルだった。コンクリート打ちっぱなしの薄灰の壁が見上げるほど高い。入り口は壁より二メートルほど奥に引っ込んでいて薄暗い。夏の凶暴な光もそこまでは差し込まず、涼しげに影の中に沈んでいる。入りにくい雰囲気だった。
気後れしてしまう僕に対して、キヨくんは堂々と影の中へ入っていく。思い返してみれば、会社というところに入るのはこれが初めてのことなのだ。自動ドアが開くと、冷房で冷えた空気が一気に流れ出してきた。汗が引く。寒いくらいだった。
社内は明るくて、白い石の壁が高い天井から下がるシャンデリア風の電気が放つ光をやわらかく反射している。大きな窓もあったけれど、外から見えにくくするためなのか、薄い茶色をしていて太陽の光は入ってこない。
ロビーには応接セットが三組あって、入り口の向かい側には女の人がふたり座る受付がある。その受付の両側に改札のようなものが並んでいて、その奥にエレベーターの扉がいくつかずつ並んでいるのが見えた。
きょろきょろを辺りを見回しているうちに、キヨくんはさっさと受付へ行ってしまう。慌ててそのあとを追った。
「すいません、友哉くんと約束してるんすけど」
キヨくんがそう言うと、それだけで伝わったらしく受付の人は丁寧に微笑んでカード状のものを二枚取り出して受付台に置いた。
「はい、伺っております。十八階の第五会議室へどうぞ」
「どうもー」
慣れたふうにカードを受け取って、一枚を僕に渡してくれる。これできっとあの改札みたいなところを通るのだろう。
実際、ICカードと同じようにカードを改札みたいなものにタッチするとゲートが開いて通れるようになった。
十八階と言っていたけれど、一体何階建てのビルなのだろう。確実のこの町の中でも飛び抜けて高い建物だと思うし、ぱっと見上げただけでは何階まであるのかわからなかった。友哉くんは本当にこんなに大きな会社の御曹司なんだ。改めてあのワゴンを引いて町を行き、安酒を売り歩く姿を思い浮かべて、全然イメージが一致しないと思って混乱する。
けれど、俺のことが好きかと訊いてきたときの、あの燃えるような瞳。あれはとても強い人の瞳だった。大きなものを背負って立つ強い人の、相手を燃やし尽くすような色。あれが御曹司の友哉くんの姿だったのかもしれない。
なかなか下りてこないエレベーターを待って僕たちは立ち尽くしている。
「ねえ、キヨくんはここ来たことあるの?」
手持ち無沙汰というか、待ち時間を持て余して僕は訊ねた。
何の気負いも感じられない普段どおりのキヨくんは、少しずつ動いているエレベーターの階数表示を見上げながら言う。
「何回かだけな。たぶんさっき言われたのと同じ会議室で、うなぎ食わせてもらったことある」
「うなぎ? なんで?」
「わかんねえ。ちょうどいたると一緒だったときに連絡来てさ、うなぎ食いたくねえか? って言われて、食いたいっつったらここに呼ばれたんだよな。なんか気まぐれだったんだろうけど」
僕はおもしろい話だなと思って「へえー」と呟いたけれど、今日のこれは気まぐれなんかじゃないんだろうなと思ってもいた。きっと友哉くんは御曹司として、この大会社を継ぐ者として、話をしようとしている。
それがどうして僕たち相手になんだろうと不思議で仕方がないけれど、友哉くん本人が直接僕たちを指名したのだから、なんらかの意味はあるのだろう。僕とキヨくんでなければいけない意味が。
やがてエレベーターが下りてきて、僕たちはその広い内部に乗り込んだ。友哉くんが十八階のボタンを押す。ボタンは全部で二十個あって、最上階が十九階、それに地下一階があった。十九階建て。そんなに高い建物はこの町にほとんどない。高くてもせいぜい十階がいいところだ。
すごいという感想しか出てこないが、エレベーターは音もなくするする上昇していく。たまにチンという音がしてエレベーターが止まり、会社の人が乗り込んでは降りていったりした。場違いな僕たちを不思議そうにみんな見ていった。
十八階にたどり着いてドアが開く。しんとした広い廊下が長く続いていた。床はそっけないオフホワイトのリノリウムで、壁紙も似たような色をしていて、そこにぽつぽつと焦げ茶色のドアが点在している。なんだか想像していた「会社」感はなくて、どことなく病院とか収容所とかいう言葉が浮かんでくる光景だった。
廊下は、エレベーターから見て左右に伸びていて、キヨくんは迷わず左のほうへ進んだ。ドアにはそれぞれ白く小さいプレートに第何会議室とか資料室とかが古めかしい感じの字体で書かれている。
キヨくんについて廊下を進むと、いくらもしないうちに子供特有の甲高い笑い声がどこかから漏れ聞こえてきた。
子供の声……? と訝しむとほぼ同時、第五会議室と書かれたプレートのドアが目の前に来た。子供の声はそこから聞こえてくる。
キヨくんはノックもせずにドアを開けた。
「お待たせ~」
「おじゃまします……」
ノックもなしに……と僕は及び腰になりつつ、会議室に入っていった。
その部屋は、具体的にはわからないにしろ大体教室と似たような広さで、床には濃いグレーのタイルカーペットが敷き詰められている。長机がふたつ合わせて部屋の真ん中に置かれていて、パイプ椅子がその周りに何脚か適当に散らばっていた。腰の高さにある窓は壁一面にずらりと並んでいて、夏の真っ青な空が広がっている。その中に、駅向こうにある商業ビルが立ち並んでいるのが見える。
部屋の隅には大きめの棚がひとつあって、なぜか漫画や小説、ゲームソフトなどが並んでいる。
長机にも雑誌やペットボトル、それからパソコンとそれにつながったゲームのコントローラーなどが散らかっている。
そしてパイプ椅子に悠々と腰掛ける友哉くんと、大きな四角い缶に詰められたクッキーを食べながらはしゃぐタマとミケがなぜかいるのだった。
「急に呼び出して悪かったな」
友哉くんは自分の部屋みたいにくつろいだ様子で言う。
実際そこは、会議室とは名ばかりの友哉くんの自室のような雰囲気で、友哉くんの私物であろうもので溢れている。僕はよくわからなくて、呆然と室内を見回していた。それからなぜいるのかわからない、クッキーを貪り食うタマとミケを。
「パイプ椅子で悪いけど、まあ座ってくれ。なんか飲むか?」
言って立ち上がった友哉くんは大きな棚のそばへ行く。気が付かなかったけれど、そこには小型の冷蔵庫があった。しゃがみこんで飲み物を取り出しながら友哉くんはぼやく。
「その椅子、あぐらかきにくいし長く座ってっと腰痛くなるし、もっと良い椅子ほしいんだけどさあ、椅子みたいにでかいもん何脚も買うと、ここまで社員に運ばせることになっちまうんだよなあ。さすがに申し訳ないっつうか」
小さいもんなら受付で預かってもらえるんだけどな、と付け加える。つまり友哉くんはここ宛で普通に通販をしているのだ。
僕は恐る恐るドアに近い椅子に座る。友哉くんは僕らの前にペットボトルのお茶を置いた。タマとミケはクッキーを食べ終えたのか、歓声を上げながら長机の周りをぐるぐると走り回る。
「えっと……ここは、友哉くんの部屋?」
心持ち大きな声で問いかけると、友哉くんもパイプ椅子に腰を落として答える。
「まあ、そんな感じ。家は大通りからちょっと距離あってさ、ガキの頃は昼飯食うのにいちいち家まで戻るのも大変っていうか、面倒だったんだよな。そしたら親父がよくここで昼飯食わせてくれるようになって、そのまんまなし崩し的に俺用の部屋になってたな」
「そうなんだ……」
そんなことありえるんだ、と僕は思い、まったく違う世界を覗き込んだようで途方に暮れていた。僕の親族には医者や政治家が多くて、別荘を持っている人も少なくなかったけれど、なんだかもうレベルが違う。僕のところは敷地や家こそ大きかったけれど、別荘は持っていないし、父は本家が経営する系列の病院に勤めていて、それこそ息子に貸す会議室など持ち合わせていない。
この会社に訪れてから、友哉くんは本当はとんでもない人なんだということが、じわじわと浸透してきている。初めて出会ったときのあの適当でお気楽でけだるいお兄さんという印象が、オセロみたいにひとつひとつひっくり返っていく。
だからといって、僕が友哉くんに感じる友情に変わりはないけれど、見え方は変わってしまった気はした。
僕はずっと、自分の家系の大きさと重さに押しつぶされそうになっていた。分家とはいえ長男なのに、僕の成績や人徳では医者にも政治家にもなれそうになく、なりたいのかもわからないのにただならなければいけないという圧力だけが常にあって、僕はついにそれに負けてしまった。僕は自分の家や家系が世界のすべてみたいに感じていた。
けれど、こうしてそこから出てきてみると、世界はこんなに広くて大きい。僕の家なんてそんな世界のたった一粒だ。全然たいしたことなんてなかった。全然すべてなんかじゃなかった。
突然、自由になった気がした。いろんなものから解き放たれたような気がした。吹いてくる風にぶわりと浮き上がるように心が、精神が軽い。
何も怖くない、と思った。落ちこぼれなことも、透明化されることも、嘲笑されることも、そして自分のしでかしたことを見つめることも。夢で見た目の前を覆う両手をよけることも、今ならきっとできる。
そうやって僕が勝手に身軽になっている間も、タマとミケははしゃぎまわっていたし、友哉くんとキヨくんは小さな頃の思い出話などをしている。ずいぶん混沌とした状況だ。
僕は解き放たれたけれど、状況の理解はできていないので、ペットボトルのお茶を飲みながら友哉くんが本題に入るのを待った。
少しして、思い出話に一段落ついたふたりが同時にペットボトルを口に運んだ。それから友哉くんが言う。
「呼んでおいて勝手に盛り上がって悪いな、一臣。ちょっとおまえに相談があってさ」
「友哉くんが僕に?」
「ああ」
友哉くんの瞳の奥がまた燃えている。大きく重たいけれど大事なものを抱えた、それを守ろうとする猛禽のような目。
僕はそれに貫かれ、ひとつ小さく息を飲み込んでからゆっくりと頷いた。
友哉くんはいつものように不敵に笑う。そして言った。
「おまえ、弁護士にならないか」
え、と声が漏れる。
今なんて言われた? 弁護士?
思いもしない方向からの言葉に、僕の頭は固まってしまった。何も言えずにいると、友哉くんは声を上げて笑った。
「突然すぎたか。まあ、全部説明してやるからとりあえず聞けよ」
ただただ頷くと、友哉くんはそれを見てから話し始めた。
「俺の親父がこの町を仕切ってる町内会のメンバーなのはもう知ってるだろ。親父はこの町を守りたい。もちろんこのまま儲け続けたいからってのもあるけど、単純に町が好きなんだよ。どこの誰だかもわからん余所者に壊されたくない。そんで、それは俺も同じなんだよな。この町を愛してる。壊されたくない」
淡々と話しているのに、友哉くんの声はタマとミケのはしゃぎ声に負けていない。話は続く。
「再開発賛成派への脅しだって言われてるクリーム爆弾、あったろ。そういや最初の爆弾の爆発は一緒に見たな」
「うん」
「犯人は俺だよ」
「え……えっ!?」
僕は今度こそ言葉をなくした。何かを言おうとする口が開くけれど、そこから出てくるものは何もない。呼吸すら忘れたようにただ見開いた目で友哉くんを見る。
友哉くんがクリーム爆弾の犯人? どうして、と思い、けれど言われてみれば当然のことじゃないかと呆然と思う。
この町を愛している友哉くん。この町を守りたい友哉くん。
それが父親に情勢をまかせっきりで何も出来ず指をくわえて見ているだけなんて、出来る人ではなかったのだ。
「賛成派がじゃまくさかったからな。再開発を主導してるのは市だよ。賛成派はそこと結構金のやりとりもしてたし、開発後も他の連中差し置いて良い立場もらえる交渉もしてた。だから脅してでも黙らせてやろうと思ってさ。でも最初の爆弾はやりすぎだったな。別に怪我人まで出すつもりじゃなかったんだよ。威力の調節ミスっちまった」
「……だからクリーム爆弾に変えたの?」
「そうだよ。あの程度でも脅しになるんだから楽だよな。ちなみに実行犯は俺じゃないぞ。タマとミケだ」
僕は走り回るタマとミケを見た。
たしかに現場からはいつもふたりの指紋が出たという。けれどふたりは町のどこにだって出入りするし、まだこんな小さな子供だし、クリーム爆弾を作る技術も意味もないはずだ。けれど爆弾を作った人と設置した人が別々なら。友哉くんが作って、タマとミケが置いたのなら。
僕は無邪気にはしゃぐタマとミケに、背筋がぞっとした。
こんなに無邪気なのに犯罪に加担して、それでも平気で笑っている。なんだか不気味なものを見ているような気になってくる。
「こいつらはさ、正義も悪も持ってないんだよ。飯さえ食えればどっちも同じなんだ。だから俺は当面こいつらの飯を保証してやる代わりに、爆弾の設置を頼んだ。そんでこいつらも飯さえ食えれば口も割らない」
うってつけだな、と友也くんは笑った。
「俺はこの町を絶対に壊させない。変えさせない。将来俺はこの町を背負って立つんだよ。ここは俺の
友哉くんの燃える瞳。
僕は、いたるくんの言ったとおりだと思った。友哉くんはこの町を、そしてそこに暮らす住人を自分のものだと思っている。だから自分が守るべきものだと思っている。
「今回の再開発計画は潰せる。俺の脅しも効いたと思いてえな。けどたぶん、この話は何度でも持ち上がってくるはずなんだ。だってこんな町、周辺からしてみれば汚くて目障りなだけだろ。税金はたっぷり払ってやってるはずなんだけどな。お上だって必要悪だと思ってくれりゃいいのに」
ため息をつく友哉くん。
「そこでだ。最初の話に戻るけど、一臣、弁護士にならねえか? うちの会社には顧問弁護士がいるんだけど、もう結構いい歳なんだよな。あれは親父と一緒に引退だろ。そうしたら、俺には弁護士がいなくなる。だからおまえに俺の顧問弁護士になってもらいてえんだよ。おまえはこの町が好きで、これからも暮らしていきたくて、おまけに俺のことも好きなんだろ? 一緒に町守ろうぜ。俺は人を見る目には自信があるんだ。こんな町で育ってっからな」
僕は呆然と友哉くんを見つめていた。僕が顧問弁護士? 友哉くんがそんなことを考えていたなんて。
でも、弁護士になれれば友哉くんと一緒にこの町を守れるということだ。なにも出来ないただの一町人じゃなくて、守る力を持って行動することできるのだ。
とはいえ、弁護士は言うほど簡単になれるものじゃない。勉強ができず落ちこぼれだった僕がなれるものだろうか。
その不安を読み取ったのか、友哉くんが言った。
「一臣は頭が良いだろ。弟だのなんだのと比べて劣ってたとしても、一臣自身に弁護士になれる頭がありゃいい話なんだよ。弟たちはその良い頭使って医者にでも政治家にでもなればいい。でもおまえはその頭で弁護士になるんだよ」
「僕自身が……」
「幸い、おまえん家なら勉強するのにふさわしい環境は整ってんだろ。一臣は俺の顧問弁護士になるんだから、父親も弟も家系も関係ねえ。比べる必要もねえ。ただひたすら弁護士目指して勉強してくれればいい」
僕が弁護士になる――想像したこともなかった。政治家になれるほどパワフルではなかったから、道は医者しかないと思っていた。だから同じように医者か政治家への道を進む弟たちと比べて、僕は落ちこぼれだと思った。だから父は僕を透明にしたし、弟たちは自分たちと比べて成績の劣る僕を馬鹿にした。ものさしが同じだったからだ。
けれど弁護士は違う。誰とも違う。家の価値観でもものさしでもない、まったく別のものだ。なれなければいけないという圧力さえない、ただ、僕が目指すものだ。
目指したいものだ。
「もうそろそろ夏休みも終わりだろ。二学期から学校に戻りゃ、おまえの家出なんかなかったのと同じだ。内申にも響かない。だからこの話を持ちかけるにはちょうどいいタイミングだと思ったんだよなあ」
先日、友哉くんの言ったリカバリーというのはこのことか。僕はようやく話が理解できてすっきりとしていた。
弁護士を目指すのもまったく異論はない。むしろこの町を愛して守る友哉くんの手伝いができるのなら、大歓迎だ。この広くて大きくて、正しくない世界では、僕の家のものさしなんて何の役にも立たない。僕は身軽になったこの心でどこまでだって行けると思った。
ただひとつ――立ちはだかる問題がある。
僕が家出をするきっかけになったひとつの出来事。僕は自分の両手を見つめた。すでに汚れているこの手。僕は、探されていないからといって、家に帰ることは可能なのだろうか。許されるのだろうか。探されていないということは、僕に戻ってほしくない、戻ってもらっては困るということではないのだろうか。
すると今まで黙って聞いていたキヨくんが口を開いた。
「イチ、おまえ隠してることあるだろ」
「え……」
「初めて会ったとき、おまえ、自分の話しただろ。そのときからなんとなく思ってたよ。こいつ全部話したわけじゃねえんだろうなって」
僕は驚いてキヨくんを見つめた。さっきから驚いてばかりでいい加減疲れてきたけれど、そんなこと言っている場合ではなかった。
キヨくんは僕がひとつの出来事を隠したことを感じ取っていたのだ。それでいて、今までなにも訊かないでいてくれた。
友哉くんを見やる。彼も僕を見ていた。その目は、彼もまた僕が隠し事をしていることをわかっているものだった。
僕は弁護士になる。友哉くんに誘われたからじゃない。僕がなりたいと思ったからだ。僕がそうしたいと思ったからだ。そのためには勉強をしなければならない。学校に通って、場合によっては塾や家庭教師も必要になるかもしれない。なると言って簡単になれるほど弁護士資格の取得は楽じゃないし、僕の地頭だって良くはない。だから勉強に集中できる場所にいる必要がある。それがどこかというと、やっぱり実家だ。
父は僕を透明にしているけれど、塾に行くことや家庭教師を雇ってほしいことを頼めば聞いてくれるだろう。父にしてみれば、長男の僕の成績が上がることは望ましいはずなのだから。
ただ、さっきも思ったことが再び頭に蘇る。
僕は、家に戻ることを許されるのだろうか。
「家で何があった? 話してみろよ。場合によっちゃ何か手助けしてやれるかもしれねえ」
友哉くんが言う。
僕はかすかに震えている両手を見た。
キヨくんが僕の肩に触れる。
「イチ、おまえはさ、この町に来ていろんなことやったよな。ジュイエで働いてる。法律違反だ。デリヘル嬢に惚れた。でも個人と個人として仲良くやってる。毎日毎日くそ暑い中、俺と屋台で飯食った。屋台、道路交通法違反だ。ゲーセンで深夜まで遊んだな。条例違反だ。なにかまだ怖いことでもあるか? 今ここには俺と友哉くんがいるんだぞ」
そうだ。この町に来て、たくさんのことがあった。疲れ切った僕が過ごした夏の全部。
怖いと思った。
けれど、話せるとも思った。
いまさら僕の手がどんなふうに汚れているか知っても、ふたりがそれを否定することはないと思った。
僕は、ゆっくりと口を開いた。
「……僕は、弟たちに馬鹿にされてた。あの日もそうだった。何かひどいことを言われた。内容は覚えてない。ただ言われた瞬間、頭の中のなにかが熱でぷつりと切れて、気がついたら僕は弟のひとりを両手で思いきり押していた。階段の上から、突き落とした。生きてるのか死んでるのかも知らない。警察が僕を捜しに来ないってことは、生きてるのかもしれない。階段にはカーペットが敷き詰めてあるから、怪我くらいしたかもしれないけど、死んではいないのかもしれない。でも僕は、死んでいいと思ったんだ。死んでいいと思って突き落としたんだ。それからのことは頭がぼんやりしてしまって、よく覚えてない。ただ前にニュースで見た「人間のゴミ捨て場」のことが思い浮かんで、僕はゴミだからそこに行かなきゃと思ったことはなんとなく覚えてる。それで気がついたら、僕は駅前に立っていたんだ」
実の弟を殺意を持って僕は突き落とした。この手は汚れている。この心は汚れている。「正しさ」を身につけて育ったくせに、僕は正しくないものになって、正しくない町にやってきた。
そこで出会った人たちはみんな親切だった。この正しくない汚れた町で、いろんな思いを抱えながら、それでも元気に明るく生きている人たち。おかしな人もたくさんいた。危険な人もたくさん見かけた。ジュイエは法律違反を犯して僕を雇ってくれている。道交法違反の屋台で食べるご飯やおやつはおいしい。
僕は、どんなに汚れた手を持っていても、この町が好きだ。この町の人たちが好きだ。この町の人たちの有り様が好きだ。正しさなんてくそくらえだ、そう思った。
「なるほどな」
考え込むように僕から目をそらしつぶやく友哉くん。
「この町には公的権力が、具体的には警察が深入りしてこねえ。なんでかっつーと買収してるからだ。結構積んでるぞ。やつら基本的にまじめだから、時間をかけて懐柔してきたんだ。俺が生まれるよりずっと前からの話だよ。けど、それと未成年が人殺したって届け出を受けた警察が、おまえを探さないかっていうとまた話が別だ。クリーム爆弾のときだって、一応捜査するポーズは見せてただろ。もし弟が本当に死んでて、おまえの親がそれを警察に届け出てたら、おまえはとっくに見つかってる。犯罪犯して逃げたやつがいる場所で真っ先に疑われるのはこの町だからな」
そこまで言ってから友哉くんは僕に目を向けた。
「たぶん弟は死んでねえ。死んでたとしても、おまえの親はそれを警察に届け出てない。たぶん醜聞を恐れてだ。ご立派な家系なんだろ? 息子が息子を階段から突き落として殺したとか、怪我させただとか、そんな話知られたくねえんだよ。たぶん内々で処理してる。弟の口もなんとかして塞いでるだろうな。つまり一臣、おまえは、表向きにはなにもやってないんだよ。そのお綺麗な手で堂々と家に帰れる」
「思ったよりひどい話じゃなかったな。もっとこう、家を燃やしてきたとか、包丁振り回してきたとかいう話かと思ってたけど」
キヨくんがあっけらかんと言う。
友哉くんが顔をしかめた。
「キヨは無神経なところがあるんだよなあ」
「え、そう?」
「そうだよ」
そうかな、そうだよ、とふたりは言い合っている。なんだか空気がなごんだようで気が抜けた。
それにしても、友哉くんが死んでいないというのなら、本当に死んでいない気がしてくる。どちらにせよ僕がいまだ警察に見つかっていないのは父が届け出ていないからだという話には説得力があった。父はそういう人だからだ。優秀でないものには容赦がない。ないものにしてしまう。家庭内で暴行、殺人が起こればとてもじゃないが耐えられないだろう。必死で隠そうとするはずだ。成績不振で透明化されるのだから、殺人もしくは殺人未遂ならどうなることだろう。最初から存在しなかったことくらいにされてもおかしくない。
表向きにはなにもなかったから僕の手は綺麗だ、というのは詭弁だと思った。けれどそれはきっと友哉くんが僕の重荷を少しでも軽くすべく言ってくれたのだろう。僕が家に帰りやすいように。それは僕を思ってのことでもあるし、友哉くん自身のためでもある。
夏休みはもう終わる。二学期が始まる。帰るなら今だというのもわかる。本当に弁護士を目指すのであれば、家に帰るしかないものわかる。僕がたぶん警察につかまらないのもわかった。だからあとは帰るだけだ。
だけど――
「どんな顔して帰ればいいんだろう……」
相変わらずタマとミケははしゃいでいるけれど、僕のそのつぶやきは届いたようでキヨくんはまたあっけらかんと言い放った。
「何もなかったんだから、何もなかった顔で帰りゃいいだろ。外泊とか怒られる家か?」
「無断は怒られる、かな? わかんないけど……」
「じゃあそれだけ覚悟しとけ。あとは堂々としてればいいんだよ。都合よく親がもみ消してくれてんだから、おまえは何も気にせず弁護士になることだけ考えてりゃいい」
「まあ、どうしても家がだめそうだったり、警察が踏み込んできそうだったら俺のところに来ればいい。出来ることはしてやる。おまえは俺の大事な顧問弁護士だからな」
友哉くんが不敵に笑う。それが今はとても心強くて、安心できた。
家に帰ろう。そう思った。僕はもう家の価値観に縛られることはない。新しいものさしを手に入れて、それは多種多様なものが計れる優れたもので、「正しさ」は持っていないかもしれないけれど、それはもう僕には必要のないものだ。
家でどんな扱いを受けても怖くない。だって僕にはもう新しい居場所があって、友達がいて、好きな人がいて、目標もある。家が世界のすべてではないことを、僕はもう知っていた。
「うん。僕、帰るよ。帰って勉強する。誰かより成績優秀になるためじゃなくて、この町のために勉強する。絶対弁護士になる。それできっといつかこの町に戻ってくる」
「おう、がんばれよ。何かあればすぐに俺に連絡しろ。必ず助けてやる。おまえはどこにいたってもうひとりじゃない。この町が、おまえの味方だ」
友哉くんが満足そうに力強く言ってくれた。
この町が、僕の味方。何も怖くない。この手が汚れていたってかまわない。
僕は窓の外に視線を向けた。どこまでもどこまでも深い青が広がっている。
家に帰ろう。夏休みはもうおしまいだ。
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