第5話・苦しさと嬉しさ

 すっかりクリーム爆弾の話題性も薄れ、なんとなく町の空気はお祭りのように明るい。

 明るいと言えばいつも明るいのだけれど、それだけではなくて、たぶん町の多数派を占める再開発反対派の不安が払拭されつつあるのが理由だと思う。

 友哉くんが僕たちに話して聞かせたから反対派優勢の話が広まったというわけではないだろうけれど、そういうのはどこかしらから漏れてくるものなのだろう。別に友哉くんだけが町内会関係者というわけでもないし、他のところからも少しずつ広まって、それが町の雰囲気を作り出している感じがする。

 町の雰囲気を作り出すのは、住人たちだ。住人たちはみな、安心したように元気で明るい。露店の店主も、客引きたちも、キャバクラへ出勤するお姉さんたち、ホストクラブへ出勤するお兄さんたち、そして歩道や車道を行き来するなんだかよくわからない人たちも、みんな元気で明るい。何かを叫びながら混み合った歩道を疾走する人もいる。

 元に戻ったと言えるのかもしれない。クリーム爆弾が毎日どこかで爆発していた日々に流れた、悪意というものに対する慎重さ。それが町をどこか萎縮させていて、そちらのほうがおかしかったのだ。この町は本来、下品なパレードショーのようなのだから。

 そんな中、僕は再び佳奈さんと会う約束を取り付けていた。

 前回よりもどきどきする。前回は緊張する暇もなく会うことになったけれど、今回は明日だ。一晩中、思う存分緊張できる。

 会うのは昼間で、キヨくんの仕事は夜からだったから、出かける旨を伝えないわけにもいかなくて、僕は仕方なく佳奈さんとのことを話した。するとキヨくんは漫画から顔を上げ意外そうな大声を上げた。

「マジ!? また会うの? おまえが誘ったの?」

「ううん、佳奈さんが暇だからまた遊ぼうって」

「マジ~~~? マジでどんなつもりなんだろ? 単純におまえのことかわいがってんのかな」

「わかんないけど……」

「リノさんも……リノさんも、おまえのこと擦れてなくてかわいいって……言ってたし……そんな感じなのかも、しれねえな……」

 とにかく悔しそうにキヨくんは言った。

 友哉くんいわく「無理めのリノさん」のこととなると、キヨくんはやっぱりちょっと困った感じになる。

「でもキヨくんは仕事のたび、リノさんに会うわけでしょ。なんとなく会えるだけの僕よりよっぽど近いじゃない」

「恋は時間じゃない、密度だ。密度はおまえのほうが断然高い」

「そうかなあ」

 かなり強引な意見だと思ったけれど、僕はあまり反論しないことにする。正直リノさんについてのキヨくんは面倒くさいの一言に尽きるので、受け流し気をそらしてやるのがいちばん良い。

「それよりキヨくん、その巻読み終わったなら貸して」

「あ、まだだわ」

 キヨくんは手にした漫画に目を落とす。そしてやっぱり言うのだった。

「なんで遊んでくれるのか、直接訊いたほうがいいぞ」

 経験者の意見は貴重だ。けれど僕は、現状でおおむね満足している。スマホで何気ない雑談をして、おはようとかおやすみとかを言い合って、またこうして会う機会をくれる。これ以上、何を望むのだろう。

 町中でカップルを見かけることがある。彼らは、少なくともどちらかは相手が好きで、付き合いたいと思って、その結果仲良く並んで歩いている。僕の思考がその「付き合いたい」までいかないのは、それが本当は恋ではないからなのだろうか。

 学校にもカップルはいた。他クラスのよく知らない人たちだったけれど、仲が良さそうなのは見てとれた。彼らもまた、付き合いたいと思って付き合い始めたのだろう。

 僕はなんとなく恋をすれば相手と付き合いたいと感じて、だから告白をするのだろうと思っていた。それが恋というものなんだと。

 けれどじゃあ、僕のこの気持ちはなんだろう。たしかに佳奈さんが好きなはずなのに、付き合いたいとまで思考が進まないのはどうしてなんだろう。最初から無理めだから? どこかで諦めているから? それともこれは恋愛の好意ではないから? 僕の精神的成長が実は遅いから?

 そう言われればどれもそうという気がしたし、いまいち納得がいかない気もした。

 とにかく僕は自分の実際の気持ちを知らないことには、佳奈さんに想いを伝えることはできない。だって本当は恋愛の好意ではないのに告白をするのは失礼だ。僕は現状で満足しているけれど、満足していなきゃいけなくもあるのだった。

 自分の気持ちはたしかにここにあるのに、言葉に変えることができない。すごく曖昧なものだから。自分自身ですらもその形の意味をわかっていないから。

 今の僕にとって、いたるくんのアドバイスはとても合っていた。どんな小さなことでもいいから話をすること。そのことで僕はこれまでにない形の喜びを得ている。

 けれどキヨくんが何度も言う「どうして僕の相手をしてくれているのか」を確認することも大事なことだと思えてきた。佳奈さんの気持ちを知ることでわかることもあるのではないか。僕ひとりの中で完結させようとせず、佳奈さんの言葉を取り入れることで見えてくるものもあるのではないか。そう思うのだ。

 例えばキヨくんの考えていることが気になれば、僕はよほど気を使うようなことでなければ普通に訊ねる。それが友哉くんでも、いたるくんでも、ジュイエのお姉さんでもマスターでも、リノさんでもそうだ。それが佳奈さんだけ例外ということでは筋が通らない。

 いや、これが恋だからこそ佳奈さんだけが例外ということもあり得るのだけれど、どちらにせよ人間関係であることには変わりない。人と人が関わることで、どちらかがひとりで完結させてしまうのは決して良いことではないと思う。だからいたるくんは、話をすること、を勧めたのだろう。

 僕はスマホに買ったばかりのイヤホンを挿し、音楽配信アプリで適当に流行のプレイリストを流しながらなんとなく、明日は訊いてみようかなと思う。どうして僕の相手なんかし続けているのか。

 佳奈さんがそれに正直な答えをくれるかはわからない。それでも。

 僕は知りたい。佳奈さんの気持ちと、僕自身の気持ちを。

 

 緊張していたうえ、いろいろ考えてしまってなかなか寝付けなかったけれど、目が覚めたのはいつもより少し早い時間だった。キヨくんはまだぐっすり眠っている。

 カーテンの隙間に指先を差し込んで空を見上げる。今日は珍しく雲の多い空で、太陽がときどき雲の影に隠れては現れるというのを不定期にくりかえしていた。その度に、町には影が迫り覆われては再び灼熱の陽に焼かれる。目を焼く光と影が交互に訪れる町は、それでも昨日までと変わらず暑そうにギラついている。

 佳奈さんとの待ち合わせまでまだ時間がある。かと言って、キヨくんがまだ寝ているので洗濯もできないし、とりあえず汗で濡れた寝間着を脱ぎ洗濯機に放り込んで、洗濯カゴの中の新しい服に着替えた。それから少し迷ったけれどエアコンをつける。その風が直に当たるところに眠るキヨくんに、ベッドの端に寄せられたタオルケットをかけてやる。これでお腹を壊すことはないだろう。

 なんとなく手持ち無沙汰だけれど、緊張もあって、漫画をめくっても頭に入ってこない。結局スマホで音楽を聴く。

 あの日、佳奈さんのスマホで聴かせてもらったプレイリストとは違うのだろうけど、あのとき、佳奈さんの親切か気まぐれかでほとんど初めて聴いた流行りの音楽たちへの新鮮さや高揚は変わらない。たぶんそのとき聴いた曲を、佳奈さんはカラオケで歌ったはずだ。確かではないけれど。

 何をしていても、思い返すのは佳奈さんのことばかりだ。思うほど甘くない声で、僕を一臣と呼ぶ。年齢より幼い顔で大口を開けて笑ったかと思えば、年相応の笑みを見せたりする。若鹿のように健やかで伸びやかな手足。健全な空気感。そのくせ町に溶け込んでゆく後ろ姿。明るい言葉が並ぶメッセージ。お気に入りらしいうさぎのスタンプ。

 僕は、佳奈さんのことを全然知らないな、と思った。

 直接会ったのはたったの二度。やりとりするメッセージはいつも他愛のないもの。それから寝る前や起きたときの挨拶。たったそれだけ。

 十九歳、この町に来てまだ二年。デリヘル嬢をやっていて、結構人気があると本人は言う。それからカラオケによく行く。あとフラペチーノが好き。それを写真に撮るのも好き。

 これだけだ。僕が佳奈さんについて知っているのは。

 それで充分だと思う気持ちと、たったそれだけでどうしてこんなに好きになれるのかという気持ちがないまぜになって、僕を不安にさせる。なにもない荒野にひとりぼっちで立っているような、確かなものがなにもない寄る辺ない気持ちにさせる。

 膝を抱える。ようやっと冷房が効いてきて滲んでいた汗がひいていく。

 僕は一刻も早く佳奈さんに会いたくなっていた。会って、質問攻めにしたかった。どうして僕の相手をしているんですか? どうしてこの町に来たんですか? どうしてデリヘル嬢をやっているんですか? 辞めたくなりませんか? この町に来るまで、どこでどうやって生きてきたんですか? 家族はいますか? どんな人たちですか? どんなふうに育てられましたか?

 何が「充分」だ。僕は思う。こんなにも知りたいことで溢れている。ただ佳奈さんが口を閉ざしてしまうのが怖くて触れられなかっただけだ。嫌われるのが怖くて踏み込めなかっただけだ。それを、すでにこれだけ好きなのだからと、ごまかしてきただけだ。

 僕は臆病だ。キヨくんのように、まっすぐ正面からぶつかっていく勇気がない。だからメッセージのやりとりはいつも他愛のないもので終始したし、佳奈さんの気持ちもわからないままだし、こんなにも知らないことだらけだった。

 もっと知りたい、という気持ちを認めるのが怖い。それには際限がない気がする。いつまでもどこまでも知りたいと思って、その衝動のままに佳奈さんに踏み込んで荒らして、嫌われてしまうのではないか。もっと知ってほしいと思って、余計なことを口にするのではないか。それが佳奈さんの逆鱗に触れないとも限らないのに。

 相手に一歩踏み込むことは、そのぶんリスクを負うことだ。嫌われるかもしれない、嫌がられるかもしれない。そんなリスク。今までどおり表面だけ愛でていれば、そんなリスクは侵さなくて済む。

 だけど僕は、知りたいと思っていることを、知ってほしいと思っていることを、知覚してしまった。どれだけ認めたくなくても、ここにあることを理解してしまった。

 付き合いたいとか、そういうことはまだわからない。ただ僕は「そこ」にいる。知りたい、知ってほしいというところに。

 それだけが今の僕の真実で、言葉として理解できる部分だった。

「うお、どうしたんだよ」

 膝に顔をうずめて蹲る僕を見て、目を覚ましたばかりのキヨくんがかすれた声で言う。

「まだ行かなくていいのか?」

 僕はそれにうまく返事ができなかった。流れる音楽で聞こえなかったわけではない。声がでなかった。苦しみが喉につまっているみたいに声が塞がれて、呼吸が引きつる。

 ここまで自覚しておきながら僕は、実際佳奈さんに会ったときに何かを訊ねられるかどうか自信がなかった。また臆病風に吹かれて、表面ばかりを愛でて逃げようとするのかもしれない。そんなの、結局後々苦しくなるばかりだとわかっているのに。気持ちが募るばかりだとわかっているのに。

「こわい」

「え?」

「こわいんだよ……」

 僕は怖かった。この期に及んで佳奈さんの笑顔が曇るかもしれないことが、恐ろしくて仕方なかった。

「どうしたんだよ、イチ。大丈夫か?」

 キヨくんがベッドから下りてきて、僕の肩に触れる。その心配そうな声色に僕は縋り付きたくなる。けれど僕は強く膝を抱きかかえた。

「僕は臆病だ。キヨくんみたいに素直に訊けない。知りたいことを知りたいと言えない。だって佳奈さんに嫌われるかもしれない。疎ましがられるかもしれない」

「何の話だ?」

 僕は勢いよく顔を上げる。カーテンを閉めたままの薄明るい部屋の中で、僕の気持ちだけが重たく沈み込んでいた。

 キヨくんは寝癖のついた髪をかきあげながら、よくわからないといった顔をしている。

「全然、何も、充分なんかじゃなかったんだよ。僕は佳奈さんのことがもっと知りたい。なんでも、全部知りたい。僕のことを知ってほしい。本当は知りたいし知ってほしかった。それを見ないふりしてきたんだ。でも僕はもう見てしまったんだよ、このままじゃ嫌だってことを。でも怖いんだ。踏み込んで、佳奈さんの笑顔が曇ったらどうしよう。どうして相手をしてくれてるのかもわからないのに、むやみに踏み込むのは嫌ってくれと言っているようなものじゃない? 嫌われたらどうしよう。でもこの気持ちから逃げ切ることはもうできないんだ」

 僕は、よくわからないといった顔をしたままのキヨくんに訴えかけた。キヨくんは根気強く聞いてくれる。

 キヨくん相手なら、こんなにも言いたいことを言えるのに。嫌われるなんて思いもしないのに。

 佳奈さんだけが僕の特別な場所に存在しているのだ。それはきっと恋という椅子で、彼女はそこに堂々と座っている。いつだってあなたの元を去ることができるという顔をして。そのときは、僕がどれだけここにいてと懇願しても、彼女は聞き入れてくれない。あの日の別れ際みたいにあっさりと去っていってしまう。僕の想いで癒着した僕の一部を頓着なく引きちぎって持っていってしまう。

 そうして僕は、彼女を失う。

「イチ、落ち着けよ。大丈夫、おまえはいいやつなんだから誰も嫌ったりしねえよ。考えすぎんな。案ずるより産むが易し? とか言うだろ? 知りたいなら知りたいって言って、ひとつずつ訊けばいいんだよ。そうやって少しずつ近づいていくんだよ。それだけのことだよ、怖いことなんかない」

 僕の肩を撫でるキヨくんの声は、なだめるように優しくて、言葉よりその声音に少しずつ落ち着きを取り戻していく。

「その佳奈って人のこと、俺は知らねえけど、自分からおまえをかまってるんだろ? 多少なりとも気に入ってるからそうしてるんだよ。そんな簡単に嫌んなりそうな相手、最初から近づかねえよ。心配しすぎだ、大丈夫」

「うん」

「おまえが特別臆病ってこともねえし。誰だって好きな相手には弱腰になるもんだ」

「うん」

「おまえはたぶん今まで、好きなやつと関わったことがねえんだろ。ちょっと方法がわかんなかっただけだ。そんなに考え込まなくていいよ」

「……うん」

 キヨくんの、大丈夫、大丈夫と撫でるような言葉の数々。

 僕は、あらゆる瞬間のことを流れるように思い出していた。

 友達になれそうだった子たちの誘いを、僕が勉強を理由に断ると、初めは同情の強かったまなざしからやがて色が抜けていく。透明な視線が、僕を通り抜けていく。僕はその子たちの中で透明になって消えていく。そうして疎遠になるのだ。

 その透明な視線が、僕は本当はとてもつらかった。まだ好きになれそうという段階の相手でも胸が潰れるように痛かったのに。

 そんなことは今までの人生でいくつもあって、そうやって相手の中で僕が透明になるところを何度も見てきて、それらのまなざしが佳奈さんの笑顔と重なってしまった。佳奈さんの僕を見る瞳から色が抜け、透明になり、僕が消えていく。それをありありと思い浮かべられてしまったのだ。

 その恐怖に、僕はつかまってしまった。

 けれどキヨくんの撫でるような言葉に、気持ちは少しずつ落ちついていく。

 僕を透明にする佳奈さんの瞳は頭から消えてはくれない。けれど、考えすぎだということもわかってくる。恐怖につかまって取り乱した僕に、キヨくんは大丈夫と言ってくれた。

 そういえば、初めて出会ったときのキヨくんの瞳も、僕を透明にするものだったことを思い出す。けれど打ち明け話をしてからはキヨくんの瞳に僕が映り、僕はそこに存在することを実感した。今ではどうしてそこまでと思うほど、親切にしてくれる。持ち合わせのお金から家賃を半分払うと言ったのに、そうしたらイチの所持金がほとんどなくなってしまうからと、掃除と洗濯をするだけで部屋に住まわせてくれている。町のいろんなところに連れて行ってくれる。ジュイエの仕事も紹介してくれた。キヨくんの顔の広さで、友達と呼べるような知り合いもできた。

 僕はこの町に来てからの短い時間で、キヨくんをもっとも信頼するようになっていた。

 そのキヨくんが大丈夫と言うのだ。怖くない、考え込まなくていいと言うのだ。だから僕はほとんど無条件に、がんじがらめになった恐怖から解放されつつあった。

「ごめん、キヨくん」

「いや、謝る必要はねえけど、もう平気か?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 そうか、とキヨくんはほっとしたようにつぶやいて、表情を明るいものにした。

 ひょっとしたら、キヨくんは取り乱した人間というものに慣れているのかもしれない。この町には本当にいろんな人がいるから。狂乱したように道路を走り抜ける人もいるし、酔っぱらって前後不覚になって叫び声をあげ続ける人もいる。キヨくんは今、キャバクラで働いていて、いつも酔っ払いを相手に仕事をしているのだから人をなだめる手段をよく知っていてもおかしくない。僕が取り乱した程度で慌てるキヨくんではないのかもしれない。

 けれど、落ちついてみると恥ずかしさがわいて出てくる。

 僕はなんだかいたたまれなくなって、もう一度ごめんねと告げてから立ち上がってカーテンを開けた。雲のかかった太陽が、それでも眩しく部屋を照らし出す。とても暗いところまで落ちていた僕を、引き上げるように明るい。

 なにも怖くない、というわけではない。僕はたしかに今まで何度も透明にされてきた。だからまた、と思わないではない。

 けれどキヨくんの言葉と、夏の馬鹿みたいな明るさに、僕は今掬い上げられていた。佳奈さんと向かい合うちからが甦ってきていた。

 僕が、大丈夫、そう思って窓の外を見ていると、いつもと変わりない少し間延びした声が洗面所から届いた。

「イチー、洗濯機回すかー?」

 その何気なさがどれだけ今の僕の救いになることか。

 

 待ち合わせ場所は前回と同じコーヒーショップだった。僕は佳奈さんを真似てフラペチーノを注文してみる。クリームのたっぷり載ったそれは重みがあって

、飲み物というよりデザートという感じだった。

 賑やかで涼しい店内はやはり混んでいて、けれど運良く二人がけのテーブルが空いているのを見つけて腰をかけた。テーブルにフラペチーノを置いて写真を撮る。それを佳奈さんに送ってから、フラペチーノをぐちゃぐちゃにかき混ぜて飲んだ。甘くて頭が痛くなるほど冷たくて、真夏のための飲み物だと思った。

 佳奈さんからメッセージが返ってくる。

『フラペチーノデビューじゃん! もうすぐ着くからね』

 そしていつものうさぎのスタンプがおどけた顔をして画面に現れる。どういう意味なんだろうと思って少し笑ってしまう。

 緊張していた。まだ怖くもあった。けれどもう大丈夫。僕は今、キヨくんの言葉たちを縋るように信じていて、佳奈さんはきっと僕を透明にはしないだろうと思えていた。案ずるより産むが易しだ。僕はもう、恐怖にとらわれたりしない。

 フラペチーノを吸いながら窓の外を眺めていると、

「お待たせー」

 背後から佳奈さんの声がした。

 僕は外を歩いてくる佳奈さんを見るつもりで窓の外を眺めていたのに、いつの間にか佳奈さんは店内にいて、注文も済ませて、僕の後ろに立っていた。人の多さに見逃してしまったのだろう。僕はびっくりして手にしていたスマホをテーブルに取り落とす。

「お、大丈夫? カバーとかつけないの?」

 佳奈さんは言いながら僕の向かいの席に座る。今日は白いサマーニットにベージュのさらさらしたロングスカート姿で、少し大人っぽい。

 佳奈さんの目が見られず、もてあそぶスマホに目を落とす。

「スマホカバー、つけたことないです」

「マジー? 落としたとき一応保護にもなるし、見た目も変わるから楽しいしおすすめだよ」

 佳奈さんは主にオレンジ色をしたフラペチーノの写真を撮り、それから飲み始めた。僕みたいにぐちゃぐちゃにかき混ぜたりはしない。そうなると最後にクリームだけ残ったりしないのかな、と少し気になったけれど、くだらない質問だなと思って訊ねなかった。

「じゃあ今日は駅向こうにスマホカバー探しに行こうか? 電器屋にも雑貨屋にもあると思うし、探し甲斐あるよお」

 はい、と一言返事をして、僕はゆっくり視線をあげた。

 太いストローを口に運ぶ佳奈さん。その童顔は、やけに丸っこい目のせいもあるんじゃないのかなとぼんやり思う。それから高いところでくくったポニーテール。僕は佳奈さんのそういうパーツひとつひとつを好んでいるわけじゃなくて、彼女を作り上げる空気感みたいなものに惹きつけられるので、あまり顔貌を強く意識したことはなかった。

 僕はその丸っこい瞳を見て、すっと息を吸い、口を開く。

「佳奈さんは、僕と話したり遊んだりして楽しいですか」

「え? 楽しいよ」

 あっさりと、そんな当然のことどうして訊くのかというトーンで返される。何かごまかしていたり、嘘をついていたりというふうには感じなかったので、肩透かしを食らった気分になった。と同時に、気持ちが楽になる。両手でフラペチーノのカップを包んだら冷たくて、冷静にもなった。怖くない、と思った。ただ、視線だけが落ちていく。僕の疑問の暗さに耐えかねるように。

「……どうして、僕の相手をしてくれるんですか。僕はまだ中学生で、佳奈さんの年齢の人は中学生と一緒にいて楽しめるものなんでしょうか」

 少しの沈黙が漂う。

 店の賑やかさが耳に甦ってきて、僕は別に今佳奈さんとふたりきりではないんだという当たり前のことを思い出す。

「あー……そうだね」

 やがて口を開いた佳奈さんには、苦笑が浮かんでいた。ずっと口元に運んでいたカップをテーブルに戻して、けれど手だけはカップから離れないまま冷えていく。ゆっくりと落ちる視線。

「そりゃまあ、不思議か。そうだよね。大した話じゃないんだけどさ」

 言って佳奈さんは、僕に向かって苦く笑ってみせた。

「弟がいたの。もうずっと前に死んじゃったんだけど。何年前かな? 弟はそのとき七歳でさ。生きてたらちょうど一臣と同じ年くらい。だからかな、一臣と出会ったとき、ああ懐かしいなってなんでか思っちゃったんだよね。十五の一臣を見て懐かしいと思うなんておかしな話だけど、あたしの中で弟はひそかにずっと成長してて、ひさしぶりに会ったような気になったの。似てるかっていったら、そんなに似てないとは思うんだけど。でも、なんていうか、一臣が弟のように思える」

 佳奈さんの笑みが自嘲的なものに変わる。

「ごめんね、見も知らぬ死人を重ねられてるなんて良い気分しないよね」

 佳奈さんはそう言って謝るけれど、僕は弟という言葉でかえって腑に落ちた気がしていた。理由が理解できる範囲に入ってきたからだ。遊ばれているとか営業だとか言われるよりずっと、理解できる理由だった。理解ができればそれはもう恐怖の対象ではない。

 僕は頭を振った。

「謝らないでください。僕は気にしないし、それがもし佳奈さんの慰めになってるなら嬉しいし、こうして佳奈さんが仲良くしてくれるのはもっと嬉しいです」

「一臣……」

 佳奈さんは悲しみをこらえるような、けれどどこかほっとしてもいるような表情をした。そして慈愛が溢れ出してきそうな瞳を細めて言うのだった。

「あんたは優しい子だね。どうか幸せになるんだよ」

 それは祈りだった。本当は弟へ向けられるはずだっただろう、祈り。

 そんな大切なものを受け取って、僕はただただ切実に願う。佳奈さんこそが、幸せになるべき人だ。佳奈さんの願いが全て叶って、悲しいことも苦しいことも目の前の道からなくなって。ずっと笑っていてほしい。

 僕の思い描く幸せの形なんて、そんなものだ。本当の幸せがなにかもわからない。だからただ目の前にいるこの人が、これ以上つらい思いをしないよう、僕には願うことしかできなかった。

 毎日毎日、その一瞬一瞬を佳奈さんが嬉しいこと、楽しいこと、喜ぶことで満ちていくこと。たぶんその瞬間が重なっていくことを幸せと呼ぶのではないだろうか。

 佳奈さんが本当に幸せになってほしかった弟。たった七歳でこの世を去った弟。彼のその短い生涯はどんなものだったのだろう。少しでも幸せだったのだろうか。佳奈さんがこんなふうに祈る、過ぎ去った人生。

「あの、弟さんはどうして……」

 少しためらってから問いかけると、佳奈さんもためらうようにフラペチーノのカップを握りしめて、それからゆっくりとそれを飲み込んだ。

 僕らはこの賑やかな店内で、静かに佇む川の中の岩みたいだった。ずっしりと重く、そこに腰を落ち着けて、なにも寄せ付けない。すべて周りを流れていってしまう。

 佳奈さんは何度かフラペチーノを飲み込んで、それからまた苦く笑った。

「おもしろい話じゃないけど……あたしと弟、虐待されてたのね。それでたまたまあたしだけが生き延びて、弟は運悪く死んじゃったってだけ」

「そんな――」

「ごめん、こんな話楽しくないよね! せっかく遊ぶんだから笑って、ほら、一臣」

 僕が言葉につまっていると、佳奈さんは気を取り直すようにぱっと笑顔になって、僕の頬を指でぐいっと持ち上げた。

 佳奈さんはなにも悪くない。謝る必要なんかどこにもない。

 けれどそれすら言わせてくれない勢いで佳奈さんは話し続けた。

「あたし実はひさしぶりに連休取ったの! 今日と明日と明後日お休み。営業もしないからほんと暇持て余してんだー。あ、営業って仕事外でお客さんと会うことなんだけど。それもなし。超時間ある。だから明日は友達と遊ぶ約束入ってるけど、まず最初は一臣かなーと思ってさ、誘ったの。どう? うれしい?」

「はい」

「うれしくなさそー。テンションあげてこ! ほら、フラペチーノだよ、飲んで飲んで」

 佳奈さんが僕の手にしたフラペチーノのカップを取り上げて、ストローを口元に押し当ててくる。僕はその勢いに、鳥の雛みたいになってストローを口に含んだ。シャリシャリとした食感がして、やっぱり飲み物と言い切るには違和感があるなと思う。

「フラペチーノデビュー、どう?」

 僕にフラペチーノを飲ませている佳奈さんが問う。

「甘くて冷たくておいしいです。でも飲み物とは違うものっていう感じがする」

「あー、どっちかというとスイーツっぽいよね。でもおいしいでしょ。見た目もいいし」

 はい、と答えると、佳奈さんは喜々としてフラペチーノについて話してくれた。種類がたくさんあること、限られた店にしかない商品もあること、期間限定商品がしょっちゅう出ること。そしてお値段はそこそこするということ。

「たしかに僕も買うときちょっと高いなって思いました」

「だよね。あれ、一臣ってまだお給料出てない?」

「まだです」

「じゃあ奮発したねー! スマホカバーもピンキリだから財布と相談しつつ探そう」

 佳奈さんはもうすっかり元気を取り戻したかに見える。

 話したくないことを話させたかな、と思うけれど、佳奈さんはそのことで僕を疎んだりはしなかった。それどころか、大切な弟の代わりに幸せを祈ってもくれた。

 僕がとらわれた恐怖がただの杞憂であったことがわかって、そのことに関してはだいぶ安心できてはいた。ただ、つらい話をさせてしまった罪悪感がわずかに胸に引っかかっていた。

 佳奈さんは頭が悪かったのではなく、勉強に集中できる環境になかったから結果的に成績が良くなかったのかもしれないし、早く家を出たくて成績も学歴も経歴なにも関係ない風俗嬢になったのかもしれない。

 こんなのはただの推測だし、もっと他の理由があるのかもしれなかった。だからそれを訊ねればきっと答えてくれるのだろうけど、もう佳奈さんに悲しい顔をさせたくなくて、それに佳奈さん自身も明るくありたいみたいだから、訊くのはやめた。なんでも知りたいと思っていたし、思っているけれど、佳奈さんを悲しくさせてまで詮索したいわけではない。そのことを自覚する。

 僕たちはそれから、スマホでやりとりするような他愛のない雑談をしながら、フラペチーノを飲み干した。店の冷房と相まって、体の隅々まで冷えた気がする。今はいいけれど、外に出たら温度差に体がびっくりするのではないだろうか。

 相変わらず雨の降らない日々は続き、建物も道路も空気もなにもかもが熱を溜めこみ、冷める気配がない。灼熱の町。狂乱の町。僕が夏に来たせいか、この町には真夏がよく似合う、と僕は思った。

 店を出ると、途端に鉄板のうえで蒸し焼きにされているような熱に襲われる。早くも汗が滲み出す。

「毎日毎日暑いねー」

 佳奈さんが空を見上げる。

 大きな雲が太陽を遮って町を影で包むけれど、その熱は変わらない。光と影をくりかえしながらも、町は普段どおり賑やかに混み合っている。昼間の町は夜に比べて地味だけれど、賑やかで自由なのはどちらも同じだ。

 駅前の短い横断歩道を渡って、駅を抜けていく。

 駅中にも商業施設があるけれど、惣菜と衣料品を扱う店が多い。その中に最近できたばかりのサラダ専門店が今のお気に入りだと佳奈さんは言った。

 交番の前も通り過ぎ、駅を抜ける。

 そこは「人間のゴミ捨て場」とは空気が全然違う。ただ駅舎ひとつ挟んだだけで、こんなに変わるものなのかと驚くほど、言ってしまえばどこにでもあるような駅前空間だった。背の高い商業施設が集まって、それを目当てに人も集まってくる。清潔で真っ当な感じがする。僕はあまりこちらがわに来たことがない。

「佳奈さんはよくこっちには来るんですか?」

「引っ越してきたての頃はこっちばっかり来てたよ。向こう、どこで何が売ってるのか全然わかんなかったし。こういう普通の感じに慣れてたし。今はどうしても新品のものをこの目で確認して買いたい、ってときに来るくらいかなあ」

「僕も全然来ないです。友達が町に詳しい人でいろいろ教えてもらえたから」

「ああ、一緒に住んでるって子?」

 僕は頷く。

 中学生の僕よりずいぶん背の低い佳奈さんが隣を歩いている。クラスの女子たちよりも少し低いくらいかもしれない。

 胸がふわふわと浮かんでいきそうなのがわかる。部屋を出る前、一体何をそんなに怖がっていたのかもうわからないくらい、気分が浮ついていた。

 佳奈さんは僕で遊んでいたわけでもなかったし、気の長い営業をしていたわけでもなかったし、問いかけに悲しい顔はしたけれど疎ましがったりはしなかった。案ずるより産むが易し、だ。こうして本人を前にしていると、踏み込んでいい部分かどうかは考えているだけのときよりずっとわかる。

 僕はきっと、スマホでやりとりをしながら、本当はずっと直接会って話したかったのだ。もちろんスマホで雑談をすることで満たされたのは確かだし、僕はいつだって佳奈さんからのメッセージを待っていた。

 でも次から次へと、もっとこうしたい、という気持ちがどこからともなくやってくるのだ。満たされているにも関わらず、そうじゃない、まだ足りないとみっともなく喚く自分がいる。そういう自分を見たくなくて、僕はいつも目をそらしては何もわからなくなって、想像ばかりが膨らんでは怖がっている。

 キヨくんは、好きな相手には誰だって弱くなると言ってくれたけれど、僕は人間としてとても弱いと思う。自分自身と向き合うこともできず、目をそらしてばかりだ。強くなりたい。いつか僕が佳奈さんと付き合いたいと感じる日が来たとして、そのときたとえ彼女がまだ僕を弟のように思っていたとしても、それから目をそらさずに見つめたい。受け入れたい。怖がったりせず、ただ見つめたい。

 僕は隣を行く佳奈さんの歩く速度を意識しながら、強くなりたい、と思った。

 

 僕たちはまず駅の出口から近い電器屋に入った。大きな音でくりかえし流れ続ける電器屋のテーマ曲とアナウンス。効きすぎた冷房と、長袖を着る店員さん。お客さんたちはお目当てのものを探して、じっくりと商品と商品の間を通り抜けていく。

 案内板を見るまでもなく、入ってすぐの一階にスマホ関連の商品がずらりと並んでいた。エスカレーターの手前に契約カウンターが長く伸びて、ちらほらとお客さんが座っている。

 商品棚の間をうろちょろとして、ようやくスマホカバーのコーナーを見つけた。通路を挟むように両側の商品棚が様々なスマホカバーで埋め尽くされている。

「こういう手帳みたいなのとか、あと普通にはめるだけのやつとかあるよ」

 佳奈さんがほらと言って自分のスマホをバッグから取り出す。佳奈さんのものは透明のカバーでストラップがつけられるようになっていた。ピンク色のスマホがそのまま見えていて、小さなプラスチックのリボンが並んだストラップがぶら下がっている。

「はめるやつは機種に合ってないとだめだけど、手帳はどれでも大丈夫なのが多いかな」

「手帳のやつ、結構値段しますね」

 僕は値札を見てびっくりする。なるべく驚いた感じを出さないように言ったけれど、うまくいったかはわからない。

「そうだねー。あと、ほら見て、写真撮りにくかったりする」

「どっちにしろやっぱり機種に合ったやつのほうがいいってことですね」

「一臣、機種は?」

 僕はスマホをポケットから取り出して佳奈さんに手渡す。

「ああ、これならいろんな種類あるんじゃないかな。どこだろ」

 背を屈めながら、商品棚を眺めていく佳奈さんについて歩く。

 僕としては値段のこともあるけれど、スマホを使うたび蓋を開かないといけない手帳型はちょっとめんどうくさいかなと考えていた。

「あった、この辺」

 佳奈さんが僕の機種に合うカバーの並ぶ区画を見つけてくれて、ふたりで屈み込んで商品をひとつひとつ見ていく。手帳型は模様が豊富で、はめる型は形や色が豊富だった。カバーの上部からうさぎの耳が伸びているものもある。じゃまにならないのかな、と僕は思う。

 僕はぎっしりと並ぶ商品の中から、もっともシンプルなものを選ぶつもりだった。安いというものあるけれど、単純にごてごてしていないほうが好きだなと思ったからだ。

「佳奈さん、何色が好きですか?」

 訊ねると、少し不思議そうにしながら佳奈さんは答えてくれた。

「白かピンクかな」

「じゃあこの白いやつにします」

 シンプルな商品の中でもさらにシンプルな白いカバー。僕はそれを手にとって佳奈さんに見せた。

「え? それでいいの? なんか、何の面白みもないけど」

「はい。それで、シールを貼るんです。たくさん貼ってもいいし、一枚だけでもいいし」

 僕が言うと、佳奈さんの顔色がぱあっと明るくなった。

「えー! それすごい良いじゃん! めっちゃデコろう」

「あ、めっちゃデコるまではしなくてもいいんですけど……」

「良いこと考えるねー。じゃあ買っちゃって、シール探しに行こ」

 うきうきとした様子の佳奈さんはそれから何を思ったのか僕の誕生日を訊いてくる。今、誕生日が何の関係があるのだろうと思いながら答えると、佳奈さんは僕の手からスマホカバーを取った。

「もう過ぎてるんだね。梅雨生まれかあ。じゃあ、これはプレゼントとしてあたしが買ってあげる。安物で悪いけど」

「え、そんな、いいですよ」

 僕は驚き、ぶんぶん手を振って断ろうとしたけれど、佳奈さんは引かなかった。いいからいいから、と言って僕の肩を叩き、レジ前に出来た列に並びに行ってしまう。

 僕はどこか呆然とした気持ちでそれをただ見送りながら、申し訳ないという思いと、佳奈さんからの贈り物という喜びで心がいっぱいになってしまった。

 たぶんスマホカバーの中で最安値のものだけれど、僕にとってはなにより大切なものになるだろうと思った。

 それから僕らは汗をかきながら少し歩いて、大型雑貨店に入った。

 今度こそ案内板を見て、シールを取り扱っている階にエスカレーターで一階一階上がっていく。

 そこでああだこうだ言いながら束になるほどのシールを購入して笑った。

 

 佳奈さんと夕飯を食べて部屋に戻ると、キヨくんが仕事へ行く支度をしているところだった。

「ただいま」

「おう、おかえり。どうだった?」

 仕事に行くとき、キヨくんはリノさんに合う確率が高いので(以前シフトを同じにしたくてリノさんに訊ねたら気持ち悪いと言われたらしい)、制服があるのに普段より小綺麗な格好をしていく。

 気軽な声で成果を訊くキヨくんは、黒いスキニーパンツに足を通している。

 僕はぽつりと言った。

「楽しかった」

「だろ? おまえは考えすぎなんだよ。頭良いとそうなっちまうのかね」

 よろめきながら言うキヨくんに、頭は良くないよと答える。

「ばっかだな、この町じゃイチの頭なんて上の上だぞ。中学もまともに行ってないやつなんてざらだからな」

 でも僕は家では、家系の中では落ちこぼれだった。勉強ができなければ意味がなかった。そしてここでは勉強ができても意味はない。キヨくんは純粋に褒めてくれているんだろうけれど、素直に受け止めることはできなかった。

 曖昧に微笑んで、佳奈さんに今日のお礼をしようとスマホを取り出す。つけたばかりの新しいスマホカバーがまだ手に馴染まない。

 するとキヨくんが目ざとくそれに気がついた。

「お? スマホカバー買ったの?」

「うん。佳奈さんと選んだ」

「へえ、いいじゃん。見せて」

 手を差し出されて、そこにスマホを乗せる。キヨくんはそれをひっくり返してカバー側を見た。

「なにこれ、シール貼った?」

 うん、と頷いて、僕はかばんからシールの束を取り出してみせた。

「見て。この中から選んで貼ったんだ」

「なにその量!? えらいはしゃいだなあ」

 感心するように言うキヨくん。

 そう、僕たちはきっとはしゃいでいた。一緒にいると楽しかった。何をしていても楽しかった。佳奈さんの気持ちと僕の気持ちにずれはあるのだろうけれど、それでもお互い好意は持っていて、だからきっと何でも楽しかったのだ。

 白い無地のスマホカバーには、真ん中にひとつ、イルカのシールが貼ってあるだけ。これだけの量のシールを買ったのに、貼ったのはたったそれだけ。

 でも僕にとっては宝物だ。スマホカバーもシールの束も。

 じゃあ行ってくる、とキヨくんは部屋を出ていった。途端にしんとした部屋の中で、エアコンの音だけが鳴っている。

 僕はベッドに寄りかかって座り、シールを一枚一枚見ていった。かわいかったり面白かったり、きれいだったりするそれらは全部佳奈さんと選んだものだ。これいいね、これもいいね、と佳奈さんがうれしそうにする顔を思い出す。

 それから僕はシールの束を、僕の服や持ち物を片付ける用の衣装ケースにそっとしまった。そしてカバーからスマホをはずして、イルカのシールが貼られた面を写真に撮る。スマホをひっくり返せばいつでも見られるものだけれど、なんとなく今日の日付で記録を残しておきたかったのだ。撮った写真をお気に入り登録する。すごく充足した気分だ。

 僕は今とても満ち足りていて、普段ならジュイエに出かけていったりするのだけれど、今日はそんな気分にならなかった。ただとにかく静かに今日一日のことを思い返していたかった。

 いつもは眠るのは深夜だから、寝るにはまだ早い時間だったけれど、僕はさっさとシャワーを浴びて布団にもぐりこんだ。気分がまだ高揚しているのと、時間帯が早いせいで眠れる気がまったくしなかったけれど、僕はスマホを握りしめたまま電気を消した暗い部屋で目をつむった。エアコンも切ったので部屋は本格的に静まり返り、ときおり外からのわずかな音を拾う程度だ。その静けさの中で、僕の耳には佳奈さんの声が断片的に響いていた。

 弟の話をする声、スマホカバーを買うと言った声、シールを選んでいるときの楽しげな声、暑いと呟く声、どのシールを貼るか迷っている唸り声、夕飯なに食べたい? と訊ねる声、別れ際のまたねという声。

 何度も何度も反芻して、軽くなった頭の中に心地よく響いていく。

 人間は、最初に声から忘れていくそうだ。僕もずっとスマホでやりとりしているだけの間は、佳奈さんの声が思い出せなかった。しばらく会っていないと、顔でも姿形でも表情でもなく、声から忘れてしまう。だから僕は今ずっと響いている佳奈さんの声を刻み込むように聞いていた。出来ることなら、思い出せなくなる前にまた会いたい、と思いながら。

 静かな静かな浅い夜は、眠りから遠い僕を包んで優しく満たしていた。

 

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