第4話・町の御曹司

「いつもの」

「はい、かしこまりました」

 キノコちゃんはまたノートパソコンと向かいあって、指先で一心不乱にキーボードとテーブルを交互に叩いている。イライラしている様子だ。もう「いつもの」を三度注文している。キノコちゃんが「いつもの」を注文するのは、最初の一度だけの場合が多いのに今日は違った。ただアメリカンコーヒーを飲み続けている。

 僕は取ったオーダーをカウンターに持ち帰り、コーヒーをマスターに淹れてもらう。冷房のきいた店内。コーヒーからは白い湯気がたゆたっている。

「お待たせしました」

「ん」

 キノコちゃんのテーブルにアメリカンコーヒーを運べば、心ここにあらずの返事が返ってきた。

 僕はキノコちゃんがどんな文章を書いている人なのか知らない。どんな風俗で働いているのかも知らない。ただジュイエの常連で、最初の一杯を「いつもの」と注文して、それはアメリカンコーヒーのことで、ひたすらにノートパソコンと向き合っている姿しか知らない。

 最近、自分が何も知らないということがひどく悲しくなることがある。僕がこの人間のゴミ捨て場と呼ばれる町に来て数週間しか経っていないことが、もどかしく感じる。ここで生まれ育ってみたかった、と思う。そうしたらこんな疎外感を覚えずに済んだだろうに。

 カウンター内に戻ると、カウンター席に座っている常連の女の人とマスターとお姉さんが、クリーム爆弾の話をしていた。常連のお姉さんはアイスティーを飲んでいる。

「もうすっかりごぶさたよね」

「何だったんでしょうねえ、あれは。一週間くらい続いたかしら?」

「十日ほどでしたかね」

「結局犯人もわかってないしねー」

 常連の女の人は言いながらカウンターに頬杖をつく。

「でもあからさまに賛成派は引っ込んじゃったし、私としてはうれしいかな」

「うれしい、ですか?」

 僕が突然口を挟んでも、女の人は嫌な顔ひとつせず頷いた。

「うん。私は再開発なんてしてほしくないし。汚いところでしか生きられない生き物ってのもいるのよ。それを追い払ったところで存在はなかったことにはならない。どこか別の場所が代わりになるだけ。そうでしょ?」

「そうかもしれません」

「君はうれしくないの?」

 ただただ不思議そうに訊ねられて、僕は少し考えた。

 もちろんこの町がなくなるのはいやだ。ここへやってきてまだ短いけれど、僕はすでにこの町が好きだし、ここで出会った人々も好きだ。だからなくなってほしくない。再開発なんてされて、みんながばらばらになってしまうのはいやだ。

 だから再開発に賛成する人がいなくなるのはうれしいことなのかもしれない。僕にとっても良いことなのかもしれない。

 けれど、何かが引っかかるのだった。たとえ室内をクリームだらけにするだけのことだとしても、それは絶対に悪意からの行動だったし、脅しだった。それが一時的に町の空気をどこか慎重なものにさせた。そのことが、僕に素直にうれしいと言わせないのだ。

「……再開発がなくなるのなら、うれしいと思います」

「そうよねー。町の中で賛成だ反対だ言ってても、実際意味あるのかなってちょっと思うし」

「詳しく知りたくても、最近友哉くん来ないんですよね」

「あー、あの子ね。私は話したことないけど、ここよく来るの?」

「ちょくちょく。まあ、大学生ですからね、忙しいのかも。イチくんは会った?」

「いえ、最近は。でもこのあと、キヨくんと一緒に会う約束してて」

 そう言うと、常連の女の人は声を高くして身を乗り出した。

「うそー! 会うんだ! 詳しい話聞きたい。きみ、次いつシフト入ってる? そのときまた来ちゃおうかなあ」

 冗談交じりのその言葉に、みんな笑って和やかな空気になる。

 町はクリーム爆弾の悪意による慎重さをすでに失っていて、元通りの明るくて強くて猥雑で、やりたい放題な雰囲気を取り戻している。公権力はもうとっくに手を引いて我関せずだ。そのことを怖いと思ったこともあるけれど、喉元過ぎればというやつで、僕はまた単純にこの町を好きだと感じている。

 再開発計画。それを巡って町は動き出している。きっと誰もがそうなように、僕も詳しく知りたい。誰がこの町を変えようとしているのか、それを止めることはできるのか。そしてその答えを、友哉くんは持っているのか。

 僕は三人の会話と、キノコちゃんの叩くキーボードの音を聞きながら、お姉さんの洗う食器を丁寧に拭いた。

 

 ジュイエでの仕事が終わって、待ち合わせ場所へ向かうとすでにキヨくんと友哉くんが来ていた。場所は上り道側の路地の奥、古いラブホテルの隣にある洋食屋だ。以前、一度だけ来たことがあるけれど、そのとき頼んだグラタンがすごくおいしかった。今日は何を食べよう。

「おう、イチ」

「一臣、なんかひさしぶりだなー」

 キヨくんと友哉くんは四人がけの席に向かいあって座っていて、僕は少し迷ってから入り口に近いキヨくんの隣に座った。

 友哉くんは猫が目からビームを出している変なTシャツと穴あきだらけのジーンズを穿いていて、相変わらずのけだるい雰囲気でそこにいた。御曹司だとわかって見ても、理解が追いつかなかった。

 運ばれてきた水で喉を潤し、僕は友哉くんに声をかける。

「あの、なんか大きな会社の御曹司だって聞いた……」

 すると友哉くんは、だるそうなまぶたの下でゆっくりとうごく目をこちらに向けて「あー」と抑揚なくつぶやいた。

「そんなすごいもんじゃねえよ」

「僕のことお坊ちゃんって言ったのに、友哉くんのほうがお坊ちゃんだったんじゃない」

「育ちの話だよ。俺はまあたしかに家に金はあるけど、俺自身はクソガキみてえに育ってるから」

 おまえはそうじゃないだろ、と友哉くんは揶揄するように口の端を持ち上げる。

「御曹司っつっても、別にうちだけがでかい会社ってわけじゃねえしな。いくつもあるうちのひとつだよ」

「……そうなんだ?」

「そうだよ。んで、そのでかい会社同士が手ェ結んで、なんつーの? 町内会みたいなもん作ってる」

「へええ」

 すごく興味深い話で、僕は感心してしまった。偉い人たち同士で町内会を運営しているんだ。この町にも町内会のようなものがあるなんて考えたこともなかったし、おもしろい。町を身近に感じる。

 実家にも回覧板が回ってくるのを見たことがある。最初のページに読んだという署名をする小さな紙が挟まっていて、それを見るたび、うちもたくさんの家の中のひとつなのだと感じたものだ。それを隣の家へ持っていくのは家政婦さんだったけれど、この町にも回覧板はあるのだろうか。町内会で何を決めたり話したりしているのだろう。それとも僕が想像する町内会とは全然違うものなのかもしれない。何せ、この町のことだから。

「でも友哉くんとこ、その中でもでっけーほうじゃん。権力とか持ってんじゃねえの?」

「親父がやってることだからよく知らねーな。まあ親父が死んだら俺の番なんだろうけどさ」

「友哉くん、会社継ぐんだ!?」

 古着っぽい格好でちまちまと安酒を売り歩いている友哉くんが、大会社の社長なんてギャップがありすぎて全然イメージがわかない。驚いて声をあげると、友哉くんは当然のように言った。

「だから大学なんて行かされてんじゃん。俺、これでも結構まじめに勉強してんのよ?」

「そうなんだー……」

 僕は友哉くんを尊敬する気持ちと驚きとが入り混じって感動さえしていたけれど、一方で自分も実家で何も起こさずおとなしく過ごしていたら間違いなく大学に行っていたんだろうな、と今は見えなくなってしまった将来を思って少し暗い気持ちにもなってしまった。

 別に家を出てきたことを後悔しているわけじゃない。けれどゴミになったつもりでいても僕はやっぱり人間で、そうしたらこれからどうしたらいいのだろうという思いがわいてきて最近僕をひどく悩ませるのだ。

 この町ではみんなその日暮らしみたいな空気があるけれど、きっとそうじゃない。その日暮らしの筆頭みたいだった友哉くんは、実は会社を継ぐために大学に通っている。佳奈さんも、何か目的があってこの町にやってきてデリヘル嬢をやっているのかもしれない。みんなみんな、何か理由や目的や将来があるのかもしれない。何もないのは、僕だけなのかもしれない。

 そんなふうに思考が発展していって、僕は怖くなった。

「……キヨくんは、将来どうするの?」

 恐る恐る訊ねる。するとキヨくんは「え」と「あ」の中間みたいなまぬけな声を出して、切れ長の瞳を丸くした。

「どうもしねえけど?」

「あ、どうもしないんだ……」

「そりゃ俺だって、実家が大会社とかだったら大学行ってーとかするかもしれないけど、親も兄弟もいねえし。今はとりあえずリノさんと付き合いてえかな」

「それまだ言ってんのかよ」

 友哉くんがけらけら笑う。

 そうか。どうもしないのか。

 僕はほっとして肩の力が抜けた。キヨくんはこのまま、この町のあちこちで働いては辞めて、辞めては働いてをくりかえして生きていくんだ。理由とか目的とか将来とか、そういうものはなくて、ただこの町で生きているから生きていく。キヨくんはそういう人なんだ。

 けれど僕は安心するとともに、安心してしまったことに罪悪感を覚えた。どうしてかはわからない。それは何もない僕と同じだと、キヨくんも何もないのだと、思ってしまったのと同じことだからかもしれなかった。

「それよか早く注文しようぜ」

 僕の内心を知らないキヨくんは何も気にせずメニュー表を開く。

 僕は嫌なやつだな、と明るく親切なキヨくんを見て思う。最近こんなのばっかりな気がする。

 僕はため息を押し隠してメニュー表を覗き込んだ。古ぼけたメニュー表。僕はオムライスを選んで注文した。

 

 オムライス、エビピラフ、カレー。運ばれてきた料理を食べながら、キヨくんは本題ともいうべき話題を切り出した。この町の再開発計画のことだ。友哉くんなら詳しいだろうとあちこちで期待されている彼は、ここ数日町に姿を現していなかった。

「友哉くん、親父さんとかに再開発のこと何か聞いてねえの?」

 僕はどきどきしながらその答えを待つ。

 友哉くんはエビピラフをゆっくり飲み込んで、普段通りだるそうな声で言った。

「そりゃ聞いてるよ。俺の将来にも関わってくるんだし」

「どんな感じ?」

「うーん、まあ、何とか抑え込めるかなってところ。親父たちも必死だし、なんとかなるんじゃねえかな。心ん中で応援してやってくれよ」

「マジかー! よかった!」

 安心したようにキヨくんが声を上げて両腕を天に伸ばす。

 僕はちょっと疑問に思って訊いてみた。

「その町内会みたいな人たちはみんな再開発反対で一致してるの?」

「そりゃそうだろ。現状で地位とか権力とか持ってるやつらばっかりなんだから、何も変わってほしくねえんだよ」

「そっか。そうだよね」

「まあ、賛成派みたいに、開発後にそれなりの地位用意してもらう予定って可能性もありっちゃありだからな。油断はできねえだろうけど、基本大丈夫じゃねえのかな」

 友哉くんは言いながら窓の外を見やる。

「なんつーかさ。みんな結局好きなんだよ、このゴミ捨て場みてえな町が」

 そう言う友哉くんの表情が、遥か遠くを見ているようでどこか胸に迫る。

 この町でみんなに見守られながら生まれ育ったという友哉くん。みんな結局好きなんだよ、このゴミ捨て場みてえな町が。そう言い放った友哉くんこそが、もしかしたらこの町をいちばん好きなんじゃないだろうか。僕はそう思えてならなかった。

 悪く言えばゴミ溜め。けれど良く言えば懐が深い町。どんな人も受け入れてくれる町。きっと僕のように訳があってこの町へやってきた人間も多いのだろう。そんな人たちもここは無防備に受け入れてくれる。というより、放っておいてくれるというべきだろうか。何を持っていても持っていなくても、関係ない。そのままにしていてくれる。自治権が強く、たぶん裏側で大きなお金が動いている町。おかしな町。人間のゴミ捨て場。

 その有り様を、裏も表もひっくるめて、友哉くんは愛している気がした。そしてきっと友哉くんは町に愛されている。

 僕は、けだるい雰囲気がちょっとかっこよくて、気さくで親切なお兄さんと思っていた友哉くんの印象がこんなに変わったことに少し驚いていた。そしてますます、友哉くんはかっこいいんだと思うようになった。

 僕のような子供ひとりには、町を救う手助けにさえなれないだろうけれど、何かできたらいいなと思う。何かできる人になりたいなと思う。

 そんなことを考えながらオムライスを食べていると、ポケットに入っているスマホから通知音が聞こえた。はっとしてスマホを取り出す。食事中にスマホを触るなんて行儀の悪いこと、実家ではできなかった。この町に来て覚えたことだ。

 画面にはメッセージ通知が着ている。そこに表示されている佳奈さんという名前。なんとなく真摯な気持ちになっていたのが、ぱっと明るく浮かれる。気分の上下が激しくて酔いそうだ。

『これから仕事。応援して!』

 僕が佳奈さんの仕事を応援していいのかどうか迷うところだけれど、彼女がそう望むのなら応援しよう。

『僕は夕飯中です。お仕事がんばってください!』

 がんばってほしいのかよくわからないけれど、そう返信する。すぐにありがとうと笑ううさぎのスタンプが返ってくる。僕はただそれだけでうれしい。

 いたるくんは、とにかく些細な雑談から始めたら、と言ってくれたけれど、そうしてみて思ったのは、僕がそんな些細なやりとりだけでただうれしいということだった。彼女とどうなりたいとか、彼女の仕事のこととか余計なことが吹っ飛んで、ただただうれしい。今はこれでいいんだと思える。

「一臣、何にやにやしてんの?」

 もう普段通りのけだるい感じに戻ってカレーを食べている友哉くんが言った。

「えっ、僕そんな顔してた?」

「してたよ。なに? 女?」

 言葉にならない声が出る。友哉くんだって今にやにやしているくせにと言ってやりたいのに。

 するとキヨくんが楽しげに話しだした。

「イチ、好きな女がいるんだってよ! それがさあ、四つ年上のデリヘル嬢で、俺は無理めと見てるんだけどさ、友哉くんどう思う?」

「キヨくん! 僕、秘密の話だってあれだけ言ったよね!?」

「あ、そうだった、わりい」

 全然悪いと思ってなさそうなキヨくんが憎たらしい。この調子ならやっぱり、そのうち町中に僕の秘密は広まってしまうのではないのか。このおしゃべりのせいで。

 僕がスプーンを握りしめてキヨくんを睨んでいると、友哉くんが楽しげに言う。

「年上のデリヘル嬢に惚れるとか、やるなあ。一臣もだいぶこの町に染まってきたんじゃねえの?」

 その言葉がなんだかうれしくて、僕の機嫌はころっと良くなる。僕もようやく浮いた存在ではなくなってきたのだろうか。町に馴染んで溶け込む住人のひとりになれたのだろうか。

 けれど友哉くんは続ける。

「まあでも、四つ年上のデリヘル嬢かあ。一臣、今いくつだっけ?」

「十五」

「あー、厳しいなあ。キヨと同じくらい厳しい」

「俺は厳しくない! リノさんは無理じゃない!」

 キヨくんが抗議するけれど、友哉くんは相手にしない。僕のほうを見て、スプーンを振る。

「例えばさあ、二十と二十四ならいけるかなーって感じするけど、十五と十九はきついなーって感じすんじゃん」

「あと五年待たないとだめってこと?」

「例え話だよ。五年待ったって無理なときは無理だし。でも一臣は素直で擦れてないからなあ、遊ばれてんじゃね?」

「えー……」

「だから俺はさ、本人に直接訊けって言ってんだよ。なんで四つも年下の僕を相手してくれるんですかって。それがいちばん手っ取り早いだろ?」

 キヨくんが力説する。

 僕は秘密をぶちまけられた仕返しのつもりで言った。

「じゃあキヨくんはリノさんに直接訊いたの? なんで俺を相手してくれないのって」

「訊いたよ!」

「訊いたの!?」

「そりゃ訊くだろ! そしたら、キヨはかわいげがないからだめって……」

「無理なんじゃねえか」

 友哉くんが楽しげに笑う。

「かわいそうな無理めブラザーズに、今日は特別におごってやるよ」

「マジ? いいの?」

「いいよいいよ。かわいそうにな」

「憐れむなよ!」

 キヨくんが涙ぐんで訴えるのを、友哉くんはやっぱり楽しそうに笑って見ているのだった。

 大きな将来を背負っている友哉くんと、今のところ何も持っていない僕とキヨくんがこうして仲良く過ごせることを、僕はとても恵まれていることだと思った。

 同い年で、同じ教室に毎日つめこまれて顔を合わせているのに、僕にはずっと仲の良い友達はできなかった。それは僕が勉強のできない出来損ないだからだ。けれどここではそんなの関係なく、年齢も将来も今現在も関係なく仲の良い人ができる。僕がずっと欲しかったものだ。悩みはあれこれあるけれども、僕が今ここで、とても楽しいのは間違いがなかった。

 毎日毎日生きていて、一瞬一瞬が過ぎていく。積み重なっていく一瞬を、ひとつでも多く楽しいものにできれば、人は満たされていくのではないだろうか。僕はここで、この町で、それを可能にすることができる気がしていた。

 ご飯の良い匂いが混じり合う洋食店の窓からは、暮れていった太陽の名残が淡く雲に滲んでいるのが見えている。

 僕はうさぎのスタンプが押された画面を見る。文字入力バーに「すきです」とフリックして、すぐに消す。これを言ったらどうなるんだろう、と思って僕は次にどんな言葉を送ればいいのか、わからなくなってしまった。

 

 洋食屋を出ると、隣のラブホテルからタマとミケがちょうど飛び出してくるところだった。高い笑い声を上げながら走り出してくる。

「おお、おまえら、何してたんだ?」

 友哉くんが声をかけると、タマとミケは立ち止まって振り返った。

「寝てた!」

「あと、おにぎりもらった!」

「そうか、よかったな」

「うん!」

 元気に返事をして、ふたりは競うように走っては笑って路地を大通りへ向かっていく。どことなく薄汚れた服が、本当の野良猫を思い起こさせた。地域猫、と言ったジュイエのお姉さんの言葉を思い出す。

 この子たちは本当に町中どこにでも現れて、みんなの親切で生活しているのだ。きっと施設にいたほうが清潔を保てるし、ご飯も定期的に食べられるし、布団も用意されているのだから、楽なはずだ。けれどタマとミケと呼ばれる子供たちは、不確定な他人の親切によって生きようとする。そこにどんな理由があるのか、僕にはわからないけれど。

 僕は手にしていたスマホで、じゃれ合いながら走り去っていく彼らの後ろ姿の写真を撮る。少しぶれてしまったけれど、この町らしくて良い写真だと思う。大通りのネオンの眩しい光が、薄暗い路地に差し込んでふたりを明るく照らしている。

 僕たちも路地を出て、大通りに入ったところで友哉くんと別れた。

 この町に町内会みたいなものがあって、その人たちが今必死に再開発を止めようとしている。そしてそれはなんとかうまくいきそうだとわかって、僕はずいぶんほっとしていた。町のみんなもそれを知れば喜ぶだろう。

 賛成派はクリーム爆弾のおかげで鳴りを潜めてしまって、なんとなくもういないものとして見なされている気がする。でも、いないはずはない。町内会の人たちが、おそらく裏に表に手を尽くしているのと同じように、再開発されることで得をするはずの人たちも手を尽くしているはずだ。ただクリーム爆弾の悪意で表に出てこられなくなっただけで。

 でも僕は、楽観的な気分になっていた。友哉くんがなんとかなりそうと言ったのもあるし、この町は公権力に強い。そこに住人の反対がなく、後押しばかりがあれば、負けることはないだろうと思える。

 けれど同時に、僕が十五年間で培ってきた「正しさ」というものがその喜びに影をもたらす。

 この町は正しくない。歩道を埋める露店では海賊版のDVDなどが当たり前に売られ、十八歳未満でもその程度の年齢に見えれば身分証明の確認もなく風俗店やパチンコ店に入れる。僕も、十五歳の中学生だけれど働かせてもらっているし、時間帯が深夜に及ぶこともしょっちゅうだ。それらは法律に違反している。

 爆発するものがクリームだとしても、犯罪は犯罪なのに、警察は捜査を適当なところでやめて引っ込んでしまう。

 おそらく再開発計画をめぐるやり取りにも、大きなお金が動いたりしているんだろう。もちろんお金ではない何かも。

 それらの「正しくないこと」が積み重なって、影となる。

 僕は間違いなくこの町が好きだ。正しくないところも含めて、好きだ。

 正しいことを行いたくても行えない人というのは確実にいる。僕が、成績優秀であるべきだったのに、いろんなものを犠牲にして努力したけれどだめだったように、うまくできない人というのはいるのだ。僕はその人たちを責めたくない。だってただ、そうあるだけなのだ。良いとか悪いとかではなく、ただそういうふうにある。

 だからそんな人たちの受け皿になっているこの町は、絶対に必要な場所だ。正しさだけでは人は救えない。僕もそれはわかっている。

 けれど、ここではない場所で十五年間育った僕には、「正しさ」というものが身についていた。邪魔だな、と思う。実家で「正しさ」を持てなかった僕がそれにこだわるのは馬鹿な話だ。少しずつでもいいから、この馬鹿馬鹿しい「正しさ」というものを、僕から引き剥がしていきたい。そうすることで僕は、ようやくこの町の住人になれる気がするのだ。

 キヨくんに誘われて、古本屋に寄った。下り道側にある大きな雑居ビルの二階にある店で、僕たちは渋滞した車道を縫うように渡っていく。

 古本屋では、前にキヨくんが言っていたアニメの原作本をまとめ買いした。お金は折半して、そこそこの巻数があったので袋をふたつに分けてもらってひとつずつ持って帰った。

 今日はもう僕の仕事は終わっていたし、キヨくんは休みだったので、帰ってすぐ漫画を読み始める。最初に読む権利をキヨくんに渡して、僕はお風呂を掃除して入浴の準備を始めた。

 今日も空は晴れ渡り、太陽が町を焼いた。ただ外を歩くだけでふきだしてくる汗を早く流してしまいたかった。ついでに「正しさ」も流れてしまえ、と思う。洗えば洗うほど僕から「正しさ」が剥がれ落ちていき、この町に染まり汚れていく。将来への不安や悩みも流れていって、ただここで生きる人になる。なれるだろうか、と思いながら、僕はシャワーの温度を調節した。

 

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