第3話・恋をした
自分の両手を見ている。
その背景はピントがずれたようにぼんやりとしていて、けれど僕にはそれが家の階段だということがわかっている。赤いカーペットが敷き詰められた幅広の階段。
目の前から手を動かすことができない。その向こうには見たくないものがあるからだ。手が震えている。でも心は動かなかった。ただ静かに、終わりなんだなあと思っていた。
白っぽい天井が目に飛び込んでくる。ゆっくりと辺りを見回す。ローテーブル、使い古された大きなクッション、ベッド、そしてその上で眠るキヨくん。
そう、ここはキヨくんの部屋だ。
夢を見ていた。とてもリアルな夢で、思い出を深く味わうような夢だった。
額の汗を拭う。時計はまだ午前中をさしていて、僕にしては早めの目覚めだった。二度寝する気にもなれず、キヨくんを起こさないようそっと布団をたたむ。少し悩んでからエアコンを入れて、スマホを手にする。誰からの連絡もない。
スマホが今でも使えているということは、家のほうで料金が払われ続けているということだ。家にいらないものとなった僕のスマホの料金を払い続けることは、スマホの解約をするより楽ということなのだろうか。きっとそうなのだろう。それともスマホの解約には、僕しか知らないパスワードなんかが必要なんだっけ?
なんとなくスマホの暗い画面を眺めながら考えていると、ポコンという電子音とともにスマホの画面が明るくなって、メッセージアプリの通知が表示された。そこには佳奈さんの名前がある。待ちに待っていた出来事に心臓が跳ね上がって、僕はスマホを取り落しそうになる。慌ててスマホを取り直して、メッセージ画面を見る。
『今日休みなんだー』
『今時間あるから遊ばない?』
そしてかわいいうさぎのスタンプが首を傾げている。
僕は妙に緊張してどう返事をしていいやら、すぐには思いつかなかった。けれど既読はつけてしまっているので早く返信をしなければならない。佳奈さんを待たせるわけにはいかない。
『僕も暇です!』
そう返信してから、遊ぶって何をするんだろうと一瞬途方に暮れてしまった。
キヨくんといるときは、ジュイエで長居をしてお姉さんやマスター、お客さんたちと話をしたり、いろんな店につれていってもらってそこを冷やかしたりする。でも佳奈さんとはどうすればいいんだろう?
ジュイエに一緒に行くのは、なんだか気恥ずかしい。
頭を高速回転させて思いついたのは、駅前のコーヒーチェーン店だった。
『駅前のコーヒーショップに行きませんか?』
あそこならとりあえず、知り合いに会う確率はジュイエや行きつけの定食屋より低いだろうし、会ったとしてもそれらの場所よりなんというか気恥ずかしさが少ない気がする。相席して長居するということもないだろうし。
ほどなくして佳奈さんから返信が来る。
了解と告げるスタンプと、『じゃあ三十分後で大丈夫?』という返信。
僕はそれに『わかりました』と返すと、急いでシャワーを浴びて着替えた。キヨくんがその慌ただしさに唸りながら身動ぎをしたけれど、かまっている余裕はなかった。
店に入ると、夏の熱線の中を足早に歩いてきた汗がじんわりと引いていった。
店内を見回す。人が多く満席に近いけれど、佳奈さんはまだ来ていないようだった。僕はアイスコーヒーを注文して、ミルクふたつと砂糖を入れる。ブラックのままではまだ飲めない。いつかこのほろ苦さが嫌になって、ミルクも砂糖もいらないという日が来るのだろうか。その境界はどこにあるのだろう。
僕は佳奈さんにわかりやすいように、大通り側に向いた窓に沿った席に座った。
この町は今日もたくさんの人が行き交う。僕はいまだにこの町に馴染んだ存在ではないらしいけれど、いつになったら馴染むのだろう。それともこの町で育っていないからいつまで経っても馴染まないのだろうか。
たくさんのことの境界線がどこにあるのか、僕にはわからなかった。
でも僕はゴミではなくて人間なのだ、という気持ちはいまだ胸を焦がしていた。
いつ佳奈さんが姿を現すかと思うと、冷たいコーヒーもあまり喉を通らない。なぜこんなに緊張してしまうのだろう。それなのにあんなに連絡を待って、今また会いたいと思ってこの炎天下、足早にここまでやってきた。たくさん話したいことがあると思っていたけれど、こうしてみると何を話していいのかわからなくなってしまう。
連絡が来るだろうかと思って、手放さなかったスマホは、ひとつの音も鳴らさない。そろそろ約束の時間だ。催促するみたいでどうかと思ったけれど、僕はただ待つのに耐えられなくなってしまって、佳奈さんへ『窓際の席に座ってます』とメッセージを送った。既読が即つくことに心が浮き立つ。
『もう着くよー』
僕は顔を上げて窓の外をよくよく目を凝らして見た。もうその中に佳奈さんがいるかもしれない。スマホを握りしめていると、やがて人混みの中に光るものを見つけた、と思った。佳奈さんだった。夏の真っ白い日差しとはまったく違う、宝箱の中の宝石みたいな光り方をしていた。
佳奈さんは窓際に座る僕にすぐ気がついて、にこりと笑い手を振った。白いTシャツにデニムのホットパンツ姿の佳奈さんは、若鹿みたいに伸びやかな足を大股に動かして店へ入ってくる。
それを僕は振り返って見ていた。彼女が注文をするところも、ずっと。
ストーカーみたいかな、とやっぱり心配になる。けれど目が離せない。今日もポニーテールを揺らしている。その動きひとつも美しくて、佳奈さんはすごいと僕は思った。
佳奈さんは僕のアイスコーヒーとは違って、大きな容器にごてごてとクリームやソースがかかったカップを片手に、僕の席へとやってきた。
「おまたせ!」
低めで大きな声がよく響く。
「いえ、僕も来たばかりで」
「そっか、よかった。席移らない? ふたりで座れるところ」
確かに僕の席の両側は埋まっている。僕は頷いて、コーヒーを手に席を立った。気が利かなかったかな、と佳奈さんの後ろについて歩きながら不安になった。
テーブル席は空いていなかったけれど、壁に向かった席がふたつ並んで空いていたのでそこに座った。
「いやあ、暑い暑い」
佳奈さんはにこやかに言って、手にしたカップから勢いよく飲み物を飲んだ。僕は詳しくないけれど、それは看板商品のフラペチーノというものらしく、「写真撮るの忘れた!」と一気に飲み込んでから佳奈さんは嘆いた。
それから佳奈さんは僕を見た。
「一臣はなに飲んでんの?」
「あ、アイスコーヒーを」
「へえ、シンプル好み? ブラック?」
佳奈さんがカップを覗き込んでくる。
「ミルクふたつと砂糖……」
正直に答えると、佳奈さんは大口を開けて笑った。豪快なところのある人だ。この町に来てから夢の中みたいな現実感のなさがずっとあるけれど、佳奈さんといるとそれがさらにふわふわと増していくようだった。
「一臣っていくつなんだっけ?」
「十五です」
「中三?」
「一応」
一応ってなに、と佳奈さんが首を傾げたので、僕は家を飛び出してこの町にきて学校には行っていないのだということを説明した。今は夏休み中だけれど、このままだと行かずに二学期が始まることになる。
佳奈さんに自分のことを知ってもらうのは、なんだか心の浮き立つことだった。不登校というあまり名誉ではないことだとしても、なんだって聞いてほしいと思った。それと同じくらい、なんだって話してほしいとも思う。
「佳奈さんは十九なんですよね」
「うん。あたしは中学はちゃんと通ったよ。高校は行ってないけどね」
「そうなんですか?」
「馬鹿だったしさー。就職もできなくて、風俗できるようになるまではバイトしてたな」
ざわざわと賑やかな店内に、佳奈さんの声が響くような気がする。実際には僕の耳に響いているのかもしれない。けれど、騒がしい店の中で、佳奈さんの声だけがまっすぐくっきりと耳に届くのだ。
佳奈さんは僕のほうに体を向けて、頬杖をつきながらフラペチーノを飲んでいる。こんなに近くに並んで座っていて、僕は冷房のきいた店の中で汗をかきそうだ。
「あの、佳奈さんはこの町で育ったんですか?」
「ううん、別のとこ。十八になってから来たから、まだ二年?」
「えっ、そうなんですか!」
僕は驚いてコーヒーカップを握りつぶしそうになった。
「そんな驚くとこ?」
佳奈さんはくつくつと笑っている。
「だって佳奈さん、なんていうか、こんなにこの町に似合ってないのに全然浮いてないし馴染んで見えるから」
「えー、似合ってない?」
僕は勢いよく何度も頷いた。
「それって褒められてんのかなー。でもまあ、年齢より年下に見えるから?」
「年齢っていうより、佳奈さんの見た目が……その、うまく言えないんですけど、すごく健全というか……」
「あー、言いたいこと、わかったかも」
「ほんとですか」
「風俗やってそうに見えないってことでしょ。この町の女の人、半分以上は風俗だもんね。それっぽい空気まとってるの、わかるよ」
佳奈さんは目を細めた。
なんとなく僕の言いたいこととは違っている気がして、けれど風俗をしていそうにないように見えるのは確かで、僕は言葉を探してクリーム色になったコーヒーを見つめた。
僕が佳奈さんに感じるのは、その伸びやかな手足の健全さと媚びのない落ちついた声音のまっとうさ、若鹿のような健やかな空気感と真夏の太陽のような笑顔だ。風俗をしているとかしていないとか、それとは別の次元の話のような気がする。
でもそれをうまく伝えられなくて、僕は黙り込んでしまった。
「ごめんごめん、意地悪な言い方したね」
すると、佳奈さんが苦笑した。
僕は慌てて手を振る。
「いえ、違うんです、佳奈さんは悪くなくて」
「うん。なんか褒めてくれてるんだなっていうのは伝わったよ、ありがとね」
そう言って彼女は微笑んだ。そんなやわらかく微笑む佳奈さんを初めて見た。
僕の心臓がどきりと高鳴った。こんな顔もする人なんだ。それを僕に見せてくれるんだ。その顔は年相応に年上に見えた。この人はやっぱり十九歳なんだと僕に思い知らせる表情だった。高鳴った心臓が同時にすっと落ちていくような感覚がする。僕なんかただの子供にしか見えていないに違いない。そう感じたからだ。
「そういえば、これ飲んだらどうする? あたしまだ時間あるから遊べるよ」
佳奈さんが話を変えた。フラペチーノは半分ほどまで減っている。僕には他人と遊んだ経験が極端に少なくて、遊ぼうと言われてもなにをすればいいのかわからない。昔、友達の家でゲームをしたことがあるけれど、佳奈さんはゲームなんかしないだろうし、そもそも僕はゲーム機を持っていない。
「佳奈さんは普段なにをして遊んでるんですか?」
「あたし? そうだなあ、カラオケよく行くよ。あと友達とホスト行ったり、たまに駅向こうに買い物行ったりするかな」
駅を挟んで向こう側には商業ビルが立ち並んでいて、新品の服や家具、電気製品を買ったりするのにちょうどいい。この町にはあるのは大体、リサイクル品だから。
「僕、カラオケ行ったことないです」
そう言うと、佳奈さんは目を丸くした。
「マジ!? あたしが中学生のときなんて、毎週末のように行ったけどな」
まあ今もそんなに変わんないか、と佳奈さんは笑う。
「じゃあカラオケ行ってみる?」
「はい!」
僕は佳奈さんが行きたいならどこでもよかった。
「一臣なに歌うのー?」
「……音楽、あんまり聞かないです」
「え、そうなの? じゃあ歌えないじゃん」
「佳奈さんが歌うの、聴きたいので」
「なにそれ、照れる。じゃあ流行りの曲教えてあげるから聴いてみなよ」
そう言って佳奈さんはスマホと無線イヤホンをかばんから取り出して、イヤホンを僕の耳にはめてくれた。
「とりあえず流行のプレイリスト流そう」
佳奈さんが迷いなくスマホを操作する指先。真珠のように淡くきらめく爪に金色の丸い飾りが並んでいる。僕はそれを見ながらただきれいだなと思う。
すぐに音楽が流れ始めた。僕がこれを聴いている間、佳奈さんは暇ではないのだろうか。心配になったが、音楽は流したまま佳奈さんはスマホをいじっていた。
耳元では流行りだという曲が流れている。聞いたことのない男の人の声がゆったりとした曲を歌い上げる。複雑なメロディだな、と思う。
家にいたときは、クラシックくらいしか聴かせてもらえなかったけれど、僕はクラシックに興味が持てなかったので、音楽はほとんど聴かなかった。せいぜい音楽の授業で聴くオペラやミュージカル、合唱曲くらいだろうか。そういえばキヨくんも部屋で漫画を読みながらイヤホンをスマホにつないでいた気がする。音楽というものに意識が向いてなさすぎて、全然気にとめていなかった。
これからはいろいろ聴いてみようかな、と思う。佳奈さんにばかり歌わせるのはやっぱり不公平な気がするからだ。
僕が数曲聴いている間、佳奈さんはずっと退屈そうな顔でスマホをいじっていた。
初めて入ったカラオケの部屋は思ったより小さく暗かった。否が応でも佳奈さんの仕事のことを思い出してしまう。
僕でも一応、彼女の仕事がなんなのかわかってはいる。この町にいればそういうことにも詳しくなる。
けれど佳奈さんが仕事をしている姿というものが想像できなかった。今、僕の目の前でマイクとリモコンを準備している彼女は、どこまでも健やかな女の子だった。
変なの、と僕は思う。
どうして佳奈さんはこの町へ来たのだろう。仕事に風俗を選んだのだろう。
コーヒー店で聞けなかったことだ。全然佳奈さんには似合わない、けれど、だから人気があるのだという佳奈さん。胸の奥が焦げていく。
「言っとくけど、あたしそんなに歌うまくないよ」
二時間で取った薄暗い部屋の中、佳奈さんはリモコンを指先でタップしながら言う。それから「一臣、聴いてるだけじゃ暇すぎるでしょ」と部屋の隅に置いてあったタンバリンを手渡される。
「賑やかし役」
にっと笑って言う佳奈さん。
僕はそれをどう使うべきか迷ったけれど、すぐに流れ出した大音量の音楽に合わせて必死に叩いた。
佳奈さんはうまくないと言ったけれど、僕にはうまく聞こえる歌をうたいながら、何がおかしいのか笑っていた。
「あー、笑える」
一曲歌い終わって、マイクをテーブルに置き、いまだ笑いながら佳奈さんが言う。何がそんなに……? と思っていると、彼女は告げた。
「一臣、リズム感なさすぎ!」
どうやら音楽に触れる機会がなさすぎて、リズムというものが身についていないらしかった。けれど佳奈さんが本当に楽しそうに笑うから、僕はなにもかも全部どうでもよくなった。彼女が笑うだけで、僕はそれでいいのだ。
カラオケ店から出たら、ぎらついた太陽はやや西に傾き、それでも相変わらず真っ白に輝いていた。暑さも変わらず町を覆っている。がんがんに冷房をきかせた部屋から出てきたから、その暑さに辟易してしまう。
これからどうするのだろう、と思って佳奈さんのほうを見ると、彼女はスマホの画面をすばやくフリックしていた。なにか書いているのだろう。と、佳奈さんが顔を上げた。
「あたし、これから用事あるから今日はここで終わりにしよ」
僕はすっかり夕飯も一緒に食べる気でいたので、軽いショックを受けてしまった。
佳奈さんは続ける。
「遊んでくれてありがとね。また遊ぼ。適当に連絡ちょうだいね」
「あ、はい」
「じゃあまたね」
手を振り、人混みに紛れていこうとする佳奈さんを僕はとっさに呼び止めた。
「佳奈さん!」
「ん?」
「今日、楽しかったです!」
一瞬、ぽかんとした表情をした彼女はすぐに笑顔を見せた。容赦のない夏の光、人混みの中でその表情はやっぱりひどく宝物のように光っていて、僕はやっと気がついた。
ああ、僕はこの人が好きなのか。
「あたしも楽しかったよ、バイバイ」
今度こそ彼女は人波の中に紛れてすぐに見えなくなってしまった。その見えなくなった背中を、僕は流れの中の岩みたいに動かずしばらく見つめていた。
その日、ひさしぶりにクリーム爆弾の噂は聞かなかった。
僕は佳奈さんが好きなのだ。
メッセージアプリの佳奈さんからのメッセージを眺めながら思う。
キヨくんはコンビニで買ってきたお弁当を仕事前の腹ごしらえに食べている。テレビでは夕方のアニメが流れている。
「なあ、イチ、この原作漫画買おうぜ」
割り箸でテレビを差しながらキヨくんはなんにも考えていなさそうに言った。僕はうんとかすんとか曖昧な返答をしたと思う。心はここになくて、佳奈さんの働くデリヘル店の入り口にいた。中に入ったことはないから、心も入れない。
けれど今日は仕事は休みだと言っていたっけ。では用事とはなんだったのだろう。僕と遊んだのは、それまでの暇つぶしみたいなものだったのだろうか。だって彼女は四つも年上で、十九歳の女性が中学生の僕を本気で相手にするとは思えなかった。考えれば考えるほどそれは正しいように思えて、楽しかった今日がとてもむなしいものに感じられてくる。
けれども、僕は一体佳奈さんとどうなりたいのか、それはわからなかった。
佳奈さんがしている仕事についてもどうしても想像がつかないから、なんとなくもやもやするばかりだし、だいいち僕が佳奈さんの仕事についてどうこう言う立場にもないのだった。
佳奈さんが好きだ。
けれど、だからどうなるのだろう。
これからもときどき今日のように会って、それだけでいいような気もするし、むなしい気もする。
これからずっとこんな気持ちを抱えていくのだろうか。はっきりとしない、もやもやとした、けれど心が痛むような恋しい気持ちを。
それはつらいな、と思う。
恋とはこんなふうにつらくしんどいものなのだろうか。だとしたらいたるくんが彼女と別れたときは、もっとつらくしんどかったのではないだろうか。全然そんな態度は見せていなかったけれど。
ふと、いたるくんに話してみようかな、と思った。相談というほど具体的な内容ではないけれど、いたるくんなら真摯に聞いてくれそうだし、なにかアドバイスもくれるかもしれない。
思い立ったが吉日、僕はさっそくいたるくんにメッセージを送り、後日ジュイエで会う約束を取り付けたのだった。
当日、ジュイエに行ってくるねとキヨくんに言ったら、自分も行くと言ってきかなかった。できればいたるくんとふたりで話したかったから、キヨくんには遠慮してほしかったところなんだけれど、あんまり頑固に断るとかえって怪しまれるだろうし、僕は悩んだ末キヨくんの同行を了承した。彼はジュイエのハンバーグが食べたくて仕方ない気分だったんだ、と財布をポケットにつっこんだ。
僕はまだキヨくんにも佳奈さんのことは話していない。なんだか恥ずかしいというのもあったけれど、キヨくんに知られると次の日には知り合い全体に知れ渡っていそうな気がしてしまうからだ。もちろんそんなことはありえないんだけど。
まあキヨくんだって、吹聴しないでほしいと頼めばきいてくれるだろう。問題は知られるのが恥ずかしいというだけで。
結局、僕たちはいつものように連れ立ってジュイエへ向かった。
僕がこの町へ来てから雨を降らせない空は、今日もただ焼くような熱を降らせている。照り返しの熱も厳しく、さっそく汗がにじむ。
軽いベルの音をたててジュイエの扉が開く。たいした時間を歩いてきたわけではないのに冷房にほっとしてしまうほど外は暑い。
「いらっしゃーい」
お姉さんが明るい声をかけてくれる。こんにちは、と頭を下げて、店内を見る。すると、いたるくんはすでにテーブル席に腰掛けて、本を読みながらアイスカフェオレを飲んでいた。
いたるくんより奥の席には、キノコちゃんもいる。今日も持ち込んだノートパソコンに向かっている。カウンターにも知らない男の人がふたり並んで座っていて、お姉さんと雑談に興じていた。
「やあ。清顕も来たんだね」
「おう、ハンバーグ食いてえ」
ご機嫌なキヨくんの言葉に、いたるくんは淡く微笑んだ。
僕はそんないたるくんの微笑みを見ると、胸がさびしいような気になる。いたるくんの持つ大きな大きなさびしさが感染してしまうように。どうかこの人が幸せになりますようにと祈ってしまうくらい、さびしい。
お姉さんが注文を取りに来て、僕はグレープフルーツジュース、キヨくんはハンバーグを頼んだ。いたるくんはその様子を見ながら、アイスカフェオレをちびと飲んだ。
僕のグレープフルーツジュースはすぐに来た。ハンバーグはもう少し待ってね、とお姉さんはカウンターの向こうへ戻っていく。
僕はグレープフルーツジュースを飲みながら、なにから話そうか考えていた。まずなによりキヨくんに口止めをせねばならないだろう。キヨくんは親切だけど、親切がすぎて佳奈さんに接触しかねない。それはちょっとやめてもらいたいからだ。これは僕だけの問題として、取り扱いたい。
僕の向かい側に座るいたるくんは、ちらとキヨくんに視線をやってから言った。
「清顕がいるけど、いいのかな」
いまさら嫌とは言えない。僕は頷いた。
「なんだよ、俺がいたらなんかあるのか?」
キヨくんが何とも言えないふうに顔を歪めたので、僕はキヨくんに向き直った。
「キヨくん」
「お? なんだ?」
「これからする話は秘密の話ということでお願いしたいんだ」
「秘密の話?」
「ここだけの話だよ」
「なんだ? 何の話だ?」
「僕と、いたるくんと、キヨくんの秘密の話だよ」
「お、おう……」
僕の視線に押し負けるようにキヨくんは少しのけぞりながら頷いた。僕はそれでよしとして、頷き返す。そして付け足した。
「絶対だよ」
キヨくんはもうただ首を縦に振るだけだ。それをいたるくんは、くすくす笑いながら見ていた。
キヨくんのハンバーグが届いて、僕は話を始めることにした。冷房がきいているのに緊張のせいか汗をかいていた。ごくりとつばを飲む。
「実は、好きな人がいて」
「マジ!?」
素早い反応をしたのはもちろんキヨくんだ。ハンバーグを咀嚼していたのを急いで飲み込んだ感がある。思いもしなかった話題に、勢い余って飲み込んでしまったのかもしれない。身を乗り出して訊いてくる。
「誰? 誰?」
「クイーンベルっていうデリヘルの人」
「デリヘル!!」
「知ってる?」
「いや、知り合いはいねえな。ってかイチがデリヘル!!」
「清顕、声下げよう」
キヨくんのいちいち派手な反応に、いたるくんが注意をしてくれる。イチがデリヘル、という言いかたでは誤解を生みそうで心配になった。まるで僕がデリヘルを利用したみたいだ。
あ、ワリ、とキヨくんは素直に謝って、ハンバーグの続きを食べながら興味津々に僕を見てくる。
「デリヘル嬢なんかとどこで知り合ったんだよ」
「偶然なんだ。クイーンベルもクリーム爆弾の被害に遭って、そのときに初めて会って話した」
「あー、そういや見に行ったっけな」
「僕も行った」
「そういえば、いたるくんにも会ったね」
店の前に群がる人混みの中に突入していくいたるくんの姿を思い出す。
「野次馬とかわりと好きなんだ。なんとなく一体感があるから」
「結構俗っぽいな、おまえ」
「僕を何だと思ってるの」
苦笑するいたるくん。そこで話がずれていることに気がついて、僕のほうへ視線を向けてくれる。
「それでイチくん、その人と何かあったの?」
「この間、会って遊んだんだ。でも三時間くらいで、他に用事があるからって行っちゃった」
「てかさあ、その人いくつ?」
「十九歳だって」
ハンバーグを切り分けていたキヨくんが顔を上げる。
「若いな! でももしサバ読んでなかったとしても四つ上かあ……四つ上のデリヘル嬢……無理めじゃね?」
キヨくんの奇譚ない意見はありがたいけれど、もう少しオブラートに包んでくれてもよかったと思う。第一リノさんを追いかけている自分はどうなんだ。しかし僕の不満が口に出る前に話は進んでいく。
「そんなに無理ってこともないと思うけどな、僕は」
「えー、四つ上ってだけ聞けばそうかもしんないけど、実際十五と十九だぜ? 中学生と大学生だか社会人だかだぜ? ちょっときついんじゃねえかなあ~。大体、三時間で別の用事に行っちまうってのも怪しい」
「まあ、そこなんだよね……良く解釈するとすれば、スケジュール詰まってるところイチくんのために三時間空けたって考えられるけど」
「そんで、悪く解釈するとすれば、イチも他の用事も単なる営業ってわけ」
「営業……」
僕がつぶやくと、いたるくんがオブラートに包んで説明してくれた。
「風俗の女の子たちはお客さんと仲良くなるために、お店の外でも会ったりするんだよ。それを営業って呼んだりするの」
「でも僕、佳奈さんのお客じゃないよ。十五歳だし、お客にもなれない」
「佳奈っていうんだ」
「本名だって言ってた」
「へえ。風俗嬢の言うことは基本的に信用しないほうがいいぞ、営業なんだから」
キヨくんはもう営業と決めてかかっているようだった。悪気はなさそうだけれど、だからこそというか、その言葉に少しむっとする。
「佳奈さんはいい人だよ」
「そりゃ客には良い顔するだろー」
「だからお客じゃないんだってば!」
「まあ落ちついて。イチくんがいい人って言うんだから、きっといい人なんだよ」
「いたるこそ、いいヤツだよな」
キヨくんは本当に悪気なくしゃべっていたようで普段と変わりはなく、僕だけが声を荒げてしまっていた。
グレープフルールジュースの氷が溶けていく。汗をかいた細長いコップをつかむと冷たくて、気持ちが少し落ちついた。ジュースは溶けた氷で少し薄まってしまっている。
僕は本当は、キヨくんの言う通りなんじゃないかと思っていた。十五と十九じゃ相手にされないと、思っていた。けれど同時に、お客ではない僕に営業をする意味があるのかよくわからないのもまた本当だった。
店内は変わらずカウンターでの雑談と、キノコちゃんの叩くノートパソコンのキーボードの音がするばかりで、変にエキサイトしていたのは主に僕とキヨくんだけだと実感して恥ずかしくなってしまう。秘密の話だとあれほどキヨくんに念を押したのに、僕が声を高くしてどうするのだ。僕は落ち着こうとひとつ大きく息をはいた。
「もし……この間のが佳奈さんの営業だったとして、お客じゃない僕を相手にする意味ってある?」
僕の疑問に、ふたりはうーんと首をひねる。
いたるくんがゆっくりと口を開く。
「そうだなあ……イチくん相手に営業する理由があるとすれば、気の長い話だけど、お客さんになれる年齢までつなぎとめようと思ってるとかかなあ」
「ほんとに気の長え話だな」
「でもこの町なら律儀に十八になるまで待たなくても、十七くらいで店に入れる。そうしたらあと二年だよ」
「それでも長えよな」
「まあねえ……」
またしても首をひねるふたりに、僕は訊ねた。
「ねえ、好意とは言わなくても、営業じゃなく単純に空き時間に遊んでくれたってことはないのかな。佳奈さん、楽しそうにしてたよ」
「そうだね、それが妥当かもしれない」
「まあ多少の打算があったとしても、二年待ちの客ってのはちょっと無理がある気がするもんな、そうなのかもしれねえな」
ふたりの同意が得られて、僕はほっとする。たいした好意を持たれていなかったとしても、お客として見られているよりはずっと良い。でも。
「でもさ……僕が佳奈さんを好きなのはいいとして、だから何なんだろうって思っちゃうんだ」
「付き合いたいんじゃねえの?」
「よくわかんない。この間みたいにただ遊んでるだけでいいような気もするし、それじゃあむなしいような気もする。実際、キヨくんの言う通り、佳奈さんが中学生を本気で相手にするとは僕も思えないし……」
「それな」
キヨくんはハンバーグの最後の一欠片を口に入れて頷いた。そしてとんでもないことを言う。
「もう本人に訊いちゃえばいいじゃん。どんなつもりで遊んだんだって」
「えっ、無理だよ、訊けないよ」
「なんで」
「清顕、みんながみんな清顕みたいにあけすけなわけじゃないんだよ」
いたるくんのなだめるような言葉に、キヨくんはなんだよそれと返す。
キヨくんはあけすけで無遠慮なところがあるけれど、僕にはときどきそれがうらやましく思えることがある。キヨくんのように振る舞えたらこんなことで悩まずに済むんじゃないだろうか。別にキヨくんに何も悩みがないと思っているわけじゃないけれど。本当に。
「でも本人のいないところで考えてるだけじゃ、結局なんもわかんねえじゃん」
「正論は人を救わない」
いたるくんがきっぱり言う。
キヨくんの言葉はたしかに正しかった。佳奈さんの考えていることは佳奈さんにしかわからなくて、僕がうだうだと悩み続けていても何の意味もないことは事実だ。だからといって、本人に直接訊ねるというのはためらわれる。
どうして、ためらわれるんだろう?
結局僕は怖いのだ。佳奈さんからはっきりと好意ではないと言われることが、わかっていても怖い。もし営業だなんて言われた日にはきっと立ち直れない気がする。
僕がうじうじ考え続けていると、キヨくんが不満そうに腕を組んだ。
「じゃあ、どうすんだよー。好きだけど付き合いたいかはわかんなくて、相手の気持ちも確認しないんじゃ、何がしたいのかわからん」
「僕にもよくわかんないから、いたるくんに話を聞いてもらおうかなと思ったんだけど」
「僕でお役に立てるかな」
「全部解決してもらおうとか思ってるわけじゃないから、あんまり深く考えないでね。ただ、なんていうか……つらい気持ちがわかってもらえるかなと思って」
「そっか。話ならいくらでも聞くよ」
いたるくんは淡く微笑む。彼がそうやって微笑むたび、幸せになりますようにと祈りたくなる、どこまでもさびしく切ない表情。さびしくて仕方なくて、恋をくりかえしてきたいたるくん。真夏の野次馬の群れにすら突っ込ませる、その果てしないさびしさは、僕には想像がつかない。一体彼はどんな世界の果てに立ち尽くしているのだろう。
僕は結局、キヨくんがまとめた話と同じようなことをくりかえした。
佳奈さんが好きなこと。でも彼女は四つ年上の風俗嬢で、中学生の僕を本気で相手にするとはとてもじゃないが思えないこと。だからなのか、僕も彼女とどうなりたいのかわからないこと。彼女がどんなつもりで僕を遊びに誘ったのかわからず、もやもやすること。
言葉にしてしまえば、ずいぶんと小さなことのように思えた。けれどその小さなことらが積み重なって僕をつらくさせる。
「いたるくんは好きな人ができたら付き合いたいと思う?」
僕の馬鹿みたいな質問に、いたるくんはおだやかに頷いた。
「うん。特に好きじゃなくても、僕のことを好きだって言う人がいたら付き合うよ」
「いたるは顔が良いからなー。向こうから寄ってくるんだよ。くそが」
「罵倒やめてよ」
「ほんとのことだろ、ちくしょう、モテやがって」
「やっぱりいたるくんモテるんだね」
「どうかな。僕が誰も拒否しないってことが相手に伝わってるだけじゃないのかな」
「結果モテてるんだからモテてるって言うんだよそれは」
「清顕はリノさんに好かれればそれでいいんじゃないの?」
「それはそれ、これはこれ!」
駄々をこねるように言い張るキヨくんに僕といたるくんは少し笑った。
それからいたるくんは僕のほうを見た。優しい、小さな泡がしゅわしゅわ浮かんでくるような綺麗な瞳だった。
「月並みなことしか言えないけど、もう少しいろいろ話してみたらどうかな。小さなことでもいいから、いろんなことをたくさん。それで見えてくるものもあると思うよ。別に直接でもなくてもいいし電話でなくてもよくて、ただメッセージ送ってみるだけでいいと思うし」
何もしないよりはきっと良いはずだよ、といたるくんは言った。
そうだ。別に僕から連絡するのを禁止されているわけでもないのに、なんだか迷惑かなと考えてしまってメッセージひとつ送れないでいた。でも佳奈さんは別れ際たしかに「連絡ちょうだい」と言ったし、いきなり核心をつかなくても、ちょっとした雑談を持ちかけてもいいはずだ。たぶん。
そう思ったら少し緊張したけれど、気が楽になった感覚もして、僕はほっと息をついた。
「そうだね。そうしてみる」
僕が頷くと、いたるくんもやわらかく微笑んで頷き返してくれた。それを見ていたキヨくんは、なぜか金髪プリン色の前髪を髪ゴムでひとつに結びながら「直接訊いたほうが早いのにな」と文句を言って、それから「ハンバーグ食ったら暑い」ともうひとつ文句を言った。結ばれた前髪が、ぴんと上に向かって伸びている。
それから僕らはクリーム爆弾の話をした。
「ここのところ爆発したって話聞かねえな」
「連日続いてたのにね。何だったんだろう」
僕は薄まったグレープフルーツジュースを飲みきって、残った氷をストローでぐるぐるかきまわしながら言った。
「やっぱり再開発賛成派が狙われたっていうのはほんとなのかな」
「まあ、そうだろうな。最初に普通の爆弾が爆発した税理士事務所の所長が、賛成派の筆頭だったらしいぜ」
「反対派による脅しなんだろうね。でもなんで、爆弾からクリーム爆弾に変わったのかな」
いたるくんが言いながら首を傾げる。
「さあなー。それこそ犯人にでも訊かないとわかんないんじゃね」
「普通の爆弾じゃ、被害が大きすぎたんじゃないかな」
僕はなんとなく考えていたことを口にした。
「あれは事務所の中がめちゃくちゃになったって言うし、ガラスも割れて、怪我人も出た。それだとやりすぎだって思ったんじゃないかな」
「ああ、そうかもしれないね。クリーム爆弾なら、迷惑にはなるけどそれだけって感じだし」
「実際、それでも賛成派は鳴りを潜めたもんな。今じゃ反対派のほうが圧倒的に強いよ。犯人の狙い通りってか」
キヨくんは伸びをするように、両手を頭の後ろで組んだ。まじめに話してても、ひとつに結ばれた前髪がぴょこぴょこ揺れるのがどことなくまぬけで気が抜ける。
「でも住人の反対で再開発をやめさせたりなんてできるの?」
「なにもしないよりマシって程度なんじゃね?」
「僕らにはその再開発計画っていうのが本当のことなのかどうか、それすらまだわからないんだよね。どこが主導する計画なのかもわからないし」
「なんとなく噂が広まって、事実だろうって空気になってる感じなんだよな。でもまあ、火のないところに煙は立たねえって言うし。友哉くんなら詳しいかもな」
「友哉くん?」
どうして友哉くんが出てくるのだろうと不思議に思って言うと、キヨくんはなんでもないことのようにすごい事を言った。
「友哉くん、この町仕切ってる会社の御曹司だぞ。見えねえだろうけど」
「えっ!?」
僕は友哉くんのけだるい雰囲気を思い出して心底驚いた。いつも小さなワゴンを引いて安いお酒を売り歩いている友哉くん。けだるくて、でもそこがちょっとかっこよくて、気安く親切な友哉くんが。町を取り仕切るほどの会社の御曹司。とてもじゃないけれど、すぐには信じられなかった。御曹司がどうしてこの炎天下、安酒を売り歩いているのだろう。
「あはは、驚いてる」
いたるくんが僕の様子を見て無邪気に笑う。どうやらいたるくんにとってもそれは既知の事実だったようだ。
「それって有名な話?」
「長くこの町にいるやつなら知ってるんじゃねえかな。友哉くん、ガキの頃から町中で遊び回ってたから」
「大学入ってから一人暮らし始めたから今は町にいないことが多いけど、それまではもうずっと町にいたよ。そこら中知り合いだらけっていうか、友哉くんの成長を見守ってきたおじさんおばさんも結構いると思う」
「親目線のおばちゃんとかいるよな」
そうそう、といたるくんとキヨくんは笑う。
全然知らなかった。驚きを通り越してなんだか頭が真っ白だ。自分がこの町に来たてのまだ浮いた存在であることを実感してしまい、疎外感のようなものを覚える。
でも、僕はいつまでこの町にいられるんだろう。いるつもりなんだろう。先のことなんて何も考えられない。けれど放っておいてもそのうち夏休みは終わるし、そうしたら僕は学校はどうするつもりなんだろう。もう僕はゴミ捨て場のゴミになったんだと思っていたけれど、僕は僕の意思でここへやってきたひとりの人間だ。ジュイエのマスターがそう言ってくれた。だからきっとそうなんだ。
じゃあ、人間の僕はこれからどうするんだろうか。家に帰る? それはできない。大体誰も僕を探しに来ないということは、父は警察に何も届けを出していないということだ。僕は望まれていない。望まれない場所へ帰るのは苦しい。それに僕は、帰ることをきっと許されない――
「イチ、大丈夫か? 暑いか?」
キヨくんの声で、物思いからふと我に返る。
「あ、うん、大丈夫。ちょっとびっくりして」
「だろうなー。友哉くん普段あんなんだし。それにしても暑くないか? マスター、冷房もっと下げてよ!」
カウンターに向かってキヨくんが声を上げる。それに応えたのはマスターではなくお姉さんだった。
「ちょうどいいでしょ! 熱いハンバーグがつがつかきこむから暑いだけよ」
「あまり外との温度差が大きいと体に良くないですからね」
そうマスターが付け足すと、キヨくんは諦めたようだった。振り返って、不満げに椅子を揺らす。その子供のような仕草に僕は少し笑ってしまう。キヨくんがこうして元気にそばにいてくれると、僕の不安はいつも和らぐ。
住む場所も貸してもらって、元気ももらって、僕はせいぜい洗濯や掃除くらいしか返せるものがない。
僕は一体、何をしたいのだろう。
家から逃げて、勉強から逃げて、佳奈さんの気持ちから逃げて、ただ単に今ここにいる。
僕は一体、どこへ向かえるというのだろう。
その日の夜、眠る前に僕は佳奈さんにメッセージを送った。何ということもない言葉。『毎日暑いですね』。佳奈さんは今、仕事中かもしれない。どこかのホテルで見知らぬ大人の男と一緒なのかもしれない。うまく想像できない。ただ、佳奈さんのどこまでも健全な感じのする細く長い手足と、カラオケで見せた幼い笑顔ばかりが浮かんでくる。閉じたまぶたの裏に、まるで十九歳に見えない彼女の笑顔が焼き付いて消えてくれない。
電気の消えた暗い部屋。ベッドからはもうキヨくんの寝息がかすかに聞こえてくる。薄いカーテンは外灯の光を透かして室内をぼんやりと明るくし、まるで月明かりみたいだと思った。けれどこの町では月も星も淡くなってしまう。
スマホの光がまぶしい。メッセージ画面に既読はつかない。僕は知らず知らずのうちにため息をはいて、スマホの光で充電器を探し出しコンセントに差した。そうしてスマホを枕元に放り出し、勝手に光が消えるのを待つ。目を閉じる。佳奈さんが笑っている。
もっと早く生まれていればよかった。せめて佳奈さんのお客になれるくらいの年齢だったら、相手にしてもらえたかもしれないのに。でもそうしたらきっと、僕はただのお客になって営業相手になって、それだけだったかもしれない。どちらがマシなんだろう。お金を払って体だけの関係を結ぶのは、楽しいことなのだろうか。仕事として相手されることは、嬉しいことなんだろうか。そんなことはどうでもいいくらい、佳奈さんの体を求めることが恋なのだろうか。
わからなかった。ただ僕は実際、四つ年下の中学生として世間話を送るくらいのことしかできない。まぶたの裏に、あの日、一緒に遊んだ日の佳奈さんの映像がずっと流れている。それを見ながら、既読はもうついただろうかと思う。でもスマホを確認することはしなかった。それを始めてしまったらきりがないとわかっているからだ。
佳奈さん。
僕は真夜中の静寂の中に彼女の名前を浮かべた。
僕はどうしたらいいんでしょう。本当に、何もわからないんです。
頭の中の佳奈さんに吐き出すように言うけれど、応えはない。
まぶたの裏に流れ続けるあの日の映像を眺めながら、僕はいつの間にか眠りに落ちていった。
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