第2話・再開発計画

 雨の気配もないまま夏は進み、相変わらずに暑い晴天の日だった。僕もキヨくんも仕事がなくて、例によって正午近くに目覚めて大通りをぶらぶらと遊び歩いている。

 ひどく蒸し暑くて、路上で配っていた丸いうちわで顔やシャツの襟の中へ風を送っても生ぬるい空気が動くばかりだ。不快指数が高い。道行く人々もみんなうんざりとした険しい顔をしている。

 通りかかった古雑貨屋前に人だかりが出来ている。少し背伸びをして覗きこむと、どうやら麻雀の大会が行われているらしかった。店の前に雀卓が置かれ、四人が座っている。そこを観客がああだこうだと言いながら取り囲んでいるのだった。店のショーウィンドウのガラスには雑な手書きのトーナメント表が貼ってある。

「麻雀のルールって全然わからないな」

「別に難しくないぜ。役さえ覚えりゃなんとでもなるし。おまえ覚えるのは得意なんじゃねえの?」

「うーん……どうだろ」

 今度教えてやるよとキヨくんが言う。

 することも行くところも特になかった僕らは、そのままなんとなく観戦をした。この蒸し暑い中、おじさんたち四人が汗を拭いながら難しい顔で小さな牌と向き合っている。見物人の中には賭けに参加している人も多いようで、小さな紙切れを手にしている姿が目立った。

 四人のおじさんたちは大きな動きもなく、言葉もなく、ただ黙々と牌を移動させている。僕にはおもしろみが感じられなかったけれど、でもなんとなくみんな楽しそうに思えた。戦っているおじさんたちも、取り囲んでいる人たちもだ。

 そうしてしばらく観戦していると、ふと背後からビラを差し出された。

「はい、これ」

 反射的に手を出すと、さっとそこに紙を乗せてすぐに離れていく。ビラ配りの主はサングラスをかけた若そうなお兄さんで、キヨくんにも同じように渡しては、流れ作業的に次々と見物人たちに紙を渡していく。もちろん受け取らない人もそれなりにいたけれど、そのときはお兄さんは頓着なく引き下がってビラを配っていった。

 手元の紙を見る。でかでかとしたフォントで『再開発反対!』と書かれていた。

「再開発……?」

 呟くと、同じく紙を見ていたキヨくんが「ああ」と声を上げた。

「イチは知らなかったか。何年か前から、この町の再開発計画っていうのが噂されてたんだけど、どうもそれが具体的な段階になってきたって話でさ。ここの住人でも賛成派と反対派がいるよ。大抵のやつはなんとなく見守ってるけど、一部は反対運動とかやってるな」

「そうなんだ、全然知らなかった……」

 改めてビラを見直す。再開発反対、それからこの町がなくなったらみんな困るということと、賛成派は再開発後に自分たちだけ得が出来るよう工作しているという文章が連なっている。先ほどのサングラスのお兄さんは反対派だったのだろうか。

「再開発することになったら、この町どうなるんだろう……?」

「まあ、こんなゴミ溜めではなくなるだろうなあ。住んでる俺たちはいいけどさ、周辺からは当然すごぶる評判悪いし」

「そうなったらみんな困るよね……」

「困るよなあ」

 キヨくんの口調では、誰も困らないように感じるが。

 辺りの観客たちには再開発の話はすでに既知だったようで、特にビラを見ているような人はいない。ここでは有名な話なのだろう。

 僕はじんわりと不安になった。逃げ出して住み着いたここがなくなったら、どうなるのだろう。他に行く場所など、あるのだろうか。住人たちはどうなるのだろうか。

 見下ろすビラは、僕の頭の影になっている。再開発の文字の上に、ぽたりと汗が落ちた。蒸し暑く、服が体に張り付くような不快さの中、心臓だけがすっと冷えていくようだった。

 どうしよう、どうすればいいのだろう。もしそうなったらキヨくんはどうするのだろう。救いを求めるように顔を上げたとき、車道のほうからどこか投げやりでだるそうな声がした。

「ビールあるよー」

 その言葉に周りの観客たちは色めき立つ。ビール、ビールだ。彼らにとってはビールが救いの神であるのかもしれない。おビール様。

 観客たちが輪の中からはずれてわらわらと向かうのは、路上駐車された車と車の間にいるひとりの青年のところだ。茶色く外に跳ねた髪を持つその青年は、小ぶりのパラソルがついた白いワゴンのようなものを引いている。

 上部にあるフタをスライドして開き、中からビールの缶を取り出しては次々に売っていく。

「あ、友哉くんだ」

 キヨくんがその青年を見て言った。知り合いのようだ。顔の広い彼らしかった。僕とキヨくんは、ビールを求める客の波があらかた引いたのを見計らって車道へ出た。

「友哉くん久しぶり」

 キヨくんが声をかけると、青年は稼いだお金が入った大きなポーチから顔を上げる。声と違わずだるそうな目をしていた。まぶたが重そうに下ろされた半眼は、キヨくんを見て明るく輝く。

「おー、キヨじゃん。おまえまだ髪染めなおしてないのかよ」

「めんどくさくてさ。つうか、マジ久しぶりじゃない? どんくらいいなかった?」

「えーと、どんくらいだ? 二ヶ月くらいか?」

「どこ行ってたんだよ」

「大学だよ、大学。俺大学生なの知ってた?」

 ふたりが盛り上がっているので僕は入っていけず、そっとワゴンの中を覗きこんだ。まだビールやチューハイの缶が氷水の中に浮かんでいる。よく見ると缶の側面が少しへこんでいるものが多い。

「お? ビール飲む?」

 僕に声をかけているのだと気づくのに少し遅れた。弾かれたように顔をあげると、友哉くんと呼ばれた青年がぼんやりともとれる顔でこちらを見ている。

「あ、えっと、いや……」

「ビール嫌い? チューハイもあるよ、あとワンカップ。ほら、これ。煙草も少しならあるけど」

「いえ、僕未成年だから」

「え、未成年だから酒も煙草もやらねえの? へえー、ずいぶん真面目なんだなあ。珍しいくらいだ」

 眠そうな目が驚きに見開かれ、声にもわずかに張りが出ていた。

 僕はたしかにここでは珍しい種類だと自覚しているけれど、こんなふうにまじまじと珍しがられたことはあまりなかったので居心地が悪い。ここで生きるのに珍しくない人間になればいいのだろうかとよく考えるけど、僕はすでにゴミとなってゴミ捨て場に来ているのだから、結局みんなと同じ穴のムジナなのだと思う。変わったほうがいいのかなと思いながらも、変わったところで意味もないと考えているのだ。

 キヨくんが僕の肩に手を置く。

「こいつ少し前にここに来てさ。お坊ちゃん育ちなんだよ。一臣っつうの」

「育ち良さそうだもんなー。俺、友哉っていうんだ。以後よろしくな。じゃあお近づきの印にこれをあげよう。じゃーん」

 友哉くんは終始低いテンションでそれを言い切って、ワゴンの底のほうに手を突っ込んで一本のビンを取り出した。

「はい、ラムネ」

 緑がかった青というのか、曖昧な色をした透明なビン。小さい頃に飲んだことがある。

 キヨくんが楽しげな声を上げた。

「アルコール以外も売ってんだな」

「まあ、ガキも結構いるしな。あ、お代はいいよ。これどうせ六〇円でいちばん安いし、元々儲け出るようなもんでもないし」

 ポケットから財布を取り出した僕を見て、友哉くんはラムネを押し付けてきた。

「そんかわり、酒か煙草やるようになったらよろしく」

 口元に浮かんだ笑みになぜか不敵さがある。大学生だという友哉くんのそのだるそうなテンションによく似合っていて、少しかっこいいと思った。年上のお兄さんというものを変則的に具体化したみたいだ。でも脳内のキヨくんが「俺だって年上のお兄さんだけど!」と抗議してきたので、心に秘めておくことにする。

 受け取ったラムネは、飲みくちのビニールを剥がしてキャップをはずしただけでは飲める状態ではなかった。まだ飲みくちに何かがはまっている。ビー玉だ。

 僕がそれを何とかしようと四苦八苦していると、友哉くんがビンを抜き取っていった。

「一臣、ほんとにお坊ちゃん育ちなんだなあ。それ貸してみ」

 彼は僕の手に残ったキャップを示している。おとなしくそれを渡せば、何やら手早くそれをふたつに分解して、ワゴンの縁に置いたビンの飲みくちにその片方を押し当てた。と思ったら、いきなりそれを叩きつけるではないか。手のひらで真上から、思い切りというほどではないけれど、それなりのいきおいはあった。

 僕がびっくりしている間に、ビンからはさわやかな泡のはじける音が響き始める。そして飲みくちから少し中身がこぼれていった。

「ほれ」

 友哉くんが差し出してくるビンのくびれた部分に、ビー玉が落っこちてゆらゆらと揺れている。

「わあ、ありがとう……」

 思わず感嘆の響きになった言葉に、友哉くんとキヨくんは笑った。

 僕らはそのまま雑談をしながら、麻雀勝負の行く末を見守った。

 見守ったといっても、観客の輪からはずれているから歓声や怒声や野次が上がっても何がどうなっているのかはよくわからない。

「こういう大会あると儲かっていいんだよなー」

 友哉くんは軽薄そうに笑う。実際に軽薄なのかは知らないけれど、そんな雰囲気はする。

 太陽は真上から西寄りに移動して、観客たちの大部分がビルの影へと入っている。アルコールが入ったからかずいぶんと盛り上がってきていた。歩道を行き来する人たちは立ち止まって眺めたり、ただ邪魔そうに避けて通っていったりとそれぞれだが、みんな一様に暑そうだ。汗を拭う姿があちこちに見える。

 僕らは思いっきり日射しの下にいたから、汗が止まらなかった。うちわも汗で湿ってふにゃふにゃになってもう役に立ちそうにない。

 背後を低速で走る車から重低音がしていた。どこか離れたところではクラクション。

 この通りは日中でも騒がしく、けれど夜のように華やかではない。隅々まで白日の下に晒されて、まるで化けの皮でも剥がされたみたいに地味で汚くて、でもすごく日常的な感じがする。前にいたるくんが言っていた。昼間の通りはすっぴんの女の子みたいなものだと。地味であっさりしてるけど、そこがいいんだよ。僕はいたるくんの言うことのほとんどを理解できない気がするけど、それはなんとなくわかった。華やかな飾りを全て削ぎ落としたこの姿こそ、僕がここで生活している証のような。

 つまりこの町はいつもと変わりがなかった。太陽が沈めばネオンでけばけばしく、太陽が昇ればただのごちゃごちゃした通りだ。そこをたくさんの人が行き交う。立ち止まる、座り込む、しゃべり倒したかと思えば殴り合い、笑い合う。

 そうして今日もただただ夜を迎えるはずだった。そのはずだったのに。

 突然のことだった。何の前置きも前触れもなく、鼓膜を殴りつけて震わせる破裂音が通りを貫く。ガラスの割れる甲高い音も混ざっている。

「なんだ!?」

 瞬間的な沈黙のあと、慌てたように騒然とする辺り。キヨくんが音の元を探して首をひねる。

「あそこだ!」

 ほぼ同時にあちこちで同じ場所を指さす人々がいた。

 一ブロックも離れていない場所の七階建て雑居ビル。その六階の窓から黒い煙がもうもうと吐き出されている。窓の周囲が黒く焦げているように見えた。そのビルの下には怪我をしたらしい通行人が数人パニックに陥っていた。

 麻雀大会も観客も、通行人、走行車までみんな立ち止まりそちらを眺めたり、近づいていったりする。歩道を駆け車道を横切り、すでに野次馬が集まりつつあった。

 なんだろう。僕の頭は出来事についていけていない。激しい破裂音とガラスの割れる音。地獄の釜から漏れるような禍々しい黒煙が立ち上る。怪我人の様子はわからない。ガラスが降り注いだのだろうか。

「爆発かあ?」

 呆然とその様子を見つめていると、キヨくんが言った。もう落ち着きを取り戻した訝しげな物言いだ。

 そうだ、爆発。あの六階の部屋で爆発が起こったんだ。すんなりとその事実が浸透していく。辺りは騒ぎだけが大きくなっていく。

「あのビル、何だっけ? 一階が飲み屋?」

「何かの事務所とか入ってたなあ」

 友哉くんとキヨくんは落ち着いてそんなことを話している。まさか突然爆発することに慣れているわけではないと思うけれど、この町では不注意による爆発が度々起こっていてもおかしくはないような雰囲気はあるのだ、残念ながら。

 すっかり野次馬の大きな輪ができて、スマホやタブレット、デジカメなんかをかざしている姿だらけになった頃、ようやくサイレンの音が近づいてきた。

 通りはこの騒ぎで路上駐車が圧倒的に増え、緊急車両がすんなりと進んでこられる状態ではない。消防車と救急車からは絶えず避けてくれ通してくれとアナウンスされている。

 建物の窓は相変わらず黒煙を吐いていたけれど、大分収まってはきているようだ。ここからでは怪我人の様子はわからない。

「爆発って、よくあるの?」

 僕が思わず訊ねると、キヨくんは呆れたように笑う。

「いくらなんでも爆発はねえよ、爆発は」

「俺も初めて見たな」

 幾分目元の引き締まった真面目な顔を友哉くんはしていた。だるそうな目は何かが少し変わるだけで、今は鋭いような眼差しになって爆発現場のほうを見つめている。

 緊急車両が少しずつ進むのと比例して、野次馬も少しずつ増えていく。僕はそんなふうに見物しにいこうとは思えなかったけれど、キヨくんも友哉くんもそれは同じだったようで、ふたりともその場から動かなかった。

 さすがに爆発が起こればニュースにもなるだろうし、もしならなかったとしても情報通のキヨくんならいつの間にかどこかから事件について詳細を仕入れていくるだろう。

 心臓はまだサイレンに煽られるように不穏に揺れている。そっと意識してゆっくり呼吸を繰り返す。賑やかで猥雑なこの町だけは、いつものようにふざけた笑みを浮かべているみたいだった。

 

 その後、友哉くんは野次馬をターゲットにワゴンを引いていき、僕たちは解散した。別れ際、一緒に夕飯を食べる約束をしたから、それまではまた暇になってしまった。

 僕は暇であることに慣れつつある。この町に慣れるということは同時に暇にも慣れるということなのかもしれない。なにしろここでは、そこら中でいろんな人たちが遊んでいる。遊んでいるというのは、するべきことがないということだからだ。仕事も勉強もなくて、ただ通りを眺めたり賭け麻雀やトランプをやったり、将棋や囲碁をする。少し歩いては立ち話を繰り返す。興味の赴くまま店先を覗いたり、屋台や露天で商品を手にする。そういう時間を、僕は暇と呼んでいるのだ。もちろん他意はない。暇は愛すべきものなのだと、そう思っている。それはきっと、ここへ来ないと得られないものだったからだ。

 そうして得難い暇を、爆発の余波で浮足立った町をうろつくことで満たして、やがて歩き疲れた僕らは友哉くんとの約束の時間までをジュイエで過ごすことにした。

 まだ開店していないとか、既に閉店している可能性もなくはなかったけれど、幸いジュイエは開店中だった。夕方なので開けるには遅すぎるし閉めるには早過ぎるから当たり前といえば当たり前だ。けれどその当たり前が常識とはならないのがこの町の特徴だから油断はならない。

「チーッス」

 軽いベルの音とともに、キヨくんも軽い挨拶をして店に乗り込む。

「いらっしゃい」

 続けて僕も店に入ると、今日はお姉さんとマスターが並んでカウンターの中にいた。それからカウンター席には先客がいる。僕はもちろんキヨくんとも顔見知りではないおじさんだったけれど、みんなで早速爆発事件について盛り上がる。町の規模は決して小さくないけれど、噂が巡るのはとても早い。

 白髪の目立つ肉付きの良いおじさんは、マスターとお姉さん相手に渋い顔をして言う。

「あれのおかげで警察と消防と野次馬がわんさか来ちゃって、今日は商売上がったりだよ」

「なになに、爆発の話?」

 物怖じしないキヨくんが口を挟む。おじさんは怪訝な顔も嫌な顔もせず、見知らぬ男の子の軽口に頷いて見せた。

「そうだよ。あのビルの二階に店を持っているんだ」

「うわあ、マジか。俺たち爆発のとき、近くにいたぜ。結構すげえ音したけど、おっさんは店にいたの?」

「ああ。もう治ったけど、あの後しばらくは耳鳴りがしたな」

「災難でしたね」

 豊かなヒゲを蓄えたマスターが、コーヒーカップを拭きながら同情たっぷりに眉を寄せる。

「しかし死人が出なかったようで何よりです」

「全くだね。とは言えしばらくは警察もうるさいだろうなあ」

 商売に差し障るのかおじさんはため息しきりだ。

 僕とキヨくんはお姉さんに氷割増でジュースを注文して、話に加わった。キヨくんがカウンターに頬杖をつく。

「そういや爆発したのって六階? あそこって何があったっけ?」

「何だったかな、たしか税理士事務所が入ってたはずだが。どうもそこが爆発現場らしい」

「なんで税理士事務所が爆発するんだ?」

 キヨくんが首を傾げると同時に、ドアの開くベルの音と甲高い笑い声がした。僕がその声に驚いて振り返ると、そこには六才か七才くらいの男の子と女の子がふたり、じゃれ合いながら店に入ってきているところだった。

「お腹すいたー!」

 唐突に男の子がカウンターに向かって叫ぶ。すると女の子も真似をするように、お腹すいたと叫んだ。よれて伸びた服を着て、どことなく薄汚れた野良猫のような雰囲気のするふたり。何者だろうと僕が声も出せないでいる間に、お姉さんが慣れた様子で「あら、来たのね、何食べる?」とカウンターから身を乗り出した。

「おう、来たのかおまえら」

 キヨくんまで声をかけるかと思えばおじさんまでもが、やあ、と挨拶する始末だ。当然マスターも知ったふうに頷いている。知らぬは僕ばかりなり。

「キヨくん、この子たちは?」

「ああ――」

「ハンバーグー!!」

 キヨくんの声もかき消す大声で、男の子が叫んだ。両の腕を天に突き上げる。女の子もそれを真似する。キャッキャと笑い転げるふたり。

「じゃあ、今日は私が出そう」

「あら、いいんですか。災難に遭ったばかりなのに」

「そのおまけみたいなものだよ」

「太っ腹」

 今度はおじさんとお姉さんのにこやかな会話に気を取られる。出すって何を? 僕が助けを求めるようにキヨくんを見ると、キヨくんはぐしゃぐしゃに顔をしかめていた。

「ああもう、ガキはうるせえなあ。こいつらはな、タマとミケって言って、神出鬼没でどこにでも現れては飯たかっていくガキどもだよ」

「じゃあ、出すっていうのは……」

「こいつらのメシ代」

「ええー……」

 タマとミケと呼ばれた子たちは店の中を転がるように走り回って笑っている。見たところキヨくんはもちろん、お姉さんともマスターともおじさんとも何か関係がありそうな感じではない。なのにおじさんは突然現れたこの子たちのご飯代を出すと言う。

 僕はこの町に来てすでにいろんな驚くべきものを見てきたけれど、これほど理解に困るものはなかった。

 マスターはすでに当たり前のようにふたり分のハンバーグを作り始めている。

「どういうことかよくわかんない……」

 僕がつぶやくと、タマとミケの騒ぎ声の隙間からそれを聞き取ったらしいお姉さんが笑った。

「そうねえ、地域猫みたいなものよ。だからタマとミケって猫みたいに呼ばれてるの。本名は別にあるけど、私も知らないわ。町の南のほうにある施設の子たちなんだけど、すぐに抜け出してきちゃうみたいよ」

 地域猫。そう言われて、僕の理解もだいぶ追いついた気がした。僕の知識の中で地域猫とは、特別誰かに飼われているわけじゃないけれど、その地域の人たちでめんどうを見ている猫、というものだ。

 この子たちも施設にいて親がいないけれど、この町の人たちでめんどうを見ているということなのだろう。そんなこと初めて聞いたけれど、この町でなら「ある」ことなのだ。僕はなんとも言えない感銘を受けていた。

 感銘というと変かもしれないけど、そうとしか言いようがない。心が驚いて、けれど妙に感動している。そういうことがあってもいいんだ、とその自由さに心打たれている。

 タマとミケは元気な子猫のように店内でじゃれ合って笑っている。僕は今まで生きてきた自分の世界の不自由さを、とても悲しく思った。

 その後、出てきたハンバーグを嘘みたいに静かになって食べたタマとミケは「ごちそうさまー!」とまた笑い転げながら店を出ていった。そのお会計は、やっぱりおじさんが支払った。

「いいよなあ、タマとミケは」

 ぼやくキヨくんにおじさんは笑った。

「きみたちの分は払わんよ」

「ちぇ」

 ストローをくわえたまま口を尖らせるキヨくん。コップから飛び出したストローの先で、オレンジジュースが一滴弾けた。

 

 夕方になって友哉くんと合流し、大通りの定食屋へ入った。話題はやっぱり、昼間の爆発事故のことだった。

 その付近で商売をしていた友哉くんがいろいろと情報を得てきたのだ。

「たいした怪我人はいなかったらしいぜ。爆発した事務所は無人だったって話だし、通行人が降ったガラスで少し切り傷作ったくらいかね」

「へえ、そんなんで済んでよかったな。火事なんかになってたら目も当てられないぞ」

「消防車、近づけてなかったもんね」

 僕が言うと、友哉くんはニヒルに微笑んで鯖味噌をくちに運んでから「公的車両はこの町に入ってこれねえんだ」と本気なのか冗談なのかわからないことを言った。たしかに消防車や救急車が何度も避けるようアナウンスしても、道はなかなか空かなかった。この町の住人は言うことを聞かないという意味なら、友哉くんの言うこともわからなくない。

 僕はここへ来てから知り合った人々の顔を思い返してみる。

 最初に僕を見つけてくれたおじいさん。キヨくん。リノさん。いたるくん。お姉さんにマスター。友哉くん。それにタマとミケ。どの人も一癖あるような感じだ。顔見知りとなら言えるような人ならもっと増える。おにぎり屋のおじさん、ジュイエの常連客たち、中古電気屋の店主、おいしい唐揚げを道端で揚げるおじいさん、リノさんの同僚アイリさん。その他、この町に住み着く様々な人々。みんなそれぞれの人生を生きているんだ。僕とはまったく違う、それぞれの。僕みたいに家の言うことを聞くだけで生きてきたのとは正反対の。

 きっとみんな自分に従って生きているんだ。だからといって公的車両を通さないということにはならないけど、他人に言われたからという理由だけで動く人々ではない。

 そんなことを考えながら天丼を食べているうちに、話題は爆発事故から別のことへと移っていった。

 けれどさすがに爆発事故はこの町でも珍しいからか、食器を下げにきたおばちゃんも人懐こく声をかけてきて、またひとしきりどこが爆発したとか怪我人はだとか、すでに何度もした話でまた盛り上がった。それほどめったにない新鮮な事件だったということだ。

 

 けれどまだその盛り上がりが冷めやらぬ数日後、事件はまた起こった。

 今度爆発したのは大通り下り側にある大きな雑居ビルの二階、キャバクラ店の事務所だった。

 と言っても、この前の爆発とはわけが違う。わけというか方向性が。爆発したのは爆弾と言えば爆弾なんだけれども、被害の質が違った。窓は割れない、煙も出ない、怪我人も出ない。その事務所に窓がなかったから、というそもそも論ではない。本当に爆発したのに前回のような被害が出なかったのだ。ではどんな被害が出たのかというと、事務所がクリームまみれになった。

 また現場前で飲み物や煙草を売っていた友哉くんと僕たちは合流して、見物人の隙間から様子を見ていた。ビルの入り口には黄色い立入禁止テープが張られている。

 今回はなんというか、事務所がクリームまみれになっただけだから、消防車も救急車の出番もなく、数人の警官がやってきただけだったけれど、どこからかそのクリームまみれの室内の写真が流出して住人たちの間を駆け巡った。

 その写真から見るに、爆発物らしきものがあった床の一部が少し黒焦げているだけで、あとはどこにでもありそうな事務所にただクリームが飛び散っているだけだった。

「なんなんだろうな、これは」

 友哉くんがビールを売りながらけだるげにつぶやく。

 先日の爆発より圧倒的に規模がみみっちくなっただけに、どうでもいいとでも言いたげな雰囲気だ。

「意味がわかんねえよなー。犯人同じなのかな」

「さあなー。同じでも違っても意味わからんのに変わりはない」

「嫌がらせ、なのかな」

 僕が言うと、ふたりは「そうなんだろうな」というようなことを曖昧に口の中でもごもご言わせた。たしかにふたりに聞いてもわからないものはわからないだろう。きっと情報通のキヨくんがそのうちにまた詳しいことをどこからか仕入れてきてくれるはずだ。

 それにしても前回よりずいぶん平和的になった事件は、写真があったからこそ盛り上がったものの、収束するのも早かった。警察はあっさり引き上げていったし、そのキャバクラの人たちはクリームを拭き取るのに一苦労をしたらしいけれど、それくらいのものだ。

 結局事件にどんな意味があったのか、誰にもわからないものだから、話をするにも仮定に仮定を重ねなければならなくて、盛り上がりに欠けたのだ。そうして謎のクリーム爆発事件は町の住人をさほど興奮させることもなく幕を下ろしていった。人が集まってありがたかったのは友哉くんくらいだったんじゃないだろうか。


 ジュイエの常連さんにキノコちゃんという女の子がいる。本名なのかあだ名なのかはわからない。とにかくみんなにはそう呼ばれている。キノコちゃんは風俗で働くかたわら、文筆業もやっているらしく、よく小型のパソコンをジュイエに持ち込んで長居することがあった。注文するものはまずアメリカンコーヒー。それ以降はその日の気分よって変わる。けれどまずキノコちゃんと言えばアメリカンコーヒーなのだ。

 その日もキノコちゃんはパソコンを持ってジュイエにやってきた。

「いつもの」

 軽快なベルを鳴らして入店したあと、甘いけれどそっけない声でキノコちゃんは僕に告げる。僕はやっと覚えたキノコちゃんの「いつもの」ものを用意し始める。その間に彼女は店の奥の席へ陣取るのだ。

 キノコちゃんは大抵黙って熱心にパソコンに向かっている。キーボードを叩き続けていることもあれば、ただ画面を睨んでいることもあるけれど、とにかく注文以外口を開かない。けれど今日は珍しいことにパソコンから顔をあげて僕を見た。

「おまたせしました」

 アメリカンコーヒーをテーブルに置く。するとキノコちゃんから声をかけてきたのだ。注文でもないのに。

「あのさあ」

「は、はいっ?」

 驚いて声が裏返ってしまったけれど、キノコちゃんはそれには構わなかった。彼女の甘い声とは裏腹に、その目はどこか半分死んでいる。

「あんた、清顕のとこの子でしょ」

「あ……はい、住まわせてもらってます」

「じゃあ、クリーム事件のこと何か聞いた?」

「少しは」

「教えて」

 キノコちゃんは僕を見上げたまま黒いセミロングの髪を巻き込みながらテーブルに頬杖をついた。

「えーと、どうして」

 僕が困惑して問うと、キノコちゃんはぎゅっと眉間を寄せる。

「ネタがないの。なにかインスピレーションがほしい」

「そう、ですか……じゃあ、ええと、指紋が残ってたらしくて」

「指紋?」

「前の爆発と同じ指紋が」

「同一犯ってこと?」

「それが、子供のもので。じゃあもしかしてタマとミケのものなんじゃないかとか言われてて。でもタマとミケは前回の税理士事務所にも、キャバクラの事務所にもよく行っていたそうで、子供だし、容疑者からははずれたって」

「へえ、おもしろいね」

「そうですか?」

「あんな子供に爆弾なんて作れるわけないし、作って爆発させるメリットもないし――あるとすればおもしろいからって理由だろうけど、まあ、ないか」

 キノコちゃんは化粧気のない、眉毛も短いさっぱりとした顔をパソコンに戻して、口の端を歪めた。どうやら笑っているらしい。

 タマとミケについては、他の人もないと言っている。そんなこと出来るはずもないし、する意味もない、と。僕もそう思う。彼らの指紋などきっと町中の建物を探せばどこでだって出てくるだろう。

「あと、警察は捜査を終了させたそうです」

「だろうね」

 もういいよ、とキノコちゃんは手を上げた。僕は頭を下げてカウンターへと戻る。

 キヨくんから捜査終了と聞いたときは驚いた。だって犯人は見つかってないのに。そう言うとキヨくんは、どうして心臓は動いてるの? と聞かれでもしたように首の後ろに手を回して唸った。

「ううん……この町はそういうもんだからとしか言えねえけど……」

 キヨくんが言うには、この町は「強い」のだそうだ。風俗店とかパチンコ店とか、「強い」店がたくさんあって、それで成り立っている。僕はそれを聞いて、以前友哉くんが言っていた「公的車両が入ってこれない」という言葉の意味を考え直していた。入ってこられないというのは物理的にという意味ではなく、「入ってこない」のではないか。「入ってこない」ようになっているのではないか。

 自治と言えば聞こえはいいかもしれないけれど、つまり町が自立しているということなのだ。問題が起こっても怖いお兄さんやおじさんたちが片付けてしまう。違法な薬をやっていると噂の男が往来を走り抜けても走り抜けさせたまま。路上で違法DVDやゲームを売っていても売らせたまま。この町は「強い」から。公権力より「強い」から。

 みんなそれを当たり前のこととしてこの町は流れていく。

 僕はこの町へ来て初めて、背筋がぞっとする思いをした。道端の喧嘩に刃物が出てきたときよりも、それを恐いお兄さんおじさんたちが片付けていったときよりも。

 けれど僕がぞっとしたからといってここは何も変わらない。ジュイエは相変わらず適当な時間にオープンするし、常連客は新人の僕に平気で「いつもの」と注文するし、大通りではカップルが掴み合いの喧嘩をして、すかさず賭けが行われる。キノコちゃんだって捜査が終了したことに対して「だろうね」で済ませた。

 僕は「人間のゴミ捨て場」の意味をはき違えていたのかもしれなかった。

 それでも日常は続いていく。この町の正体が何であろうとも、僕の居場所も住人たちの居場所もきっとここにしかない。

 

その日、僕もキヨくんも夜から仕事で、効きの悪いエアコンで無理やり涼しくした部屋の中、ぐっすりと昼寝をしていた。その眠りを覚ましたのは、キヨくんのスマホが鳴る音だった。

 僕たちは揃って起きたけれど、アラームを設定した時間にはまだ早かった。電話がかかってきているのだ。

「友哉くんだ」

 キヨくんは寝起きのかすれた声でつぶやいて電話に出た。

「もしもし、どした?」

 それを僕はぼんやりと見ていた。寝起きでまだ眠いということもあったし、友哉くんの声が聞こえないのでそうするしかないということもあった。けれどすぐにキヨくんの反応が一変した。

「えっ、また!? うん、うん」

 いくつかの相づちのあと、路地裏にあるあるらしいお店の名前を言って電話を切った。

「どうしたの」

 問うと、キヨくんは少し興奮した面持ちで言った。

「またクリーム爆弾だってよ!」

 

 そこは大通りのビルとビルの間の狭い道にある、小さなデリヘルのお店だった。狭い道にぎゅうぎゅうと人が集まって、店の中を覗こうとしている。今回は立入禁止の黄色いテープは張っていなくて、警官がひとり入り口に立っているだけ。

 その人混みの中に、相変わらずけだるい声でビールを売っている友哉くんがいた。ビルとビルの間で日陰にはなっているものの、エアコンの室外機が並んだ路地裏はまさに地獄の窯のように暑かった。こめかみから汗がこぼれる。着替えたばかりのTシャツが汗に滲む。

「おう、来たな」

 そう言って手を挙げた友哉くんもまた暑さにうんざりしているのか、眉間にしわが寄っていた。Tシャツの袖をまくりあげてタンクトップのような姿になっている。おまけに前髪を持ち上げてピンで止めていた。その額にも汗が滲んでいる。

「くそ暑いな」

「ビール冷たいぞ」

「じゃあ、一本。イチはラムネか?」

 振り向いたキヨくんに頷いて見せると、僕の分のお代まで払ってくれた。と思ったら、ラムネと交換というように手のひらを差し出してきたので、僕は素直に百円玉を乗せる。おつりは? と訊ねられたけど、首を横に振った。何の加減か僕のお財布には妙に百円玉が貯まっていて、一枚差し出して四枚返ってくるのはちょっと気が乗らなかったからだ。

「全然店の中見えねえな」

 こぼすキヨくんに、ビールを売りさばきながら友哉くんは答えた。

「俺少し見たぞ。受付の辺りにクリームが飛び散ってるだけだったな」

「友哉くん、気づくの早かったんだね」

 僕が苦労しながらラムネを開けて言うと、「勤勉に町をうろうろしてりゃ騒ぎが起こればすぐに気づくよ」と客に小銭を渡しながらにやついた。「ありがとやんしたー」

 人混みをかきわけて、ようやく店のオーナーがやってきた。入り口に立っていた警官がその人のために場所をあけると、いまのうちだと言わんばかりに中を覗こうとする人々が押し合いへし合いになった。僕は暑くて暑くて参加する気にもならなくて、少し離れたところでビールを売る友哉くんと並んで立っていた。キヨくんは果敢にも人混みの中に突入を試みている。

 警官の怒鳴る声、人々のざわめき、室外機の回る音、熱風、体を伝う汗、喉を下りる冷えたラムネ、路地裏特有に湿ったような生臭さ。五感をフルに刺激されてぼんやりとしてくる。

「おい、一臣、大丈夫か?」

「あ、うん、暑くてぼうっとしちゃって」

 相変わらず眉間にしわを寄せた友哉くんが心配そうに頭をぐしゃぐしゃと撫でてきた。

「熱中症はこえーぞ。とりあえず路地裏から出たらどうだ? 俺が呼んでおいて何だけど見てすげーおもしろいもんじゃねえから」

「うん、そうする。ありがとう」

 気をつけろよ、と友哉くんに見送られて僕は路地裏の出口辺りまで出ていった。するとそこで人とぶつかりそうになり、反射的に謝罪の言葉が出た。

「ごめんなさい」

「こちらこそ、イチくん」

 え、と思って顔をあげると、そこにはいたるくんがいた。この暑さの中でもなんだかクラゲを見ているときのような涼しさがあるいたるくん。汗をかいているようにも見えない。暑くないのかな、と思っていると、いたるくんが言った。

「クリーム爆弾の場所ってここの奥だよね?」

「そうだよ。もしかして見に来たの?」

「うん。さっき通りすがりに聞こえたから」

「意外。いたるくんってこういうことに興味ないかと思ってた」

「そんなことないよ。人が集まるところは好きだし」

 その言葉にいたるくんのさびしさを思い出し、そっか、と一言つぶやいた。

「イチくんは見てきたの?」

「人が多くて見えなかったよ。ちょっと暑くてぼうっとしてきちゃたから出てきたんだ」

「大丈夫?」

 さびしくて優しいいたるくんの声。

「うん。大丈夫」

「ならいいけど、気をつけてね。僕はちょっと見てくるから」

「キヨくんいるよ」

 あはは、といたるくんは柔らかく笑い、人混みの中へ向かっていった。その背中は細くてさびしげで、どうやってもあの人混みには勝てないだろうと思うのに、彼はどうしてか堂々と向かっていくのだった。そうして、するすると人の間に消えていくいたるくん。ああして人に囲まれていると彼のさびしさは少しでも和らぐのだろうか。

 そう思いながら大通りへ振り返ると同時、肩に軽い衝撃があった。人とぶつかったのだ。謝ろうと思うより早く、

「ごめん」

 とその声は僕の耳に届いた。女の子の、けれど低い愛想のない声だった。

「こっちこそごめんなさい」

 ビル壁の延長のように立っていた僕が悪いのだ。

 女の子は僕より少し低いくらいの身長で、淡い黒髪をひとつに束ねて高いところで結んでいる。下ろせば背中にかかるくらいの長さだろうか。その瞳は意思が強そうで、血色の良いくちびるは一文字に結ばれていた。大きめのTシャツとジーパンのショートパンツからは細くて長い手足が伸びていて、爽やかで健康的だ。見た感じ、同じくらいの年齢に思えた。

 僕は避けようと思って左に動いた。すると同時に女の子もそちらへ動く。

「あ、ごめんなさい……」

 言いながら今度は左へ避けると、女の子もそちらへ動いた。

 なんだかベタなことをやらかしてしまって、気恥ずかしいやら申し訳ないやらでもう一度謝ると、女の子はふっと小さく息を漏らした。笑ったのだ。

「謝ってばっかり」

「ごめん……」

「ほら、また」

「あ……」

 僕は本当に恥ずかしくなって俯いた。女の子のぺたんこのサンダルと、宵闇のような青いつめが目に入った。

 笑っていくぶん柔らかくなった声から、また愛想がなくなる。

「あれ、クリーム爆弾?」

 そう言って女の子は人だかりを指差す。

「うん、そう」

「あんたも見に来たの」

「うん。きみも?」

「あたしは片付けに来た」

「片付け?」

 僕が首を傾げると、女の子は表情ひとつ変えずに頷いた。

「店長に呼ばれて。あたし、あそこで働いてるから」

「え……」

 僕は思わず女の子の顔を凝視してしまった。あの店は、デリヘルだ。どんな店かは前にキヨくんに聞いたから知っている。目の前の意志の強そうな瞳と、健康的な姿からは想像がつかない仕事だ。

 そうすると、女の子がもう慣れたと言うように「これでも十九才だから」と淡々と告げた。

「十九!?」

「よくそういう反応される」

 驚いて言葉が出ない。同い年くらいに見える。僕が十五歳だから、つまり、四つも年上ということになる!

 僕が金魚のようにくちをぱくぱくさせていると、女の子はまた小さくふっと笑った。

「あんた、おもしろいね。この町のにおいがしないっていうか」

「あ、うん……来たばっかりなんだ」

「へえ、なるほどね。あたし、佳奈っていうんだ。あんたは?」

「一臣」

「かっこいい名前だね」

 低い声が、けれど無愛想でなくそう言って、僕はなんだか頬が熱くなった。

「じゃあ、そろそろ行くよ。佳奈って本名だからあたしを指名するときは使わないで」

 彼女はそこで初めていたずらっぽく笑った。それは子供のようなのにどこか大人びてもいて、僕の心臓がどきっとする。

「し、指名とかしないよ」

「冗談だよ。じゃあね」

 そう言って佳奈さんは軽く微笑んで、路地裏へと入っていった。その背中はまっすぐで、結んだ髪が揺れていて、彼女のまわりだけ夏の砂浜みたいな空気が漂っていて、その空気とじゃれ合うように長い手足が動いて、なんていうか、すごくきれいだった。僕はその後姿が見えなくなるまで、暑さも忘れて見入っていた。

 

 ♯♯

 

 それからもクリーム爆弾事件は連続して続いた。爆弾より、回を重ねるにつれて警察があまり介入しなくなっていったのが僕には少し怖かった。

 加えてあちこちでクリームが飛び散るたび、まとこしやかに語られるようになったのは、爆弾が置かれるのは「再開発賛成派の人たち」の勤め先や居場所だったりする、ということだった。

 最初の税理士事務所も、今のところ最後のスナックも、すべて町の再開発賛成派だと囁かれている。中にはおおっぴらに賛成を示していたところもあるからなおさらだ。

 だとすれば犯人は反対派で、この町の内紛ということになり、「強い」この町に警察は手を突っ込まない。

 僕はジュイエで洗ったコップを拭きながらぼんやりと考えていた。聞いたことはないけれど、マスターやお姉さんがもし賛成派だったらどうしよう、ということをだ。

 聞くのは怖い。なぜなら僕はこの町に来て間もないながらも反対派だということもあるし、クリーム爆弾犯に狙われるのではという思いもある。

 朝、ジュイエにやってきて店内がクリームまみれなのを見つけたときのショックといったらないだろう。それは誰かに確実に敵意を向けられているということなのだ。

 僕は家のことを思い返した。

 父は僕をいないように扱ったし、弟たちは嘲笑った。すごくつらかったけれど、敵意というにはそれはかわいすぎたのではないだろうか。僕は今まで、敵意という敵意を向けられたことがなかったのではないだろうか。

 でもそれが想像するだけでこんなに怖いことなんて。僕だけではない、この居心地の良いジュイエが誰かに憎まれるなんて考えたくもなかった。

 クリーム爆弾事件はたしかに警察の手から離れたかもしれない。最初の爆発と違ってクリームが飛び散るだけの被害は軽いと言えるかもしれない。でもそこに込められたものはやっぱり明確なる敵意なのではないだろうか。

 町の雰囲気は特に変わらない。今ではどこかでクリームが爆発したと聞いてもあまり人だかりもできなくなったくらいだ。飽きられている。それでも犯人は粛々と敵を狙っているのだ。怖かった。

「難しい顔してどうしたの」

 お姉さんの優しく明るい声がする。

 パッと顔をあげると、お姉さんが僕の顔を覗き込んでいた。それに僕はいつまでも同じコップを拭き続けていた。

「今日は心ここにあらずだね」

「すみません……」

「いいよいいよ、ヒマだし」

 たしかに店内は常連のひとりもなく、がらんとしている。もともと忙しい店でもないのに、こんな日が続くと生意気にも経営を心配してしまう。

「ちょっとナーバスになっちゃうよね」

「え?」

 お姉さんの言葉に少し驚くと、彼女は苦笑した。

「クリーム爆弾のこと考えてたでしょう。違う?」

「あ……ううん、違わないです。どうしてわかったんですか?」

「やっぱりね、いくら怪我人もたいした被害もでないからってこれだけ犯罪が続いたら神経質にもなっちゃうよ。特にきみはこの町に来て浅いんだし」

「お姉さんは不安じゃないですか?」

 訊ねると、お姉さんはうーんと視線をさまよわせた。

「そうねえ……私も友達の店が被害に遭っちゃったから不安と言えば不安かな」

「お友達が?」

「キャバ嬢なんだけど。最初は掃除が大変だったって怒ってたけどだんだん心配になってきたらしいのよね。なんて言ったらいいかわからないけど、誰かわからない人の悪意って怖いなって」

 その人も僕と同じようなことを思ったんだ。いくらいたずらのようなものだとしても、犯罪は犯罪だ。犯罪は、悪意だ。

「あの、そのお友達ってもしかして……再開発賛成派だったり……?」

 僕が慎重に訊ねると、お姉さんはぱっと表情を変えた。いつもと同じ、穏やかな雰囲気に。

「その子は違うのよー。ただ店長が賛成派っぽいことはその子言ってたから、やっぱり噂は本当なのかなって思ったりして」

「あの、マスターとお姉さんはどっちなんですか……?」

「どっち、って賛成か反対か?」

 黙って頷くと、お姉さんが突然破顔した。

「もしかしてうちの店も狙われるかもと心配してた? ごめんね、心配かけて。私もマスターも反対派だから一応安心して大丈夫だよ」

 マスターも無言でこっくり頷いている。

 お姉さんはわしゃわしゃと僕の頭を撫で回して、まるで犬になった気分だ。

「この町には、この町にしか居場所を得られない人間がたくさんいます。私もそのひとりです。再開発されては、この町はこの町でなくなってしまう。人間のゴミ捨て場ではなくなってしまいます」

 マスターの落ちついた低い声が僕をなだめるように響く。

「しかし人間のゴミ捨て場なんて、言葉のあやですよ。我々はゴミではない。ましてや捨てられてなどいない。そうせざるを得なかったとしても、それでもここにいることを選んだのです」

「さすがマスター、いいこと言うー」

 お姉さんが笑う。

 けれど僕は奇妙な感動に包まれていた。

 僕はここに来て、ゴミになったのだと思っていた。ゴミになるべくしてここへ来たのだと思っていた。けれど違うのかもしれない。マスターは僕たちはゴミではないと言う。そして、ここしかなかったのだとしても、選んだのは僕なのだ、と。

 不安が完全に払拭されたわけではなかったけれど、僕は僕というひとりの人間なのだと思えたことが、僕に強い自信を与えてくれた。

 自信を得た僕がまず最初にしたことが何かというと、佳奈さんに会いに行くことだった。

 僕は佳奈さんという名前と、勤めている店の場所しか知らない。それに店を利用できるような年齢でもないし、自信は得てもそんな度胸はなかった。

 だから開店時間より少し前に、佳奈さんとぶつかったあの町角に行ってみるくらいしかできなかった。

 どうして急に佳奈さんに会いに行くのかというと――僕にもよくわからない。ただこの町や仕事に似合わない若い鹿のような容姿をしているのに、決して浮いていないその妙なアンバランスさが心に引っかかってならないのだった。

 僕はたぶんまだ町から浮いていて、いつになったら馴染めるのだろうと悩むくらいなんだけれど。もしかしたら佳奈さんは小さい頃からこの町で育っているのかもしれない。だから浮かずに馴染んでいるのかもしれない。

 つまりは、もっと話してみたかったのだ。何を話すのかはよくわからない。

 家ではいないものとして扱われたり嘲笑われたりしてきた僕が、人間のゴミ捨て場に来てゴミになったと思った。やっと役割が何もなくなったと思った。

 けれど、例えこの町が人間のゴミ捨て場と呼ばれていようとも、僕はひとりの人間だ。そうせざるを得なかったとしても、ここにいることを選んだのは僕だ。僕は人間だから、会いたい人に会いに行くことができる。それだけのことだった。

 そうして町角に立ってみたはいいけれど、これってストーカーに近くないかな? と不安になってきた。それに暗くなるにつれ人通りはさらに増え、この中からおそらくまっすぐ店に向かう佳奈さんを見つけられるかわからなくなってきた。店の前で待つのではさらにストーカーっぽい。どうしよう、そもそも今日出勤なのかも知らないな、などとすべてが見切り発車であったことがここにきて露呈してしまった。

 自信といっても変な自信がついてしまったのかもしれない。

 ここにいることを選んだのは僕なのだから、この町も僕を受け入れてくれているに違いないと思い込んでしまった。だからきっとすべてうまくいく、と。

 頭が急激に冷えて、何やってるんだろ、とため息をついて、通行の邪魔になるだけだと思い路地に下がると、低い無愛想な、けれど大きな声が耳に届いた。

「あれ、もしかして前に会った、お客じゃなくて」

 ハッと振り返ると、店の前辺りに佳奈さんが立っている。僕の名前を思い出そうとしているのか、「ほら」とか「あの」とかを繰り返している。

「一臣です」

 近づいていって名乗ると、佳奈さんは「ああ」と頷いた。そしていたずらっぽくにやつく。

「もしかして本当にあたしを指名しに来たの?」

「いや、そんな! 僕はまだ十八歳にもなってない……」

「冗談だよ、冗談!」佳奈さんは快活に笑った。「十八になったらまた来てよ」

 僕は恥ずかしくなって返事もまともにできなかった。

 佳奈さんは相変わらずこの町の住人には思えない爽やかで健康的な見た目をしていて、揺れるポニーテールが愛らしかった。

 それにしても店の方角から僕を呼んだということは、大通りから店へやってきたわけではないということだ。盲点だった。僕は以前佳奈さんとぶつかったのが大通りに面した場所だったからこちらから来るだろうと思いこんでいたのだ。やってきただろう道は方角的には大通りを挟んでジュイエと真反対ということになる。

 どこに住んでいるんですか、そう訊こうと思ってなんだか踏み込みすぎな気がして言葉を飲み込んだ。

「一臣は誰かと待ち合わせ? あたしこれから仕事なんだ」

「あ、いえ、特に用事はなくて」

「そうなの? 暇してるんだ。あたしも休みほしいなー」

「忙しいんですか?」

「これでも人気の嬢なの」

 そう言って佳奈さんは体で曲線を描いてみせた。不思議と色っぽくはなくて、少女のような容姿に不釣り合いなポーズだ。佳奈さんは自身でもそれはわかっているのか、ケタケタと笑い出した。

「一臣、怪訝な顔してる!」

「そ、そんなことは!」

「いいのいいの。私は年齢のわりに幼く見えるところが人気だから」

 僕はそれでまた彼女の職業を思い出して、なんだかぐっと首が絞められるような気がした。どうして彼女はこの仕事をしているのだろう。

 そう思っていると、佳奈さんが「じゃあ」と店へ入って行こうとする。

「じゃあね。仕事行かなきゃ」

「あ、あの!」

 僕は思わず佳奈さんを呼び止めていた。

「あの……また、会えますか?」

 薄暗く細い路地にネオンが光る。大通りの雑踏と喧騒。この路地でも人が行き交う。佳奈さんは驚いたように目をぱちくりさせている。

 僕は自分でも何を言ったのかよくわかっていなかった。突然くちから飛び出してきた言葉だった。

「あたしに?」

 佳奈さんは自分を指差す。

「はい」

「プライベートでってことだよね」

「はい」

「ふうん」

 佳奈さんの視線が僕をスキャンするみたいに行ったり来たりする。内面まで写し取られているみたいで緊張する。僕も知らない内面も。

 そして佳奈さんはニッと笑った。その笑い方をするとさらに幼く見えた。

「いいよ」

「ほんとですか!」

「うん。お友達になろってことでしょ?」

 そういうことなんだろうか、と僕は思いながら、思い切り頷いていた。また確実に佳奈さんに会えるのならお友達だろうが知人だろうがなんでもよかった。

「今度ゆっくり話そうよ。交換する?」

 そう言って佳奈さんはスマホをかばんから取り出してみせ、メッセージアプリを立ち上げる。僕も慌ててアプリを立ち上げ、IDを交換した。

「じゃあ、暇な時にでも連絡するー」

 バイバイ、と佳奈さんは手を振り店へ入っていった。デリヘルの店へと。

 そこでふと、佳奈さんの店もクリーム爆弾の被害に遭っていることを思い出し、一体誰が賛成派だったのだろうと思った。

 僕が佳奈さんの消えた店の入口をぼんやり眺めていると、路地の奥からタマとミケが甲高い笑い声をあげながらやってきて走り去って行った。ふたりとも服が以前見かけたときと同じようなもののような気がした。


 それから数日、僕は佳奈さんからの連絡を待って過ごした。佳奈さんが連絡すると言ったのだからこちらからはしないほうがいいのかななどと考えていると、時間がいつもより長く伸びていく感覚がした。

 僕がご飯時にもスマホを手放さないものだから、キヨくんにも「なんでスマホばっか見てんの?」と不審がられたけれど、どうしても手放せなかった。

 そうやって佳奈さんからの連絡を待っている間にも、クリーム爆弾は飽きもせず毎日どこかしらで爆発した。どこかの弁護士事務所、歯医者、ホストクラブに不動産屋。回を重ねるごとに警察の捜査はなおざりになっていく。相変わらず子供の指紋が出るらしいけれど、どこでもタマとミケマは訪れたことがあるとかいう話で、そもそも彼らが爆弾を作れるはずもなければ爆発させる理由もない、といういつもの結論に落ち着くけれど、大体、子供の指紋が出るというものからしてまず噂でしかなく、被害者には気の毒だけれど、話題の新鮮味は日々落ちていくばかりだった。

 しかし、いつ終わるとも知れないうえに、確かな悪意を向けられるという怯えのような感情が人々を包んで、町ごと慎重にさせている感じはした。

 

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