真夏のゴミ捨て場

朔こまこ

第1話・人間のゴミ捨て場

 ざわめきが聞こえる。

 悲鳴にも似た笑い声、混ざる怒号。反響し、重力を乱して上下左右を狂わせる音。

 そっと目を開けると滲んだ視界がゆっくりと焦点を結んでいく。夕暮れすぎの薄暗闇に浮かぶ極彩色の町。途切れない人の波。重なりあうようにして並ぶおびただしい数の自転車。香ばしい油のにおい、甘い華やかな香り、得体の知れない生臭さ。目も耳も鼻も、情報でいっぱいになる。海の中で流れに飲まれるように、景色がまわる。目が眩む。

 ここはどこだろう。

 そのとき僕は駅の前にぼんやりと立ち尽くしていた。

 

 ♯♯

 

 目が覚めたのは正午も過ぎた頃だった。

「おい、イチ、飯食いに行こうぜ」

 キヨくんの呼びかけで意識が浮上する。寝起きのよれよれに掠れた声だ。

 陽は高く、部屋の中はすでにかなり蒸し暑い。キヨくんは汗だくの体を引きずりながらベッドを降り、テーブルに放り出していたエアコンのリモコンをつかんだ。

 古くていまいち効きの悪いエアコンは、もう買い替え時を遥かに過ぎているのだろう。最新のものなら省エネ仕様だから買い替えたほうが電気代が安くなる、と彼はぼやいていた。たまたま屋台で隣り合わせた見知らぬ男から教わったのだそうだ。

 最新エアコンにはもちろん心惹かれるけれど、如何せん僕らには先立つものが少ない。そもそも謳い文句となりがちなエコと省エネと節約の区別もいまいちついていなくて、今度ネットで調べようとキヨくんに誘われた。

 エコとも節約とも袂を分かつエアコンからは、特に冷たくも熱くもない風がごうごうと吹き出ている。

 僕は汗まみれでまだ寝足りないような気のする鈍い体を懸命に動かした。おそらくそれはいもむしに似ていただろう。それからゆっくり伸びをすると唸り声が出た。

「今何時……?」

 もっそりと起き上がりながら聞くと、キヨくんのだるそうな声が返る。

「12時37分」

「お昼だ……」

「腹減った」

 僕たちはぬるい風をあびながら、黙って着替えをした。汗に湿ったシャツを脱ぎ、順番に顔を洗ってから洗濯カゴに入ったTシャツを着る。脱いだものは洗濯機へ。

 僕はそこに一緒に敷布団のシーツも放り込んで、洗剤、柔軟剤を加えてからスタートボタンを押した。もう洗濯も慣れたものだ。

「キヨくんもシーツ洗う?」

「俺一昨日換えたばっかだからいいや」

 キヨくんはエアコンの替え時はわかれども、シーツの換え時はいまいちわからないらしい。換えたいときに換えればいいと言っていたけれど、僕はどうもこれほど汗をかく日々だと洗わないことには気が済まない。潔癖かと呆れられる。そんなつもりはないのだけれど。

「行くぞー」

「うん」

 エアコンはつけっ放し、洗濯機は回しっ放しで僕たちは部屋を出た。金属製の扉の閉まる音が、狭いコンクリの廊下に響く。窓がないからいくぶん空気はひんやりしているけれど、外の暑さの予感みたいなものもしっかり漂っていた。

「今年の夏も猛暑かなあ……あーあ」

「テレビで酷暑かもって言ってた」

「こくしょ?」

「酷く暑いって書く」

「げえ」

 狭い階段に、二人分の足音と声が反響する。古いアパートの玄関からは、目を開けていられないほどの眩しい夏の光が輝いていた。

 

 大通りは平日昼間でも人でごったがえしている。昼夜問わず、年中無休でこの町は賑わっているのだ。

 電車の駅舎から真っ直ぐ南に向かって伸びるこの大通りは、片側二車線で、両脇には古い雑居ビルが立ち並んでいる。

 まず目に付くのはパチンコ屋と風俗店だ。主に風俗店を中心に、この町は栄えてきたのだそうだ。けれど風俗店ばかりというわけでもなくて、歩道にまではみ出す勢いで商品を並べる雑貨屋や清潔ではない定食屋、中古の家電やPCパーツを扱う店、謎の漢方を売る店だのアダルトグッズの店だの輸入茶葉を扱う店だの、その店構えはごちゃごちゃと多岐に渡っている。

 それだけじゃない。歩道にはびっしりと露店や屋台が並び、一部は車道にまではみ出している始末だ。車道には路上駐車(放棄?)の車も多いし、片側二車線とは名ばかりだった。

 その道路を縦横無尽に人や自転車が巣を見失った蟻のように我がもの顔で行き来する。本来主役であるはずの車は、その人々の合間を縫うように徐行運転で進むのが基本だ。

 露店や屋台だって負けじとめちゃくちゃだ。100%を謳うフルーツジュースの移動販売車に始まり、ラーメン屋、弁当屋と続く。本当にジュースが100%なのかは怪しいところだとキヨくんは笑うけれど、この辺はまだまともだった。他にはパッケージのないDVDやゲームソフトを山ほど積み上げた露店、薄汚れた割烹着を着たお爺さんが路上で謎の肉を揚げている屋台、積まれた古着に店員が半ば埋まっている露店。その他にも、安い値段に見合った味の食べ物を出す屋台が飽きる暇もないほど並んでいる。

 ビルの壁には巨大な看板とド派手な垂れ幕。空には小振りなアドバルーンが浮き、小さな看板は頭上で歩道側に突き出しては重なり合う。

 そしてそこを行き来するのは平日昼間からお酒を飲み、店先で麻雀をし、平気で車道を横切っては、起こった小競り合いで賭けをするどうしようもない人ばかり。

 この町の通称は、人間のゴミ捨て場。

 

 

「キヨくん何食べる?」

 居並ぶ屋台を眺めながら問う。

 太陽がほぼ真上から射していて、おまけにアスファルトやビル壁の照り返しもきつかった。上下からの熱線攻撃にキヨくんの食欲はあまり上昇していないようだ。ぐったりとした表情と同じように、根本の黒い金髪プリンの髪の毛もしなだれて見える。うんざりした様子で辺りを見回すキヨくん。

「うーん……おまえは決めたの?」

「僕おにぎり食べたい」

「おにぎりかあ……」

「半分は麦茶でお茶漬けにしてもらうんだ」

 僕はうきうきとして言った。我ながら良いアイディアだと思うのだ。冷たい麦茶をおにぎりにかけて、崩しながら食べる。この汗のしたたる暑い暑い日に、ちょっと心が躍るような食事だ。

 キヨくんも心が踊ったのか、目に輝きが戻ってきた。

「それいいかもな。俺もそうしよ。となれば中身は鮭一択」

「野沢菜だって鮭に劣らないよ」

「じゃあ俺が鮭、イチが野沢菜」

「うん」

 楽しみ、と僕が笑うとキヨくんも少し笑った。僕は食欲がなくなったという経験がほとんどない。僕だけがご飯を食べるのはなんだか気の引けることなので、キヨくんもきっちり食べてくれると嬉しい。

 おにぎりの屋台は駅への上り道側、ちょうど真ん中辺りにある。国産米と国産海苔のおにぎりを安く出すお店だ。本当に国産なのかはわからないが、味は良い。具の種類も結構多いし、お茶漬けのサービスもやってるから常に客足がある人気店だ。

 今日も屋台の席は全て先客で埋まっていた。しかたがないので歩道に勝手に広げてあるアウトドア用の折りたたみテーブルの席へつく。パラソル付きだ。すぐそばを通行人が行き気するのでちょっと落ち着かないのが欠点だろう。

 僕たちはそれぞれ野沢菜とおかか、鮭とたらこのおにぎりを注文した。ビニール手袋を両手にはめたガタイのいいおじさんが握ってくれるそれはずいぶんと大きい。でも僕たちは食べ盛りだから、起き抜けの炎天下でも二個くらいおいしくたいらげる。

 しばらくしてから、おにぎりの載った子供用みたいなプラスチックの皿と器をおじさんが運んでくる。

「茶はセルフサービスだ」

 言いながらおじさんは屋台の隅に置いてある小型冷蔵庫を指差した。

「今日は忙しいからな、手が空かねえ。自分で入れてくれ」

「おう。客多いの?」

「ああ、ひっきりなしだ。みんな米が食いたい気分なんだろ、このくそ暑いのにわざわざご苦労なこった」

 お客に言う台詞ではない気もするけど、おじさんに悪意がないのはわかるし、あったとしてもここでは別段問題にならないのだ。悪くて掴み合いの喧嘩になって、お客が食べかけのおにぎりを持って避難しながら、誰が勝つか賭けを始めるだけ。

 もし刃物なんかが出てくるようなら、辺りにたむろしている暇を持て余した人たちや住人が群がってきて袋叩きに遭う。それでも手に負えないのなら、恐ーいお兄さんやおじさんがたがどこからか現れて、何と言うべきやら、そっと処理をする。そういうふうに、この町はなっているのだ。僕はそれをこの一週間で学んでいる。

 今日この後の予定などを話しながらおにぎりをひとつそのまま平らげた。

 忙しいとおじさんが言ったとおり客足は一向に途絶えず、巨大な業務用炊飯器はすでに空に近い。空になったらその時点で店じまいなのか、次が炊けるまで一時閉店なのか、それはわからない。お客たちは席が空いていないのを見て、大抵がおにぎりを頬張りながら立ち去っていった。

「イチ、俺もー。俺も麦茶」

「はーい」

 いそいそと冷蔵庫にお茶を取りに行ったら、背中に同じくいそいそしたキヨくんの声がかかる。

 夏は冷たい緑茶と麦茶、冬は熱い緑茶とほうじ茶、春と秋は両方が用意されているのだそうだ。もちろんお茶を頼めばそのぶん料金は請求されるけれど、この町では至れり尽くせりなほうだと思う。今日はセルフサービスだけど、おじさんの手が空いていればおじさん自ら注ぎに来てくれるわけだから。

 麦茶の入ったボトルを抱えて戻る。僕がふたつの器に麦茶を注いでいるとき、キヨくんが突然すごく嬉しそうな舞い上がった声を上げた。さっきまでとは比べ物にならない。

 顔を上げると、そこにはこの一週間で知り合いになった人の姿があった。

 細すぎない白い足。肩にかかる栗色の髪がゆるやかに波打って揺れている。眠そうな垂れ目が今は不機嫌そうだ。キヨくんは、まるで夢の中の蝶みたいな麗しさと彼女を褒め称える。

「リノさん!」

 キヨくんが嬉々として呼びかけると、彼女はゆっくりと振り返りけだるい表情を少し明るくして口の両端を持ち上げた。

「お、清顕じゃん。いっちゃんも」

 オフ用だと言う少し低くかすれた声でリノさんは近寄って、テーブルに半ば腰掛けるように寄りかかる。

「こんにちは」

「はい、こんにちは」

 挨拶をすると、リノさんはまるで先生みたいな丁寧さで挨拶を返してくれる。安心するやりとりだ。そう思ってにこにことしていると、向かいでキヨくんが黒々と煮えたぎった粘着質の目と険しい顔で僕たちを見ていた。食いしばった歯が鳴りそうなほどだ。彼は僕だけが「いっちゃん」とアダ名で呼ばれていることが気に食わないのだ。

 するとリノさんはいたずらっぽく、且つセクシーに目を細めた。

「だっていっちゃんかわいいから」

「俺もかわいがってよ!」

「清顕はもう擦れてるからなあ」

「ひでえ! いいじゃん、擦れてたって!」

 だめー、とリノさんはけらけら笑って必死に食い下がるキヨくんをあしらった。

 僕はキヨくんに助け舟を出すつもりで声をかけた。

「リノさんもこれからお昼ですか? よかったら一緒に食べませんか」

 キヨくんの顔が輝いて、そっとサムズアップを出してきたのを僕は見逃さなかった。けれどリノさんの返事はつれない。

「あー、ごめんね。お店の子と待ち合わせしてるの。また今度ね」

 この炎天下でリノさんは汗ひとつかかず(少なくともそのように見える)、まさしく指の先をすり抜ける蝶のように優雅に僕らをかわしていった。がっくりと項垂れるキヨくんは、意気消沈した声を絞り出す。

「アイリさんとすか」

「そう。あの子も夕方から仕事なの。清顕は今日も来るんだっけ?」

「夜からだけど」

「そっか。じゃあよろしくね」

 リノさんはひらひらを手を振り、僕らに麗しい余韻だけを残して人波に乗って立ち去っていった。

 キヨくんはパラソルの日陰の中で、どんよりと重い溜息をつく。それを横目に麦茶のボトルを冷蔵庫に戻しに行き、それから麦茶の中のおにぎりを少しずつ崩して口へ運んだ。冷たい麦茶と熱いおにぎりが混ざり合ってぬるくなっている。でもさっぱりとしていて、さらさらと喉を通るそれはおいしい夏の食べ物だった。僕がおいしく野沢菜おにぎりin麦茶を食べているその間も、キヨくんはこれ見よがしにため息をつくばかりだ。

 喧騒の中しばらくおにぎりを堪能してから、僕は口を開いた。

「どうしたの?」

「遅えよ……」

 もっと早く訊ねるべきだったとキヨくんは憤る。

「俺がこんな落ち込んでるのになんで悠長に飯食ってんの? おまえはもっと俺に優しくしろよ!」

「充分してると思うんだけど……」

「充二分に!」

 面倒くさい人だなあと思ったが、僕は口には出さなかった。

「おまえばっかりリノさんにかわいがられてるんだから、その分俺に親切にしてくれていいはずだ! ずるい! おまえはずるい!」

 ぶうぶうと子供みたいにくちびるを尖らせてずるいコールを上げるキヨくん。通りすがる人たちが幾人かこちらに視線を向けている。

「知り合ったばかりだし、リノさんにとっても僕みたいのは珍しいんだよ。きっと今だけだよ」

「確かにおまえは珍しいけど」

「でしょ? キヨくんが最初にそう言ったんだよ」

 むむ、と眉間にしわを寄せて彼は黙ってしまった。僕は食事を再開させる。

 しばし人の行き交う喧騒と、注文に応えるおじさんのぶっきらぼうな声だけが僕らの間を通り抜けた。

「キヨくんも早く食べなよ。夜から仕事でしょ。それまでに少し寝たほうがいいよ」

 不満気に僕を見つめるキヨくんが本格的に面倒くさくなって、食事を促す。彼は親切で明るくて、でもドライな部分もある人だとこの一週間でわかってきたけれど、どうも僕がリノさんにかわいがられている(と彼が感じる)と、途端に困った人に変貌するのだ。馬鹿みたいな嫉妬はやめなさい。ジュイエというカフェのお姉さんにそうお説教をされたこともある。全く、本当に困ったものだ。

 ともかくキヨくんもおにぎりに手を付け始め、すぐに機嫌は良くなった。少しずつではなく、一気に全部崩してしまう派のキヨくん。小さな器になみなみとお米と海苔が浮いている。

 おにぎり屋のお客は相変わらず引きも切らずだ。

 

 ♯♯

 

 昼食のあと、中古電気屋を冷やかしてから部屋へ帰った。

 細長い店内には上から下まで所狭しと商品が詰め込まれていた。その中にはエアコンもいろいろあったけれど、決め手に欠けると言いながらキヨくんははなから買う気を見せていなかった。もしかしたら他に具体的に目をつけているものがあるのかもしれない。あとはよくわからない古いラジオや、最新のタブレットを触って楽しんだ。

 帰ってきた室内はもう充分涼しくなっていて、洗濯機もしんと静まっていた。キヨくんは「少し寝るかあ」と後頭部をかきながらテレビをつけている。

 僕は洗濯機から冷たい洗濯物をひとつひとつ取り出してカゴにつめ、また部屋を出る。

 洗濯物を干すのは僕の役割だ。キヨくんの部屋に住まわせてもらっておいて何もしないのも居心地悪いので、少々強引に役割にしてもらったのだ。彼は洗濯とか掃除には無頓着みたいだからちょうどよかったと思う。

 薄暗く少しひんやりとした階段を上がっていく。日差しもなく、汗をかいた体に心地よい温度だ。

 洗濯物のつまったカゴを両腕で抱え、一段一段と階段を上がりながら、僕はキヨくんの部屋へ住まうことになったあの日のことを思い返していた。あの、駅の前でぼんやりと大通りを眺めていた日のことだ。

 

 電車を降りて駅から出ると、そこはネオンの輝く騒々しい世界だった。テレビでも見たことがあるか怪しい、初めての世界だ。

 香ばしい油の匂いにお腹を鳴らして、その初めての光景を呆然と眺めていると、ひとりのおじいさんがこちらを見ていることに気がついた。まるで休日のテーマパークのように人でごった返していて、その誰もが大声で笑ったり険しい顔で舌打ちをしたり、千鳥足で歩いていたり物憂げに俯いていたりと素通りしていくのに、そのおじいさんは小さな横断歩道の向こうで立ち止まって僕を見ているのだ。

 外灯とネオンに照らされたグレーの作業着。少し背が丸まっていて小さな枯れ木みたいなおじいさんだけれど、寂れた雰囲気はなくむしろ旅人のような軽やかさが感じられる。不思議な空気だ。そういう人を僕は初めて見た。

 おじいさんはやがてゆっくりと手招きをした。確かに僕を呼んでいる。

 行く当てどころかこれといった目的もなかった僕は、信号が青に変わるのを待って素直におじいさんのところへ歩いた。その旅人のようなおじいさんは猥雑なこの通りになぜかとてもよく馴染んでいた。

 絶えず人の行き来する道の端で、おじいさんは僕を上から下まで点検するように眺める。背の丸まった状態で大体僕と同じくらいの身長だ。

 僕はものを考えることにも疲れていたから、ただ黙っておじいさんの前に突っ立っていた。

 点検の終わったおじいさんは、口元に柔和な笑みを浮かべる。そして驚くべきことを口にした。

「おまえさん、家出してきたな」

「え……」

 僕は非常に驚いた。なにしろその通りだったからだ。

 辺りは薄闇に包まれ始めていたけれど、まだ夜とは言えない時間帯だったし、そのくらいの時間なら僕のような子供がひとり歩きをしていても不自然ではない。なのにおじいさんは一発で僕が家を捨ててきたことをどうしてか見抜いてしまったのだった。

 けれど僕はそれを簡単には認めるわけにいかない。当然だ。大人相手に家出しましたなんて言っても、連れて帰られるとまではいかずとも、大体家か警察に連絡されてしまう。それは僕も、そしてきっと家族も困るはずだ。僕はそっと、初めからいなかったみたいに家を捨てなければならない。

「い、家出なんかじゃ……」

 視線をそらしたのはまずかったかもしれない。拗ねたように下を向いたのも。

 おじいさんは僕の言葉なんか意味を持たないみたいに笑う。

「いやいや、別にごまかさんでいいぞ。説教してやろうだとか家に帰そうなんて思っちゃいねえからさ」

「そう、なんですか」

「おまえさん浮いてるから、余所者だってすぐにわかるよ。余所者の子供がひとり、わけもなくこんな町にやってくるはずねえからな」

 僕はワケあり感丸出しなわけだ。

「行く当てもねえんだろ。ちょっとこっち来い」

 おじいさんはちょいちょいと人差し指を動かして、人や店が無秩序に散らばる大通りへと進んでいく。

 呼ばれたのだから僕はついていった。小さい頃から誰だって口を酸っぱくして言われるだろう、知らない人についていってはいけないと。僕だってそれはもうずいぶんと言われたし、知っていても気軽についていくなとさえ教えられていて身についているはずなのに、もう僕にはものを考える力が残っていないのだと思えた。どんな内容でもこうしろああしろと言われれば、今ならすんなりとしてしまえる気がする。

 投げやりな気分でも、自棄になっていたわけでもなく、僕はただぼんやりとした疲れみたいなものを感じながら、ただ呼ばれたからその灰色の背中についていた。

 大通りを歩いていると、テーマパークのパレードを彷彿をさせた。それよりももっとずっと騒がしくてけばけばしくて下品ではあったし、気分の高揚もなかったけれど、非日常的な光景であることはどちらも同じだ。

 早くも酔っ払っている若い男の人たちが大声で何かを話しては爆発のように笑い出したりする。露出の多い服を来た女の人がヒールの音を響かせる。すれ違う人たちからはお酒のにおいがしたり、肉料理の油のにおいがしたり、香水の甘いにおいがしたりした。道の両脇では、大小あらゆる看板がぴかぴか光っているし、頭上でも突き出して重なりあう看板が煌々と光っている。明るい宵の口だった。

 おじいさんの背を追ってしばらく露天や屋台の連なる歩道を進んだ。やがて、ある露天の前でおじいさんは立ち止まった。

 歩道に青いビニールシートを広げて、その上に山のように服が積まれている。そしてその中に埋もれるように、ひとりの男の子が座っているのだった。根本が黒くなっている金髪。切れ長で二重の瞳。薄いくちびるを薄く開いて、手元のゲーム機から顔を上げる。僕よりいくつか年上に見える、それがキヨくんだった。


 屋上には陽を遮るものが何もなく、白っぽいコンクリートの床が眩しく光り輝いて熱を反射している。肌の焼ける感覚がよくわかる。一気に汗が吹き出した。

 打ち捨てられて干からびた白いプランターが寂しげに隅に寄せられている。それから擦り減りところどころ破けた車のタイヤが三つ。その中に放置された空き缶とペットボトル。道路に面した側にはアンテナとその配線がごちゃごちゃと絡みあう熱帯植物のように生えている。

 それだけで、あとは物干し台がいくつも並んでいるだけだ。この町の場所としてはシンプルな方だった。

 居並ぶ物干し台のいくつかには既に洗濯物がかかっている。僕はこれからの太陽の動きから見ていちばん日当たりの良いものを選んで、ひとつずつ洗濯物を干していく。

 まずは大きいものから。白いシーツが眩しい。しわを伸ばすように払うとひんやりとした水のにおいがする。僕がいいなと思うもののひとつだ。

 この屋上からは大通りの様子はほとんど見えなかった。大通りの西側に位置するこの五階建てのアパートでは高さが足りないし、距離も少々あるのだ。

 あの日、キヨくんが自分の家に来いと連れてきてくれたとき言っていた。

「ちょっとくらい距離がないと夜中でもうるせえからさ」

 そのときはよくわからなかったけれど、今ならよくわかる。明け方までずっと賑やかなところだ。

 

 その賑やかな町の路上の一角で初めて会ったキヨくんは、僕のほうを全く見なかった。意図して見ないようにしているのではなくて、僕という存在がそこにないみたいだ。

 おじいさんが軽く右手をあげた。

「よう、キヨ」

「どうした、じっちゃん」

服でも買うのか? キヨくんは冗談めかした口調で言う。

おじいさんはそれに応えず、僕の肩にぽんと手を置いた。夕暮れと言えども初夏、しかもアスファルトとコンクリートと人いきれで風もない熱気の中で、おじいさんの手はとても乾いていたように思う。

「こいつ」

「あ?」

「話聞いてやってくんねえか。迷いこんできちまったんだよ」

 おじいさんがそう言って初めて、キヨくんは僕を見た。それまで、ずっとおじいさんのそばに立っていたのに一度も視線を向けられなかった。そのときの瞳と言ったら。頭の空っぽになっていた僕ですら、どきりとして後ずさりしてしまいそうになるほどだった。大いなる拒絶の含まれた金属のような乾いた視線。僕はまるで自分が壊れてお払い箱になる巨大な冷蔵庫かなにかになった気分になったものだ。

「あのなあ、じっちゃん。俺は迷子センターじゃねえんだぞ」

「ま、よろしく頼んだよ。俺ぁこれから野暮用だから」

「野暮用って麻雀だろ、知ってんだぞ!」

 しかしおじいさんは軽々と笑って行ってしまった。背を向けて右手を上げ、人波に紛れ込んで。僕は呆然とその背中を見送る。

 どういうことなのか――疑問というより不思議を感じていると、大きなため息が聞こえて振り返る。服塚の中のキヨくんが、俯いて頭痛をおさえるようにこめかみを揉んでいた。僕もとても困惑しているけれど、彼も迷惑なのだろう。おじいさんが好意でここへ連れてきてくれたのか、僕はわからなくなっていた。

 ともかくこんなところへ来てまで誰かにため息をつかれるというのは耐え難かった。それから逃れてきたはずなのに、その先でまた僕は誰かに疎まれたり迷惑をかけたりしている。こんなのは我慢ならない。

 立ち去ろうと思ったそのとき、キヨくんが顔をあげた。

「……まあ、おまえが悪いわけじゃねえもんな。義理は果たすよ。こっち座れ」

 その顔はひどくドライで、僕には一切これっぽっちの興味もなく、とにかく頼まれごとは果たしたという形だけ作ろうとしていることが手に取るようにわかったけれど、服塚をせっせと除けて座る場所を作ってくれてもいるので立ち去るわけにもいかず、僕は見も知らぬ男の子の隣へ腰を下ろしてこの町を眺めることになったのだった。

 夕日が沈んでいった町はますます賑やかで、人の行き来するのを座って見ているのはなんだか心細いような、けれど妙な楽しさもある。

「で、迷い込んだってなんだよ」

 キヨくんはあぐらをかいた膝の上で頬杖をつき、つまらなさそうに人の流れを眺めている。

 何を話すべきなのかわからなかった。僕が家を捨ててきたことを話して何か意味があるのだろうか。話すだけ話して、それで何があるのだろう。こちらを見ようともしない目の前の少年は、話を聞くのではなく聞き流すのだろう。むなしいばかりだ。

 けれど、聞き流すのならそれはそれでいいんじゃないか。ふとそう思った。話すことに意味がないのなら、話さないことにも意味はない。彼が義理を果たすことに協力しない意味だってなかった。壁に向かって愚痴るよりずっと話し甲斐があるだろう。

 警戒心が働いたのは確かだけれど、正直いろいろ考える力がこの時の僕にはなかった。面倒くさかった。意地を張る理由も、警戒のための余力ももう何もなかったのだ。

 僕もまた、足取りもそれぞれに行き過ぎる人波に目をやりながら、口を開いた。

 代々医者と政治家をたくさん輩出している家系の長男に生まれたこと。本家ではないけれど僕は優秀でなければならなくて、けれど努力が加速度的に結果をもたらしたりはせず、ぱっとしないまま後から生まれた弟二人にどんどん抜かされていったこと。

 勉強は嫌いではなかったけれど、楽しさも感じないまま、やってもやっても弟たちの功績には到底敵わずに僕の存在は、それこそ加速度的に薄まっていった。母は早くに亡くなっていて、父はとても厳しい人で、優秀であるべきなのにそうなれなかった人間にはとことん冷たい。弟二人は完全に僕を馬鹿にしきっていて、家庭の中に僕の居場所はなかった。家庭どころか家系の中にすら、僕のような落ちこぼれはいらないのかもしれない。気迫が足りないのだと言われたけれど、それがどうやって身につくのかもわからなかった。

 僕は疲れていた。毎日遅くまで勉強して、友達が出来ても遊べないまま誰とも疎遠になって、それでも成績は上の下くらい。父の冷たい無視と弟たちの嘲笑から隠れる日々。僕は本当に落ちこぼれで、至らない劣った人間なのだ。だから存在を許されないのだ。

 そうして存在が小さくなってやがて消えてしまった僕には肉体だけが残っていて、これはもういらないものだから捨てる必要があって、そうしたら思い出したのだ。いつか夕方のニュース番組で聞いた「人間のゴミ捨て場」のことを。

 そして僕は最後にひとつ、事件を起こす。そのせいでいよいよ家にいる場合ではなくなって、すぐに飛び出してきたのがつい一時間ほど前のことだった。

 おおよそ全ての事情を語り終わったときには、既にキヨくんの態度は一変していた。同情したのだろうか。

「親は自分の都合で子供を捨てるもんなんだよ」

 僕の目を見てキヨくんは神妙に頷いた。その目にはもう拒絶も無関心も、いらないものを見る乾きもなくて、僕はやっと僕という人間の実在を実感できた。

 僕はゴミ捨て場にいるのだ。必要のなくなったものの行き着く先。僕にはもう何の役目もない。顧みられることもない、ひとつのゴミとなった。

 辺りはすっかり夜の帳の中で、ありとあらゆる看板が色とりどりに煌々と光り瞬く。照らされたキヨくんの顔は昼間と変わらないくらいはっきりと見えて、その口元は好意的な弧を描いている。

 それからのキヨくんはとても親切で、僕が当てもなく来たのだとわかるととりあえずの宿として自分の部屋に招待してくれて、おまけに仕事がしたいならいくつか紹介できるとまで言ってくれた。

 キヨくんのもとへ連れてきてくれたあのおじいさんは、きっとこうなるとわかっていたのだろう。結局僕はこうしてキヨくんの部屋で平穏な生活を始めているのだから。

 

 激しい日射しを浴びて死んだようにぶら下がる洗濯物の中に立っていると、さわやかで涼しい水のにおいに包まれる。それと洗剤のほっとするような清潔なにおいだ。焼けたアスファルトのにおいは今、それらに掻き消されている。

 陽は高く、空の頂点に近いところにある。僕の黒い頭の天辺はじりじりと熱い。日の入りまではあと五時間ほどあるけれど、洗濯物はそれを待たずに全て乾くだろう。

 アパートの下をすごい音をたててバイクが通っていき、それをきっかけにして僕は屋上を降りた。

 キヨくんはもう仮眠に入っているかもしれないから、掃除をするわけにはいかないだろう。他に何かすべき事はないだろうか。考えたけれど、特に思いつかない。シーツを洗って干してしまったから、昼寝をするわけにもいかない。

 結局、僕は物音をたてないように風呂トイレが一緒になったユニットバスを隅から隅まで掃除して、それからアパートよりさらに西側の道にあるスーパーまで食材を買いにいき、日が傾きかける前に洗濯物を取り込んだ。そうした頃、ようやくキヨくんが仮眠というには深かった眠りから目を覚ました。

 

 ♯♯

 

 日の沈んだ町へ、キヨくんは仕事へ出かけていった。大通りの中程にある大きなキャバクラのお店だ。昼間に会ったリノさんも勤めている。人気店らしい。

 僕は今がチャンスとばかりに部屋を掃除した。ただ昨日も一昨日もやっているので、特に片付けるところも埃を払うところも汚れを拭き取るところもなくすぐに終わってしまう。するべきことがなくなると落ち着かない。

 キヨくんがいればゲームをしたり、おもしろい店に連れて行ってもらったりそこを冷やかしたり、するべきこととは言いがたくても何かしらすることがあるのに、自分一人でいると僕はどう過ごしていいかわからない。この町に来て勉強する必要がなくなったからぴたっとやめてしまったら、他に何をすればいいのか、何をするべきなのか僕は知らないのだ。

 キヨくんのいないキヨくんの部屋はどうにも落ち着かない。他人の部屋だからというわけではなくて、やっぱりそれはするべきことが見つからないからなのだった。

 というわけで、僕は部屋を出た。こうしてやるべきことがなくて落ち着かないときは、いつも行くことにしている場所がある。

 いつも、と言ってもまだここへ来て一週間なのだ。まだそれしか経っていないのか。数日経った頃から毎日そう思っている気がする。まだこれしか経っていないのか、と。

 時間がとても長く感じるのだ。一日とはこんなに長かっただろうか。夜とはこんなに穏やかだったろうか。ここへ来て驚くことばかりだ。ぼんやりとして考えることをやめた頭もさらに緩んでいる感覚がする。

 蛍光灯のちらつくアパートの玄関を出て、大通り方面へ歩く。アパートの前の通りは基本的にこの辺りに住んでいる人々しか通らない。大通りとは違って人通りはあまりないけれど、怖いとは感じない。外灯があるのはもちろん、そこら中の建物の窓から明かりが漏れていて、何よりやっぱり大通りからの喧騒が気配となってこの町中を覆っているからだ。

 華やかで猥雑で、ご機嫌な酔っぱらいと不機嫌な酔っぱらいの狂騒。油の跳ねる音も、大音量で流れる音楽も、呼び込みの声も、女の人の思わせぶりな微笑みと男の人のお金をばら撒く腕の動き。全部がひとつの気配になって、この町を作っている。だから僕はこの町のどこにいても、迷子のような気持ちにならなくて済む。

 大通りは夜のテーマパークだ。あらゆる人々がひっきりなしにすれ違い続ける。歩道を行き交い、車道を横切る。絶え間ないクラクション。一週間前には世にも珍しい世界だった。それまでは全く無縁の世界だったのに、慣れれば慣れるものだ。

 その大通りを横切り、東側の通りへ真っ直ぐ進んだ。少し歩いて一本目の道路を北に曲がれば目的地はすぐそこだ。古いパン屋と古い眼鏡屋に挟まれた古いカフェ、ジュイエ。ここが、僕が一週間ほど前から仕事を手伝っているお店だった。

 

 高いところに小さなすりガラスの嵌った木製のドア。引くとわずかな軋み音とともに、甲高いベルの音が来客を知らせる。

「あら、来たわね」

 オレンジ色の温かみある光が満ちて明るい店内。そのカウンターの中からお姉さんが顔をのぞかせた。

「こんばんは」

「今日は仕事の日じゃないわよね?」

 お姉さんはカウンターの奥にある控室のほうに首を伸ばす。そこにはお姉さんと僕とマスターのシフト表が貼ってあるのだ。

「はい。キヨくんが仕事に行ってしまったから」

 くす、とお姉さんは笑う。

「何飲む? 夕飯は食べたの?」

 カウンター席に腰掛けながらメニュー表を開く。

 この一週間でだいぶ覚えたけれど、ここへ来る客はそれぞれ注文するものが大体決まっていて、新人の僕に「いつもの」と平気で言ってよこす人も少なくない。メニュー全体というより、人とメニューを結びつけて覚えるほうに僕は一生懸命だ。僕自身にはまだ決まった注文というものはない。

「ええと、じゃあ、グレープフルーツジュースとホットケーキください」

「はい、ちょっと待っててね。ホットケーキだけで足りるの?」

 お姉さんはカウンターの下にある小さな冷蔵庫に手を伸ばす。耳の下でひとつにまとめた茶色い髪が、肩から滑り落ちた。ゆるく波打ったその髪はとてもやわらかそうで、その質感といい色といい、しなやかな猫を連想させられる。

「夕飯はもう食べたんです。でもなんとなく、小腹が空いた気がして。ここのホットケーキおいしいし」

「食べ盛りねー」

 細長いグラスに注がれるグレープフルーツジュース。細かい氷。それからお姉さんはホットケーキを焼き始めた。

 店内には他に誰もいない。この店は大通りとは違って、町の住人ばかりが集まるところだ。

 開店時間も閉店時間も一応決まってはいるけれど、マスターもお姉さんも守らない。そのときの客入りや気分なんかで早く閉めたりいつまでも閉めなかったり、開けたり開けなかったりする。僕はまだひとりで業務をこなすなんて夢のまた夢だから開店や閉店作業をしたりはしないけれど、いつかひとりで仕事できるようになったらまかせるからね、と言われている。そのときマスターもお姉さんも笑っていたから冗談半分なのかもしれない。でもふたりが店の時間にいい加減なのは確かだ。

 甘い香りが鼻と胃をくすぐる。お姉さんが鼻歌まじりに焼くホットケーキ。僕にはまだ全然うまく焼けない。

 ジュースを飲みながら待っていると、ドアのベルが来客を告げた。

「いらっしゃい」

 お姉さんの声と同時にそちらを振り返ると、そこには見知った顔がある。その後からは知らない女の子がひとり。

「こんばんは。やあ、イチくんも」

やわらかな声とやわらかな微笑みで挨拶をするその人は、いたるくんといった。どういう漢字を書くのかは知らない。この町に来たばかりの頃に出会って知り合いになった。ちょうどこの店でのことだ。儚げで中性的ないたるくん。小さな子供みたいに細くて薄い体をしている。

 挨拶を返すと、いたるくんとその連れの女の子はカウンターではなく、隅のテーブル席についた。

 僕はいたるくんのいつもの注文を思い浮かべる。アイスカフェオレ。彼は食べ物をほとんど頼まないそうだ。思い浮かべたのとほぼ同時、いたるくんはお姉さんに声をかけた。

「マキさん、アイスカフェオレひとつ」

「はーい。そちらのお嬢さんは?」

 お姉さんの問いかけに、女の子は首を振る。拗ねたような、不満気な顔をしていた。

 見物のような真似はよくないし、僕は早々に彼らに背を向けたけれど、ふたりの会話はおかしな調子で始まった。目の前では僕のホットケーキにバターが落とされている。

「何も飲まないの? 食べてもいいよ」

 空気混じりでそっとしたいたるくんの声。

「……いらない」

「どうして?」

「……そっちこそどういうつもりなの」

「どういうって、何が?」

「さっき、私と別れるって言った」

 ぎょっとした。とっさに振り向いてしまいそうなのをすんでで止める。

 聞き耳をたてたいわけじゃないけれど、否応なく耳に入るのだから仕方ない。何気なく顔を上げると、お姉さんも僕の方を見て眉を上げてみせる。

 なんとなく座りが悪く、落ち着かないまま椅子のうえでもぞもぞ動いたりして、結局彼らの会話に耳を傾けた。

「言ったね」

 いたるくんの声には動揺も悲しみも喜びも何もなく、こんばんはと挨拶したときと同じままやわらかく落ち着いている。感情のこもる女の子の声が際立ってしまう。

「わ、私は嫌だって言ったのに、最後の晩餐とかって無理やりこんなとこに連れてきて、全然何考えてるかわかんない、納得いかない」

「無理矢理なつもりはなかったんだけど」

 お姉さんは僕に視線をよこし、くちの動きだけで「こんなとこ」と言って笑う。

「私は別れたくない!」

「僕はもう君といてもさびしいばっかりだし、このまま付き合っていても浮気するけどそれでもいいなら」

「は? ……最低! 馬鹿!」

 女の子はテーブルをこぶしで叩き、そばにあった紙ナプキンを入れ物ごといたるくんに投げつけた。

 修羅場だ。自分の血の気が引いていくのがわかる。さすがに振り返ってしまえば、きれいな顔を歪ませて涙を流す女の子と、紙ナプキンにまみれたいたるくんの姿がある。

 こういうときどうしたらいいんだ。僕があわあわとして、助けを求めて辺りを見回すと、カウンターの向こうのお姉さんが僕の前にホットケーキの皿を置いていた。

「お、お姉さん……」

 自分で思った以上に弱り果てた声が出た。けれどお姉さんは飄々と肩をすくめるだけで、アイスカフェオレの用意を始める。

 この町に来て、いろんな場面に出会ったと思う。酔っぱらいの喧嘩なんかはもう心が動かないほど見たし、一度は刃物が出てくるところも目撃した。それはさすがに怖かったけれど、刃物が出てきた途端、辺りからガタイの良い強面のお兄さんやおじさんたちがわらわらと集まってきたのは更に怖かった。あとは賭け麻雀ンで大負けしたらしいおじさんが屋台を蹴り倒していたり、きれいなお姉さんとお兄さんが取っ組み合いの喧嘩をしていたり、違法な薬をやっていると噂の男が奇声をあげながら車道の真ん中を走り抜けていたり、とにかくたくさんの動揺するようなものを見たけれど、知り合いが修羅場というのは初めてのことだった。

 お姉さんが場を放置する方針のようなので、僕も迷ったけれど見守ることにした。大体、僕に出来ることは何もなさそうだ。キヨくんなら囃し立てて煽りそうだから、僕の心のためにもいなくてよかったと思う。

「……本当に私と別れるの」

 たくさんの感情を押し殺した、低くかすれた声がした。

 いたるくんは折れてしまいそうな背を曲げて床に落ちた紙ナプキンケースを拾う。そうしながら、ただ「うん」と一言だけを発した。相変わらずそっとしたその声には、元々含まれているさびしい感じ以外に、恋人との別れを悲しんだりさびしがったりする色はどこにもない。

 いたるくんは何を考えているんだろう。僕ははらはらしながらも、どこかぼんやりと場を眺めていた。ふと、たくさんの人が生きている、と思った。この町でたくさんの人が。

 僕はずっと勉強だけをしてきた。それ以外何も知らなかった。でもここではたくさんの人、そのひとりひとりが別々の何かを考えて別々の何かを好み、別々の何かを感じて思って体験しているのだ。それはとんでもなく不思議だったし、途方も無いことだと思った。

 僕は知らない。遠慮も配慮もなく誰かに怒りをぶつけて殴り合う気持ちとその体験を。刃物を持ち出すほどの激情を。ギャンブルで負ける悔しさや苛立ちを。道端の何かを蹴り壊す大胆さを。女の子と掴み合って罵り合うほどの嫉妬や憎しみを。違法な薬物に手を出すほどの絶望を。そして、誰か女の子に恋をして、成就して、あっけなく別れてしまうときの心の有り様を。何も知らないままなのだ。

 何かを知りたいのだろうか、僕は。例えば誰かとの喧嘩を? それから器物損壊、ギャンブル、薬物。恋愛以外ならば、すぐにでも出来るだろう、この町なら。でも考えてみたところで、ギャンブルをして誰かと殴り合って、薬をやっては歩道を走り抜けるなんて、特にやりたくはなかった。

 僕は毎朝(昼のほうが近いけれど)きちんと起きて、ご飯を食べて掃除洗濯をして、キヨくんやその他知り合った人たちと遊んだり、ジュイエで働いて、キヨくんの部屋へ帰ってシャワーを浴びて歯を磨いて眠る。それらのことを、ひとつひとつ楽しいと感じたり大変だと感じたりしながら、こなしている。それを充分すぎると思いながら、でもずっとどこかふわふわとした気持ちもしていた。

 この町に来たあの日、僕の頭はものを考えられなかった。疲れきっていて、でも隅っこか奥のほうが焼き切れているような感覚でいて、今でもそれが続いている気がする。夢の中、と言うほど浮ついてはいないけれど、それに少し似ている。

 いたるくんが拾ったケースをテーブルに置く。音もたてない。少しの間女の子は目元を歪めていたるくんを見ていたけれど、すぐにバッグを掴んで歩き出した。何も言わず、足元を睨みつけるように、大股で。短いスカートが揺れる。

 やや乱暴に開けられたドアは、女の子が通ったあと、いつもの様にわずかに軋む音をたてて落ち着いて閉じた。ベルも静まり返る。

 店内にはなんとも言えない空気だけが残っていた。いや、なんとも言えないと感じているのは僕だけかもしれない。お姉さんは作ったアイスカフェオレとコースターとストローをお盆に載せている。いたるくんは散らかった紙ナプキンを拾っている。どちらにも焦りや動揺らしきものは見られない。僕はカウンターから振り返ったまま、いたるくんの様子を見守った。

 すぐにお姉さんがお盆片手にカウンターから出てきて、いたるくんのテーブルへ近づく。

「マキさん、ごめんね。散らかして」

「しょうがないわよ。こういう事もたまにはある」

「そうだね」

 お姉さんは軽く肩をすくめて、あとはテーブルにコースター、アイスカフェオレ、ストローと順番に置いて、最後に伝票を置いた。

 こんな修羅場や騒動には慣れているのかもしれない。珍しいことでもないから、落ち着いていられる。きっとお姉さんやいたるくんに限らず、この町の住人はみんなそうなのだ。僕はそんなふうに、納得した。

「席移るね」

 床に落ちてしまった紙ナプキンをお盆に回収しているお姉さんに、いたるくんは告げた。コースターとアイスカフェオレとストローを持って、カウンター席、僕の隣へ移動してくる。

「隣、いいよね」

「うん」

 ようやくホットケーキに手をつけて僕は頷く。バターはみんな溶けてしまった。

「騒がせてごめんね」

「あ、うん、驚いたけど……僕よりいたるくんのほうこそ、その、大丈夫?」

「別れたこと? 物を投げられたこと?」

 右隣に座ったいたるくんは、おもしろそうに首を傾げる。長めの細い前髪がさらりと揺れる。顔の造りも、その髪の毛の先まで繊細に作られた人形のようだ。

「えっと……どっちも」

 僕の自信なさげな答えがおもしろかったのか、いたるくんはくすくすと笑った。

「心配してくれてありがとう。物を投げられたことは全然問題ないし、別れたのも……そうだね、もう問題ないかも」

「恋人と別れたのに悲しくないの?」

「別れる前のほうがつらかったかな。僕は彼女のもので、彼女は僕のものだったのに、全然そんな感じがしなくなってたんだよ。僕はそばにいてって言ったらいてほしいんだ。じゃないとさびしいでしょ」

「いてくれなかったの?」

「あんまりね」

 僕は甘いホットケーキを飲み込んで、いたるくんの言うことを考えた。彼がさびしがり屋らしいことがわかるだけだった。

 まだいろいろと訊きたいことがある気がしたけれど、一応恋人と別れたばかりの人を問い詰めるような真似は良くないなと思っていると、今度はいたるくんが口を開いた。

「ところで清顕は? 仕事?」

「うん。明け方に終わるんじゃないかな」

「今度の仕事、長いね。もう半年くらいやってる」

「リノさんがいるからだよ、きっと」

 そうして僕らは笑った。キヨくんは顔が広いし、いないときでもみんなを楽しませたり和ませたりしてくれるすごい人だ。これは嫌味でも皮肉でもない。

 その後も僕といたるくん、時々お姉さんも、キヨくんの話題や大通りで起こった事件などの話をして楽しんだ。

 ゆっくりと時間は過ぎ、僕といたるくんが帰るときお姉さんも店を閉め、みんなそれぞれ深夜の独特の空気の中、自宅へと戻っていく。深夜二時のことだった。

 

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