第一章
第1話 街を駆ける少女
レンガ造りの街並みを駆け抜ける少女の顔は輝いていた。真上に広がるのは今の少女にお似合いの、寝心地の良さそうな雲がポツポツと浮かぶ真っ青な空。二重のつぶらな瞳に、陽射しを受けて透き通る緩やかな灰茶色の髪がトレードマークの可愛らしい少女。白いブラウスに赤いワンピースで身を包んだ容姿はまさに可憐だが、走る姿はそのイメージとは程遠かった。
昼下がりの活気づいたマーケット街は人の往来が激しく、少女は手慣れた様子で人の波を縫っていく。汗ばんだ身体にブラウスがへばりついても、額から零れる汗がキラリと風に乗って飛んでいっても、少女はそんな小さなことに一切構うことなく駆けていった。肩まで伸びたポニーテールを左右に振り乱し、大きく開いた口からこれでもかと湿った吐息が漏れ出ても、彼女の足の回転は止まらない。
薄い橙色に彩られたレンガ造りの連なる建物は年季が入り、所々色褪せてボロボロに崩れているが、それが却って趣深い。建物と建物の間を通る石畳の大通りには、両サイドをずらりと縞模様屋根のマーケットが立ち並んでいる。主に新鮮な食材や飲食店が肩を並べる眠らないマーケット街は、この国自慢の観光名所。その中心を走る焦茶色の石畳を少女は軽快に踏みつけていった。
「ラナちゃん、相変わらずだね!」
「あんまり急ぐとコケちゃうよ、ラナちゃん!」
向こう見ずで大通りを駆け抜ける少女の姿はマーケット街ではお馴染みの光景で、店の人や通りかかった人から彼女は次々と親しげに声をかけられた。天真爛漫を絵に描いたような少女は街の人々の声援に応えようと、右手を大きく挙げてぶんぶんと振り回し、
「大丈夫、大丈夫!」
と後ろを振り返りながら余裕綽々ぶりをアピールした。そして案の定、石畳に足をひっかけて派手に転んだ。スライディングの如く両手を前方に伸ばして、上半身から地面に叩きつけられる流れは実に見事だった。思い切り転倒した少女はあの慌ただしさが嘘のように微動だにしなくなり、呆気に取られた目撃者達は暫しの間、その不思議な光景に身を預けた。
「……ラ、ラナちゃん。だ、大丈夫かい?」
流石に見かねた果物屋の女店主が、恐る恐る少女の顔を覗き込んだ。すると少女はむくっと起き上がり、何事もなかったかのようにささっと立ち上がった。素早く衣服に付いた砂埃を払って、ぼさぼさに乱れた髪の毛も一応整える。「よし!」と気合を入れた少女は、心配して声をかけてくれた女店主に向けて、右手親指を立てて大丈夫だとウインクして見せた。そんな少女の小鼻からは、たらりと一筋の赤い血が垂れている。ニコニコと呑気に鼻血を垂らす少女に、周囲の大人達はオロオロと心配顔を並べてぞくぞく集まってきた。
「ほら言わんこっちゃない!」
「治療してあげるから顔を上げな!」
街のアイドルの一大事にマーケット街は騒然――とまではいかないが、わらわらと皆が集う様子から少女の愛され具合が見て取れる。皆の思い遣りを一身に集めた少女は笑顔を絶やさず、見て見てと言わんばかりに右手をすっと挙げた。
「私だって
「鼻だよ、鼻!」
「……あ、ホントだ」
痛みはないのか、少女は周囲に指摘されてやっと鼻血に気づいたようだ。鼻と言われて無意識に擦った手に血がペチャッとついた。怪我なんて日常茶飯事の彼女は、鼻血くらいでは動揺しない。フンフンと鼻歌を奏でながら右手を鼻に添えると、手に力を込めて「治れ!」と強く念じた。すると少女の顔を中心にポワンと桃色の温かい光が包み込んだ。周囲から驚きの混じったどよめきが巻き起こる。そして少女自身の魔法によって彼女の鼻は――全く治らなかった。相変わらず鼻から血を垂れ流す少女。周囲のどよめきは途端に落胆へと変わった。
「ラナちゃんが魔法を使えるようになったのかとビックリしちゃったよ!」
「もう驚かせないでくれ!」
「だから使えるのにぃ……」
酷い言われ様だ。彼女なら治療なんてできなくて当然という周囲の騒ぎ声が、少女の胸にグサリと突き刺さった。そんな焦った笑いの中で少女が一人ポツンと傷心に沈む中、石畳を重く叩き鳴らす靴音がカツカツと響いた。足音からでもはっきりと分かるピリピリとした重圧感。一切避ける気もなく真っ直ぐ歩いてくる足音の主に、気圧された大人達は要らぬ争いは勘弁とさっと両脇に捌けた。
人の垣根を我が物顔で通ってくるのは、一人の少年。ふわふわした黒髪や薄っすらと赤味を宿した瞳の大人びた顔立ちに、黒シャツと黒ズボンはピッタリな格好だ。目尻がすらっとした大きめの奥二重の目で少女を捉えながらやって来た少年。その左肩には何故か、猫のような狐のような、手のひらサイズの白い生き物。ピンと立った尖った耳にふわりと揺れる大きい尾を持つ生物は、全身がもこもこした毛で包まれている。その謎の生物は首に桜色のフリル付きリボンを巻いていてなんとも可愛らしいが、薄緑色の大きな目は恐ろしく鋭かった。
感情の読めない顔でやって来た少年は、黙ったまま少女の目の前で立ち止まると、ペチッと右の手のひらを彼女の顔に押し当てた。「あいたっ」と訴える少女の主張をさらりと躱し、少年は次の瞬間には彼女の鼻血をキレイサッパリ治していた。あっという間の出来事に、少女は目を丸くして何度も両手で鼻の下を擦っている。そんな無垢な反応を見せる少女を、少年は上から目線で見下ろした。
「流石エリス!一瞬でよく分からなかったよ!」
「エリスの魔法は相変わらず鮮やかだな!」
少年は大人達の褒め言葉に眉ひとつ動かさない。ただじっと少女を見下ろしている。その姿があまりにもふてぶてしくて、両手を下ろして立っているだけなのに、周囲には偉そうに仰け反っているように見えた。
やっと鼻の下を弄るのを止めた少女は、瞬きもせずに少年を見上げた。少年の表情は登場してから一個も変化を見せていない。そんな仏頂面の少年を見つめる少女の顔が、急にパァと大輪の花を咲かせたように光り輝いた。
「エリスのおかげで治ったよ!ありがとう!」
心の底から溢れて止まない少年への感謝。全力の笑顔で見つめられた少年の頬が微かにポッと紅く染まった。すると一から十まで目撃していた大人達から、生温かい空気が漂い始めた。そんなぬるま湯に浸かっているようなじんわりとした雰囲気に居た堪れなくなった少年は、ほんわかした顔を浮かべる大人達を一掃するように目をキリッとつり上げた。
「いいか、ラナ?これに懲りたら混雑した大通りを走るなんて――」
「いっけなーい!早く行かなきゃ時間がなくなるよ!」
少年の話なんか聞いちゃいない少女は、次の瞬間にはもう遠く前方へ駆けていた。少年と大人達は小さくなった少女の背中を呆気になって見送った。置いてけぼりを食らった少年の顔が見る見るうちに赤く強張り、小さな肩がふるふると静かな怒りで震え出した。そんなやり取りを終始見守っていた大人達。彼の逆鱗に巻き込まれたら堪らないと、皆はコソコソと元いた場所へ忍び足で散っていった。
「ラナー!」
そして少年の傷ついたガラスの
大通りをひた走る少女の名前はラナ・ウィンスレット。マルティアナ共和国で生まれ育った、魔法は不得意だが元気だけが取り柄の十歳の女の子だ。そしてラナの鼻血を治してくれた少年は、同い年の幼馴染であるエリス・エドワーズ。表情にはおくびにも出さないが、いつもラナのドジっ子ぶりに肝を冷やしている、中身は心優しい少年である。
この世界には
燃え
雫跳ねる青い水、
凍え尽くす白い氷、
唸り揺さぶる緑の土。
そして、優しく包み込む桃色の守護。
自然から成る五つの元素とそれを支える一本の柱は
それがここ、ルーラティアである。
一心不乱に走り続けたラナの目的地が見えてきた。ずらりと並ぶレンガ造りの建物の角、大通りの終着点に構える小さなパン屋。昼のピーク時を過ぎて少し落ち着きを取り戻していく大通りに逆行して、そのパン屋は一段と賑わいを見せていた。一面ガラス張りの店内からは焼き立てパンの香ばしい匂いが風に乗って鼻先をくすぐり、ラナは涎をじゅるりと垂らした。
――施設に戻るまで我慢なんてできない!
腹の虫を抑え切れないラナは空腹に耐え切れず叫び出したい衝動をなんとか留めて、走る勢いはそのままでパン屋に駆け込んだ。
「ただい――」
「あんぱんがまだ焼けてないってどういう事だよ!」
店内を響かせるはずだったラナの大声は、それ以上のあんぱんに対する熱情の壁に遮られて、跡形もなくさっと消えていった。
【書籍化】群青のステラ 愛世 @SNOWPIG
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