6:
「何、ロン。ぼーっとして」
夕食後、ベッドに転がって天井を眺めていた俺に、ハルが不思議そうに声を掛けた。
「何かあった?」
「別に」
そっけなく答えながら、俺の脳裏には、昼間見た中山の顔が焼き付いていた。
渇いた泥のついた頬に残る涙の筋、見知らぬ場所で一人取り残された迷子のような、弱々しく無防備な顔。
何度振り払おうとしても、あの一瞬の彼女の表情が頭から離れない。
「……はあ」
泣かせたのは俺じゃない。けれど、見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感にも似たもやもやした気持ちが胸を塞ぐ。
――あー、すっきりしねえ
「ロン?」
「……ちょっと走ってくるわ」
こういうときは、何も考えずに身体を動かすに限る。のっそりと立ち上がった俺に、ハルが驚いたように窓の外に視線を向ける。外は、相変わらずの雨だ。
「走ってくるって……雨だよ? って、ちょっとロン!」
訝しげなハルの声を振り切り、俺は部屋を出た。
軒下を選びながら足早に武練場に到着すると、俺は無造作に扉を開けた。勢い良く開いたせいで、バンッと存外に強い音が響く。
「――」
「……!」
いつかと同じように、床に灯りを置いて型の訓練をしていた少女が、足をあげたままの不安定な姿勢で、唖然と俺を見上げた。
どうせ誰もいないだろうと思っていた俺は、思わぬ先客に声も出ない。
予想外の遭遇に、ドキリと大きく心臓が跳ねる。しばらくの間、俺達の間には、不自然な沈黙が流れた。
「…………あの」
「あ……っと、あのさ」
ドクドクと鼓動が鳴る音が、聴覚を塞ぐ。何か言わなくてはと、強迫観念のような思いに憑かれた俺と、ようやく硬直状態から復帰した中山が口を開いたのは、ほとんど同時だった。
「……」
「…………」
再び、今度は間合いを計るような沈黙が横たわる。俺の心臓は自分でも驚くほどに早鐘を打っていて、その音が向こうにも聞こえてしまうんじゃないか、なんて馬鹿な考えが脳裏を過ぎる。
結局、先に沈黙を破ったのは、中山の方だった。
「あの。昼間は、ありがとう……ございました」
ぴょこっと、勢い良く頭を下げ、彼女はそう言った。
「……お、おう」
――何で狼狽えてんだ、俺……
あの写真の笑顔と昼間の泣き顔が、交互に脳裏を明滅する。自分でも呆れるくらいしどろもどろになりながら、下ろした視線の先に、白い何かが映る。
「それ――怪我したのか」
その白いものは、中山の口元に貼られた小さなテープだった。
「あ……」
慌てたように、彼女はさっと口元を隠す。が、もう遅い。
「あいつらか」
よく見れば、他にも数カ所、擦り傷や痣のようなものがある。
「まさか、あの後捕まったのか?」
「え、いえ……あの後はすぐに部屋に戻りましたから、大丈夫です」
俺の問いに、小さく首を振って彼女は答えた。
――っつーことは、その前にやられた傷ってことだよな。
あの時は、顔中に泥が散っていたから気付かなかったけど……あーでも、泥がついてたってことは、少なからず何かがあったわけだ。気付くの遅えよ、俺。
「……ただ、転んだだけですから」
軽く目を伏せ、少し硬い微笑を浮かべて、彼女は言った。下手すぎる嘘だが、追及されたくないと少女の表情がそう告げていた。
「――それより、あの……」
話を逸らしたいのか、言いにくいことなのか。少し何かを躊躇するように、中山は視線を彷徨わせる。
「何だ?」
「ええと、ですね……」
落ち着かなげに、両手の指を組んだり解いたりしながら、彼女は目を伏せる。何つーか、まどろっこしい。
「言いたいことがあんなら、はっきり言えって」
ようやく調子が戻ってきた俺の溜息に、彼女は「じゃあ」とこちらを見上げた。
「今日はどうして――助けてくれたんですか」
「そりゃまあ……いくらなんでもありゃやばいだろ」
あの時、一瞬とはいえ彼女をギイに引き渡そうとしたことが脳裏を過ぎる。それを彼女に言うわけにはいかないが、胸の奥に燻る仄かな罪悪感は、間違いなく俺自身を責めていた。
「それにあんた、マジで必死だったし」
胸の痛みから逃れようと言葉を継ぐと、中山は少し驚いたような、不思議そうな表情を浮かべ、それから視線を彷徨わせながら、そっと目を伏せた。
今まで、警戒した表情しか知らなかったけど、よく表情の変わる奴だ。
「でも……」
「でも? 何かあんのか?」
俺の問いに、再び少女の視線が揺れる。細い眉が、柳のように下がった。
「私は……」
「ああ――もしかして『混血』って?」
言い辛そうな言葉の先を問えば、彼女は少しの逡巡の後、小さく頷いた。
「別に関係ねえだろ、それは」
「関係ない……ですか?」
意外な答えだったのだろう。きょとんと目を丸くして、中山は首を傾げる。
「相手が誰だろうと、あれ見過ごすのは人としてまずいだろ、だって」
「………………」
「って、中山?」
気付けば、少女は無言のまま、俺を見上げてしきりに瞬きをしていた。
やがて――その口角が、ふ、と淡く持ち上がる。
――なんだ、笑えるんじゃねえか
それは、遠目ではわからない程度の微かな変化だったが、確かに笑顔だった。
おそらく彼女は、自分が微笑んでいることに気付いていないのだろう。ふわりと、年齢よりも大人びた控えめな微笑を浮かべ、中山はこちらを見上げた。
曇りのない鳶色の瞳が、俺を映す。胸の奥が、きゅっと緩く締め付けられた。
「私――、セイヤーズさんて、もっと怖い人だと思ってました」
「……そーかい」
何と返したらいいか迷う台詞に、ただ一言そう応じると、彼女はぴょこ、と頭を下げた。
「ごめんなさい」
「…………お、おう」
――だから何でまた動揺してんだよ、俺は!
これまでとはうって変わって素直な中山に、いちいち動揺させられている自分が恨めしい。またしても不自然な沈黙に襲われそうな予感を覚え、俺は慌てて次の話題を探した。
「あー、何だ……あ、そういや、あんたさ」
「はい」
「前もここで自主練してたよな」
「はい」
「よく、やってんのか? 自主練」
矢継ぎ早に言葉を継ぐ俺を不思議そうに見上げながらも、中山は「はい」と頷いた。
「一日おき、ですけど」
「……それ、ほとんど毎日じゃねえか」
思っていた以上の頻度に、思わず呆れ声をあげた俺を眺め、彼女は首を傾げる。
「そうですか?」
「まさか、この2年ずっととか言わねえよな」
「ずっと……ですけど」
「…………マジかよ」
唖然とする俺とは対照的に、中山はきょとんとした表情を浮かべていた。
「セイヤーズさん? 私何か……変なこと、言いました?」
――言ったっつーか……
俺達、幹部候補生のカリキュラムは恐ろしくタイトだ。
一般教養レベルの学科に加え、人界の語学や歴史に習俗、さらには実戦訓練と、朝から夕方まであらゆる講義が詰まっている。大分慣れたとはいえ、正直な話、一日の終わりには指先1つ動かすのも億劫になるほどキツイ。
ましてその上、ほとんど毎日自主練までするなんて、そう簡単に出来ることじゃない。
――こいつ、ホントはとんでもなくすげえんじゃね?
並大抵の決意で、そこまで努力できるものじゃない。逆に言えば、こいつにはそれだけの決意と覚悟があるということだ。
――何でそこまで……
家のため、自分のため――俺達は皆、それぞれに理由を持って幹部候補生になった。けれどその中に、彼女ほど努力を重ねている者が、他にいるだろうか。そこまで――この小さな少女にそこまでさせるのは、一体何なのか。気軽に訊ねてはいけない気がして、俺はその問いを喉の奥へと押し込めた。
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