5:

 それから数日後の休日のことだった。

 数ヶ月に一度の雨期が始まったらしい。どんよりとした空から落ちてくる霧のような雨に、俺のテンションもどことなく下がり気味だった。

 その上、ハルは朝早くからどこかに遊びに出てしまっていて、俺は何となく鬱屈した気分のまま、庭を散策していた。普段は絶えず訓練生が行き来している中庭も、雨の休日ともなれば、人気はまばらだ。路上はおろか、訓練棟と寮をつなぐ渡り廊下にすら人影はない。

 ――こんな日に傘も差さずに散歩してる俺って……だっせえ

 四阿のベンチに腰を下ろして空を眺めていると、何となく自分の行動が空しくなってくる。そろそろ戻るか、と腰を上げかけた時、後ろの方からパシャパシャと足音が近づいてきた。

「――?」

 他にも物好きがいたのかと肩越しに振り返ると、向こうから小柄な影が駆けてくるのが見えた。

 中山だ。顎のラインで切りそろえた髪が、その動きに合わせて揺れている。服も顔も泥で汚れた姿に、転びでもしたのかと考えて、俺はすぐにその考えを打ち消した。

 少女は俺には気付いていないらしい。息を弾ませ、しきりに後ろを振り返りながら走るその様子は、明らかに尋常じゃなかった。

「――――――」

 感覚を研ぎ澄ませば、離れた所から複数の気配が近付いてくる。雨音に混じって、微かに声も聞こえてきた。

「ギイ、か」

 背の高い植え込みと複雑に曲がった通路のせいでその姿は見えないが、おそらくあの声は間違いない。

 ――休みの日にまで中山に絡むなんて、ほんと暇なんだな、あいつら

 そんなことを考えながら、こちらに向かってくる少女を眺めていると、彼女はようやく俺に気付き、ぎょっとしたように足を止めた。


 驚きと警戒、そして不安と――怯え。


 いくつもの表情が、一瞬にして何度も入れ替わり、彼女の目に浮かぶ。

 背後を気にしながら、他に抜け道を探すように、中山は左右に視線を投げる。その時、俺の脳裏を過ぎったのは、あの写真の光景と、数日前に彼女が残した一言だった。

「――そこの茂みにでも、入っとけ」

 耳の奥に響く声に押されるように、気付けば俺はそう告げていた。

 俺の言葉に、彼女はまた驚いたように俺を見上げ、逡巡するようにもう一度左右と背後を確かめる。

 まだ姿は見えないものの、確実にギイたちの声と気配は近づいている。迷っている暇はないと判断したのだろう。最後に一度、俺の真意を確かめるかのようにこちらを見ると、彼女はさっと手近な茂みへと身を滑らせた。

 小柄な身体は植え込みの隙間を難無く通ったようだ。しばらく揺れていた枝葉が静まるのとほぼ同時に、ギイと仲間たちが姿を現した。

「――あれ。ロンじゃねえ?」

 ギイの取り巻きの一人――何つったかな、あー……うん、ボブでいいや――が、俺に気付いたらしい。どうでもいいけどよ、人を指さしちゃいけないって習わなかったのか、こいつ?

「よお。何やってんだ、ロン?」

「散歩」

「はあ? こんな日にか」

 足並み揃えて四阿の側まで来たギイは、俺の答えに眉を寄せる。

「暇つぶしだよ。そっちだって歩き回ってんじゃねえか」

「俺らはもっと有意義な用だぜ」

 そう言って、ギイはふん、と偉そうに鼻を鳴らす。

「なあお前、混血見なかったか?」

「……中山? 見てねえけど」

 中山が入っていった茂みは、奴らのすぐ脇だ。そちらを見ないように意識しながら、俺は何気ない素振りで会話を続ける。ギイは悠然とした足取りで俺のいる四阿まで来ると、低い壁に凭れるようにして、中を覗き込んだ。

「っかしいな、絶対こっちに来たと思ったんだけどよ」

 俺が庇っているとでも思ったんだろう。雑談をしながら、念入りに四方に目を配るその視線は、まるで獲物を狙うヘビだ。その嗅覚は確かにすごいが、折角の才能もこんな使われ方しかしないんじゃ無意味だよな。

「見てねえって。にしても、何だってまた、あの女探してんだよ」

 ――面倒くせえな……

 素知らぬ顔をして会話しながらの対応は、正直、神経を使う疲れる行為だった。その隙間で、俺の奥で眠っていた悪魔が目を醒ます。

 ――あいつ助けて、俺に何の得がある?

 あの写真を見て以来、何となく彼女に同情心のようなものを抱いてしまっていた。だがよく考えれば、あいつが兄を――そして笑顔を失ったからって、それは俺には関係のないことだ。

 確かに彼女に対する俺達の対応も、彼女の笑顔を奪った一因かもしれない。けど、それが何だってんだ。そこも含めて、中山自身の問題じゃないか。

 さっきは思わず声を掛けたものの、俺に中山を助けるメリットはない。むしろこれがばれたら、面倒に巻き込まれるのは俺の方だ。それなら、事実をぶちまけても良いんじゃないかと、脳裏で悪魔が囁いた。


 だが。

「狩りだよ。あ、何ならお前も探す?」

 鬼ごっこをしている、というのと同じ調子で発されたギイの台詞に、俺は開きかけた口を閉ざした。

「――狩り? 何だ、そりゃ」

「あの混血捕まえて痛めつけんだよ。すっきりするぜ」

 ――ストレス発散したいだけじゃねえか、それ。

 「異物」である中山がこいつらに絡まれるのも、その結果として脱落していくのも――笑顔を失うことだって、彼女自身の選択の問題だ。俺には関係ないし、興味もない。

 だが、無関係な立場を貫くのと、自分から進んで相手を傷つけるのとでは、天と地ほども違う。わざわざ彼女の隠れているところをバラして、こんなバカと同列になるのだけはごめんだった。

 一瞬抱いた悪心を捨て、俺はそっけなく肩を竦めると、ヒラヒラと手を振った。

「遠慮しとくわ。休みくらいぼーっとしてえし」

 ――オマエらはいっつもぼんやりしてるもんな

 俺が内心で舌を出しているとも知らず、ギイは軽く眉を上げる。

「何だ、やる気ねえな。おもしれえのに」

 ――さすがに、それを楽しめるほど終わってねえよ

 口には出さずにそう思っていると、沈黙をどう捉えたのか、ギイが壁から身を離した。とりあえずようやく、四阿にはいないと納得したらしい。

「まーいいや。じゃあまた今度な」

 ――今度とか絶対にねえよ

 無言のまま、ヒラヒラと手を振り返すと、バカは――もうバカでいいだろ――取り巻きどもを促して歩き出す。

「…………予想以上に馬鹿だな、あいつら」

 やつらの姿が見えなくなってから、戻ってこないことが確認できるまで十分に間を置くと、俺はのっそりと立ち上がった。

「おい、いるか――」

 ガサガサと植え込みを掻き分けて、その向こうを覗き込むと、小さな背中が目に入る。

「おい、中山?」

 とっくに逃げただろうと思っていた俺は、意外な思いに駆られながら、その肩に軽く手を伸ばした。


 刹那。

「――――!」

 植え込みの隙間の狭い空間で、弾かれたように中山はこちらを振り返った。

「……あ」

 過剰な反応に驚いたのはこちらの方だ。何も言えずにいる俺に、彼女はぱっと身を翻すと足早に寮の方へ駆けていく。

 二度あることは三度ある。遠ざかる背中に声を掛けることすらできないまま、俺は呆然とそれを眺めていた。

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