4:
翌日。
「あれ、中山さん?」
隣を歩いていたハルの声に、俺はぎくりとして顔を上げた。
渡り廊下の向こうに、栗色の頭が見える。何かを探すように、しきりに下の方を覗きながら歩いていた中山も、ハルの声が聞こえたのか、ふっと顔を上げる。
「……っ」
その視線が俺を認めた瞬間、彼女はあからさまに表情を曇らせた。
昨夜と同じ棘が、再び俺の心を刺しはじめる。無意識にジャケットのポケットに入れた指先が、あの写真を入れた布包みに触れた。
「――どうしたの? 探し物?」
「いえ、何でもありません」
ハルの問いに、中山は硬い声で応じた。
「……それじゃ」
軽く目を伏せ、彼女は足早に俺達の横を通り過ぎていく。
「様子が変だったね。何かあったのかな」
昨夜の一件を知らないハルの言葉が、心に痛い。
――どうしよう
俺の内心を、その一言がぐるぐると巡っていた。
今追えば、中山を捕まえられる。彼女が探しているものを、俺は持っている。あれを返せば、少しは昨夜の罪滅ぼしができるだろうか。何なら、一言謝ったって構わない。
けど――、今彼女を追えば、何も知らないハルに不審がられるのは間違いない。昨夜の出来事を話せば、奴はまず呆れ、説教し、それから思い切り揶揄するだろう。
それにもし、そんなところを他の奴らに見られたら、それこそ面倒なことになるのも目に見えている。
中山に写真を返して、昨夜のことを謝りたい。けど、ハルや他の奴らにそれを知られるのは恥ずかしいし、きまりが悪い。
良心とプライドが、火花を散らし、せめぎ合う。
あの写真を探している中山の心境に比べれば、俺の羞恥心など大した問題じゃないと頭では解っているのに、俺はすぐには踵を返すことができずにいた。
――何か、何か理由は……
要は、ハルに不審感を抱かせず、この場を去る理由があれば。後は、人目に付かないところで中山を呼び止めればいいだけだ。けれど、そんな都合のいい理由など、その辺に転がっているはずもない。
そして、激しい葛藤を抱えた俺の内心に構うことなく、次の講義の予鈴は、無情な音を鳴り響かせた。
翌日の夕方。
「……何のご用ですか」
時間通りに書庫の奥に現れた中山は、掠れた声でそう言った。
声が届くぎりぎりの距離で足を止めたのは、おそらく警戒しているからだ。それでも姿を見せたのは、司書が常駐する書庫ならば、いざというときに逃げられるという判断なのだろう。
どうすれば中山に写真を返すことができるか。
昨夜一晩考えて、結局思いついたのはこの方法だけだった。我ながら情けないが、それでも色々と考えて場所と時間を決め、彼女の部屋のドアにメモを滑らせた。
結果、律儀にも中山がやってきたことに、俺は内心でほっと息を吐く。これで、昨日からの肩の荷を降ろすことができる。
だが安堵するや、今度は得体の知れない緊張感が襲ってきて、俺はごくりと唾を呑んだ。
――何でこんなに緊張してんだ、俺
たかが落とし物を返すだけのことに、どうして動悸を覚えるほどに緊張するんだろう。
ポケットに入れた布包みを取り出す指が、震えている。俺は相手に判らないよう小さく深呼吸すると、平静な声を出そうと努めた。
「――これ。あんたのだろ」
「それ……!」
俺が取り出した布包みを認め、中山の目がまん丸く見開かれた。
「一昨日、落としてった」
「――返して!」
しんとした書庫に、中山の声が大きく響く。けれど彼女はそれに気付きもせず、掴みかからんばかりの勢いで俺の方に駆け寄ってきた。
「ちょ……待てって!」
その予想外の勢いに思わず上体をのけぞらせた。瞬間、肩が書棚に当たる。ゴンと低い音と同時に、上から埃の塊がパラパラと振ってくる――掃除してねえのかよ。
「――ほらよ」
平静を取り戻し、俺は布包みを差しだす。彼女はそれをさっと手に取り、中身を確認すると、ほうっと息を吐いた。
「……よかったぁ」
と、唇が声にならない声を紡ぐ。ぎゅっと布包み――写真――を胸元に抱きしめた中山は、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
その表情に、ちくり、と胸が痛む。
――もっと早く返してやればよかった
俺がつまらない意地にこだわっていた間、彼女はずっとこの写真を探していたのだろう。
昨日、しきりに下の方を覗きながら歩いていた姿を思い出す。あの時こいつは、どんな気持ちであれを探し回っていたんだろう。目の下にうっすらと浮かんだクマが、彼女が十分に眠っていないことを俺に突きつける。
中山から写真の笑顔を奪った一因は、俺達にもある。あの写真を見た夜に脳裏を過ぎったその考えが、一気に嵩を増して胸を塞ぐ。
けど。
「そんなに大事なもんなら、ちゃんと持っとけよな」
俺の口から出るのは、そんな思いとは裏腹の、ぶっきらぼうな言葉だった。
刹那、「言い方ってものがあるでしょ」というハルの声が脳裏に蘇る。ホントにその通りだ。ただ忠告したかっただけなのに、何でこんな言い方しかできないんだよ、俺は。
だが、俺の存在など頭から飛んでいたのだろう。俺の声に、中山ははっと我に返ったようにこちらを見上げた。
「……何だよ」
まじまじと見つめられ、ばつの悪い思いから、自分の視線がきつくなるのを自覚する。
――だから、威嚇してどうすんだって。
けど、そんな俺の内心など知らない中山は、ほんの少し怯んでから、ぐっと奥歯を噛みしめた。
そして。
「――ありがとうございました」
布包みを胸に掻き抱いたまま、中山は深く頭を下げた。
「――」
落とし物を返したんだから、礼を言われるのは当たり前だ。けど、そんなことなんて全く考えてなかったから、俺は虚をつかれて、すぐには反応を返せなかった。
ドキドキと、おさまっていたはずの鼓動が再び存在を主張し始める。
「お、おう……」
何か言わなきゃ不審に思われる。だが焦れば焦るほど、思考は空回りして、何も思い浮かばない。そんな俺を見上げる中山が、不思議そうに眉を寄せた。
――あ
「……お前さ。もっと笑えよ」
その表情に突き動かされたように、口が勝手に言葉を紡いだ。
「そんな風に、眉間に皺ばっか寄せてないでさ、その写真みたいに笑えよ。そうしたら――」
「――見たんですか」
俺の言葉を遮って、中山がそう言った。
硬い語調に咎める色を感じて、俺は一瞬むっとする。けど、見返した中山の目は困惑したように揺れていて、俺はまたドキリとする。
「そりゃ……中見なきゃ、誰のかわかんねえし」
俺の言葉に、彼女は困った顔で視線を彷徨わせた。
「大切なモンなんだろ。違うか?」
「違わない……です、けど」
それを証明するかのように、包みを抱きしめる指先をぎゅっと握り、中山は俯いた。短く切りそろえた髪が、表情を隠す。けど――きっとその顔が曇っていることは、見なくてもわかる。
「――なあ」
俺の声に、中山が顔を上げた。
「そんな風に他人を警戒してばっかいないでさ。もっと笑えば、敵だって減ると思うぜ」
その言葉に、彼女は軽く瞠目し、それからゆっくりと目を伏せる。
そして俺も――俺自身も、自分で発したはずの言葉に、内心では驚き、動揺していた。
――何、言ってんだ。俺は……
俺たちの周りにいる連中は皆、公安長になるために来てるんであって、オトモダチを作るのが目的じゃない。
いつも俺自身が言ってることだ。なのに今俺は、それとは真逆のことを真剣に言おうとしてる。
けど、中山には敵じゃなく仲間が必要なんだと、その時俺は、本気でそう思ったんだ。
だが。
「――…………い」
目を伏せ、俺の言葉を聞いていた中山が呟いた。それは囁きよりも小さな声だったが、静まり返った書庫、近い距離にいた俺には、はっきりと聞き取れた。
「おい?」
彼女の肩が小刻みに震えている。
そして。
「――中山!?」
いつかと同じように、ぱっと踵を返して、中山が駆けだしていく。建ち並ぶ書棚の合間を抜け、小さな背中は瞬く間に見えなくなった。
そして俺は。
「~~っ、またやっちまったか……?」
よろりと手をついた書棚から、埃が舞う。
――兄さんがいないのに、笑えるわけないじゃない
中山が残した呟きは、いつまでも俺の耳に残り続けた。
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