3:
そんなある日のことだった。
教官から頼まれた用事を終えて、一人で寮への道を歩いていた時だ。ふと、武練場から灯りが漏れていることに、俺は気づいた。
陽は既にとっぷりと暮れ、灯りのない裏道は真っ暗だったから、うっすらとしたその灯りが余計に明るく見える。
「――?」
誰かが灯りを消し忘れたのだろうかと不思議に思いながら、そちらに向かう。
扉の手前まで近づいて、中から人の気配がすることに気づき、俺はそっと扉の隙間から中を窺った。
そして。
次の瞬間、俺は小さく息を呑んでいた。
床にいくつかの灯りを置いて、少女――中山友香が一人、一心不乱に身体を動かしていた。俺の気配にも気づかず、ただ真剣な面もちで次々に突きや蹴りを繰り出し、型の練習を続けている。
――なるほど、ハルが褒めるわけだ。
ひとつひとつの動きは素早く正確だ。体格の割に、拳や蹴りは鋭く、重みがあるようにも見える。ただ同時に、重い攻撃を繰り出すために余計な力が使われているのは明らかで、それが型と型の間の円滑な流れを妨げ、無駄な動きを増やしていた。
そんなことを考えていると、ふと動きを止め、深く息を吐いた中山が、俺に気付いてぎょっとしたように硬直した。
「……何か、用、ですか」
最前までとは真逆の緊張感に身を強張らせ、尖った声が問う。まるで、警戒心の強い猫が全身の毛を逆立ててるようだ。
「別に。通りがかっただけだけど」
硬化した態度が、やはり俺を逆撫でする。素っ気なくそう返すと、中山は「それなら」と硬い声で続けた。
「出て行ってもらえますか。もう少し続けたいので」
険のあるその言葉に、頭の中でカチンと何かが音を立てた。
「……続けたきゃ、勝手に続ければ?」
本当はすぐに出て行くつもりだったが、反発心からそう言うと、俺は壁に凭れて腕を組んだ。
そんな俺を、彼女はキツイ視線で睨む。ばちばちと、二人の間に、火花のような緊張感が膨れ上がる。
「そこにいられると、気が散るんです」
「そりゃ、あんたの都合だろ」
「それじゃ、あなたはどんな都合があってそこにいるんですか」
「別に。俺がどこにいようが、あんたに指図されるいわれはねえよ」
売り言葉に買い言葉ってのは、こういうことを言うんだろう。矢継ぎ早な応酬の後、俺達は無言で睨み合った。
「…………」
先に目を逸らしたのは、中山だった。固い表情のまま、すっと身を翻すと、部屋の隅に置かれていたタオルとデイバッグを拾って戸口に向かう。
――出てくつもりか
邪魔したのは確かに俺の方だったから、彼女の行動に、微かな罪悪感が胸を掠めた。
「おい、待てよ」
すぐ脇を通り抜ける瞬間、思わず声を掛ける。すると、中山はほんの一瞬、足を止めた。
「……あなたに指図されるいわれはありません」
こちらに視線ひとつよこさず返した言葉は、ついさっき俺が放った台詞だ。
ほんの少し掠れた硬い声が、ちくりと、俺の良心に棘を刺す。
けど。
「……そーかよ。なら勝手にすれば?」
一度振り上げた拳をおさめることができず、胸の痛みと裏腹に、俺はそう口にしてしまっていた。
「――」
中山は、もう何も言わず、そのまま足早に武練場を立ち去っていく。扉の向こうへ足音が消えた後の武練場に、しんと音のしそうな静けさが降りてきた。
「…………あー……、やっちまった」
ゴツ、と後頭部が壁に当たって鈍い音を立てる。
今回は間違いなく俺が悪い。誰に言われるまでもなく、俺自身がよく解っていた。やけに静かな武練場の片隅で、俺は深く溜息を吐く。
「……どーすっかな」
あそこで出て行くのも中山の勝手だと、普段の俺ならそう断じている筈なのに、どうしてだろう。俺は良心の疼きを抑えることができなかった。
かといって、わざわざ謝りに行くのもばつが悪い。どうしたものかと伏せた視線の先に、何かが落ちていた。
「――?」
のっそりと近づくと、それは四角く折り畳まれた黒い布だった。中に何かを包んでいるらしく、手に取ると、硬い手触りが伝わってくる。
「あいつが落としたのか?」
何気なく布を開くと、その中から出てきたものが俺の目を奪った。
「写真……?」
それは、一葉の写真をおさめた革製の写真入れだった。12歳くらいの少年と、5歳くらいの少女が並んで写っている。少女の方は、今よりも幼いが、間違いなく中山だ。ということは、おそらくこの少年が、例の失踪した兄なのだろう。栗色の髪も面立ちもよく似通っている。
――あいつ、こんな風に笑えるんじゃねえか
写真の中山は、長い髪にタンポポの花を一輪挿して、満面の笑顔で兄を見上げている。対する兄も、慈しむような微笑を浮かべ、妹と笑いあっていた。見ているこちらまで、つられて口元がゆるむほど温かく優しい空気感。互いが心から信頼しあい、必要としあっていることが一目で分かる。
それは、本当にいい写真だった。
だからこそ、そこに写されている中山の「今」が、重く心に突き刺さった。
それはもしかしたら、後悔だったのかもしれない。形容しがたい重い気分が胸を塞ぎ、自然に溜息が漏れる。今まで考えたこともなかった。俺と同じように、中山にも無邪気な子ども時代があったんだ。
写真の少女の笑顔を奪ったのは、他でもない兄の失踪だ。だが――、本当にそれだけが理由だろうか?
「……クソ」
何に対してか、自分でも判然としない悪態をつきながら、俺はその写真から目を離せずにいた。
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