第9話 ヒビキ誕生

 フォルデノ城にける最後の戦い。それから、およそ7ケ月の時が経過した。


 此処は小さな漁村、エディン自治区エドナ村にあるロットレン夫妻の小さな家屋。そう、ローダとルシアの新居である。


 仲間達からは、便利でアクセスも都合が良いフォルテザに住む事を強く勧められたが、二人はかたくなに、初めて出会ったこの漁村で落ちつくことを選んだ。


 満月の夜、夫ローダは、不安そうにベッドの脇で、妻ルシアの手を握っている。


 ベッドの上では、ルシアが必死の形相ぎょうそうと、聞いた事がない悲鳴を出して悶絶もんぜつしていた。


 これまで幾度いくども戦いの最中に、痛い経験をしている筈なのだが、これ程辛そうなルシアは、見覚えがない。


 後は、医者とリイナが同じ部屋へ加勢に来ており、兄ルイスは、隣の部屋でただウロウロするだけである。


「ま、全く!  冗談じゃないッ! こんな痛みまで態々わざわざ再現する事ないじゃないっ!」


 語るまでもないがルシアは、産みの痛みに大層苦しんでいる最中なのだ。


 自分を創った父親サイガンに、大いに吐き散らしているのだが、その遺影いえい素知そしらぬ顔だ。


 確かに大変いい加減で珍妙ちんみょうな話である。妊娠しても戦闘が出来る女性を創造したサイガン。


 余りに当然過ぎる馬鹿げた話、彼は男だ。陣痛じんつうなど知るよしもない処か、出産に立ち会った経験すらない。


 それにも関わらず創り出した娘に生みの苦しみを与えるとは理解に苦しむ。


 加えてどれだけ意識の共有が出来るこの男ローダであろうとも、妻の痛みも気持ちすらも理解してやれそうにない。


義父さんサイガンは、一体どうやってこの痛みを認知したのだろう?)


 ローダにも同様の素朴な疑問が浮ぶが、それを口にした処でどうとなる訳でもない。


 とにかく医者に一任するしかない。こんな場合、大抵のどんな良夫も無力なものだ。


(間もなく僕も、フォウと一緒に同じ思いをするというのかっ!?)


 ルイスが床に座り込んで、親指をみながら、留守番させてるフォウの事を考えた。自分達のターンも、もう直ぐそこまで迫っている。


 およそ8時間が経過して、ようやくが、名前通りの産声うぶごえを響かせた。


 この家は村の端で、両隣に家はないのだが、それでも近隣の住民が、その声を確かに聞いたと、翌朝訪ねて来た程であった。


 リイナが慣れた手つきで赤子を産湯で洗うので、医者は大層驚いた。戦の女神エディウスの司祭は、こんな経験値まで必要とするのであろうか。


 ルイスがソーッと部屋の引き戸を開けようとしたが、ピシャと閉じた後、真顔だけを隣にのぞかせた。助産師すらこなせる少女は、こうたしなめる。


「……ルイスお兄様。まだ面会謝絶めんかいしゃぜつです。どうぞ落ち着いて下さい」


 ラファンの『森の天使』は、この手の対応すら熟知していた。やはり机上のみならず実際に修羅場を体験しているとしか思えない。


 ルシアは産後の処置が終わると、とてもとてもくたびれてこそいるが落ち着いた顔を取り戻した。


 一方ローダは、リイナから事前に教わっていた首の座っていない赤子の抱き方を、幾度いくども頭の中で反復させてから、ゆっくりと慎重にその腕に抱いた。


(な、何だよ……は)


 その温かさ、柔らかさ、これまでに感じた事がない経験がそこにはあった。


 彼は、扉の力で他人の経験から学習している筈なのだが、これでは無と同義だと思い知った。


 こう言うと大変な語弊ごへいを生みそうだが、父は母と違って、産む時の痛みを知らない。


 だから「貴方の子供ですよ」と告げられても、どうにもに落ちない者が多い。


 加えてこれまでに見た事がない妻の様子を目の当たりにした直後なので、心の切替がとにかく下手糞へたくそなのだ。


(これが命、この子が俺の……)


 しばらいだいてる内に、ようやく実感がいてくる。そしてひたすら涙があふれて止まらない。他に感情を表現するすべを知らない。


(あらあら、あれじゃどっちが子供だか判らないわ………)


 母に成れたルシアは、横になったままの姿勢で、視線だけを向けて苦笑した。


 実際に男はいつになっても子供が抜けない。これから大きな子供と小さな子供を相手にしなければならない人生が待っているのをルシアは、まだ判っていない。


「はい、そろそろママの隣で寝かせてあげて下さいね」


 次はローダがリイナにたしなめられる羽目におちいる。


 そんな大きい子供をすみに追いやり、とても小さなベッドの中へヒビキをそっと寝かせてやる本当に手慣れたリイナであった。


「もう良いですよ、あ、そのおしぼりで、しっかりと手をいて下さいね」


 ようやくリイナの許しが降りたルイスは、ガバッと立ち上がると言われた通り、実に丁寧ていねいに手を清めてからソーッと入室した。


 未だにオロオロ泣いている弟。ヒビキのとても小さな手に自分の指を握らせている義理の妹ルシア。この光景を見たルイスの最初の想い。


(僕は叔父おじさんになってしまった。しかも弟に先を越されたよ……)


「そ、そうだ結局の処、ヒビキちゃんは、なんだい?」

「可愛い女の子ですよ、ルイス叔父様」


 叔父さんと呼称されたルイスだが、最早構まうことなく質問を投げる。「ルイス叔父様」と強調したリイナがニヤニヤしながら応えた。


 ルイスがこの質問をするのは無理もないこと。彼は意識の中だけで14歳になって会話したヒビキのことなど知らないのだから。


「そ、そうか。先ずは、無事出産おめでとう。処でヒビキって確か…」


「そう、日本語で声や音が伝わる事を指す言葉だ。義理さんサイガンから教わった。男でも女でも通じる名前らしい」


「成程……そのサイガンが名付け親らしいね。お前もそれが良いと思った訳だ?」


 ルイスの方は、これから生まれてくる子供に、まだ納得のゆく名前をみつけられていない。だからこれは聞きたい処だ。

 

 兄貴に質問されたローダは腕を組み、暫く頭の中で整理してから答え始める。


「そうだな……まあ文字通りに良い響きだと初めは思った。正直その程度の気分しかなかったよ。だけどフォルデノ城で笑い合えた時に確信した」


 弟の言葉は、返答として不足していると感じたルイスが小首をかしげる。


「あ~、あのさ、あの皆の笑い声。あれがさ、とても心に響いた感じがして心地良かった。世界中の皆にこの響きを届けられたら……って思った次第で」


「だからヒビキらしいよ。貴方の弟らしい御大層な話でしょ?」


 義妹の言葉にルイスは、笑いを禁じ得なかったが、リイナに静かにする様にうながされ、口を閉じつつ引き笑いにした。


「何だよ、馬鹿にする事ないだろ」

「いや、済まない。馬鹿にはしていないさ。ヒビキ、良い名だよ。日本びいきのお義父様もさぞお喜びになるだろう」


 ルイスのを聞いて、ローダ、ルシア、リイナ、ルイス、4人が皆、サイガンの遺影を見つめる。


「……本当にやるんだな?」


「嗚呼……もっともアテにしてるのは、リイナ司祭様だ。本当に頼まれてくれるのか?」


 ルイスが真剣な顔つきになって何かを再確認する。ローダは、既に依頼済の事を改めて問う。


「勿論……と言いきりたい処ですが、いくらルシアお姉様とはいえ、出産直後ですよ? 私はそちらの方がむしろ心配ですが……」


「それはご心配には及びません。何しろ普通の女性を超越ちょうえつしてるから……それよりもとにかく一刻も早く驚かせたいのっ!」


 上半身だけ起こして胸を大いに張るルシアが、その驚かせたい相手の方を向く。他の連中もそれに釣られた。


 見られている主は、これから起こる在り得ない出来事に引きずり出されるなんて夢にも思っていない筈だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る