第11話 賢者の物語
1978年の3月、彼はこの世に生を受けた。
「名前はもう決めた?」
「ああ、サイガンだ。お前はサイガン・ロットレンだ。君と私の子だ。きっと優秀な人間になるぞ」
母となった女性が産婦人科のベッドに寝ながら、夫に声をかけた。慈愛に満ち溢れた顔をしていた。
父となった男性は、病室だというのに興奮して大きな声を出して笑った。
1988年……10歳の少年は、クラスメイトのアヤメという少女に、淡い恋心を頂いていたが、告白には至らなかった。
1993年……15歳の少年は、大好きだったアヤメの墓の前で大声をあげた。
「何故、人は間違うのだ! 親子ですら分かり合えないのか! 神様、いや神! こんな出来損ないを作った貴方を僕は、決して許さない!」
少年は神と決別することを宣言した。
2022年……彼女の夕方の定期配信が始まった。彼は慌ててイヤフォンを探し、絡まった線をイライラしながら解き、装着が完了すると、すかさずスマートフォンのアプリを起動して配信に集中した。
イタリア人である事をばらしてしまうと配信者と他のリスナー達に気を使わせると思い、日本人の中年男性である事を装った。
左右別々に聞こえる立体音響を聴きながら、何故に彼女の声はこんなにも安らぐのであろうかと感じていた。
2025年……時刻は午前9時を指していた。いつもの朝が始まる。
「アヤメ、私は決してくじけたりしない。私は天才、サイガン・ロットレンなのだから。いつまでも君は僕の
彼は遺影となってしまった彼女に挨拶をしてから、今日の作業に取り掛かる。これを毎日決して欠かすことはなかった。
2027年のとある週末の午後、彼はいつもの喫茶店を訪ねた。
「マスター、色んなコーヒーがあるが、やはりマスターの
彼は勝手に自分専用と決めているカウンターに座り、週に一度のコーヒーをゆっくりと味わっていた。
2028年の朝、彼のプログラミングはまたも生徒のおかげで勝手に進んでいた。
/* 先生ここ間違ってますよww */というおまけまでついていた。彼は18歳の大学生らしい。今の若者の仕事の速さと聡明さには敵わないなと、思わずにはいられなかった。
2032年……遂に論文の基礎にあたるプログラミングが終了した。8年の月日を要した。
「先生、本当におめでとうございます」
「いや、お前が助けてくれなかったら、私の技量では生きている間に終わらなかったかも知れん。本当にありがとう」
18歳の日本で学生であった彼は、22歳になっていた。大学を中退しイタリアに渡って先生の部屋に居候しながら、作業を手伝った。
サイガンが珍しく深々と生徒に頭を下げた。
「やめてくださいよ、私はこの理論を導き出すことは出来ない、ただのプログラマーなのですから」
生徒は慌てて先生に顔を上げて下さいと促した。
「先生、人はこれで変われるのでしょうか?」
生徒は神妙な面持ちで問う。
「まだ判らないな。これはあくまで基礎に過ぎん。大変なのはこれからだ。私は人としての禁忌を破る事になる。これ以上、私に付き合っていては君の大切な将来に泥がつく事になるぞ。それでもまだ付き合うつもりか?」
先生はまだ頭を上げようとしない。そしてもう私の生徒を辞める頃合いだぞと訴えた。
「冗談言わないで下さい。此処からが一番面白い所ではありませんか。僕の人生は先生の論文と、このプログラムのパスワードを見抜いた時に、もう決まっているのです」
生徒は頭を上げてくれない先生の前で片膝を落とし、見上げる位置まで下りて視線を合わせた。「それに私の力はまだ必要でしょ?」と付け加えた。
「すまん、いや、ありがとう。共に人類の進化を見届けよう」
先生は生徒の両手を握り、固い契りを交わした。
◇
ローダの意識の中にサイガン・ロットレンの意識が次々と入って来る。違う人間の意識が光の速さで入ってくるというのは、尋常な事ではない。
彼は頭を抱えながら、自分の意識を保とうと必死に抗う。そして他人の意識とは、こうも重たいものなのかと感じる。押し潰されてしまいそうだ。
(抗うのではない、受け入れるのだ。既にお前は一度、同じ思いをしている筈だ)
サイガンの過去の記憶でははない、今の意識の声が届く。
「こ、これは!?」
ローダはまた違う意識が入ってきたことに困惑する。
(今、お前の前に立っている私の声だ。整理しろ、お前自身の意識、私の意識、そして、今の私の意識。その全てを。もう一度言う、お前は既にこれを一度やり遂げているのだ)
ローダの意識の中に小人の様なサイガンが現れる。表の世界で会っている今のサイガンの姿をしていた。
「やり遂げている? 前にもこんなことが?」
ローダは自分の過去を辿ってみるが、全く覚えがない。
(お前が覚えていないのは無理もないかもしれん。最初の試練は私の想像すら超える程、辛く険しいものであった事だろう)
(やり遂げている!? 最初の試練!?)
小人のサイガンを凝視するローダ。
「サイガンさん! 貴方は一体、俺の何を知っているというのですか?」
必死の形相でサイガンに訴えるローダ。
(知らんよ、お前の事は。今、理解しようとしているところだ。きっとお前はこれからさらに私を驚かせることをしてくれると信じている)
「わ、わかりません、貴方の仰ることが全く…」
サイガンが横に首を振った後、巨人を見上げる様な格好で信念のこもった言葉を伝える。
またもローダは、頭を抱えてしまった。
(頭だけで考えようとするな。それでは普通の人間の領域からは出られんぞ)
サイガンは続けたが、これではまるでアドバイスになっていないと反省し、言葉を改めることにした。
(良い良い……とりあえず、今の私の存在は無視して良い。まずは、さっきも言った通りお前の中に流れてくる私をイメージすることから始めなさい)
小人のサイガンは、出来るだけ笑顔を作り口調も変えた。
ローダはこんなアドバイスを受けずとも、既に第一の試練を乗り越えているのだ。此処にいる自分は不要かも知れないと思い直したのだ。
「俺の中に入ってくるサイガンさん。わ、判りました。とにかくやってみます」
両目を閉じて過去のサイガンの意識に集中しようと試みるローダ。
(うむっ、お前になら必ず出来る)
サイガンはローダを励まし、そして心の中だけで「
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