わからなくても
テキイチ
第1話
「これからもっと忙しくなると思うし、がんばってね」
そう言って、彼氏と笑顔で別れた。
別れた彼氏は私の一つ後輩で、一年前、失意のどん底にいた時に付き合い始めた。
何もかも忘れようと、がむしゃらに仕事に打ち込む私を、寡黙な彼はそっとサポートしてくれた。その温かさに心慰められて、告白された時、静かにはいと返事をした。
それから、今日まで、とても穏やかに二人の関係を育んできたように思う。
「転勤が決まったんだ」
「そう」
お互いそれ以上何も言えない。
ついてきてくれとも、逆に転勤を取りやめてくれとも。だって、二人とも仕事に対して真剣で、どちらも今辞められるような状況じゃないから。そんなことはわかりきっている。
私に言えたのは、仕事を応援する言葉だけ。
家に帰って焼酎を飲んだ。ここで甘いカクテルとかを選ぶ女子なら、可愛く何か言えたかな。次につながる何かを。芋焼酎をロックで飲んじゃうような私には、何を言えばよかったかすらわからない。
泣きながら、へべれけになるまで飲んだ。
翌朝。私は、いるはずのない人が部屋にいるのを見て、動揺していた。
「え、え、ちょ……」
「帰ってきた」
「えええええーー!」
一年前、私を失意のどん底に突き落とした張本人が、帰ってきていたのだ。
「なんで帰ってきちゃったのか、自分でもよくわからんのだけど」
「むしろ、私にわかる訳ないよ!」
ぺたぺたとさわる。さわれる。実在する。そのことにものすごい安堵感を抱く。
「あんな突然いなくなって! 帰ってきてほしいって祈りにも似た気持ちで願ってた時は、全然帰ってきてくれなかったくせにさ……」
「悪かった。俺が悪かったから、許して」
そう言ってにこにこ笑う。この笑顔に私はとても弱い。
「今度こそ、突然いなくならないでよ!」
そう叫ぶように言った。
安心したからか、おなかがすいた、と気づく。
「朝ごはん、食べる?」
「何がある?」
「ごはんとお味噌汁とお母さん直伝の里芋の煮っ転がし。梅干しもあるし、卵焼きならすぐできる」
「煮っ転がしか! いいな!」
「好きなんだ、煮っ転がし」
「旨いからね、あれ」
準備をしている間、新聞を読んでいてもらった。テレビを点けると、話していても声が聞こえなくなって嫌だな、と思って。もともと活字好きだから、食い入るように眺めているし。
「準備できたよ」
「食べよう! 食べよう!」
いただきます、と二人で手を合わせて食べ始める。
「おお、腕を上げたな!」
おいしそうに頬張っているのを眺めるのは本当に嬉しい。こんな風にまた振る舞える日が来るなんて、夢にも思ってなかった。
「最近よく作ってたから。彼氏もこの煮っ転がし、気に入ってたんだ」
「そうか、彼氏ができたか……」
「でも、昨日、別れちゃった」
「別れちゃったのか……」
「だから、今、帰ってきてくれたのに、すごくびっくりしてる」
「お前を慰めるために帰って来たのかもしれんね、俺は」
ごはんを食べ終えると、唐突に切り出された。
「せっかくの日曜だし、よく晴れてるし、外に出よう! 部屋にこもってると気分もふさぐ!」
「なんかわかんないけど、わかった。行こう!」
ほとんど反射的にオッケーする。どうも、そういう有無を言わせない妙な説得力があるのだ。
外に出ると私はそっと手を握った。驚いたのか振り返られる。
「ずっと、手を握ってなかったの、すごく後悔したから」
「そうか」
そう言うと私の手を優しく握り返してくれる。手が温かいということに、なんだか泣きそうになる。私は今、相当弱っているみたいだ。
手を取り合ってゆっくり歩く。あてどもなくさまよってるのかと思いきや、昔たまに遊びに行った公園に出た。景色が綺麗だからお気に入りだった。
「懐かしいね」
「ここに連れて来たら、お前、すごく喜んでたなって、思い出して」
「今の季節は、コスモスが綺麗だよね」
「コスモスというのは宇宙のことで」
私の言葉をきっかけに滔々と語りはじめる。活字好きだから、雑学もたくさん知っているのだ。どこへ行ってもそんな風に話してくれて、それまで凡庸に見えていた景色が途端に美しく色づいたように感じられて、とても嬉しかったことを思い出す。魔術師みたい、なんて思ってた。
「コスモス、こんだけ綺麗に並んでると、壮観だね」
「その通り。コスモスは秩序ある世界のこと。対義語がカオスだ」
「今まさに私の心がカオスだよ」
「うん。でも、人間も世界も混沌としてわからんから面白い。全てがわかっちまったら、何も楽しくなくなる」
ピンクの濃淡が一面に溢れ、波のように揺らめく様を眺めていると、広大な宇宙にたたずんでいるような気持ちになる。その中で私は本当にちっぽけな存在だ。
なぜだかわからないけど、とても胸騒ぎがするので、伝えることにした。
「大好きだよ」
「うん。わかってる」
「やだよ、行かないでよ」
「行きたくないんだけどさ」
「お願い、なんでもするから」
そんな私をにこにこと黙って見ている。
「もう置いてかないでよ、ずっといてよ」
「どうして帰ってきちゃったのかはよくわからんけど、お前の気持ちはわかってるから」
「行っちゃやだよ……!」
「お前のことをずっと愛しているからね」
そう言って、私の頭をなでると、父はゆっくりと消えた。
一年前、父が亡くなった。
父はとても朗らかでよく喋る人で、いつ会っても、よく帰ってきたな! とにこにこ笑って出迎えてくれた。私がするちょっとしたことも満面の笑みで喜んでくれる人だ。
だから、あえて喜ばせようとすることを、私は怠ってしまった。
忙しさにかまけ、電話一本入れることをしなかった。連絡がきたのは亡くなった後で、私は父を看取ることができなかった。最後に話したのが二か月も前だったと、葬儀の日に気づいた。隣の市に住んでいるのに。
「お父さん、次はいつ帰ってくるかな、あいつはがんばってるなあって、いつもあんたのことばっかり」
母が泣きながら言う。そんなに気になるなら自分から電話すればいいじゃない、そう言っても、忙しそうだからいい、とかたくなに電話しなかったそう。多弁だから、つい、なんかあったら言うだろうと思ってしまいがちだけど、結構照れ屋で、やせ我慢しちゃう人なのだ。
棺を閉じる前、最期に故人の好きな飲み物を口に含ませる、そんな手順があるから、お父様のお好きだったお飲み物が何か教えてください、そう、葬儀屋さんに訊ねられた。
お父さんの好きな飲み物って、何?
反射的にそう思ってしまい、愕然とする。
なんでも喜んでくれる人だったから、本当に好きなものをわかっていなかった。飲み物に限った話ではなくて、好きな本、好きな言葉、好きな歌、好きな色、好きな場所、どれもわからなかった。なんでも褒めるし、なんにも悪く言わない人だったから。
あんなに私を楽しませてくれたのに、私は全然喜ばせてあげられなかった。何も返してあげられなかった。
自分の思いに蓋をするように、私は仕事に専念した。何も考えずにすむ。
あまりにも顔色が悪かったんだろう。無言で温かいお茶を差し出してくれたのが、別れた彼氏だ。そこから一緒にいる時間が増え、付き合うようになり、少しずつ私は立ち直っていったように思う。
目が覚めると、私はテーブルに突っ伏していた。どんな風にして戻ったのか、全く記憶がない。そもそも出歩いてもいないのかもしれない。全てが夢で。
彼に伝えなければならないと思った。何をかはまだわからない。でも、父は亡くなってしまったけど、彼は生きている。話ができるんだから。
電話を掛けると、彼はすぐに出た。出先のようで、少し周囲がざわついている。
「今、電話、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「私、どうしたらいいか、わからないの」
「うん」
「あなたの転勤は動かせないし、私も仕事がある」
「うん」
「でも、私はあなたを失いたくないし、やっぱり別れたくない。それは伝えたいと思った」
「うん」
「今、どこにいるの」
「君の家の近く」
「え……」
思わず窓の外を見る。見慣れた人影があった。
「同じこと伝えようと思って、向かってたところだった。どうしたらいいのか、僕もよくわからない。わからないけど、君が大切だから、別れたくない。だから、これからどうするか、一緒に考えよう。きっと、なんとかなるから」
ほどなく、玄関のチャイムが鳴った。
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