十九歳 その4
「お、さっきよりはマシになってきたか?」
「さ、さっき?」
「能勢ちゃん、歩きながらずっと何か言ってたんだよ。何か熱にうなされてる感じだったぜ」
あまり覚えていない。夢の中にいたような気分だ。
「オレは——何か言ってましたか」
清瀬先輩は目を伏せがちにしながら、細かく頷いた。
「何か色々と喋ってたね」
きっと喋り続けていたんだ。自分も知らないうちに。
清瀬先輩はそれ以上、話の内容については何も言わなかった。その代わりに、ペットボトルを差し出す。
「飲む?」
「こ、これどこで」
「さっきお前と一緒にコンビニ入って買ったんだよ、覚えてないかもしれないけど」
覚えてない。にわかには信じられなかったが、確かにペットボトルにはここから近いコンビニのテープが貼られている。
「水だよ。それ飲んだ方がいい」
素直に従った。手元がふらつくが、キャップを開けることくらいはできた。
水がこれほど美味しく感じられたことはない。天の恵みのような味がした。
「あ、ありがとうございます」
「美味そうに飲むね」
ちょっと戸惑うような声だ。
「うまいんです」
「それは良かった」
それから続きそうな沈黙を埋めるように、清瀬先輩は続けた。
「なんか、色々大変だったみたいだね」
「そうでもないっすよ」
「まあ、そうならそうで良いけど——」
座っていてもバスは来ない。葉月はようやく当たり前のことに気づき始めた。
「その——」
先輩は何か言いたそうだった。葉月が「何ですか」と聞いてみると、彼は咳払いをして言った。
「あるよな、そういうの」
「な、何ですか?」
「いや、その——能勢ちゃんの気持ちが分かるとは言わないけどさ、その——忘れられないことって、やっぱりあるよな」
だいぶつっかえながらのセリフで、正直先輩の言っていることは完全には分からなかった。
でも、葉月を慰めようとしている。何となくその点は分かった。
「忘れることはできないと思う。その必要もないし。でも——」
あまりにも真剣なトーンだ。葉月はつられて、真面目な顔になる。
「思い出を大事にすることと、いつまでも引きずってるのとは、やっぱり違うと思う。そういう意味では宮城さんの言うことも一理あるんじゃ——」
「いやオレ引きずってなんかないすよ」
ごくりと唾を飲む音が聞こえた。彼の視線は葉月のある一部分だけに集中した。
「でも」それから先輩は葉月の、首元を指差した。
「それ」
葉月は首元に触れた。
巻きまくった長いマフラーが、そこにある。
フワフワした、真っ赤な毛糸のマフラー。サイズ感も考えずに選ばれた、温かいマフラー。
季節感なんか無視して、あいつが選んだマフラー。
葉月は何も言い返せなかった。
「分かりますか」
「見てれば分かるよ。全然人に触らせないし、毎日巻いてるし、絶対失くしたくない気持ちが滲み出てる」
そんなに分かりやすかっただろうか。葉月は心の中を覗き見られたようで気味が悪かった。
「これ——同級生にもらったんです。そいつ中学高校とずっと一緒で」
清瀬先輩は表情一つ変えず、葉月を横から見守っていた。
「でもあいつバカなんで、マフラーのサイズ感もほら、めちゃくちゃなんですよ」
葉月は外に出てから初めてマフラーをほどいた。首周りは一気に心細くなった。
「長すぎ。しかもこれ、梅雨入りする前に渡してきたんですよ。季節感どうなってんだよって、もう袋開けた瞬間につっこんでやりましたよ」
先輩は何も言わない。
「そういうやつだったんですよ。忘れ物とか日常茶飯事だし、普段もなんかぼんやりして——」
辛抱強く、先輩は聞いていた。口をついて出てくる知りもしない人の話を、ずっと聞いてくれた。
「——だから、だからそいつは」
「どういうところが、好きだったの」
先輩は突然、真っ直ぐな質問を投げかけてきた。
普段なら驚き戸惑って否定すらする所だ。しかし今の葉月にその余裕はなかった。
「それは——」
その質問自体には何の違和感も感じなかった。葉月は思ったことをそのまま口に出そうとした。
「あいつ、本当にしょうもないやつだったんですよ。いや特技はあったんですけど、それを差し引いてもどっか抜けてて——」
そこで、言葉は止まった。
気づいたのだ。いくら話しても、ずっと同じ内容になる。まるで同じところをうろうろしている。
自分が大西可奈子について知っていることって、本当はどれくらいあるんだろう。
葉月は考えた。
考えると出てこない。花粉症だとか歌がうまいだとか、そういうことは出てくるが、もっと大事な何かが思い浮かばない。
彼女は、どういう人だったんだろう。
可奈子のどこに惹かれたんだろう。
まるで迷路だ。考えるほど分からなくなってきた。
「——分かんないです」
「そっか。そういうもんなのかな」
質問を振ってきた先輩自身のスタンスも、何だかはっきりしない。またしばらく無言が続いた。
「その人、東京にいるんですよ」
と言うと、先輩は目を丸くした。
「第一志望の大学行ったんで」
パチパチと瞬きしながら、清瀬先輩は肩を上下させた。深呼吸だ。
「こっちには——いないんだね」
「東京にいるんじゃ、下手したらもう会えないかもしれないですよね、まずその時点で諦めなきゃいけないですよね、本当に」
言い切ってからやっと息を吸う。酔いが次第に、覚めてきた気もする。
「先輩の——言った通りかもしれないです」
「宮城さんの?」
「はい。ナナ先輩の言うことは——もっともです」
次に進むことでしか癒されない痛みもあるのかもしれない。最初はまともに聞こえなかったナナ先輩の言葉が、今さら内容をもって、葉月の中に染み込んできた。
溜め息をつく。
肺に流れ込んでくる空気は、やはり容赦なく冷たい。アルコールで汚れた空気を吐き出し、葉月はバス停の周りに視線を巡らせた。
辺りに誰もいないのは確かだった。人の気配など一切なかった。
ぼんやり光る街灯が近くにあったが、それより向かいにある自動販売機の光がやけに白く強かった。
しんとした所で、葉月は咳き込むように咳払いをした。もしかすると逆だったかもしれない。
誰も何も言わないまま過ぎた時間は、数分にも及ぶ気がした。
「なんか——なんかすいません、自分語りとかされても困りますよね」
「そんなことはないよ」
「オレあとは自分で帰ります」
「えっ——大丈夫?ちゃんと歩けるのか?」
「だいぶ覚めてきたんで。先輩にもこれ以上迷惑かけられないです」
それから清瀬先輩は何度か心配の言葉をかけてくれたが、葉月はそれを振り切った。本当にまともに歩ける自信があった。
「それじゃあ——気をつけて。水はそれ、全部あげるよ」
「まじでありがとうございます」
葉月は深く礼をした。先輩が自分の家方面に歩き出すのを見ると、葉月も家の方向の見当をつけた。
確かこっちで合っていたはずだ。数歩足踏みをして、三半規管がやられていないことを確かめる。
進むのみ。あとは進むのみだ。
水を一口飲み、それから彼は真っ暗な道を走り出した。
マフラーは何回か畳んで、ペットボトルと一緒に手に持ったまま。まるでバトンみたいに握りしめる。
アスファルトを規則的に蹴る音は、嘘のようにしんとした真夜中の世界で、軽やかに響いた。
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